🎻18:─1─皇居前広場。第2回血のメーデー事件。昭和27(1952年1949)5月1日~No.70No.71 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 共産主義者無政府主義者、左翼・左派など反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人達は、伝統文化を持った日本民族日本人ではない。
 日本民族日本人の中には、天皇に忠誠を誓い日本国への愛国心を持った渡来人は含まれ、天皇への忠誠を拒否し日本国に興味も関心もない渡来人は含まれない。
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 食糧メーデー「米よこせ大会」とプラカード事件。昭和21(1946)年5月19日
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 第1回血のメーデー事件。昭和24(1949)年6月11日
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 日本大百科全書(ニッポニカ)
 メーデー事件
 1952年(昭和27)5月1日、第23回メーデーの日、皇居前広場周辺で警官隊とデモ隊が衝突、騒乱罪に問われた事件。「血のメーデー事件」ともいわれる。吹田(すいた)事件、大須(おおす)事件と並ぶ戦後の三大騒乱事件である。
 この年のメーデーは、サンフランシスコ講和条約日米安全保障条約の発効直後であり、デモ隊の一部は両条約への抗議の意思をもって、皇居前広場に向けて行進した。広場は戦後メーデーの復活以来メーデー会場となり、他の多くの集会も開催されて、人民広場ともよばれていたが、1951年のメーデーに際し、アメリカ占領軍は同広場での開催を禁止し、52年のメーデーでは東京地裁が不許可処分取消判決を下していたにもかかわらず、政府の措置で開催を妨げられていた。広場では入場直後何事もなかったが、午後2時40分、排除を開始した警官隊は、催涙ガス弾、拳銃(けんじゅう)弾発射を含む実力行使に及んだ。さらに新たなデモ隊が到着し、広場のデモ隊が3万を超えるや、警官隊も約2000人に増員され、3時25分二度目の衝突が起こった。そして4時、最後の攻撃でデモ隊は広場から排除された。東京都職員の青年が背後から拳銃弾で心臓を射ち抜かれ即死したのはこのときである。三度の排除攻撃、衝突で拳銃弾70発、催涙ガス弾73発が発射され、デモ隊側死者2人、重軽傷者千数百人に達した。警官隊側負傷者も800人といわれる。
 警視庁は衝突の最中、早くも騒乱罪適用を決定し、同日夕刻から逮捕を開始、総検挙数1232人に上った。うち起訴261人、首謀者は存在せず「首なし騒乱」と称された。一方、政府は事件を共産党の軍事行動と非難し、当時国会審議中の破壊活動防止法案成立に利用した。
 東京地裁の一審では、かつてないマンモス公判のため分離を主張する裁判所側と、統一を主張する弁護側が対立したが、結局統一公判方式がとられ、1953年2月から例のない6人の裁判官による公判が始まった。争点は騒乱罪成立か否かであるが、成否は、警官隊の行動を適法・正当とみるか、それともデモが正当な抗議行動であり、暴行・脅迫の共同意思は存在せず、違法な警察力の行使が衝突の原因であるとみるか、であった。公判開廷回数は1792回に及び、結審まで13年10か月、さらに判決まで3年11か月を要する長期裁判となった。70年1月28日の判決は、第一次衝突を警官隊違法、騒乱罪不成立、第二次衝突以降をデモ隊違法、騒乱罪成立とし、110人を無罪、93人を有罪とした。しかし、同判決およびその後の判決で有罪の宣告を受けた被告100人の控訴審判決は、72年11月21日に行われ、騒乱罪については全面不成立と認定、84人に無罪を言い渡した。残る16人には騒乱罪以外の罪を認めたが、原告・被告双方が上告を断念し、長期裁判に終止符が打たれた。事件発生以来実に20年7か月が経過していた。
 [荒川章二]
 『「メーデー事件裁判闘争史」編纂委員会編『メーデー事件裁判闘争史』(1982・白石書店)』▽『岡本光雄著『メーデー事件』(1977・白石書店)』▽『田中二郎他編『戦後政治裁判史録 第二巻』(1980・第一法規出版)』
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 ウィキペディア
 血のメーデー事件
 Bloody May Day Incident2.JPG
 日付 1952年5月1日
 概要 第23回メーデーにおいて暴徒化したデモ隊と警察部隊とが衝突した。
 攻撃手段 投石、棍棒、竹槍
 死亡者 1名(デモ隊)
 負傷者 デモ隊200名、警官隊750名(1956年1月に頭部打撲の後遺症でデモ隊の1名が死亡)
 防御者 警視庁予備隊
 対処 催涙剤、拳銃、警棒などを使用
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 血のメーデー事件(ちのメーデーじけん)は、1952年5月1日(木曜日)に東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件である。事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行ったものと見られている。戦後の学生運動で初の死者を出した。
 暴徒と警察官
 GHQによる占領が解除されて3日後の1952年5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(注:皇居前広場)の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。
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 敗戦後間もない日本では、日本共産党や部落解放組織の主要幹部は日本人であったが、現場で活動していたのは朝鮮人共産主義者であった。
 戦後の混乱で、反天皇反日本反政府の暴動・騒動・事件(略奪・暴行・殺害・強姦・放火・他)を起こしていたのは朝鮮人共産主義者であった。
 日本共産党日本社会党・部落解放組織に日本人が増えたのは、60年代以降に、日教組戦後民主主義教育でイデオロギー的に育てた反天皇反民族反日的日本人青年が大量に社会に出始めてからである。
 伝統を溺愛する日本民族には、反宗教無神論と反天皇反民族反日本人は受け入れがたく、拒否し、偏見と差別で遠ざけていた。
 日本人共産主義者テロリストはキリスト教朝鮮人テロリスト同様に、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙い、皇居や御用邸への手製ロケット発射テロを繰り返していた。
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