🎵22:─1─近代日本を動かした明治期国家理性と昭和初期国民感情。~No.53No.54 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年3月24日号 週刊新潮「夏裘冬扇 片山杜秀
 国家理性と国民感情
 日露戦争に負けていたら、日本はロシアの一部になっていたろう。が、勝てた。旅順を陥落させ、バルチック艦隊を潰滅させた。日本の国民感情からすれば圧勝だった。
 けれど、冷静に考えれば、南満州や朝鮮へと南進策をとってきたロシア勢を、北満州まで退かせたに過ぎない。しかも、ロシアにはなお戦争継続の余力があったが、日本はお金も人員も生産力も限界だった。有利なうちに手打ちせねば。アメリカの仲介で講和条約が結ばれた。遼東半島南樺太を日本が得る。南満州の鉄道の利権も日本が持つ。満州の広い範囲を緩衝地帯とする。ロシアは負けたつもりはないから賠償金を払わない。そのへんで落着した。
 国家理念という言葉がある。それを、国家が安全に生き残るための客観的判断力と解すれば、このときの日本には国家理念がよく働いていた。しかし、国民は納得できない。約9万人の戦没者を出してロシアをやっつけたというのに、何たる弱腰!暴動が起きた。東京では交番の3分の2以上が焼かれた。大阪朝日新聞は、『国家は今亡びんとす、これを救うのは国民にあり』と書いた。物わかりよい国家理念を悲憤慷慨する国民感情が押しのけようとした。戒厳令が2カ月も布(し)かれ、軍隊が出動し、かろうじて収まった。
 このあとの時代は朝日新聞の予言通り。国民が国家を乗り越える。明治の元勲が国民から超然として国政を執る時代は遠くなりにけり。大正デモクラシーだ。原敬以来、国民の選んだ衆議院の与党の党首が組閣する慣例が生まれる。
 が、すぐ世界は大恐慌期へ。政党は選挙に勝とうと無茶な公約を掲げては失敗を繰り返し、信を失う。浜口雄幸井上準之助犬養毅高橋是清ら、政党政治家が次々とテロに斃れる。国を導けず、財閥と結託して私利私欲に走ったのだから、当然の報い!喝采を送る国民も多かった。
 国民感情をよく理解しながら、国民を説得し、国家理性でまるめて、両者の間の緩衝材の役割を果たし、落としどころを探るのが、議会政治下のまともな政党というもの。それが機能しなくなると、後に来るのはポピュリズムと相場は決まっている。国民感情の波をつかまえた英雄主義的政治家が、瞬間的な受けに走り、国家理性を消してしまう。
 2・26事件のあとの日本で、その役を担ったのは、近衛文麿公爵だったろう。ヒトラーに憧れもした格好良い華族政治家。国民大衆に担がれ、首相になった。そうしたら盧溝橋事件。日中戦争の始まりだ。日本が優勢とはいえ、米英は蒋介石の国民党政権への支援を強めるだろう。早めの手じまいが肝要。反日政策の放棄など、日本としては緩いつもりの条件を提示し、ドイツに仲介を頼んだ。
 ところが日本軍が強すぎた。これから本格的交渉というとき、もう蒋政権の首都だった南京は陥落した。国民は熱狂、圧勝だ!近衛は引くに引けなくなる。講和条約は思い切り高飛車になった。満州国を承認せよ。北支は事実上、日本に支配させよ。中支を緩衝体とせよ。蒋介石が呑めるはずはない。でもポピュリストとして近衛は格好良い台詞を吐くしかない。ついつい禁句を口にしてしまった。『国民政府を対手(あいて)とせず』。戦争は終わらなくなった。
 デモクラシーは大事だ。しかしポピュリズムはご免蒙る。国民感情が国家理性を葬るなら、その逆の方がましだろう。一国の指導者は、国民を煽って後で恥をかくよりも、宥めて国民に踏みつけられるくらいがちょうどよい。
 今、世界の運命を握る、ヒロイックに振る舞いたがるポピュリストたちに、この国の失敗を捧げます」
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 日本の近代化とは、大陸からの侵略から天皇・母国・民族を戦争して守る為の富国強兵=軍国主義化の事であった。
 明治の軍国主義化とは、江戸時代後期から始まったロシアの軍事侵略である。
 昭和前期の軍国主義化とは、大正時代から始まったソ連中国共産党・国際共産主義勢力によるイデオロギー侵略であった。
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 キリスト教の宗教侵略とは、中世キリスト教による日本人奴隷交易の事である。
 ソ連イデオロギー侵略とは、天皇制打倒の32年テーゼである。
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 日本の近代化は、人生50年時代の若者が多く・老人が少ない中で成功した。
 明治時代初期から昭和前期は人口爆発時代で、日本国内の総人口が1868年頃の約3,000万人から1941年頃には約7,000万に急増した。
 人口激増に対して食糧生産が増えなかった為に食糧不足となり、飢餓・餓死を防ぐ為に不足する米をベトナム・タイ・ビルマから外貨(米ドル建て)で購入し、輸入した石油で輸送船を動かして日本に運び込んでいた。
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 日本の戦争とは、天皇・皇室と日本国と日本民族を、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、マルクス・レーニン主義共産主義イデオロギー侵略から守る母国防衛戦争であり、敵に味方する反日・敵日の中国や朝鮮など周辺諸国を攻撃殲滅し各国に親日傀儡政権をつくり攻守同盟を結ぶ積極的自衛戦争であった。
 明治新政府が、近代的天皇制度中央集権国家を選択し、軍国主義政策を採用して、富国強兵・殖産興業・近代教育で軍国日本へと暴走したのはこの為であった。
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 日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義キリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられた事である。
 アメリカの太平洋侵略を最も警戒したのが、1894(明治27)年にハワイ王国滅亡を目の当たりにした東郷平八郎であった。
 ハワイ王国は、アメリカからの侵略から母国を守る為に日本の軍事支援を期待して、明治天皇天皇家との姻戚関係を申し込んだ。
 日本は対ロシア戦に備えて軍備強化を急いでおり、そこに新たに対アメリカ戦を加える余裕はなく、苦渋の選択として天皇家とハワイ王家との結婚は断り、1898(明治31)年にハワイ王国の滅亡を涙を流しながら傍観するしかなかった。
 日本海軍内のワシントン海軍軍縮会議に猛反対した艦隊派は、ハワイ王国滅亡を教訓としていた。
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランドユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
 これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
 日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
 もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
 日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
 A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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 日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
 人口増加は、慢性的な乳幼児死亡率が高い中で起きていた。
 江戸時代の人口増加を支えていたのは、伝承としての継続的変革と一新する破壊的イノベーションであった。
 江戸時代は人口が微増して、人生50年といわれ、年齢的人口構成は若者が多く老人が少なかった。
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 徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
 東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土南樺太に送って防衛任務に当たった。
 尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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 徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
 戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
 古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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 明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
 が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
 日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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 江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大約2万6,800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。
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 日本とロシアの真ん中に住んでいるアイヌ人は、日本に味方するか、ロシアに味方するか、第三者として傍観者になるかを強制された。
 千島アイヌ人は、ロシア人によって地上から消された。
 樺太アイヌ人は、ロシアに残留組・多数派と日本への移住組・少数派に分かれた。
 蝦夷アイヌ人は、日本・和人に味方して侵略者ロシアと戦って多くの犠牲者を出していた。
 反天皇反日本人(和人)を主張する一部の現代アイヌ人の祖先が、どこのアイヌ人なのかいまいち分からない。
 歴史的事実として、日本民族アイヌ人は同じ縄文人の子孫である。
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 明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
 伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
 佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
 つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革か倒幕派の破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
 何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革には未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
 それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
 日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義共産主義イデオロギー侵略が原因であった。
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 弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
 天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
 それが、天皇国家元首としての統治権であった。
 欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
 そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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