☂07:─2─共産主義は戦後日本の新聞・雑誌・出版・ラジオを乗っ取った。~No27No.28 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 民族を分けるのは、集団としての言語・文化・伝統・習慣・風習ではなく、共同体を一つにまとめる宗教であった。
 日本民族をまとめる宗教とは、天皇神話・民族中心神話・日本神話である。
 天皇への畏敬・敬愛・崇敬そして忠誠が、ある者は日本民族帰化系日本人で、ない者は日本民族ではなく渡来系日本人である。
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 戦後の日本共産党を再建したのは、少数の日本人幹部ではなく、朝鮮人共産主義者達で、暴力革命の資金や武器はソ連中国共産党から提供されていた。
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 日本人と朝鮮人の「ハッキリ」した違いは、天皇への畏敬、日本国への忠誠、日本民族への友愛であった。
 歴史的事実として、日本民族帰化人も含む)には天皇・皇族を傷付ける事は畏れおおくてできないが、渡来人は欲得で崇峻天皇を暗殺した。
 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 近代的軍国日本の戦争とは、数千年前の弥生時代古墳時代からの天皇を中心とした国體を死守する為の積極的自衛戦争であった。
 国體には、数万年前の石器時代縄文時代からの原始的民族神話が深層に流れている。
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 令和4年1月号 正論「産経新聞の軌跡 昭和20年代編
 産業経済新聞ゆえの反共  河村直哉
 終戦の翌年、1946年1月30日のアメリカの新聞、ニューヨーク・タイムズ(NYT)紙が興味深い記事を載せている。『日本の新聞の左傾(LEFT SHIFT MADE BY JAPAN’S PRESS)』という見出しの記事である。
 新聞の左傾
 『東京の新聞は先鋭的に左に方向を変えている。古い新聞のうち読売報知は最も明らかに共産主義的になっている。朝日新聞は民主戦線を唱えてきた。民主戦線では以前の指導者のうち共産主義者社会民主主義者のみが重要である』『共同通信ですら、ニュースの選択において左への傾きを見せている』
 『読売報知は16年の亡命から最近帰国した共産主義の指導者、野坂参三を日本の民主化の救世主と称えている』『朝日は昨日、民主戦線を「正しく国家を愛し、純粋に国民を愛するものゝ大同団結」と呼んだ』
 民主戦線は人民戦線とともに当時よく使われた言葉で、左派勢力やシンパの連合体のことである。昭和20年10月、日本を占領していた連合軍総司令部(GHQ)はいわゆる人権指示を出し、獄中にいた共産主義者を釈放させた。治安維持法も廃止された。共産党は公然と活動を開始した。共産思想は急速に世の中に広がった。
 占領初期のGHQの目標は、強い日本を社会構造上も精神的にも弱体化させることだった。旧来の国家体制を否定する共産主義は、日本の解体という点では占領目的にかなうものだった。
 GHQの中にも共産主義者やシンパと思われる者がいた。諜報と治安を担当する参謀第二部を率いたウィロビーは反共の人だった。彼はGHQスタッフを調査し、『総司令部への左翼主義者の浸透状況』と題した文書を22年、マッカーサーに提出している。『日本の新聞業務に左翼系および反政府的偏向分子を選択して、新聞の記事を勝手に取捨選択』している事例などを挙げた(ウィロビー『GHQ知られざる諜報』)。
 大物共産主義者を英雄視
 NYTがいう読売(当時は読売報知)の記事の一つは、21年1月10日の社説『野坂氏一行帰国』だろう。共産党の重要人物であり中国で活躍していた野坂参三は、21年1月12日に帰国した。読売社説は野坂と一行を『国民的英雄』と称え、『国民的歓迎』を呼びかけた。野坂らに対して『先覚者として平和愛好民衆の指導者として熱烈なる敬愛と感謝を表明しなければならない』としている。
 この時期の読売の社説は左傾化したものが多い。『従来のように盲目的に共産党を毛嫌いする感情を払拭(ふっしょく)し相協力して革命の達成に邁進すべきであろう』(20年11月14日『日本共産党の初登場』)、『革命を正しく理解し、積極的に現実に立ち向かうならばわれらの前途は新鮮な魂のかヾやきに溢れることができよう』(21年1月1日『平和日本再建の方途』)などである。
 読売は終戦の年の秋から二次にわたる労働争議を経験した。大規模なデモや集団的なもみ合い、大勢の警官隊の投入などを伴う激しいものだった。読売争議といわれる。生産管理という争議の手法が使われた。従業員が会社の指示に従わず、生産を管理するのである。争議の最高闘争委員長には鈴木東民が就いた。鈴木は争議開始とともにできた読売の従業員組合の組合長となり、やがて編集局長を兼ねた。左傾した紙面はそのころに作られた。
 NYTが挙げた朝日記事は、21年1月28日の社説『大同団結あるのみ』だろう。前日27日の朝日は、野坂を歓迎する大会が約3万人を集めて東京・日比谷公園で開かれたことを1面トップで大きく伝えた。野坂の演説も長文で添えた。28日社説は演説を評価し、野坂が主張する民主戦線の結成に賛同した。『現在もなお強大な潜勢力を持続する旧支配勢力を打倒せねばならない』と訴えている。
 朝日は20年12月27日の社説『人民戦線に就て』で人民戦線の結成が急務の課題だとし、それを指導するのは社会党共産党だと位置づけた。共産党に対して『アカ』などとする『誹謗と迷蒙(めいもう)がいまだに横行し』ており、それは『妥当でない』と擁護した。
 21年1月23日社説『あいされる「党」としての反省』でも、朝日は共産党社会党に肩入れした。『愛される党』とは野坂の発言である。イメージ戦術だが、社説は評価した。『旧政党的勢力に望みをかけ得ない』『左翼両党の堅実な発展以外に日本の破滅を救う道がなく、左翼両党の堅実な発展のためにはまずもって左翼政党が大衆に愛されなければならぬ』
 私は悪意をもってこのようなことを書き連ねているのではない。戦後日本の言論がNYTのいう通り左傾化していたという歴史的な事実を確認したいだけである。終戦後、日本の新聞のあるものは共産思想に浸潤された。のちに読売自身が当時の紙面について、『本紙の左傾は、亡命中の野坂参三が帰国するにあたり、端的にあらわれた』と振り返っている(『読売新聞100年史』)。
 新聞社内の共産党『細胞』
 連載の1回目で、戦争に協力した新聞の責任を精算し断罪する改革の動きが、終戦直後の秋に朝日や読売で起こったことを述べた。それは旧来の国家を否定し革命を呼びかける共産思想と親和性があった。考え方の親和性だけでなく、実際に共産主義者が新聞社の中で活動するようになったのである。
 それは文献に書かれている。読売記者だった増山太助は闘争委員として争議を戦った。のちに『読売争議』という著書で、『日本共産党の新聞細胞』について書いている。『細胞』を増山は『支部』と補足している。増山によると昭和20年11月中旬に読売細胞ができ、『第一次読売争議にたいする共産党の影響を強めていった』。増山は自分も細胞の一人だったと、あっけらかんと書いているのである。共産党から闘争資金が出ていたことも書いている。しばらく共産党専従として働いた。
 争議の途中、読売社長となり争議を解決に導いた馬場恒吾は21年7月の文章でこう書いた。『近来の読売新聞は、極左勢力が日本を取るか取らぬかの闘争の目標になっている』(馬場『回顧と希望』)
 馬場とともに争議の解決に取り組み、のち社長となる務台光雄は『風雲の30年』(原四郎編『読売新聞風雲録』所収)という文章で当時を回顧している。『占領軍の支援があると知った読売社内の容共分子』が『日本共産党と手を握り』、紙面は共産党の『機関紙となり下がってしまった』。
 『赤色革命の堡塁』
 朝日の中にも『細胞』はあった。時代は下るがGHQは当初の容共から反共に転じ、昭和25年に共産主義者の追放、いわゆるレッドパージに踏み切る。
 ……
 社員が社長らの退陣を求めた20年秋の社内改革を機に、朝日でも組合ができていた。組合の初代委員長に就いたのが聴濤(きくなみ)だった。聴濤は21年にできた共産党系の全国労組組織、全日本産業労働組合会議(産別会議)の初代議長となり、24年の総選挙に共産党から出馬して当選する。
 朝日組合は読売争議を支援した。戦争に協力した会社すなわち旧体制に対抗する労働者の連携、という構図が終戦後すぐに新聞界でできあがっていた。これは支配階級に対抗する労働者階級というマルクス主義の構図である。新聞社で活動するようになった共産主義者のもとで、多くのシンパも作られただろう。
 当時の全国に地方紙までを点検する準備は現在の私にはない。東京新聞論説委員長などを務めた御手洗辰雄『新聞太平記』によると、20年9月から12月まで、全国56の新聞社のうち44社で、労働組合による社内改革の結果として幹部が引退した。『戦後革命の特徴は激しい労働運動であるが、新聞社自体、労働運動の先駆的役割を果し、一時は全国の新聞が赤色革命の堡塁(ほうるい)化した時代もあった』と御手洗は書いている。
 インターネットはおろかテレビもない時代に、新聞が社会に与える影響は大きい。いろいろな業種で過激な労働争議が多発するようになった。
 昭和20年代の日本で長く首相を務めた吉田茂は、当時の労働争議について回想録で何度も苦々しげに振り返っている。読売争議にも触れ、『新聞は共産主義者に指導される争議団に占領され・・・』と述べた。吉田は反共の人だった。頻発する争議について『共産主義者たちは、労働者を煽動利用して、戦後の不安定と混乱をひたすら助長し、よってもって革命政権の夢を追い・・・』としている。その理由として『初期の占領政策共産主義者に寛大であったこと、あるいはこれを利用しようとしたこと』などを挙げた(吉田『回想』)。
 『中正』唱える産経
 本題に入る。産経はどうだったのか。野坂参三の帰国が騒がれたいたころ、21年2月6日の社説『生産管理と労資の立場』はこう書いている。
 『日本人はともすれば無批判的に極端に走りやすい傾向がある。終戦前はこれがため取り返しのつかない大きな禍害(かがい)を蒙(こうむ)ったのであり、終戦後もまたこの傾向は反動的に各方面に現れて混乱と不安を、政治的、経済的、社会的に拡大深刻ならしめているにが現状である。かかる際真の憂国的立場あら中正論を唱える者は直ちに反動視され、非進歩的と罵(ののし)られるのである。何んでも彼でも新しいこと、極端なことをいわねば人気がない。いわねば損だというような気分が支配しているのは新生日本のために果たして幸福であるか、どうか。ここらで一応冷静に考え直してみる必要がありはしないか。真理は高遠なところにあるのではない。われらの足元にあるのだ』
 終戦直後のコラムから
 ……
 労働争議は戦前からあった。社会主義共産主義は早くから輸入されていた。マルクスエンゲルスの『共産党宣言』の翻訳は明治37(1904)年である。明治44年には東京市電で大規模なストライキが起こっている。大正8(1919)年には496件のストがあった。
 昭和21年1月7日の産経社説『内閣改造で進め』は、GHQによる公職追放に関連し、社会党などから当時の幣原喜重郎内閣の総辞職を求める声が出ていることについて述べた。社説は無用な混乱を招きかねない『政変』より内閣改造がよいとして、こう書いている。
 『革命はまず破壊である。この破壊に次いで、より良き建設が自然的に生まれるものだという論もあるが、国家のことはそう軽軽にやるべきものではない』
 これも共産思想がいう革命を意識している。……2日後の1月9日社説『社会、共産両党決裂は当然』に、関連する記述がある。社説は、共産党が呼びかけた共闘闘争を社会党が拒んだことを当然とした。社会党が『天皇制維持』の方針を堅持しているのに共産党がその打倒を訴えている以上、共闘は成立し得ないと社説は述べ、こう付け加えている。『筆者はさきに本欄においてこの際の政変は好まざるゆえんを説いた』。つまり、1月7日社説も共産党がかかわってくる政変を警戒していたのである。
 共産党は20年12月の第四回党大会で『天皇制の打倒、人民共和政府の樹立』を盛り込んだ行動要綱を決定していた。
 ……
 21年1月30日の産経社説『農民戦線統一と農実組合』は、農村に入り込んでくる共産思想を警戒している。終戦後、食糧事情は悪化していた。政府が作物を供出させることへの反対運動も起こった。産経社説は農民組織の運動が社会党共産党に指導されていることを指摘し、『その活動は社、共両党指導の必然性からして専ら闘争的に展開され、農民と消費者、農村と都市の対立を徒(いたず)らに尖鋭激化せしむる傾向がある』と警鐘を鳴らした。実際、共産党の党史は当時についてこう書いている。
 『党の指導と援助のもとに強権供出反対と不当課税反対の闘争が、農民運動史上かつてない大規模な大衆闘争としてたたかわれた』(『日本共産党の70年』)
 ……
 拡大する大衆の示威運動
 しかし大衆の示威運動は収まることがなかった。労働争議にとどまらなかった。21年5月19日にはいわゆる食糧メーデーが行われた。メーデーとは5月1日に開かれる労働者の祭典のことだが、この年はそれで終わらなかった。食糧状態の改善を求めて群衆が皇居前に集まった。
 シカゴ・サン紙の特派員として終戦後まもなく来日したジャーナリストのマーク・ゲインは、『ニッポン日記』という滞在記を書いた。ゲインにも共産思想への同調志向がうかがえるが、それはおくとしてその目撃談には資料的価値がある。食糧メーデーについても記録している。
 皇居前広場にトラックを3台くっつけて演台が設けられた。朝日組合初代委員長の聴濤克己が演説者を紹介した。読売争議を戦った鈴木東民、共産党書記長の徳田球一らが演台に立った。徳田は皇居を指して『おれたちは餓えている。彼らはどうだ?』と怒鳴った。群衆は『人民の政府をうちたてろ』などと唱えながら首相官邸へとデモ行進した。
 前記『読売新聞100年史』によると、鈴木東民はこのとき『いまや革命は、街頭から生まれようとしている』と演説した。『宮城前広場は赤旗が林立し、革命前夜を思わせる雰囲気だった』と『100年史』は書いている。『日本共産党の70年』は食糧メーデーを『闘争の一つの頂点』と位置付けた。
 食糧メーデーの翌日、マッカーサーは『組織的な指導の下に行われる大衆の暴力』と非難する声明を出した。
 『民主化の混乱、報道の迎合』
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 大正時代頃から、各大学や各種専門学校ではマルクス主義が入り込み、優秀な学生ほどマルクス主義共産主義に感化されていた。
 陸海軍から若い有能な将校が大学や専門学校に派遣され、学業以外でマルクス主義を学んで共鳴していった。
 学生は革新官僚となって政府を動かし、軍人はエリート軍人官僚となって軍部を動かした。
 戦後、彼らの多くがリベラル派・革新派となって日本社会党日本共産党に入党し、世の中は急速に左傾化していった。
 が、多数派である低学歴で身分低く貧しい日本民族は反動の天皇主義者・保守派・守旧勢力として、革命勢力である少数派の高学歴で身分が高く裕福な彼の煽動に従わず、民族中心神話消滅・神国日本解体・天皇制度廃止を実現させる共産主義化を拒絶した。
 マルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少ない。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後日本のリベラルや革新はマルクス主義共産主義で、目指していたのは反宗教無神論と反天皇反民族反日本であった。
 その流れは、現代日本でも脈々と受け継がれ、国民世論・民意を煽動して動かしている。
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 マッカーサーは、日本占領政策の為に昭和天皇を利用していた。
 占領政策の現場で働くアメリカ・ユダヤ人ニューディーラー(マルクス主義者・共産主義者)は、天皇制廃絶と天皇家・皇室の消滅を進め、日本人のマルクス主義者や共産主義者を利用していた。
 が、アメリカ・GHQの基本方針は、日本を神話的天皇制度国家から天皇制度廃止人民共和国への大改造であり、昭和天皇を戦犯として裁いて退位させ死刑、終身刑、国外追放の何れかを目論んでいた。
 その象徴が、日本国憲法、改正皇室典範皇室経済法そして直宮以外の皇族の皇籍剥奪であった。
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 明治から昭和初期までに起こした戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、現人神天皇、神国日本、神仏の子孫である日本民族を、外敵である夷狄(ロシア・中国・朝鮮)の軍事力と邪教キリスト教)の信仰力から守る為の積極的自衛戦争であった。
 が、現代日本はおろか、中国、韓国・朝鮮、ロシアを含む全ての国々、国際世論は、日本を血に飢えた邪悪・凶悪・残忍な戦争犯罪者と認定・断定している。
 それが、東京裁判史観=自虐史観=日本人凶悪・残虐・極悪・非道の重犯罪人史観である。
 日本民族が最も恐れたのは、石器時代縄文時代から数万年かけて先祖が護ってきた日本らしさ・日本の国柄・日本の有り様を根底から消滅させる意図を見せていた信仰宗教のキリスト教マルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 が、現代日本歴史教育に深刻な影響をもたらしているのが、そのキリスト教マルクス主義共産主義である。
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 現代の日本人は歴史が嫌いで、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、現実に起きていた歴史的事実を認めない。
 高学歴のマルクス主義者の中に、残忍な殺人者であるレーニンを信奉する日本人が多数存在する。
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 レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党日本共産党ディレクションした。
 スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
 中国共産党は、レーニンスターリンの指示に従って軍国日本を対米戦争に追い込むべく、中国在住の日本人を虐殺していた。
 当時の日本人は、戦争を嫌い争う事を避ける現代の日本人とは違い、中国人の非人道的残虐行為に激怒し、惨殺された日本人の復讐・報復を政府や軍部に求めた。
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 中国人による日本人虐殺事件は、第1回南京事件満州ピクニック惨殺事件、済南事件、通州事件、その他など中国各地で数多き発生していた。
 日本人は激怒して「暴支膺懲」に暴走した。
 日本国内では、中国人に対する偏見・差別・嫌がらせの事例はあっても、暴行・殺害、強姦、強奪といった刑事事件はなかった。
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 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に人道貢献と平和貢献をおこなった昭和天皇を惨殺するべく付け狙っていた。
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 軍国日本は、戦場で人を殺す戦争犯罪をおこなったが、同時に、戦場で自己犠牲で人を助けるという人道貢献や平和貢献をおこなっていた。
 東京裁判は、国際法の正義で、戦争犯罪者と同時に人道貢献や平和貢献をおこなったA級戦犯の陸軍軍人・政治家・官僚を見せしめ的縛り首で殺し、遺灰は遺族に引き渡さずゴミのように尊厳を否定して海に捨てた。
 それが、靖国神社問題である。
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 戦後の日本共産党を再建したのは、少数の日本人幹部ではなく、朝鮮人共産主義者達で、暴力革命の資金や武器はソ連中国共産党から提供されていた。
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 日本共産党の永遠に不変な不磨の党是とは、マルクス・レーニン主義にける人民の権利と共産主義の正義及び大義の実現である。
 反天皇天皇制打倒、反日本民族。反日本文明。反日本文化。
 戦争反対と軍備反対の護憲で、交戦権の放棄、自衛隊解体。
 反米・日米安保破棄・在日米軍追放、集団的自衛権反対と同盟拒否で日米安全保障条約廃棄。
 対外的には、平和的な対話による外交安全保障。
 科学万能による、自然改造による自然破壊と自然宗教否定。
 神話宗教・血統世襲による正統性・男系父系の天皇制否定と皇室廃絶、非宗教非血筋非世襲の正当性女系母系天皇制ヘの変更、その他である。
 マルクス主義共産主義は、反宗教無神論と反天皇反民族反日本で、天皇と神話に関連する民族の歴史・文化・伝統・宗教の全面否定する。
 共産主義者は人民暴力革命を成功させる為に、護憲・反戦平和・無抵抗非暴力を隠れ蓑として使っている。
 事実、日本人共産主義者テロリストはキリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺するべく付け狙っていた。
 マルクス主義者は、日本民族神話を消滅させる為に神殺しを行い、死後の世界を否定し消し去る為に仏殺しを行い、今の命が大事というヒューマニズムで死を無価値とし死者への尊厳を踏み躙り霊魂を屑籠に捨てた。
 それは、戦後民主主義教育の勝利である。
 彼らによって、ジャパニーズ・ジャポンである天皇家・皇室は消滅される定めにある。
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