🎹14:─2─日本人が見た恐怖のソ連の第一次5ヵ年計画とウクライナ餓死地獄。~No.65No.66 ⑪ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
共産主義によるウクライナ飢饉。
2017-09-26
☭18」─1・A─レーニンが起こしたウクライナ飢饉。800万人~1,450万人が餓死した。ホロドモール。1921年。~No.53・ @ 
2021-09-02
☭18」─1・B─ロシア革命の成功で歴史から抹消されたボルガ川流域での餓死者約500万人。1921年。~No.53 
2021-08-27
☭18」─2─スターリンの5ヵ年計画とウクライナ飢饉。犠牲者約600万人。~No.54No.55 
2021-08-28
☭18」─3─第二次世界大戦ウクライナ蜂起軍。ナチス・ドイツのバビ・ヤール虐殺。~No.55 ⑭  
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 2022年5月号 Hanada「ウクラナは明日の日本!
 飢餓・惨殺・・・ウクライナ悲劇全史
 三浦小太郎
 プーチンの歪んだ歴史観
 本稿執筆時の3月12日、ウクライナでは戦争が継続中である。誰しも、現在報道されている様々な悲惨な映像や危機的な情報には心が痛む。だが、ここでは現実に起きている事態ではなく、ロシアのプーチン大統領がしばしば、ウクライナ政府を『ネオナチ』と罵倒する発言を受けて、プーチン大統領の『歴史観』と、そして現実に第二次世界大戦前後に、ナチススターリンによってどのような惨劇が行われたかを再検討してみることにしたい。
 そこからは、かつて連合国側が宣伝した『民主主義対ファシズム』という図式の欺瞞とともに、全体主義体制による民衆の虐殺、それを看過した『民主主義諸国』の偽善という、現在においてもかわらぬ残酷な現実と、それに抗し続けた勇気ある人たちの姿が浮かびア上がってくる。
 プーチンは2020年6月18日、『偉大な勝利の75周年:歴史と将来に対する共通の責務』という論文を、ロシア語および英語で発表し、同月24日に、対ドイツ戦争勝利75周年記念パレードを行った。この日を選んだのは、1945年同日、モスクワの『赤の広場』で戦勝記念パレードを行ったことを意識してのものとされる。……
 細菌戦から世界を救った?
 また、論文後半では、戦後の平和的秩序を形成したものとしてヤルタ会談が紹介いされるとともに、戦後の国際連合、特に安全保障理事会の意義を高く評価し、世界の大国が協力して国際秩序を維持(特に対テロ連帯や軍備管理)することの重要性が強調される。……
 日本についての論考はそれほど多くはないが、不可侵条約を一方的に破棄して対日参戦も、ヤルタ会談により正式に決定されたものとされる(『プーチン政権と第二次世界大戦』山添博史、防衛研究所、NIDSコメンタリーに詳しい)。
 そしてこの論文発表後、2021年9月には、ロシア政府のもと、ハバロフスクで、旧ソ連が抑留中の日本軍人を一方的に訴追した『ハバロフスク裁判』(1949年12月)に関する学術会議が開催されている。
 そこでは『ソ連は(日本による)細菌戦から世界を救った』『日本の研究が米国の生物兵器開発の基礎になった』等の主張が展開された、と産経新聞2021年9月7日付記事『露、日本の「戦争犯罪」喧伝(けんでん) 歴史戦で攻勢』が報じている(記事によれば、この会議に先立ち、『日本は38年から対ソ戦を準備していた』『日本はソ連国民に生体実験をした』などという内容の報道が、ロシア国営放送によりなされてもいる)。
 プーチンは大統領であり、彼の論文を『歴史論』として読み、批評したところであまり意味はない。
 ……
 プーチンは、この戦争におけるソ連の立場を正当化するとともに、ナチススターリンを同等の悪しき全隊主義体制とみなし、独ソ不可侵条約こそがドイツのポーランド侵攻を容易にしたという近年の西欧の歴史観を拒絶しているのだ。
 ネオナチ呼ばわりの理由
 プーチンはその発言を見る限り、共産主義思想に共感しているとは思えない。
 ……
 私は、各国や民族がそれぞれの歴史観を持つことを否定はしない。ただ、このプーチンの『大祖国戦争史観』が、他の民族の歴史観を封殺し、ネオナチ、反動呼ばわりすることで、ソ連の様々な国家犯罪や侵略を隠蔽することになるのならば、それは批判されて当然である。少なくとも、ソ連による『ウクライナ飢饉』(ホロドモール。ウクライナ語で『ホロド』は飢え、『モール』は疾病を意味する)の歴史を見れば、『プーチン史観』をウクライナが受け入れがたいことは理解できるはずである。
 壮絶なウクライナ飢饉
 スターリン政権下、ソ連は1928年から32年の『第一次5ヵ年計画』を実施し、社会の工業化、農業の集団化を徹底的に推進した。農業の集団化とは、要するに『富農(クラーク)を階級として封殺せよ!』という凶暴なスローガンのもと、『富農』から土地も財産も取り上げ『平等化』することだった。
 もちろん、誰が『富農』であり、敵の階級であるかは、それこそ支配階級である共産党が決定した。結果、特に豊かな農村地帯だったウクライナでは、1930年の最初の4カ月で、約11万人を超える農民が『富農』と認定されて強制移住させられた。彼らは故郷を追われ、ウラル、シベリアなどの収容所に送られ、そこで奴隷労働を強制された。
 もともとウクライナの農村は自立意識が強く、抑圧的な地主に抵抗して自らの土地を守り抜いてきた伝統があり、共産党が否定するキリスト教信仰も強固に民衆に根付いていた。彼らは土地を奪い、集団化を強制する共産党政権に対し、しばしば抵抗運動をおこしたが、残念ながら組織力も武器もなかった。
 1931年から集団化は徹底される。自作農には重税が課され、農民は集団農場に追い込まれていった。しかも、不幸にこの年は前年に比して天候が悪く、また土地も家畜も奪われた農民たちは働く意欲を失っている。だが、スターリン政府は前年並みの農作物の徴発を命じ、それに達しなかった集団農場には、来年度の作付け用種子をも引き渡すよう命じた。
 31年の暮れには飢餓が広がり、ウクライナ共産党員ですら、赤十字に救援物資を求めてほしいと要請したが、スターリンは拒否、1932年も厳しく作物の徴発を命じた。
 餓死者が続出し始めても、スターリンは全く姿勢を変えなかった。1932年8月には、農産物はすべて国家の所有物であり、正当な許可なくして作物を盗んだり勝手に備蓄した場合は犯罪とみなすという命令が下された。これにより、飢えた農民が、落穂(おちぼ)拾いや、収穫には小さすぎた野菜を拾うことすたも『犯罪』とみなされることになる。
 夕食も没収
 そのあとには、家に食料があることも自体が『取り調べ』の対象となった。実際、狂信的な共産党の徴発部隊が農民の家を襲い、極端な場合は一家が調理していた夕食まで奪われることも起きた。同時に、女性へのレイプもしばしば行われた。
 もちろん、集団化はソ連全体で行われ、また飢饉もウクライナだけに生じたわけではないが、1932年末から33年にかけて、ウクライナのみを対象とした以下の残酷な政策が行われている。以下、『ブラッド・ランド』(ティモシー・スナイダー著、筑摩書房)から引用、紹介する。
 ①……
 ②……
 ③……
 ④…… 
 ⑤すでに数十万単位の餓死者が出ていた1932年12月、スターリンは33年1月までに再び作物の徴発を命じ、33年1月にはウクライナ共和国国境を封鎖、農民に対しては都市への出入りを禁じ、また都市住民にも国内用パスポートを義務化して、人々の流れを遮断した。
 スターリンは飢餓の情報を徹底統制するとともに、国外に逃げようとするウクライナ農民は、ソ連の信用を失墜をたくらむポーランドや他の資本主義国の陰謀に加担しているのだと述べた。
 プーチン論文の危険性
 なお、この『ポーランド陰謀論』はさらに発展していく。1933年、先述したバリツキーは『ウクライナの飢饉は「ポーランド軍事組織」というスパイ団の仕業』という陰謀論を展開し、これがさらなる粛清を生んだ。
 飢餓は、ポーランド工作員ウクライナ民族主義共産党内にスパイとして入り込み、収穫を妨害し、餓死者が出ればそれを反ソ宣伝に使おうとしたという何の根拠もない説だったが、これが原因で、ソ連国内にいたポーランド人(多くは熱心な共産主義者で、反共国だったポーランドからの亡命者だった)への逮捕と粛清が行われた。民族ジェノサイドは、ヒトラー以前にすでにスターリンが始めていたのである。
 皮肉なことにバリツキー自身も、この『ポーランド軍事組織』を見逃していたという理由で処刑されてしまう。……
 これらの悪政の結果、ウクライナにおいてどれほどの餓死者が出たのか正確な数字は分からないが、もっとも少ない数字を挙げる歴史家でも300万人を超えると述べ、1千数百万から2千万規模の餓死者が出たとする説もある。こうしてウクライナ人を餓死させた代償として奪われた穀物は海外に輸出され、ソ連の外貨獲得のために使われた。
 ここまで迫害され、餓死者が出ていれば反乱が起きるはずだというのは、実は飢餓を経験したことのない私たちの感覚なのだ。北朝鮮でも100万単位の餓死者が出る時期、人々は反乱や抵抗をする力も意思も残ってはいなかった。
 彼らはただ次の食事のこと以外には考えられなくなり、人々の相互の連帯や信頼などは消え失せた。ウクライナはこの時期、飢えた人々の間で人肉食も見られたが、これを批判できる資格は誰にもあるまい。
 ……
 プーチンが中国国内でのウイグルチベット南モンゴルなどへのジェノサイドに対しても全く無関心なのも、その政治姿勢からして当然のことなのである。
 日本人が見た飢餓の現実
 当時、ジャーナリストのガレス・ジョーンズは新聞でのウクライナの飢饉を訴えたが、ニューヨーク・タイムズのモスクワ特派員、ウォルター・デュランテ(スターリンのインタビューを行っている)は、ジョーンズの記事を『恐怖をあおるでっち上げ』と否定した。 1933年8月にソ連を訪れたフランスの左派政治家、エドゥアール・エリオはキエフ市を案内されたが、その日だけ食料品が店に並び、エリオの視察ルートでは全て事前に配置された『市民』(多くは他の町から派遣された)が働いており、車もせわしなく道路を走っていた。エリオは帰国後、ソ連の集団農場は成功していると述べ、ソ連の新聞はそれをさっそく引用した。
 実は、ウクライナ飢饉を現地で見た日本人が、当時、貴重な記録を残している(『日本人の目で見たホロドモール』神戸学院経済学部・岡部芳彦)。
 『ウクライナの飢饉については私がウクライナに行って実情を自身で調べたのですが(中略)警察犬も猫も鼠も生きたものは一疋(いっぴき)も見あたらないですね。みんな食ひ盡(つ)くされてしまひました。人間は農村にゐる者は大部分年寄りです』
 『1932年にウクライナに割当てられた収穫率はその前年度プランより、余程多かったのです。何故なら「吾々は五箇年計画を四箇年計画で遂行しなければならない。それが為にはより大きなプランを遂行せねばならない」』
 『1932年にはウクライナ地方では農民が餓死して居たのです。政府では餓死して居た者は「レンヤナーイ」(怠け者)だと言って放っておいたのです』
 『人間が人間を食ふという浅ましい状態にまで陥(おちい)ったのです。私は実際この眼で観たんです。私の泊まった隣の家の親父が自分の息子を食ったのです。私はその骨を観たんです』
 以上は、大川周明が代表を務めた全亜細亜教科で行われた座談会『正兼菊太氏に物を聞く会』(雑誌『思想国防』1935年11月号より連載、36年に『ロシア潜行六ヵ年』にまとめられた)における正兼菊太の発言である。
 ビバ・ヤールの惨劇
 正兼はソ連共産党員として入国したが、おそらく日本の特務機関員であり、ソ連では疑われて一時は逮捕されている。彼はウクライナ人の心情を次のように解説している。
 『僕らは戦争を欲して居る。早く戦争があって呉れればいい。そうしてこの政府を何とか潰してくれればいい』
 『彼等は私にはっきり言ふのです。ドイツはウクライナを食ひたがってゐる。日本はシベリアを欲しがってゐるとスターリンが云ふが、実際早く食ってくれればいい、とさういう要求は、実際農民あたりが持って居るのですよ』
 飢餓状態にある人々が、むしろ戦争による現状変更を望むというのは容易に想像ができることだ。ウクライナ人たちは、とにかくスターリン体制から解放されることを望んでいた。
 独ソ戦初期、進撃するドイツ軍が抵抗らしい抵抗を全く受けなかったのは、ソ連軍が将校の大量粛清で弱体化したこともあるが、むしろ歓迎するものもいたからである。しかし、その期待はあっさりと裏切られ、最悪の虐殺が行われることになった。
 1941年9月19日、進撃するドイツ軍はウクライナキエフを占領したが、直後の24日、市の各所で爆発が起こり、ドイツ軍数十人の死傷者が出る。
 当時のウクライナで自発的な市民の抵抗があったとは考えられず、これは退却するソ連軍が仕掛けた爆弾をNKVD職員が爆破させたようだが、ドイツ軍は徹底的に報復に移る。ナチスイデオロギーでは、ロシア革命ユダヤ人によって引き起こされたものであり、この罪はまずユダヤ人が償うべきものだった。
 キエフでは市内のすべてのユダヤ人は、9月29日午前8時、身分証明書、現金、貴重品、暖かい服装をしたうえで、墓地の近くに集合するように命じられた。当初は、そのまま列車に乗って(墓地近辺には鉄道が通っていたため)別の都市もしくは収容所に連行されるのかと思った人が多かったが、実際に起きたことは虐殺だった。キエフ近郊のビバ・ヤール渓谷に連れていかれたユダヤ人たちは次々と銃殺され、渓谷の地に埋められていった。
 これはあくまで虐殺の始まりであり、その後、ジプシー、ウクライナ民族主義者、ロシア人など、多くの人々が犠牲になった。ナチスイデオロギーにとって、ロシア人やウクライナ人は『劣等人種』であり、将来のドイツ人入植後には、奴隷労働をさせる程度の価値しか見出していなかったのだ。 
 ドイツ軍による飢餓が
 同時に、ドイツ軍は食料の『現地調達』を行った。ドイツ国防軍は食料を調達し、スターリン時代ほど徹底的ではないにせよ、やはりウクライナや占領地全体で飢餓が発生した。
 そして最も悲惨な目に遭ったのは、ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士たちであった。実はこの点ではスターリンも同様で、彼はソ連を裏切って降伏し、捕虜となったソ連軍兵士など見捨てるつもりでいた(戦後には、裏切り者としてソ連政治犯収容所に送られた)。捕虜達は、餓死や極寒のなかの無理な行軍で次々と倒れていった。
 しかしナチス内部にも、ソ連に勝利するためには、ドイツは、ロシアをスターリンの支配から解放するのだ、というスローガンを掲げるべきだという意見もあった。彼らはロシア人からなる反スターリン・ロシア解放軍を組織することえを経過し、その指導者として選んだのが、アンドレイ・ウラソフだった。
 ……
 しかし、ヒトラーはロシア人を信用せず、ウラソフの望むロシア軍捕虜からなる『ロシア解放軍』編成は敗戦直前まで認められなかった。
 それでも、ウラソフと彼を利用しようとしていたドイツ軍人たちは、1942年12月に『スモレンスク・ロシア委員会アピール』を発表している。
 そこでは『ボルシェヴィズムはロシア人の敵である』と明言され、『この戦争で赤軍は史上最大の敗北を喫し』たが、『責任はすべて腐敗したボルシェヴィズム体制に』あり、『スターリン一味の打倒はまずロシア人民の仕事』であり、ドイツとともにスターリン打倒の戦いに立ち上がるべきことを呼びかけていた。
 そして『ロシア委員会』の目的は、この主張の説得力を弱めたのは、何よりもドイツ軍の占領政策の残酷さだった。
 有名無実の宣言
 そして、文面上はロシア解放軍を呼びかけても現実に軍は編成されず、特にヒムラーヒトラーはロシア軍捕虜の編成は、彼らが裏切ってドイツ軍内部の敵となる危険性が高すぎると考えていた。
 ウラソフが望んだロシア軍捕虜からなる純粋な部隊を得たのは、ほぼ戦争末期のことだった。1944年11月、『ロシア諸民族解放委員会』が、ウラソフを中心に結成された。……
 それでも、同時期にウラソフ指揮下で小規模であれ、ロシア軍捕虜からなる『ロシア解放軍』が結成された。彼らはいくつかの戦線で勇敢に戦い、ドイツの敗戦直後、彼らの信念に基づいた戦争で勝利を挙げた。1945年4月、プラハを破壊しようとしたドイツ軍からおの街を守り、ソ連軍に先駆けて『解放』したのだ。
 しかし、連合軍に降伏したあと、『ロシア解放軍』とウラソフは、無慈悲にもソ連に引き渡されることになった。ウラソフをはじめ、多くの指導者は処刑され、兵士たちも収容所に送られていった。
 ソルジェニーツィンは『収容所群島』で、東部戦線で戦ったロシア解放軍の兵士たちが、ソ連軍の捕虜となるよりは死を選んで戦い抜いた姿を印象的に語るとともに、彼らはソ連によって裏切られ、見捨てられた兵士たちであり、彼らを裏切り者、ドイツのスパイとみなすのは全く不当なことだと力説している。そして収容所で起きた囚人の決起にも、このロシア解放軍元兵士が参加していたという。彼らは最後まで、スターリンと戦い続けたのだ。
 ……少なくともソ連権力はヒトラー同様、いやそれ以上の悪であったことは、歴史的に明らかである。
 スターリンウクライナに対し行った政策が、飢餓によるジェノサイドと見られても致し方ないものであったこと、このこと一つをとっても、プーチン歴史観は正当化できるものではないのだ。」
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 マルクス・レーニン主義共産主義は、人類の歴史の中でも類を見ないほどの血に飢えた世にも恐ろしい猟奇的殺人イデオロギーであった。 
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 ヒトラーナチス・ドイツファシズム、ナチズムとスターリンソ連コミンテルン共産主義レーニン主義は、反宗教無神論マルクス主義から生まれた全体主義の一卵性双生児、つまり双子である。
 そして、毛沢東中国共産党日本共産党と同様にコミンテルン支部として作られた。
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 昭和8年から、日本人の共産主義者社会主義者の多くが転向して、天皇擁護派となり、祖国を防衛する為に銃を取って戦争に参加した。
 何故か、彼らはマルクス・レーニン主義の実体を知り、偽りの幻影・幻想から目が覚め、ありのままの現実に立ち返ったからである。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に狙っていた。
 日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
 人民の大義を掲げるマルクス・レーニン主義共産主義は、民族主義を不倶戴天の敵として滅ぼそうとした。
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 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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 東条英機が発表した「生きて虜囚の辱を受けず」の『戦陣訓』は、中国共産党軍・中国人やソ連軍・ロシア人などの国際共産主義勢力との戦争では正しかった。
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