☂04:─4─戦後の新生日本共産党の不都合な事実。〜No.18 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
 日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 アメリカ・キリスト教会の多くは反天皇強硬派であった。
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 国際ジャーナリストは反天皇反日本で、中には昭和天皇を戦犯として裁き処刑する事を望む者もいた。
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺して、天皇制度を廃絶し、日本国を打倒し、日本民族を死滅させようとした。
 彼らを手助けしたのが中国共産党である。
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 2022年3月3日号 週刊新潮「党史には出てこない不都合な真実
 『共産党』再建資金に『朝鮮人徴用工』の未払い賃金
 今年、結党100年を迎える日本共産党。日本で唯一名前を変えていない政党だが、その党史には書かれざる一幕がある。戦後、出獄した共産党員たちが、誰の力を借り、どんな資金で、どう再建していったかが抜けているのだ。いま初めて明らかにする党復活の真実。
 東郷一馬
 第一回『万歳!』朝鮮語の歓迎を受けた出獄共産党員たち
 1945年10月10日、その日は朝から雨であった。午前10時、戦前の共産党の代表的活動家である徳田球一を先頭に志賀義雄、金天海、そして黒木重徳や山辺健太郞ら16名の共産党員が、『天皇制打倒』を叫びながら、東京・府中の刑務所の獄門より出獄した。この時、府中刑務所には、約400人の人々が『出獄革命志士歓迎』のプラカードを掲げ、赤旗や太極旗を振りながら待ち受けていた。
 驚くべきことに、そのほとんどが朝鮮人だった。日本人はわずかしかいない。彼らはここ府中からトラックの上で、『インターナショナル』と『にくしみの坩堝』をかわるがわるに歌い続けた。中野の豊多摩刑務所から出獄しトラックに乗った共産党幹部の寺尾五郎は、はじめて東京の空に革命歌が鳴り響くのを聞いた。そして、『政治犯釈放運動促進連盟』の金斗鎔や朴恩哲ら朝鮮人の集団と府中刑務所に向かった。その時の様子を寺尾は『1945年10月に出獄して』(『季刊三千里』1978年15号)の中で次のように回想している。
 『よくみると、半分ぐらいの朝鮮人は革命歌の歌詞も知らず、どう見てもマルクス主義も社会科学も知ってそうもない人たちであり、いまどこかの闇市から飛び出してきたと思われる朝鮮人なのである。私は感動した。なんの理論もしらないが、実生活の生の体験で、国家とは監獄であり、正義とは革命であることを無条件に知っている人達、この人々が革命的大衆というものだと思った。それは私が生まれて初めて接した革命的大衆であった』
 府中刑務所正門前で開催された出獄式は、金斗鎔が司会進行し、徳田球、志賀義雄、そして金天海が出獄者を代表して挨拶した。
 『出獄する時間10時がきた。(中略)同志キントウヨウ(金斗鎔)の歓迎の辞にこたえて、同志トクダ(徳田)が、われわれ一同を代表してまず演壇へのぼった。(中略)最後に同志キン・テンカイ(金天海)が登壇した。こんどは朝鮮語の歓迎の嵐である』(松本一三『出獄前後 10月10日の思い出・下』)
 小雨の中で出迎えた400人を超える朝鮮人の群衆は、待ち望んだ金天海の第一声に沸いた。
 『同志キンが登壇すると、ただちにデモに移った。出迎者たちの胸にたぎりたつ興奮と感動はそのまま解散することをゆるさなかったのである。ワッショ ワッショ・・・ワッショ ワッショ・・・赤熱した溶岩の流れのようにぐるぐると広場を回るデモはいつ止まるともわからなかった』(松本・同前)
 式に続いて府中刑務所前では、ぐるぐる回るデモが展開されたのだ。歓喜で収まれない群衆の興奮が伝わってくるようだ。
 日本人共産主義者の岩田英一は、この時に歓迎の辞を述べた金斗鎔を高く評価している。
 『まことに知的な左翼でした。彼らは絶叫などせずに、含むように「府中組」における18年余の獄中生活を慰労し、その不屈の闘争を称賛し、また新時代の到来における日朝人民の連帯を訴えていた。私が感動したのは、金斗鎔が「出獄戦士万歳!」「日本共産党万歳!」と言って歓迎の辞を結んだことです』(吉田健二『戦時抵抗と政治犯の釈放』〈3・完〉──岩田英一氏に聞く』『証言 日本の社会運動』法政大学大原社会問題研究所
 それは徳田球一の第一声が、
 『今までは天皇がわれわれを裁いた。今度はわれわれが天皇をひっくくって裁くんだ。天皇の嬶(かかあ)なんぞは誰かがいってやっちまえといった調子のものであった』(寺尾・同前)
 と『天皇制打倒』を感情にまかせ、暴力的に訴えるのとは対照的だった。金斗鎔も金天海も、極めて理性的に同志の出獄を祝い、革命に向けて日本人と朝鮮人の連帯を訴えたのである。
 宮城刑務所
 岩田と共に出獄式に参加した中西伊之助は、出獄式に参集したほとんどが朝鮮人で、日本人の出席者はわずか2、30名であったと述べている。
 『数台のトラックに赤旗をひるがえして出迎えた数百人ので出迎え人は、殆ど朝鮮人連盟の諸君だった。その中に混ざっていた日本人はわずか二三十人にすぎない心細さであった。(中略)だからその中にいた日本人で、朝鮮人諸君にたいして恥ずかしくもあり、肩身のせまい想いをしたのは、わたしばかりではなかったであろう』(中西伊之助『日本天皇制の打倒と東洋諸民族の民主的同盟』『民主朝鮮』1946年7月号)
 この時の光景を、収監されていた李康勲(光復会顧問、尹奉吉義士記念事業会会長、前独立運動史編纂委員会調査室長)も、『権逸回顧録』の中で次のように描写している。
 『獄門を出た私は、怪奇な光景に唖然とならざるを得なかった。小雨が降っている獄門の前の広場には、数千人の群衆が「出獄革命志士歓迎」と書かれたプラカードの下で赤旗を振りながら私たちを迎えた。釈放された政治犯16名のなかで朝鮮人は私と金天海だけで、他はすべて日本人であった。しかし歓迎の群衆は、殆ど朝鮮人であった。日本人があるいは混ざっていたかもしれないが、全部同胞のようであった。その群衆の中から、ひとり、太極旗を高々掲げた人が〝我が独立闘士、李康勲先生は何処にいますか、李先生は何処ですか!〟と叫んでいた。彼は徐相漢で、群衆の中のただ一人の民族主義者であった。今も、あのときのことを考えると感謝の念が込みあげてくる』
 では、その朝鮮人とはどんな人たちだったのか。続けてこんな記述がある。
 『群衆はすぐ我々を取り巻き、トラック7台に分乗して田村町の飛行会館に準備された歓迎式場に向かった。赤旗を振りながら示威行進をしたが、中野駅近くで米軍憲兵に制止され解散になった。この群衆が朝連準備委に所属している左翼勢力であるということを後で知った』
 この10月10日前後には、日本全国の刑務所から続々と政治犯が釈放された。全国の刑務所でも政治犯を温かく迎えたのは、朝鮮人共産主義者たちであった。
 元日本共産党宮城県委員会事務局で朝鮮人部部長を務めた高橋正美と元日本共産党委員会委員長・遠藤忠夫の対談を、和光大学教授の篠原睦治が記録した文書にも、その事実が出てくる。ここで遠藤忠夫は、敗戦の年の10月10日の思い出を次のように語っている。
 『この日私は、宮城刑務所の前の桜並木でボンヤリと立っていました。刑務所からは、一人ひとりポツン、ポツンとしばらくの間をおいて出てきましたが、彼らを出迎えていたのは、日本人ではなくて、朝鮮人だったのです。当時マツダ三輪トラックというのがありましたが、それに卵を山と積んで新聞紙にくるんで、日本人一人ひとりに「ご苦労さまでした。これで元気を出してください」と言って、渡しているのです』(遠藤忠夫『証言3 宮城県共産党と仙台の在日朝鮮人社会──高橋正美さんと遠藤忠夫さんのお話〈地域社会における在日朝鮮人とGHQ〉』2000年12月1日 和光大学リポジトリ
 重要なる『府中組』
 そこには戦時中の弾圧を乗り越えた強い絆と連帯があったのだろう。戦後の共産党再結成にも大きな影響を果たしていていくのだが、意外にもこれら原点となる事実について、日本共産党はほとんど語ることがない。
 日本共産党中央委員会のまとめた共産党史(80年史、70年史、60年史、50年史)は、いずれも①政治犯の釈放、②党拡大強化促進委員会の発足、③『赤旗』の再刊、④第4回党大会の4つを、戦後、党の再建を代表する重要な出来事として挙げている。すなわち1945年10月10日の日本共産党幹部の府中刑務所出獄から12月の第4回党大会までを、党再建の起点としている。だが党史は、『いつ、どこで、誰の手によって、どのようにして、また何の財源で再建したのか』という疑問には答えていない。
 これからその抹消された歴史を紐解いていこうと思う。そこでは日本共産党の知られざる姿が浮き彫りになるだろう。
 まずそれには終戦後、共産党員たちが出獄に至るまでに、いかなる経緯をたどったかを見ていく必要がある。
 日本共産党は、1922年7月、渋谷の民家で開かれた最初の党大会で産声をあげた。以来、一度も党名を変えていない日本で唯一の政党である。今年、結党100年を迎える。もっとも組織としては、結党2年後の1924年に解党を決議し、いったんは解散していた。
 大日本帝国国家総動員体制で総力戦を闘った先の大戦で、政府は国内秩序の維持と安全のため、思想犯を厳しく弾圧した。戦時中、共産党員の政治活動はそのイデオロギーと反社会的な運動ゆえに、常に当局の監視の対象だった。
 このため日本人共産主義者の多くは、弾圧に耐えかねて転向するか、戦地に赴き、愛国者として闘うか、または思想犯として獄中にあった。そして府中刑務所の予防拘禁所には、日本共産党第一世と呼ばれた人たちが収監されていた。
 日本共産党の指導者で絶大な影響力をもつ不破哲三は、戦後の共産党について、『1945年10月に獄中から解放されたひとびとが中心になって、党をつくり、活動を開始した』(不破哲三日本共産党史を語る』新日本出版社
 と、記している。
 また日本共産党に代々木の党本部の土地と建物を寄贈した岩田英一は、府中組の出獄が戦後の共産党再建の起点となったことを次のように証言している。
 『もちろん徳田、志賀、黒木ら「府中組」だけでなく、前後して全国各地の刑務所から釈放されましたけれども、やはり「府中組」の出獄を第一義的に考えなければならないでしょう。「府中組」の出獄は日本共産党が歴史上、初めて合法政党として存在し、戦後における日本政治を革新の方向で担う起点になっています。党の再建も「府中組」が中心となって担い、また日本社会運動も「府中組」のリーダーシップのもとに再出発しています』(吉田・同前──岩田氏証言)
 当時の日本共産党幹部が『天皇制打倒』を叫びながら府中刑務所より出獄し、党を再建したことは、党史にも深く刻まれている。
 その『府中組』が戦後の日本共産党再建を担ったのは間違いあるまい。しかしながら、その道筋はいかなるものだったのか。
 それを明らかにするために、ここから時間を終戦前夜に遡ってみたい。
 終戦前夜の獄中で
 1945年8月14日、府中刑務所の共産党幹部らは終戦の日が近いことを察知していた。
 ……」
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 敗戦後の日本共産党幹部は日本人だが、一般党員の殆どが日本国籍朝鮮人であった。
 日本人共産主義者は、数千人で、数万人はいなかった。
 壊滅した日本共産党を再建した原動力は在日朝鮮人で、その再建資金は朝鮮人徴用工の未払い賃金であった。
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 日本天皇・日本国・日本民族にとって朝鮮人とは、668年の統一新羅成立以来、友・友人・親友・戦友ではなく紛れもなき「敵」であった。
 友・友人・親友・戦友といえる親日派知日派とは、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海の諸王国のみである。
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 3月10日号 週刊新潮「党史には出てこない不都合な真実
 『共産党』再建資金に『朝鮮人徴用工』の未払い賃金
 終戦後しばらくの間、日本人共産主義者たちは徳田球一や志賀義雄ら戦前の大物活動家がどの刑務所に収監されているかを知らなかった。それを突きとめ、いち早く釈放運動に乗り出したのは在日朝鮮人たちである。彼らの情報網と活動が思想犯釈放を実現させるのだ。
 1945年9月になると、府中刑務所に最初の面会人がやってきた。
 『最初に来たのは朝鮮人です。(略)日本人はこわがって、治安維持法でやられた連中でさえこわがってなかなか来ないのです』(山辺健太郎社会主義運動半生記』岩波新書
 訪れてきたのは、朝鮮人共産主義者だった。
 ……
 動き出した在日朝鮮人
 金斗鎔は、戦後の日本共産党の再建に大きな役割を果たした人物である。東京大学を中退し、『在日朝鮮労働運動は如何に展開すべきか?』(1929年11月)を執筆、工場の日本人と朝鮮人労働者が連帯し、闘争すべきであると訴えた。そして産別労組の組織化と、大日本帝国の朝鮮統治への抵抗にむけ本格的な政治活動を初め、1930年に投獄された。4年後に出獄するが、その後何度も投獄された。……そして敗戦を機に、『朝鮮の大日本帝国からの完全な独立』と『人民共和国建設』の革命を成し遂げるため、共産党の政治活動の母体として、在日本朝鮮人連盟を組織する決意を固めたのである。
 椎野から朝鮮人指導者・金天海(本名・金鶴儀)の手紙を受け取った金斗鎔は、『政治犯釈放運動促進連盟』の活動に着手した。府中刑務所をはじめ、全国の刑務所に拘留されている約3,000人の政治犯の釈放を求め、GHQや政府関係機関に陳情し、ビラ配りなどの行動を開始した。
 ……つまり金斗鎔たちは淀橋警察署の2階で、『在日朝鮮人連盟結成中央準備委員会』の事務所を開設し、ここを拠点に政治犯釈放運動や日本共産党再建運動を展開するのである。
 9月14日には、学生たちも金斗鎔の下で在日朝鮮学生同盟(学同)を結成、政治犯釈放運動に参加し、急速に左傾化していった(高峻石『在日朝鮮人革命運動史』柘植書房。民団ホームページ『在日韓国学生運動の歴史』)。
 日本人共産主義者たち
 同じ頃、見渡す限り焼け野原と化した東京で、AFP通信のロベール・ギラン記者ら国際ジャーナリストたちは、徳田たち日本共産党幹部の居場所を探していた。
 ……
 マッカーサー元帥は共産主義者などの思想犯釈放には大変慎重であった。
 『人権指令』発令
 ……
 10月4日、GHQは人権回復の指令を発令、10月10日10時に府中刑務所より徳田球一、志賀義雄、そして朝鮮人共産主義者のリーダーで不屈の闘士金天海らの出獄が決定したのだった。日本共産党再建の中心的役割を担う共産党第一世代が府中刑務所からいよいよ出獄の時を迎えるのである。
 人権回復の指令がでた10月4日以後、日本人の共産主義者たちにも動きが生まれた。地下のアジトに潜伏していた日本人共産主義者たちの間でも政治犯釈放の運動が10月6日以降、活発になるのだ、弁護士の梨本は、
 『内野さんが私の事務所に机を持ち込み、正式に「解放運動犠牲者救援会本部」の看板を掲げたのは10月6日です』(吉田・同前──梨本氏証言)
 と回想する。
 一方、帝国政府は混乱したままだった。10月5日の朝日新聞の記事には、帝国政府が依然、政治犯の釈放には及び腰だった様子が書かれている。10月3日のロイター通信特派員ロバート・リュベンの訪問を受けた山崎巌内務大臣は『さらに共産党員である者については拘禁を続ける』と語り、岩田宙造司法大臣は中国中央通訊社特派員宗徳和の質問に『司法当局として政治犯人の釈放の如きは考慮していない』と答えている。
 だが10月10日、GHQの指示通り、朝鮮人たちの大歓迎を受けて、思想犯が出獄するのである。」
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 軍国日本が戦った主敵とは、天皇制打倒・軍国日本打倒を正義と掲げるソ連中国共産党などの国際的共産主義勢力であった。
 日本政府が治安維持法で弾圧した思想犯とは、天皇制度打倒を叫ぶ反宗教無神論マルクス主義者・共産主義者であって、政府・軍部・財界を批判する自由主義者・平和主義者ではなかった。
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 GHQ内のニューディーラーやユダヤ人達は、天皇制度打倒の共産主義人民革命を起こすべく陰で支援していた。
 ユダヤ系国際金融資本は、親ソ派親中派で反天皇反日本強硬派であった。
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 マルクス主義者や隠れ共産主義者は、各大学の教壇に戻り、教育現場や学会を支配し、戦後民主主義教育を始め、日本を動かす高学歴な知的エリートや進歩的インテリを数多く育て社会に送り出した。
・・・
 共産主義者無政府主義、左翼・左派、リベラル派・革新派は、反天皇反民族反日本であった。
 彼らが目指したのは、ロシア皇帝一家惨殺と皇帝派・反革命勢力大虐殺の人民革命であった。
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 日本民族朝鮮人・漢族中国人は、同じアジア人と言っても別種のアジア人であり、異質異族で同種同族ではない。
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 敗戦革命を目指した日本共産党在日朝鮮人を陰で操っていたのは、中国共産党ソ連・国際的共産主義勢力であった。
 敗戦日本における、マルクス主義者や共産党幹部は学歴のある日本人であったが、行動部隊である一般の共産党員・共産主義者無政府主義者の大多数が学歴のない在日朝鮮人であった。
 当時、日本国内には200万人以上の朝鮮人が住んで活動していた。
 戦後混乱時期における日比谷公園天皇反民族反日本蹶起集会、東京街頭デモ、皇居前広場流血暴動、首相官邸襲撃、神戸戒厳令、その他騒動、各地での凶悪事件などを起こしたのは第三国人在日朝鮮人で、日本人参加者は少なかった。
 在日朝鮮人活動家が目指した理想日本・新生日本とは、日本人の為ではなく日本に住む全ての朝鮮人の為であった。
 何故、在日朝鮮人が指導した敗戦革命が失敗したのか、それは出稼ぎ労働者として日本に住んでいた朝鮮人の150万人以上が興味もなく関心も持たずに、日本政府が出す渡航費で帰国したからである。
 もしこの時、在日朝鮮人が反天皇反民族反日本人民革命を起こしたら成功した可能性はあった。
 つまり、日本共産党在日朝鮮人による敗戦革命・8月革命は起きなかった。
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 日本民族は、一等国民として、天皇に忠誠を誓い、日本国民の責任と義務で国家の命令で徴兵されて、逃げ出せない地獄のような戦場に送り出され悲惨な戦死(餓死・病死・戦傷死)を遂げていた。
 朝鮮人は、二等国民として、天皇への忠誠を拒否し、日本国籍を強要され日本国の保護が押し付けられ、徴兵の義務は免除されブラックな工場や炭鉱で重労働を強いられ給料を貰い、嫌ならば逃げ出して別の仕事に潜り込んで働いた。
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 神話由来の正統性男系父系天皇制度とは、数万年前の石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継がれた日本民族の歴史・伝統・文化・宗教である。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日派知日派は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日派・敵日派は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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 中国共産党を含む共産主義が目指す理想的共産党独裁民主主義体制とは、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』『動物農場』であり映画の『未来世紀ブラジル』の世界である。
 映画『マトリックス』、ストーリー「平凡な日々を送っていたトーマスは、ここ最近、起きているのに夢を見ているような感覚に悩まされ「今生きているこの世界は、もしかしたら夢なのではないか」という、漠然とした違和感を抱いていたが、それを裏付ける確証も得られず毎日を過ごしていた。」(ウィキペディア
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 1847(弘化4)年 マルクスエンゲルスは、プロレタリア革命を広める為に共産主義者同盟の綱領を起草して、共産党宣言を行った。
 マルクス主義社会主義共産主義は歴史の浅い、反宗教無神論の新しいイデオロギーである。
 1917(大正6)年 レーニン共産主義暴力革命を成功させ、皇帝派・保守派を反革命派として虐殺した。
 ケレンスキーの社会革命党は多数派(ボリシェヴィキ)で、レーニンボリシェヴィキ党は少数派(メンシェビキ)であった。
 ロシア社会民主労働党内で、レーニンの人民独裁制を主張する左派は多数のボリシェヴィキであり、対立した大衆政党としてブルジョア革命を主張した一派は少数のメンシェビキであった。
 1921年 日本留学組の李大釗らを中心とした中国人共産主義者らは、共産主義を日本国語飜訳本で学び、レーニンの協力を得て中国共産党を結成した。
 日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義キリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられたことである。 1912年(明治45年) 孫文は、日本の右翼や国粋主義者らの資金援助を得て辛亥革命を成功させて中華民国を樹立した。
 1924(大正13)年 孫文は、中国武力統一の為にソ連からの軍事支援を得る為に中国共産党と手を組んだ。第一回国共合作である。
 日本政府と日本陸軍は、広大な中国を幾つかの政権が分割統治した方が安定し平和を維持できるとして、孫文への軍事支援を控えていたが、孫文ソ連と組み中国共産党を認め共産主義者を引き込んだ事を裏切り行為とみなして切り捨てた。
 日本軍の大陸戦略は、天皇・日本国・日本民族共産主義勢力から軍事力で守るという対ソ満州戦略であって中国ではなかった。
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2017-09-26
☭18」─1・A─レーニンが起こしたウクライナ飢饉。餓死者800万人~1,450万人。ホロドモール。1921年。~No.53・ @ 
2021-09-02
☭18」─1・B─ロシア革命の成功で歴史から抹消されたボルガ川流域での餓死者約500万人。1921年。~No.53 
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 マルクス主義共産主義は、人類史上もっとも血に飢えた凶悪・凶暴なイデオロギーである。
 共産主義ファシズム、ナチズムは、マルクス主義から生まれた悪の三つ子である。
 共産主義から、レーニン主義スターリン主義毛沢東主義などが発生した。
 日本の高学歴な知的エリートや進歩的インテリにはレーニン信奉者が存在する。
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 天下の悪法である治安維持法は、大正14(1925)年に公布され、昭和3(1928)年に改正され、昭和16(1941)年に全面改正され、反宗教無神論天皇制度打倒の共産主義運動を抑圧し、反天皇反民族反日本の共産主義者を弾圧した。
 が、天皇暗殺に失敗した不忠者は大逆罪・不敬罪で処刑されたが、それ以外の者は禁固刑として処刑されなかった。
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 明治後期・大正・昭和初期のテロには3種類あって、右派系日蓮宗原理主義者、左派系共産主義勢力・無政府主義者、宗教系キリスト教原理主義者(主に朝鮮人)であった。
 テロリストになる日本人は、高学歴者が多かった。
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