🎺38:─1─海軍軍令部は敵軍兵士捕虜の処分を口達した。ビハール号事件・リンガ湾虐殺事件。1944年3月〜No.177No.178No.179 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・
 2022年3月号 WiLL「野口均の今月の一冊
 『真実の航跡』  伊東潤 集英社文庫
 本書は、BC級戦犯の裁判を題材とした小説である。裁かれたのは海軍中将とその指揮下にあった重巡洋艦艦長の大佐だが、人名と艦名は仮名となっている。
 ちなみに史実は以下の通りである。
 1944年3月18日深夜、インドネシアのリンガ湾において重巡洋艦『利根』で運ばれていた捕虜65名(60名とも80名とも)が首を切断された上、腹を裂かれて海に投棄された。捕虜はイギリス商船『ビハール号』の乗客と乗組員及び若干の英国軍人。この捕虜斬殺が戦争犯罪としてイギリス軍香港裁判所で裁かれ、命令をしたとされる左近允尚正中将は絞首刑、実行犯とされた『利根』艦長の黛治夫大佐は禁固7年が科せられた。
 作者が描くこの裁判の焦点は、以下の3点。なぜ65名もの捕虜を闇夜に紛れ『処分』したのか。その命令を下したのは誰か。明確な命令はあったのか。
 この3点をめぐって、被告2人の弁護を復員庁第二復員局(旧海軍省)から依頼を受けた大阪弁護士会の若き弁護士2人が火花を散らす。被告のうち、海軍中将は最初から責任を認める態度を取り、弁護はいらないと意思表示する。一方、実行犯とされた艦長の大佐は、『命令に従っただけだ』と無罪を主張。
 これなら、それぞれの弁護士が戦犯法廷で火花を散らすこともないのだが、中将側の弁護士が、実際は何があったのか、どうして捕虜を殺害することになったのか明らかにしたいから、すべてを話してくれと中将を説得する。しかし、それを推し進めると結果的に艦長の大佐を追いつめていくことになる。中将は、責任は誰かが負わなければならないし、悪あがきしたくないと渋る。
 BC級戦犯の裁判は、米・英・ソ・仏・中・蘭・オーストラリア・フィリピンの8カ国、49ヵ所の軍事法廷で開かれ、被告人は約5,700人、うち約1,000人が死刑判決を受けたとされる。中には復讐心に駆られたずさんな裁判で死刑となったケースもあると言われる。
 本書に描かれているように、裁判官は戦勝国の軍人で、弁護側の証人は被告の元部下や元上官や軍属。発言次第では次に自分が裁判にかけられる恐れがあるので証言は揺らぐ。一方、検察側の証人は憎しみを抱えた元捕虜や現地人であり、戦後間もない混乱のなか証拠の検証もままならない。そんな公正な裁判は望むべくもない状況の中で、法の正義をよりどころに孤軍奮闘する。
 その結果、艦長による捕虜全員殺害の不可解な意思決定が明らかになっていく。中将以下に軍令部から下された命令は、『敵船ハ之ヲ拿捕シ 状況ヤムヲ得ザル場合ハ之ヲ撃沈スベシ』さらに『捕虜ハ務メテ之ヲ獲得スルモノトス』であったが、この捕虜については別に『口達覚書』があった。そこには『船舶の拿捕および情報を得るために必要最低数の捕虜を除く、すべての捕虜を処分すると』とあったのである。この『処分』の文言の解釈に中将は悩み、結局部下の忖度に任し、リンガ湾での深夜の惨劇に至るのである。なお『口達覚書』は命令ではあるが、回収され証拠としては残らないものである。こういう付則みたいなものほど、現場は用心しなければならない、昔も今も同じだ。」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 ビハール号事件とは、1944年3月18日に、スマトラ島東方の海上で、公海上を航行中であったイギリス商船ビハール号の乗客および船員約60人を帝国海軍が殺害した事件である。ビーハー号事件、利根事件とも呼ばれる。1947年にBC級戦犯裁判(イギリス軍香港裁判)で裁かれた。
 背景
 1944年2月上旬、海軍南西方面艦隊司令部(司令長官・高須四郎中将)は、インド洋上における敵の交通破壊、敵商船の捕獲を目的とする「インド洋作戦」("サ"号作戦)を計画し、第16戦隊(司令官・左近允尚正少将)に実行を命令していた[1][注釈 2][注釈 3]。第7戦隊所属の重巡洋艦「利根」(艦長・黛治夫大佐)は、「インド洋作戦」実行のため、僚船「筑摩」とともに臨時に第16戦隊に配属された。
 詳細は「サ号作戦」を参照
 事件
 1944年3月1日、「利根」は、第16戦隊の旗艦「青葉」や「筑摩」とともにジャワ島のバタビア港を出発[1]。同月9日午前11時頃、インド洋のココス島南西海域で英国商船ビハール号(Behar)を発見した。利根はビハール号を拿捕しようとしたが、ビハール号が指示に応じなかったため、撃沈し、生存者の乗客・乗員80人(約100人、約115人とも)を収容した。
 「利根」の報告を受けた第16戦隊の左近允司令官は、「(情報聴取のため)2,3名の捕虜を残し、残りは所定のとおりに速やかに処分せよ」との信号命令を発したとされる。しかし「利根」の黛艦長は、尋問中であることを理由に捕虜を収容したまま6日後の同月15日にバタビアに帰港し、捕虜のうち女性およびインド人を含む15人(ないし約40人、35人)を上陸させた。
 同月18日、バタビアで「利根」は、第16戦隊指揮下を脱して第7戦隊に復帰するよう命じられ、シンガポールに向かうため、残る捕虜65名(約60人、80人とも)を艦内に抑留し続けたまま、出航した。バンカ海峡(英語版)スマトラ島寄りのリンガ湾上まで来たところの海上で、黛艦長は、捕虜全員の殺害を命じ、深夜に捕虜を1人ずつ船艙から甲板上へ連れ出して殺害し、死体を海中に投棄した。
 裁判
 1947年に、イギリス軍香港裁判で第16戦隊の左近允司令官と、「利根」の黛艦長が事件の被告人として起訴された。
捕虜を処分するよう指示したのは左近允司令官だったが、捕虜の殺害が実行されたのは「利根」が第16戦隊の指揮下を離れた後だったため、法廷で、左近允司令官は、「自分が命令したのは作戦中のことであり、作戦後のことは命令していない」と主張し、黛艦長は、「左近允司令官の命令で殺害した」と主張した。被告の陳述や証人の証言もそれぞれ食い違ったが、証人は総じて「司令官は部下の十字架を負うべき」という態度だったとされる。
 1947年10月29日に判決が下され、左近允司令官は絞首刑、黛艦長は禁錮7年を宣告された。
 1948年1月21日に香港のスタンレー刑務所で左近允司令官の死刑が執行された。
裁判記録では、黛艦長が比較的軽い刑となった理由の一つとして、黛艦長が殺害の命令を改めるよう意見具申し、却下されていたことが挙げられている。
   ・   ・   
 左近允 尚正(1890年(明治23年)6月6日 - 1948年(昭和23年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。鹿児島県出身。
 プロフィール
 海兵40期卒業。専攻は水雷タイ王国大使館付武官の時に太平洋戦争開戦を迎える。1943年(昭和18年)9月、第二南遣艦隊の隷下の第16戦隊司令官に就任し南方戦線に従軍。渾作戦、レイテ島輸送作戦(多号作戦)などを指揮した。
 1944年(昭和19年)10月、海軍中将に進級する。12月、支那方面艦隊参謀長に就任し終戦を迎えた。しかし、ビハール号事件の戦犯として逮捕され、イギリス軍により植民地の香港のスタンレー監獄で絞首刑に処された。
 ビハール号事件
 事件は1944年(昭和19年)3月、臨時に第16戦隊の指揮下に入っていた重巡洋艦利根(艦長・黛治夫大佐)が、インド洋でイギリスの商船「ビハール号」を撃沈した際に捕虜80名を得たが、上級司令部の「作戦中の俘虜は処分すべし」という命令によって65名を殺害した事件。
 俘虜処分命令は口頭でおこなわれたため記録がなく出所不明。最高責任者である南西方面艦隊司令長官の・高須四郎大将が既に病没していたので、次位の左近允がスケープゴートにされたとの説もある[要出典]。左近允の人柄は、同期の寺岡謹平によれば「豪壮、恬淡、真に薩摩隼人の典型」であったという。辞世の句は「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」であった。
 家族
左近允の二人の息子も兵学校を出て太平洋戦争に従軍し、長男の正章(68期)は昭和19年10月、駆逐艦島風で戦死。
   ・   ・   ・