🎺76:─1─徹底抗戦論者の古武士・町野武馬。東京裁判の検事達は退席する際に拍手した。~No.341No.342No.343 ㊻ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦争を始める時、勝つ為にやるのであって負ける為にはやらない。
 戦争しながら極秘で停戦工作・講和交渉を行うのも、勝つ為であって負ける為ではない。
   ・   ・   ・   
 2022年1月号 WiLL「歴史の足音  中村彰彦
 国破れて会津武士道あり──承前──
 東京裁判の首席検事キーナンが、町野武馬を徹底抗戦論者と思いこんでいたのはあながち誤りではなかった。武馬は昭和6年(1931)9月の満州事変の勃発以来、事変拡大、日独伊三国同盟の締結、対米開戦のすべてに大反対してきた。
 しかし、昭和20年(1945)3月を迎えると、戦局はいよいよ逼迫してきた。同月9・10日、B29約130機、東京を大空襲、22万戸焼失、死傷12万人、罹災者百余万人。22日、硫黄島守備隊全滅。4月1日、米軍、沖縄に上陸。上記の大空襲の際に焼夷弾を投下され、芝白金の町野邸も焼けてしまった。
 それでも武馬は怯まない。登幾子夫人、長男、使用人たちを防空壕へ避難させると、自分は町野家伝来の槍を引っつかみ、庭の中央に仁王立ちしてB29に怒号を浴びせるほど意気軒昂であった。だが、大本営が本土決戦準備に入ったと知った頃から武馬は非戦論を捨て、徹底抗戦論者に変わっていった。
 『町野は、日本国民は今ぞ天皇陛下以下全員戦死を覚悟で、連合軍を本土に引き入れて、3000年の歴史に悔いを残さない最後の決戦を行うべきであるとの信念に燃え、ややもすれば腰がふらつきそうな閣僚や重臣たちを鼓舞激励してまわった』のである(『国士無双』)。
 降伏論者とおぼしき重臣・元老宅を訪ねるときの武馬は大刀を佩刀、次のような論理によって相手を威嚇した。
 『日本は3000年来、外国に降伏したことがない。お前たちは、その金甌無欠(きんおうむけつ)の国体を汚すつもりか!いかなることがあっても、兵隊はむろん国民の最後にひとりまで全員戦死し、一番最後に天皇陛下も戦死され、いさぎよく国家と運命をともにするのが日本民族だ。降伏を唱える奴は、我が輩が斬り捨ててやる』
 この啖呵(たんか)が巡り巡ってキーナンの耳に入ったため、かれは武馬を呼びつけたのだ。
 だあ、この啖呵を切ったときの武馬の想いを深く忖度すると、浮かび上がってくるのは戊辰戦争の際、会津藩最強の朱雀四番士中隊隊長としてあまたの激戦を体験した武馬の父町野主水の気迫に満ちたことばである。
 慶応4年(1868)8月23日、会津藩鶴ヶ城への籠城戦を開始したときにも城外で力戦しつづけていた主水が、城を包囲したい薩長勢の中を突破して入城するのに成功したのは9月15日のこと。主水は斬られた左手の蛙股({かえるまた}親指と人差指の間の皮膜)の傷を木綿糸で縫い、右手中指の筋も切られた姿で主君松平容保と家老たちに会見、一座の議題が城内の死者はやはり丁重に葬ってやりたいというののだったと知るや、一気に激情を迸(ほとぼし)らせた。
 『死者はやはり棺に納めて埋めてやりたいなどと、お手前がたはなにを下らぬ話をしているのだ。お手前がたは先陣きって出陣もいたさず、竹馬の友の血だらけの亡骸を盾として戦わざるを得ぬ者らの気持も知らぬから、そんな話をしていられるのだ。よろしいか。この戊辰のいくさに、会津藩士はすべて討死する。最後にはお殿さまも斬死(きりじに)なさるのだ。その時、いったい誰が後始末をするのか。誰もいるわけがない。われらの骸(むくろ)はその辺に打ち棄てられて腐りきり、烏につつかれるくらいが関の山なのだ。と申すに、丁重に納棺してどうのこうの、などという話をよくしていられるものだ。先に逝った者たちを、間もなく死ぬ者たちは莚(むしろ)に包んで棄ててやるくらいで充分であろう』(拙著『その名は町野主水』より)
 会津戊辰戦争に奇跡的に生き残った主水は、その後白虎隊の少年たちほかの埋葬と慰霊に努め、『最後の会津武士』と呼ばれた。武馬は古武士然としたこの父を敬愛し、正座して右手に大刀を直立させた父とおなじポーズの写真を撮らせたこともあったほどだから、父からこの話を聞いていたに違いない。そこから武馬は『最後にはお殿さまも斬死なさる』を『一番最後に天皇陛下も戦死され』と改めて肺腑(はいふ)の言とし、重臣や元老たちに死を恐れることなく最後まで日本人としてプライドを貫くよう求めたのである。
 『ではなぜ降伏論を唱える者はおれが斬るといって、重臣たちを脅したのか』
 というキーナンの問いに対する武馬の答えは前回はしょり過ぎたので、もう一度書く。
 武馬は対米英戦争に最後まで反対だったと告げてから、こうつづけた。
 『しかし、いったん開戦した以上最後まで戦い抜くのが武士の精神だ。原爆の1発や2発で腰を抜かす重臣どもが情けなくなって、気合を入れただけのこと。アメリカがおなじ状況に立たされても、心ある人は我が輩と同様に動くのではないか。もしそれが悪いというのなら、即刻我が輩の首を斬れ』
 目を丸くして聞いていたキーナンは、よくわかりました、と答えた。
 『私たちは日本の武士道に大きな関心を持っています。そして、今日その武士道の真髄に触れることが出来ました・・・』(『国士無双』)
 このことばがあったからこそ、ほかの検事たちも拍手して武馬を見送ったのである。
 ……」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 町野武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16日 - 1968年(昭和43年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。張作霖の顧問を務め、最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。戦後再建された大日本武徳会会長。
 人物・来歴
 旧会津藩士・町野主水の次男として現在の会津若松市に生まれる。町野は父から武士の子弟としての教育を受けた。松平容保の6男・松平恒雄は少年時代の遊び友達である。山川浩の書生として上京し、成城学校を経て陸軍士官学校に進む。1898年(明治31年)卒業(10期)。
 陸軍将校
 歩兵中尉として日露戦争を迎え、旅順攻囲戦に参加。歩兵第十五連隊から一個中隊を率いて白襷隊に加わり負傷している。戦後も中国に留まり辛亥革命では張作霖を支援し、満州独立工作を行ったが失敗している。大隊長等を務めたのち、奉天督軍顧問となる。再び張を支援し日本の満州進出に努めた。予備役編入後も顧問を続け、張は次第に満州での地位を固めていった。郭松齢が張に対し反乱を起こした際は、事態の収拾に努めている。満蒙五鉄道覚書の締結に際しては、田中義一の依頼により張との間で下交渉を行った。のち河本大作らは、北京から帰還する張の列車を爆破し殺害した(張作霖爆殺事件)が、その際町野は同乗するも爆破前に中途で下車している。町野が事前に情報を得ていたかは不明である。
 政治家
 1924年大正13年)5月に行われた第15回衆議院議員総選挙福島県第二区から当選し、衆議院議員を1期務めた。満州問題に関心を失うことはなく、満州事変直前に第2次若槻内閣の閣僚であった江木翼に警告を発している。また陸軍が次第に政治に介入する情況を憂い、内大臣・湯浅倉平に面会し対策が必要であることを述べている。これに対し湯浅は危険を顧みず痛烈な陸軍批判を行い、町野は湯浅の人物に打たれ涙した。町野は近衛文麿を中心とした木曜会に参加しており、対英米非戦派であった。
   ・   ・   ・   
その名は町野主水 (角川文庫)
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、同じ日本人と言っても大和魂や大和心を持っていた昔の日本人は違っていて、当然のことながら武士道を持った武士ではないし、百姓根性を持った百姓でもなく、商人気質を持った商人でもなく、職人堅気を持った職人でもない。
 現代の日本人と昔の日本人がハッキリと違うところは、昔の日本人は「義」を知っていたが、現代の日本人は「義」を知らない。
 その証拠が、親中国派・媚中派といわれる現代の日本人の中国共産党への異常とも言える過度な配慮である。
 つまり、現代日本には「義を見てせざるは勇無きなり」や「弱きを助け、強きを挫く」は存在しない。
 現代の日本人が知った振りして得意顔に武士を語る事は、昔の武士への侮辱であり武士の体面を穢し名誉を辱める行為である。
 特に、戦前を否定し、靖国神社を批判する反天皇反民族反日本的日本人はそれが言える。 彼らは日本民族日本人ではない。
   ・   ・   ・   
 武士は、敵が自分より強者・巨大で戦えば必ず負けると分かっている絶望的状況にあっても、体面・名誉・プライドの為に戦うと決断したら「勝敗は時の運」と思い定め、死を覚悟し、「肉を斬らして骨を斬る」の捨て身の戦いを「正々堂々」と奇策や奇兵を駆使しておこなった。
   ・   ・   ・   
 日本の戦争史において、小国・少勢・小部隊・弱者・不利な者が大国・多勢・大軍・強者・有利な者に対して行う、油断を突く・虚を突くという奇襲・騙し討ち・不意打ち・夜襲は卑劣な戦術ではなく道理にかなった戦術である。
 日本軍が戦った対外戦争である、日清戦争日露戦争、シベリア出兵そして満州事変、日中戦争、太平洋戦争はすべてそうといえた。
   ・   ・   ・   
 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
   ・   ・   ・   
 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・   
 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に狙っていた。
 日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
   ・   ・   ・   
 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
   ・   ・   ・   
 日本の軍国主義国家建設は、侵略してくるロシア・ソ連・国際共産主義勢力、中国(中国共産党)・朝鮮に対する正当な自衛行為であった。
 軍国日本の戦争は、戦時国際法に違反しない合法的な正当防衛の積極的自衛戦争であった。
 つまり、日本は戦争犯罪国家ではなかった。
 当然、歴代天皇戦争犯罪者ではない。
   ・   ・   ・   
 紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
 日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
   ・   ・   ・   
 靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
   ・   ・   ・   
 歴史的人道貢献とは。昭和天皇A級戦犯である東条英機松岡洋右松井石根らは、ヒトラーから逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人を保護し、ナチス・ドイツゲシュタポと日本人の反ユダヤ派、親ドイツ派の上海ホロコーストを阻止しユダヤ人難民数万人を敗戦後まで守り続けた。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇の平和貢献とは、戦争には不同意であったが政府と軍部が決定すれば裁可するが、戦争が始まれば早期に講和を行って戦争を止める事を求め続けた。
   ・   ・   ・   
 日本国内には、天皇制度を廃絶しようとしている反天皇反民族反日的日本人達が高学歴の知的エリートや進歩的インテリに数多く存在している。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人、政治家・官僚・学者そしてメディア関係者も誰も重大問題とはせず、沈黙、つまりは黙認している。
 現代の学校歴史教育では、昭和天皇が行った数々の歴史的偉大な功績は否定され抹消されている。
 つまり、生徒・学生で昭和天皇は嫌いが大多数で、昭和天皇が好きだという子供は異常・おかしいとされている。
   ・   ・   ・   
 昔の日本人は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人助けの人道貢献や平和貢献を行った。
 現代の日本人は、戦争犯罪を行わないが、人道貢献や平和貢献も行わない。
 事実、中国共産党ウイグル内モンゴルチベットで行っている人道に対する犯罪であるジェノサイドから目を逸らしている。
 興味も関心もないと公言する親中国派・媚中派の政治家や官僚が存在する。
   ・   ・   ・   
 日本の戦争とは、天皇・皇室と日本国と日本民族を、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、マルクス・レーニン主義共産主義イデオロギー侵略から守る母国防衛戦争であり、敵に味方する反日・敵日の中国や朝鮮など周辺諸国を攻撃殲滅し各国に親日傀儡政権をつくり攻守同盟を結ぶ積極的自衛戦争であった。
 明治新政府が、近代的天皇制度中央集権国家を選択し、軍国主義政策を採用して、富国強兵・殖産興業・近代教育で軍国日本へと暴走したのはこの為であった。
   ・   ・   ・   
 日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義キリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられた事である。
 アメリカの太平洋侵略を最も警戒したのが、1894(明治27)年にハワイ王国滅亡を目の当たりにした東郷平八郎であった。
 ハワイ王国は、アメリカからの侵略から母国を守る為に日本の軍事支援を期待して、明治天皇天皇家との姻戚関係を申し込んだ。
 日本は対ロシア戦に備えて軍備強化を急いでおり、そこに新たに対アメリカ戦を加える余裕はなく、苦渋の選択として天皇家とハワイ王家との結婚は断り、1898(明治31)年にハワイ王国の滅亡を涙を流しながら傍観するしかなかった。
 日本海軍内のワシントン海軍軍縮会議に猛反対した艦隊派は、ハワイ王国滅亡を教訓としていた。
   ・   ・   ・   
 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
   ・   ・   ・   
 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
   ・   ・   ・   
 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
   ・  ・  ・   
 日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランドユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
 これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
 日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
 もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
 日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
 A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
   ・   ・  ・   
 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
   ・   ・   ・