☂22:─1─ソ連製(ロシア製)日本共産党の嘘と詐称と虚飾の100年史。~No.81No.82No.83 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 敗戦後、大逆罪・不敬罪治安維持法で壊滅した日本共産党を再建したのは、ソ連中国共産党から資金や武器などの革命支援を受けていた反天皇反日本の在日朝鮮人達(日本国内に200万人以上が住んでいた)であった。
 日本民族にとって、古代から朝鮮人は敵であり、帰化を拒否して天皇と国に忠誠を誓わない朝鮮人渡来人は友・友人、親友、戦友ではなかった。
 歴史的事実として、天皇殺しは、日本人には畏れ多くてできないが、朝鮮人や中国人なら平然とできた。
 日本人といっても、昔の日本民族と現代の日本国民とは全然違う日本人である。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者テロリストは、共産主義の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
 そして、キリスト教朝鮮人テロリストも天皇と皇族を惨殺するべく暗躍した。
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 共産主義者達は、官界・メディア関係・教育界そして各種市民団体・部落解放(同和解放)運動などに広く浸透していった。
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 共産主義の5%支配理論。
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 有能な共産党員教師が3人いれば、日本の学校イデオロギー支配できる。
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 2022年4月号 Hanada「日本共産党の嘘と虚飾の100年 ①
 日本共産党ガラパゴス
 日本共産党は、今年7月で満100年を迎える。100年とは、日本の政党でダントツに長命だ。自民党は1955年からだから67年。
 ……
 日本共産党は1922年7月に生まれたことになっているが、そのまえに『暁民(ぎょうみん)共産党』という前身があった。ソ連指導のコミンテルン(国際共産党)が世界中に共産党を産み付けたのだ。
 元共産党議員秘書だった兵本達吉の言は辛辣だ。いわく、『日本共産党ロシア革命という子宮と臍(へそ)の緒(お)でつながっている』(『日本共産党の戦後秘史』)と。
 結党は、中国は1921年、日本は翌1922年だ。それは積極的には世界革命をめざすとともに、消極的には『革命の祖国』ソ連を反共包囲網から守るためといっていいだろう。
 その後、第二次世界大戦で、ソ連はドイツと日本との両面作戦に追い込まれることを避け、日本と米英との衝突に向けさせた。ソ連スパイ・ゾルゲ事件はその象徴だ。
 ソ連に『盲従』
 日本共産党は、日本の他の政党と根本的に出自が違う。
 この点について、共産党自身も認めている。いまの路線が決まったのは、1961年大会。そこで、宮本顕治が中心となって『61年綱領』を決定、党内体制は固まった。
 この大会で野坂参三議長は、他党とは違う政党だ、と強調している。いわく、『共産党は、他の政党や団体とはちがって、革命の戦闘部隊である。党内に分派をゆるさないし、少数は多数にしたがわなければならないという組織原則を持っている』。その組織原則とは民主集中制だ。これについては後述する。
 そもそも日本共産党は他党とは違い、日本製ではなくソ連製なのだ。1930年、共産党最高幹部の佐野学、鍋山貞親らが集団脱党し『転向』したのは、『祖国がソ連』で、祖国日本を裏切るというコミンテルンの方針に我慢ができなかったからだ。日本の政党ではなく、『コミンテルン(国際共産党)日本支部日本共産党』が正式の名称だったのだ。党の綱領、規約、資金、武器、教育までソ連に『盲従』した。
 党の方針で有名なのが『27年テーゼ』『32年テーゼ』である。1927年、1932年にソ連から日本に出た指令だ。ロシアでツァーという皇帝を打倒したことをもって日本の天皇も打倒せよ、となった。君主制の打倒だ。
 これには初期の共産党員も驚いた。君主制打倒では日本では死刑になるといって、会議で出たペーパーからその部分を切り抜いて配布したとか、その話しはなかったことにしようと決めたり、大変だった。ロシアのツァー体制と違い、日本で皇室は国民を弾圧する絶対君主ではなかったからだ。
 これが日本共産党が国民から嫌われ続け、治安維持法で弾圧された大きな理由だろう。
 『金』と『銃』と『洗脳』
 規約で大きいのは革命政党の掟だ。上意下達(じょういかたつ)の『民主集中制』だ。簡単に言えば、ガタガタ言わず、上の言うことを聞いて、仲間を作らず従え、というルール。革命を企(たくら)む非合法集団としての掟だ。……
 資金の全貌はまだわからないが、ソ連はたっぷり渡したと公言している。ソ連の『日本部長』といわれたコワレンコ国際部副部長は明言(『対日工作の回想』)しているだけでなく、それに口を閉ざす日本共産党を非難している。
 ……
 『日本の党の財源は基本的にコミンテルンからの資金でまかなわれていた』(和田春樹ら翻訳『資料集 コミンテルン日本共産党』)のは常識だろう。他の共産党と一緒だ。
 ライフルは庶民的趣味?
 武器供与もあった。かつての委員長・田中清玄は、大量の武器が送られ、射撃訓練をした。ローヤル式10連発銃が100丁、機関銃は10丁だ。田中自身は常に2丁の銃を持ち、1丁は敵を撃ち、もう一丁は自殺のためと証言している(『赤色太平記』)。
 このほか、『教育』もうけている。
 ……
 日本共産党の目的
 ……
 日本共産党は、ソ連や中国に盲従せず、自主独立を貫いてきた不屈の政党だというが、そうだろうか。誕生は、上述のよに外国製だ。自主独立ではない。
 ざっと見て、日本共産党が『自主独立』といえるのは1966年以降だ。この年、日中共産党会議で、宮本顕治委員長ら代表団が、毛沢東主席の武装闘争決起の要請を拒否した。だから立派だというより、もしこの要請を呑めば、日本共産党革マル中核派のような非合法武装集団になり壊滅していただろう。さすがの宮本委員長も、そんな馬鹿な要求は呑めない。
 その直前まで日中蜜月だったが壊れたのだ。蜜月というのは、その前に日ソ間で亀裂が起き、日本共産党中国共産党と手を繫いでいた。その象徴は1964年、東京五輪の年、中国は初の核実験を強行したが、日本共産党はこれを支持したのだ。国会で反対決議を出そうとしたとき、共産党が異を唱えて全会一致が崩れ、国会決議ができなかったのだ。 
 そうすると、100年の歴史のうち1922年から1966年の44年間は、自主独立の党ではなく『盲従』していたという計算になる。日本共産党は隣国中国にはお世話になり言、徳田球一書記長は亡命先の中国で逝去。宮本委員長も、一時、中国の海南島で静養をしていた。……いまも切れてはいないのでは、と疑う。これもあとで。
 テーゼに『平和』なし
 日本共産党は平和と反戦のため唯一闘った、というのが自慢だが、これにも?がつく。
 先にも触れた共産党のテーゼをみると、『ソ同盟擁護』『中国革命支援』『戦争敗北、内乱から革命へ』とある。『平和』は出てこない。
 コミンテルンの方針に祖国(ソ連以外の)の平和はない。1928年の第6回コミンテルン大会での議長報告で述べられたのは、『万一ソ連邦に対する帝国主義戦争の際には、帝国主義諸国のプロレタリアートは、自国の敗北のみならずソヴィエト連邦の勝利を目指して闘わねばならない』(デグラス『コミンテルン・ドキュメントⅡ』とあった。
 さらに、『世界プロレタリアートの3つの本質的任務は、来るべき帝国主義戦争の危機に対する闘争、中国革命の防衛、ならびにソビエト連邦の防衛である』だ。『世界プロレタリアートにとって自国の革命は「本質的任務」にはいらなくなってしまった』(立花『日本共産党の研究』上)のだ。まして自国の平和など。ソ連と中国の革命政権を守れ、という指令だ。
 そこには、ロシア革命がそうであったように、敗戦、内乱、革命への道筋がある。レーニンは『祖国敗北革命』といった。
 『反動的な戦争では、革命的な階級は自国政府の敗北をのぞまないわけにはいかない。また自国政府の軍事的敗北と、この政府を打倒することが容易になることの関連性を見ないわけにはいかない』(レーニン全集第21巻)と。
 そういえば歴史上、共産革命は、マルクスのいうような先進資本主義国では起こらず、ロシアやドイツのような敗戦革命か、発展途上国が軍を中心に独裁をしくかだろう。
 祖国敗北革命路線は現にあった。
 野坂は1933年のコミンテルンで、『日本における勤労大衆の革命的闘争』という報告をし、『将来対ソ同盟の戦争が起こった場合、革命的兵士が指揮官たる荒木(荒木大将)に反抗し、彼らの部隊を赤軍の部隊にかえ、武器を天皇に向けることは、全然夢想ではない』と述べた。
 共産党の戦争責任
 戦前マルキストで、シベリア抑留を経て戦後民社党の国家議員となった和田耕作は京都大学在学中に、戦争になれば『内乱』へと思っていたという。
 『銃は敵ではなくて、味方の指揮官に向けよ、ということでした。戦争から内乱への正しい戦い方である』(和田『激流に生きる』)。しかし入隊して、『私には、レーニンの「戦争を内乱へ」のスローガンを実行する決意はどうしてもつかなかった。民族的なもの、国家的なものへの目覚めは根強く私の心を揺さぶった』(和田『私の昭和史』)と述懐している。それにしても、当時の青年にはそんな感情に支配された者もたしかにいたのだ。
 日本共産党は、『祖国ソ連』を守り、革命のため、戦争に反対したというのが正しい。
 戦後の政治学者として一世を風靡(ふうび)した丸山眞男は、共産党の戦争責任を追及した。
 『(共産党が)自賛する前に、国民に対し、ファシズムに明け渡した点、隣邦諸国に対し侵略戦争の防止に失敗した点につき、党としての責任を認め、有効な反ファシズム、反帝闘争を組織しなかった理由を公表するのが妥当である』(『思想』1956年3月号)と。
 この発言は、共産党大会でも大問題となった。共産党は『平和の使徒』であるという、当時の神話を砕くものだった。
 戦争に反対したのは獄中の共産党だけではない。慶應大学中村勝範教授(のちの平成国際大学学長)は、むしろ『戦争に反対した唯一の党──社会大衆党』という見出しで戦前史を書いている。
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 天皇制は絶対に相容れない
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 憲法案で天皇が明記されては、共産党は賛成できない。天皇制打倒で一貫してきた共産党にとって、天皇制は『絶対』認められなかった。この時期、共産党が発表した『日本人民共和国憲法草案』をみれば明白だ。そこには『天皇制は、どんな形をとろうとも、絶対に相容(あいい)れない』と書いてある。『人民共和国』と『天皇制』は両立できないのだ。
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 人民共和国憲法草案は現役
 最近驚いたのは、共産党がつくった『日本人民共和国憲法草案』が、まだ堂々と『生きている』ことだ。私の手許(てもと)には、1962年刷りの日本共産党中央委員会出版部の『日本共産党綱領集』がある。ここには、1946年6月発表の『日本共産党憲法草案』が掲載されている。2004年綱領で現行憲法を全文『守る』となったので、この草案はしばらくお蔵入りかと思っていた。
 しかし違った。共産党の本屋に行ったら、『日本共産党憲法草案』が装丁を変えたものの堂々と並んでいるではないか。それも数冊だ。一休みかと思ったら、まだまだ『現役』だ。この草案の特徴は、①どんな形でも天皇制は廃止という〝天皇放棄〟②〝戦争放棄〟ではなく侵略戦争放棄③警察署の署長は公選制。
 ③はユニークなとこおで、これを見ると、戦後チェコで共産化するとき、連立政権で共産党は警察を仕切る内務大臣ポストを押さえ、そのもとで首都プラハの警察署の署長を公選にし、共産党系がポストを独占、そのもとで共産党議員以外の議員を次々としょっ引き、共産党独裁制の道を拓(ひら)いたという話しを想起する。
 『このような(共産党系の)切り崩しの過程での転機は、1948年1月に共産党員の内相がプラハに12人の共産党の警察署長をすえたことである』(ニューマイヤー『共産連立政権戦術』)
 ……
 ここ数年、共産党は『暴力革命』など党として公式に言ったことない、などと言い出した。さらに最近は、例の『敵の出方論』もいまは知らぬ存ぜぬと言い出したね。驚いたな!
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 『敵の出方論』の出どころ
 51年綱領では『日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである』と暴力革命必然論だ。
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 そもそも、『敵の出方論』はどこから出てきたのだろうか。調べてみると、これもやはり外国製。国際共産主義だ。『民主集中制』はコミンテルン規約13条だが、『敵の出方論』は国際共産党会議の産物だ。
 ……
 これを受け、1961年の日本共産党綱領では『国会で安定した過半数をしめることができるのならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件に有利にすることができる』となる。ほとんど丸写し。
 モスクワ声明を絶対視
 宮本顕治書記長はこれを提案するなかで、『国際共産主義運動の綱領的文書であるモスクワ声明』と、これらの文書を絶対視している。そのうえで、次のように結んでいる。
 『マルクス・レーニン主義党としては、革命への移行が平和的な手段でおこわれるように努力するが、それが平和的となるか非平和的となるかは結局敵の出方によるということは、国際共産主義運動の創造的成果としてマルクス・レーニン主義の革命論の重要原則の一つとなっている』(宮本『日本革命の展望』)
 このように、『敵の出方論』は日本だけのものではなく、国際共産主義運動の原理なのだ。これは、簡単に用語として『使いません』で済む話ではない。
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 都合の悪い歴史は頬かむり
 それがいまになって、昔の不都合な決定は自分たちとは関係ないという。こんな子供だましいが通用するのか。100年の歴史を自画自賛するなら、100年まるごとでしょう。都合の悪いことは知らぬ存ぜぬで、私たちにやましいところは全くありませんというのか。だから共産党は信用できないのだ。
 ……
 だいたい結党以来、ソ連から『27年テーゼ』『32年テーゼ』ときて、暴力革命だ。その歴史を抜いたら、歴史がなくなる。ソ連、中国などを見れば、暴力革命しかない。議会主義、非暴力で共産党政権はできたためしがない。
 あるとすれば、最初はおとなしく統一戦線、連立政権を採って反対派を追い出し、裏にソ連軍がいるというやり方で、東欧方式だ。本筋は『敗戦』『内乱』『革命』のソ連、中国方式だ。
 戦後の日本では、暴力革命、武装蜂起路線が採られたのは忘れられない。米ソの冷戦から、朝鮮半島で1950年6月15日、ついに火が噴いた。朝鮮戦争だ。ソ連が支援し、途中からは中国が軍を送り、大戦争となった。
 このとき、日本共産党在日米軍を背後から揺さぶる行動、軍事路線を強行した。東京・立川の米軍基地を背後から攻撃するため、山村工作隊を編制し、立川へ電力を補給するのを妨害する目的で、小河内ダム攻撃をしている。
 名古屋では、大須球場に集結した大衆がデモ隊となって警察と正面衝突して双方に多くの負傷者を出し、大須事件として歴史に刻まれている。
 大須事件については、兵本達吉氏の『日本共産党の戦後秘史』にたっぷり書かれている。当事者の宮地健一氏の証言などでだ。また『平(たいら)警察署襲撃事件』については、元公安調査庁の弘津恭輔氏が書いている。約500名の暴徒が福島県平市の警察署を襲ったのだ(『革新』1976年5月号)。
 96ヵ所の交番襲撃
 全国でこうした騒擾(そうじょう)事件が相次ぎ、1951~53年の間に265件の事件を起こし、96ヵ所の交番が襲撃された。自衛隊発足のまえに、共産党の中核自衛隊は暴れたのだ。
 元新党さきがけ武村正義代表も山村工作隊だったといように、多くの左翼青年がこれにかかわっている。兵本達吉は、この時代を『朝鮮戦争の一部だった日共の軍事闘争』(兵本、前掲載)とばっさり切り捨てて、次のように総括する。
 『わが国の長い歴史のなかで、外国の指導者(スターリン)の指揮棒に振り回され、彼らの政策遂行の道具として、自国政府の転覆をはかった政党は日本共産党以外にはない』
 こうみると、理屈でなく、現に暴力を振るったことのある政党は共産党だけである。いわば、『私兵』をもって政権奪取まで目論(もくろ)んだ党はここしかない。
 1947年の不発に終わった『2・1スト』では、共産党主導の労働組織『産別会議』は政権奪取の号令をかけていた。当時、流された革命政府の構想は、総理は部落解放同盟松本治一郎、外相・野坂参三、内相・徳田球一だったという話。あわよくば、という思いがあったのだ。
 内相は内務大臣で、警察権力の総元締めだ。東欧の共産党主導の連立政権でも、このポストが鍵。チェコでは、上述のように共産党はこのポストを握り、プラハの12人の警察署長をすべて入れ替えて、連立政権の他派の幹部に難癖(なんくせ)をつけ、次々と逮捕し、国家権力を掌握したという歴史がある。ちなみに、日本共産党憲法草案でも、地域の警察署長は『公選制』にするとある。同じ手口だ。
 この『2・1スト』の時は大変な盛り上がりがあり、〝革命〟前夜の様相を呈した。当時、共産党員だった渡邊恒雄(のちの読売新聞社長)は、当時は『電源スト』の噂があり、共産党は、電源を切れば5年間は日本経済はマヒし、革命になると豪語していたという(『渡邊恒雄回顧録』)。
 共産党が、いまになって『暴力革命』など聞いたことがありません、というような子供だましは通用しない」
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 日本共産党は、結党以来、天皇制度打倒の暴力的共産主義革命を起こそうとしていた。
 アメリカ・GHQ内のユダヤ共産主義者は、日本人共産主義者らによる敗戦革命を成功させるべく政界・官界・財界・教育界などの多方面で数十万人の天皇主義者・保守派・愛国主義者・民族主義者を大量に公職から追放し、戦争犯罪史観・反天皇反民族反日本・反宗教無神論などによる戦後民主主義教育で日本人を洗脳した。
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 明治以来、軍国主義国家日本が戦った敵とは、日本を侵略しようとしたロシア帝国と清国(中国)その手下として動いていた朝鮮である。
 ソ連(ロシア人共産主義者)と中国共産党は、数千年前の弥生時代古墳時代から護ってきた伝統文化である天皇制度を打倒しようとした。
 国際共産主義勢力は、「宗教はアヘン」として、天皇一子相伝宮中祭祀の原型は数万年前の石器時代縄文時代から変化しながら受け継がれてきた民族宗教を消滅しようとであった。
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 何故、軍国日本で国土が焼け野原となり数百万人の犠牲者を出して敗北したのに共産主義人民階級革命が起きなかったのか、それは日本国民が日本軍部が起こした大陸戦争が領土拡大の強欲な侵略的戦争ではなく、日本天皇・日本国・日本民族・日本国土を侵略者から守る為の「やむにやまれぬ」積極的自衛戦争であった事をハッキリと理解していたからである。
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 明治から昭和初期までに起こした戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、現人神天皇、神国日本、神仏の子孫である日本民族を、外敵である夷狄(ロシア・中国・朝鮮)の軍事力と邪教キリスト教)の信仰力から守る為の積極的自衛戦争であった。
 が、現代日本はおろか、中国、韓国・朝鮮、ロシアを含む全ての国々、国際世論は、日本を血に飢えた邪悪・凶悪・残忍な戦争犯罪者と認定・断定している。
 それが、東京裁判史観=自虐史観=日本人凶悪・残虐・極悪・非道の重犯罪人史観である。
 日本民族が最も恐れたのは、石器時代縄文時代から数万年かけて先祖が護ってきた日本らしさ・日本の国柄・日本の有り様を根底から消滅させる意図を見せていた信仰宗教のキリスト教マルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 が、現代日本歴史教育に深刻な影響をもたらしているのが、そのキリスト教マルクス主義共産主義である。
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 現代の日本人は歴史が嫌いで、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、現実に起きていた歴史的事実を認めない。
 高学歴のマルクス主義者の中に、残忍な殺人者であるレーニンを信奉する日本人が多数存在する。
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 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党日本共産党ディレクションした。
 スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
 中国共産党は、レーニンスターリンの指示に従って軍国日本を対米戦争に追い込むべく、中国在住の日本人を虐殺していた。
 当時の日本人は、戦争を嫌い争う事を避ける現代の日本人とは違い、中国人の非人道的残虐行為に激怒し、惨殺された日本人の復讐・報復を政府や軍部に求めた。
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 中国人による日本人虐殺事件は、第1回南京事件満州ピクニック惨殺事件、済南事件、通州事件、その他など中国各地で数多き発生していた。
 日本人は激怒して「暴支膺懲」に暴走した。
 日本国内では、中国人に対する偏見・差別・嫌がらせの事例はあっても、暴行・殺害、強姦、強奪といった刑事事件はなかった。
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 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に人道貢献と平和貢献をおこなった昭和天皇を惨殺するべく付け狙っていた。
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 軍国日本は、戦場で人を殺す戦争犯罪をおこなったが、同時に、戦場で自己犠牲で人を助けるという人道貢献や平和貢献をおこなっていた。
 東京裁判は、国際法の正義で、戦争犯罪者と同時に人道貢献や平和貢献をおこなったA級戦犯の陸軍軍人・政治家・官僚を見せしめ的縛り首で殺し、遺灰は遺族に引き渡さずゴミのように尊厳を否定して海に捨てた。
 それが、靖国神社問題である。
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 日本共産党の永遠に不変な不磨の党是とは、マルクス・レーニン主義にける人民の権利と共産主義の正義及び大義の実現である。
 反天皇天皇制打倒、反日本民族。反日本文明。反日本文化。
 戦争反対と軍備反対の護憲で、交戦権の放棄、自衛隊解体。
 反米・日米安保破棄・在日米軍追放、集団的自衛権反対と同盟拒否で日米安全保障条約廃棄。
 対外的には、平和的な対話による外交安全保障。
 科学万能による、自然改造による自然破壊と自然宗教否定。
 神話宗教・血統世襲による正統性・男系父系の天皇制否定と皇室廃絶、非宗教非血筋非世襲の正当性女系母系天皇制ヘの変更、その他である。
 マルクス主義共産主義は、反宗教無神論と反天皇反民族反日本で、天皇と神話に関連する民族の歴史・文化・伝統・宗教の全面否定する。
 共産主義者は人民暴力革命を成功させる為に、護憲・反戦平和・無抵抗非暴力を隠れ蓑として使っている。
 事実、日本人共産主義者テロリストはキリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺するべく付け狙っていた。
 マルクス主義者は、日本民族神話を消滅させる為に神殺しを行い、死後の世界を否定し消し去る為に仏殺しを行い、今の命が大事というヒューマニズムで死を無価値とし死者への尊厳を踏み躙り霊魂を屑籠に捨てた。
 それは、戦後民主主義教育の勝利である。
 彼らによって、ジャパニーズ・ジャポンである天皇家・皇室は消滅される定めにある。
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