☂23:─1─何故、共産主義革命がロシアと中国で成功して日本で起きなかった。~No.84No.85No.86 

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 2022年4月15日号 週刊朝日司馬遼太郎 講演録再録
 ロシアについて 第1部
 1984年11月3日 札幌市中央区民センター
 84北海道ニューフロンティアフェスティバル
 題目=ロシアのかたちと日本のかたち
 ……
 ここで、20世紀初頭のロシア革命に触れておきます。
 19世紀ごろから革命の機運が起こってきて、20世紀に革命が成功する。成功したわけですが、よその国と比べると、意外に簡単だったかなと思うことがあります。ロシアの構造を考えてみますと、皇帝がいます。侯爵や伯爵といった貴族たちがいる。彼らは皆、地面を持っています。農地の地主であり、その上に農奴が乗っています。1万人も乗っていれば、ずいぶん地面の値段も高い。
 たとえば相続のときにちょっとお金が要るということになれば、伯爵が侯爵に農地を売ります。そのときに、
 『農奴は何人ついているか』
 という話になる。3,000人だ、それじゃあ何万ルーブルだと、土地の評価が決まっていく。皇帝、貴族、すべて地主であることが基本にある。
 話は変わりますが、明治の終わりに、マルクス主義の雰囲気が日本に入ってきます。大正期にロシア革命の成功があり、いきいきと左翼運動が始まります。
 昭和初年になると、学者たちもそれに参加したというか、マルクス・レーニン主義で日本の歴史を見る、解釈する、そういう人たちが出てきた。
 私は、彼らは基本的に間違っていたなと思うことがあります。
 そもそも土地制度が全く違う国にマルクス・レーニン主義を当てはめようとするのは強引でした。
 結局、日本の左翼が衰退していった理由のひとつに、左翼の人たちが日本史について、あまりご存じではなかったことがあるのではないかと思います。
 たとえば幕末を動かした長州藩は36万9,000石ほどです。では、長州藩主の毛利さんは地主でしょうか。ロシアの定義ならそうですが、そんあことはありません。毛利家は、租税を徴収する権利を持ち、行政の義務を持っていただけといっていいでしょう。毛利家の地所は、江戸の上屋敷と自分のお城の地面、あとはそれほど多くはない。江戸の下屋敷ですと、町人から借りているものでした。
 だいたいお侍というものが、たとえば田畑をどこかに持つということは、ほとんどなかったと思いますね。持つことは恥ずべきことでした。お侍さんが、どこかの農地を小作人を使って経営するということはない。自分の屋敷に大根を植え、少し生活の足しにしていたぐらいでしょう。地面を持っていたのは、おおむね百姓、町人であります。
 つまり日本の場合、土地の所有制度その他がロシアとは全くちがいます。
 ロシアの場合、ツァーリ(皇帝)を倒せばしまいです。ツァーリは最も巨大な地主であり、ロシアという社会は、ツァーリ農奴の関係に集約される。ですからツァーリさえ倒せば社会が倒れ、革命は成功させることができた。
 イワン雷帝は領土が欲しかった
 中国革命もそうですね。
 蒋介石の国民党政権の末期、農民の7割ほどは小作だったそうですな。残りの3割に満たないのが地主であり、地主を追い出してしまえば、それで革命は成立する。
 しかし日本の場合、だれを倒せばよいのかわかりにくいですね。昭和初期でも、だれを倒せばよいのかわからなかった。たとえば独占金融資本を倒せというスローガンをよく聞きましたが、日本の場合、独占金融資本とはなんでしょうね。札幌だと北海道拓殖銀行のことでしょうか。信用組合ぐらいだと独占になるのかどうか、よくわかりません。金融の場合は別として、日本の社会はロシアの公式では割り切れない社会だった。
 小作にしてもそうですね。
 江戸時代にもわずかに小作はいましたが、多くは自作農でした。これは豊臣秀吉以来の方針でして、江戸幕府も受け継いだ。自作農でなければ勤労意欲がわかないし、責任感が持てません。ですから農民は自作農にして、彼らから税金を取り上げる。これが江戸幕府までの原則でした。
 つまり、日本で小作人が多く生まれたのは明治初めからでした。
 明治になってから、しばらくはお米が予算の中心だったのですが、ヨーロッパやアメリカのようにしたいということになった。税金は金納制になりました。現金で税金を払う。いまでいえば当たり前の話ですが、明治の農民はこれに困ってしまいました。なぜなら農村は自給自足が原則だったからです。草鞋(わらじ)も菅笠(すげがさ)も自分で作ります。木綿の服も作る。現金など要らない生活をしていた。
 しかし金納制になり、農民たちは現金を持っていた人たちに頼んだのですね。よろず屋とか酒屋といった人たちに、小作にしてくれ、代わりに税金を払ってくれと。一升瓶を持って頼みにきたという話が、全国津々浦々にあります。
 新潟県の木崎村(現・新潟市)は、大正末期に大規模な小作争議があったところです。ここを7、8年前に訪ねまして、小作争議の指導者の方にお目にかかりました。当時はいちばん年が若い指導者だった池田徳三郎さんという方は、もう80いくつで、品のいいお年寄りでした。
 『池田さんの家は先祖代々の小作ですか』
 と、うっかり言いましたら、
 『冗談じゃない、先祖代々の小作なんて、新潟県には一人もいませんよ。明治以降です』
 池田さんのところも一升瓶を持って頼みにいったそうです。
 つまり、昭和初期の学者たちは、そういうことをきちんと書くべきでしたね。マルクス・レーニン主義歴史観は、どの国にも一様に当てはまるものではなく、日本には日本なりの見方が必要だった。それを踏まえて日本の良いところ、悪いところを見ていけばよかった。このことは今日の日本の左翼運動の衰弱と多少の関係があるように思います。」
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 ロマノフ朝ロシア帝国は、モンゴル人のキプチャク汗国から独立して建国したが、統治形態や社会構造といった国のかたちや国柄はそのまま受け継いでいた。
 共産主義人民革命の遠因は、ロシア帝国樹立からすでに内包していて、革命という風船はロシア帝国の領土膨張と共に大きくなり、ロシア帝国の膨張が止まり衰退した時に風船が破裂する様に革命が起きた。
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 共産主義人民革命が起きる要因は、伝統的土地制度にあった。
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 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリには、数万年前の石器時代縄文時代や数千年前の弥生時代古墳時代からの民族的な歴史・文化・伝統そして宗教に関する知識が乏しいか、ない。
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 日本では領地を資産として持っていたのは、幕府や諸藩の家であって、将軍や大名、武士・侍などの個人ではなかった。
 将軍や大名、武士は、先祖から受け継いだ家の資産である土地を守り、自作農から年貢を取り立て管理する人間でしかなった。
 つまり、将軍や大名、武士は地主ではなかった。
 明治維新で、封建君主であった大名は版籍奉還で領地と領民を朝廷に奉還し、明治新政府は対ロシア戦に備えて近代天皇制中央集権国家を建設するべく天皇に代わって国土を管理し国民から租税を徴収し軍国政策を進めた。
 その結果、日本では共産主義人民革命で倒しべき人民の敵が消えてしまった。
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 近代的軍国日本の戦争とは、数千年前の弥生時代古墳時代からの天皇を中心とした国體を死守する為の積極的自衛戦争であった。
 国體には、数万年前の石器時代縄文時代からの原始的民族神話が深層に流れている。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に狙っていた。
 日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
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 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 クラウゼビッツ「敵の軍隊を壊滅しても、国が残れば軍隊は再建できる。敵の国を壊滅しても、国民が残れば国は再建できる。しかし国民の意志、魂を壊滅させれば、完全に敵国を壊滅できる」

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 日本とくに日本民族では、マルクス主義共産主義無政府主義による人民革命は起きない。
 もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
 何故なら、マルクス主義共産主義無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、悪党、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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