☂04:─6─徴用工未払い賃金問題は在日本朝鮮人連盟と日本共産党が関係していた。〜No.20 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 敗戦後の日本に住んでいた朝鮮人の多くが、在日本朝鮮人連盟以外に日本の共産党労働組合・部落解放団体など天皇制度打倒を目指した諸組織の構成員となっていた。
 日本共産党や部落解放団体の幹部は日本人であったが、現場で活動する・運動する・暴動を起こす一般共産主義者の大半が在日朝鮮人で日本人はそれほどいなかった。
 歴史的事実として、天皇を殺害するのは日本人ではなく朝鮮人や中国人の渡来人(悪い移民)である。
 良い移民とは、帰化人の事である。
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 在日本朝鮮人連盟と日本共産党共産主義勢力は、ソ連の命令(32年テーゼ)による天皇制打倒と万国人民革命という反天皇反民族反日本で共通していた。
 日本民族は、国體護持、つまり天皇・皇室・天皇制度を守る為ならば命を捨て、カミカゼ特攻、庖丁・鎌・竹槍・棍棒の万歳突撃による玉砕(自死・自殺行為)さえ厭わなかった。
 天皇とは民族・国民に寄り添う存在、それ故に「紐帯」「統合の象徴」なのである。
 日本に於ける民族主義とは、天皇への崇拝・崇敬・敬愛・畏怖・畏敬の念の事である。 
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 2022年4月28日号 週刊新潮「党史には出てこない不都合な真実
 『共産党』再建資金に『朝鮮人徴用工』に未払い賃金
 東郷一馬
 第9回 消えた『朝鮮人炭坑夫』の財産」
 革命を目指す『在日朝鮮人連盟』と『日本共産党』の活動拠点の一つは、多くの朝鮮人が働く『炭鉱』だった。その仕事は危険と隣り合わせだったから、賃金は高い。しかし様々な理由で全額が本人の手に渡っていなかった。ここに『徴用工問題』の淵源がある。
〔前号まで
 戦後まもなく設立された『在日本朝鮮人連盟』は、日本共産党と一体化して革命運動を行った。当初、その活動資金となったのは、戦前から続く親日朝鮮人団体の資産だった。さらに朝鮮人の引上げ事業を受託すると、全国の鉄道網を押さえ、切符を自由に発券するようになる。朝鮮人たちはその切符を使って闇米の買い出しをするなど、勝手放題の経済活動を繰り広げた。〕
 民族統一と共産革命を目指し、日本共産党再建時の母体となった在日本朝鮮人連盟(朝連)──。その活動費は、鉄道や物流の送還事業や、闇米の売買などからもたらされたが、他にも重要な資金源があった。
 それは『炭鉱』である。
 法務省の入国管理局による、終戦時に我が国に在留していた朝鮮人は、200万人を超える。1938年、戦時下の労働力不足を補うために国家総動員が施行され、翌年、国民徴用令が出されると、朝鮮半島などから63万5,000余人に上る労務者が渡航してきた。敗戦後にGHQに出入国管理が移管された時、事業現場にいた朝鮮人は32万2,000余人に上った。
 朝鮮からの労務動員令が多数働いたのは、軍需産業、土木事業、そして石炭産業だった。
 1947年発行の『石炭労働年鑑』によると、炭鉱で働く朝鮮人労働者数は、1945年7月末時点で石炭労働者全39万153人の3割、約12万人に及んだ。その在留地は朝鮮に近い福岡・山口・広島県及び北海道の産炭地だった。
 在留朝鮮人たちは、日本の敗色が濃くなると、戦禍を逃れるために帰国を始めた。特に米軍の空爆の標的となった軍需工場の労働者は、次々と職場を放棄し、空襲のない朝鮮半島へと船を仕立てて帰還していった。そして戦争が終わると、一気に大量の朝鮮人が引揚げ港に殺到した。
 GHQは治安維持のため、できる限り早期に朝鮮人労働者を計画輸送で送還させようとし、それを受けて政府は朝鮮人団体の興生会、そして朝連の協力を仰いだ。
 三菱など大手資本の炭鉱では、独自に船を仕立て、朝鮮人労働者をまとめて帰還させている。もっとも日本政府は、戦後復興のためにはエネルギー源の石炭が不可欠だったことから、日本人が戦地から帰還し、炭鉱での人員補充ができるまで朝鮮人を慰留しようとした。
 1945年9月1日の各地方長官への通達には、
 『石炭山等に於ける熟練労働者にして在留希望者は、在留を許容すること。但、事業主に於て強制的に勧奨せざること。輸送順位は概ね土木労働者を先にし、石炭山労務者を最後とし、地域的順位に付いては運輸省に於いて決定の上、関係府県・統制会・東亜交通公社に連絡す』(『朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ニ関スル件』)
 とある。
 また朝連も、組織の大切な構成員を減らしたくはなかった。このため、引上特権喪失者リストを作るなどして、必要な人物の帰還を拒んでいる。
 北海道の朝鮮民族統一同盟(朝連の一組織)の創設メンバーで、共産党の細胞として活躍をした金興坤は、GHQへの不満を記している。
 1945年の11月1日と2日、金は札幌で3,000人規模になる統一同盟の結成大会を開催しようとしていた。当初、GHQは協力的で、金らの移動のためにパスポートを与え、軍の運転手つきジープや特別列車を用意し、地元の北海道新聞に同胞への告知を行う便宜も図った。準備は万事順調に運んでいたが、突然、在北海道朝鮮人労働者の優先的計画輸送が打ち出された。
 『我われの意図とは反対に、占領軍当局は当時250万名もいる在日朝鮮人を本人たちの意志にしたがって故郷へ帰すことが、占領地日本の治安上便利であったし、しかも北海道には炭鉱を掘るために17万名もの朝鮮人がいたが、占領後は、石炭一かけらほるどころか争いばかりおこして厄介であったことから、積雪となれば輸送も困難となるので、無料で在北海道朝鮮人労働者を優先的に計画輸送するように日本政府に命じたのであった。今日まで働いた賃金は奇麗に支払ったうえ本人の故郷まで無料で優先的に返すという計画に従って、強制的に引っ張られてきて以来、夜も昼も1分たりともわすれたことのない懐かしい故郷へと、もっとも勇敢にわが朝鮮民族統一同盟のために、共に闘った人々も我われに断りもなく帰国してしまうのであった』(金興坤『怒りの海峡──ある在日朝鮮人の戦後史』『季刊人間雑誌』草風館)
 北海道には夕張、美唄、空知の炭鉱を中心に14万5,000余人、千島を入れると17万人の朝鮮人がいた。その多くは朝連の構成員だった。
 労働組合、朝連、共産党
 産炭地は戦後の朝鮮人共産主義者と日本人共産主義者の活動拠点だった。当時の炭鉱の様子について、日本共産党の幹部だった寺尾五郎は、こう回想している。
 『北海道の炭鉱町に飛んだことがある。驚いたネ、さすがに。300人からの巨大細胞があるんだ。それが全員朝鮮人で、「朝連」の会員で、そのうえ「なんとか労働組合支部」でもあるんだ。3つのちがった組織が全部おなじ顔ぶれなんだ。そして一番の古参が組合長で、一番酒の強いのが朝連の支部長で、一番理屈っぽいのが細胞長で、何をやるのも300人が一体になってやる』(寺尾五郎・降旗節雄対論『革命運動史の深層』谷沢書房)
 朝連と日本共産党とが一体化していたのは、本連載第6回で見た通りである。寺尾は言う。
 『ある日のある男が組合費集めて歩いて、ある日のある男が朝連の会費集めて、ある日のある男が党費集めて、出す方もどこへなんのために出しているのかわけがわからない。だけど、「良いことに使ってるんだから、どこが使おうと、いいじゃネーカ」ってなもんなんだ。「今度東京で大会がある、代表2人出そう」「ヨーシ行ってこう」。それが党の大会であろうと組合大会であろうと、要するに良いことをしに行くんだから、組合費集めて朝連に行こうと党大会に行こうと、誰も不思議に思わない。党と大衆団体の区別とか、労働団体と民族団体の区別もへちまもなく、みんな同じ革命の話をやり、天皇制打倒の話をしてるんだ。革命的高揚期とはそんなものなんで、それでいいと思うし、すばらしいと思うし、結局私は、3つの組織の区別もつけず、整理もせず、カンパだけもらって東京へ帰ってきて、別に誰も怒りもしなかったよ』(同前)
 労働組合、朝連、共産党が渾然一体となり、集められた資金にも区別はなかったのだ。
 朝鮮人の炭鉱労働者に限らず、共産党の同志には惜しげもなくカンパをしたようだ。そもそも寺尾は、府中刑務所に徳田球一たち共産党幹部の出獄を迎えに行った時にも、見ず知らずの朝鮮人に生活費をカンパしてもらっている。
 炭鉱では朝鮮人たちがさまざまな活動を繰り広げていた。大山良造の『九州地方朝鮮人強制連行の証言─2─死をかけた抵抗』(『部落解放』59号)にはこんなくだりがある。
 『北海道では、金日成将軍指揮下の祖国光復会の工作員が、各炭鉱に潜入、解放直後直ちに全道的組織が結成され、帰国船の要求や天皇制廃止の目標が出されている』
 連合軍総司令部(GHQ)のSummation No.1にも、北海道や常磐など一部地域の炭鉱で処遇改善を求めてストライキが多発し、不穏な空気に包まれたことが記録されている。
 だが、産炭地の朝鮮人労働者の多くは次々と帰国していった。1945年8月までに10万2,000人、9月末に6万7,000人、10月末に3万7,000人、11月末に1万7,000人、12月末には773人と、この年に22万4,000人近くが帰国の途についたのである(『石炭労働年鑑』)
 炭鉱の賃金体系
 この朝鮮人労働者たちが帰国する際、『未払い賃金』があり、それを補償しろというのが、近年、韓国が主張し始めた『徴用工問題』である。この未払い賃金はどのように発生し、どう処理されたのか。実はここに朝連が大きく関わっていたのである。この問題に踏み込むには、まず当時の炭鉱での賃金体系や支払い方法について知らねばならない。
 共産主義者・金斗鎔は、『朝鮮近代社会史話』(郷土書房)の中で、自身が見聞きした常磐炭鉱(福島県茨城県)について、
 『労働現場は大変過酷なものであり、虐待もあり、給料は貯金という形で抑えられ、逃亡できないようになっていた』
 と、書いている。
 龍田光司の『常磐炭田朝鮮人戦時動員被害者と遺族からの聞き取り調査』(『在日朝鮮人史研究』39号)には、当時の賃金についての証言が出てくる。
 『月給は1カ月ごとに受け取り、多く受け取ろうと少なく受け取ろうと、少しずつしか与えられなかった。残ったものは貯金させられた。300円~500円ずつ家に送ったことがあった。遊んで全部使ってしまう人もいた』(韓広熙の証言)
 『月給は1月40円程度受け取った。送金は1回に20円送ることもあれば、逃亡する時に使うのに必要なので貯めて置くこともあった。(略)炭鉱を出るとき600円もらって出てきたのに300円を誰かに貸して300円だけ持って来た』(李七星゠仮名゠の証言)
 『賃金は月15円ぐらいだった。送金は15円ぐらい人に頼んで送ってもらった。送金が着いたかどうか帰ってから聞いたが受け取っていた』(宗甲奎の証言)
 『賃金はもらっていない、ほんの少し貰った。送金はしなかった』(李興淳の証言)
 『賃金は貰わない。マッコリーいっぱいにもならない額だった。動員された時、賃金については説明されていたかどうかわからない。炭鉱に行くと言うことは聞いていた。(略)家への送金は寮長が送ると言っていたが、帰国後家族に聞くと誰も受け取っていないと言っていた』(金炳龍の証言)
 まちまちな話で、実態がわかりにくい。
 常磐炭鉱で採炭を行った入山採炭株式会社の賃金について、長沢秀はこう書いている。
 『朝鮮人採炭夫の場合には1日の賃金が1円80銭から1円60銭になり、1か月に20日間働けば月給は36円から32円にはなった。しかし、この月給から食費、所得税・厚生年金保証料・作業服代、地下足袋代・雑費などが差し引かれたのである。さらにこの残金から炭鉱会社内部の糧植(購買所)での伝票(通帳)を使っての日常の買物代や会社の強制社内貯金が差し引かれていたので、朝鮮人労働者が朝鮮の故郷に送金は全然なかったか、あってもわずかなものだった』(『常盤炭田における朝鮮人労働者について』『駿台史学』第40号)
 朝鮮人労働者は、わずかな小遣い銭以外、現金を持たされなかったのは、逃亡防止のためだったという。また、その賃金は『会社の労務課の寮の係員や寮長がピンハネし、横流しした』(同)こともあったそうである。
 問題が多かったこの常磐炭鉱でも、当時の朝鮮半島では大人気だったようで、『慶尚南道の4つの郡で募集したところ、500名募集のところに10倍の応募があった』(同)とも記されている。
 高給取りだった炭坑夫
 それでは、ほかの炭鉱はどうだったか。
 韓国映画軍艦島』で『地獄島』として描かれた長崎県端島について、朝鮮人坑夫は、こう語っている。
 『私共の仲間のうちには1年に1,000円位の貯金をする者はザラにあります』(『長崎日日新聞』1941年3月1日)
 福岡県嘉穂郡の明治炭鉱株式会社の朝鮮人募集要項には、日割りで4円、高い人で7円、最低3円とある。
 また『聯合会加盟炭鉱移入朝鮮人坑夫就業状況調』(1939年11月25日)には、採炭夫は1日平均4.6円で、機械夫になると平均が日当で3.24円に下がり、また工事夫になると2.97円とある。
 当時の巡査の初任給は45円だった。また会社の事務職は75円程度だ。常磐炭鉱を別にすれば、炭鉱では月収100円前後になるから、当時としては高級だったと言ってよい。
 ただし、炭鉱の労働環境は悪かった。戦時経済の無理な増産体制の中で、ガス爆発や落盤など事故が多発し、採炭は極めて危険な仕事だった。また日本人男性が戦地に赴く中、朝鮮人は炭鉱の貴重な労働力だった。このため高額の賃金が用意されたのである。
 ちなみに炭鉱でなく、広島の東洋工業で徴用工として働いた鄭忠海の『朝鮮人徴用工の手記』(河出出版)では、月収140円と記載されている。これもかなりの高額である。
 炭鉱会社の給与台帳などを見ると、賃金は職能給がほとんどで、朝鮮人徴用工にも日本人徴用工にも、平等に支払われていた。日払いのところもあったが、大手は翌月払いが主流だった。
 そして強制貯金の制度も各地で見られた。それは『逃亡防止』のためでもあったが、せっかく稼いだ給料を賭博でスッてしまう者も多かったからではないか。
 1938年11月26日の『長崎日日新聞』では、長崎県端島炭鉱の12名の朝鮮人炭坑夫が、朝鮮で流行していた花札で一勝負につき10銭の賭博を開帳し、二百数十回にわたり勝負をして、検挙されたことが報じられている。
 三菱の佐渡金山で、朝鮮人労務者の通訳だった人物への聞き取りでは、
 『当時、若くて血気盛んな半島出身の徴用工たちは、博打が好きで、勝った者はよいが、負けた者は家族への仕送りもできなくなり、あとで問題となるので、度々、博打狩りをやっていた』
 と語っていた。
 賃金持ち逃げ
 支払い方法は、三菱端島炭坑なら個々の労務者が、給料日には判を持ち、列に並んで給料を受け取りに行ったが、労務動員者の場合、一団に朝鮮人班長がいて、班の給料をまとめて受け取り、班長が各人に配布することが多かった。
 この仕組みが、各地の炭鉱、金属鉱山でしばしば問題を生じさせている。例えば、日本文化自由委員会発行『自由の旗のもとに』の創刊号(1952年9月)に、『現炭労委員長田中章伝』と題する記事がある。
 田中章委員長は、戦前の名前を田中長求と言い、樺太石油株式会社内淵鉱業所へ朝鮮の大邱地区から働きに来た100名の朝鮮人徴用工の一人だった。彼は自分の班の徴用工の賃金を一括送金する責任者だったが、徴用工の一人が落盤事故で亡くなり、その兄が遺骨の受け取りにやってくると、長求が賃金の一部を送っていないことが露見した。寮長が問い詰めると田中はあっさり白状して、みなにボコボコに殴られたという。ちなみにこの人物、戦後に勤労奉仕を金銭で賠償しろと会社に迫り、朝鮮人の英雄として再評価されている。
 また、秋田朝鮮総連支部長の李又鳳は『花岡鉱山の思い出』の中で、
 『橘寮の寮長が皆の通帳と印鑑を持って姿を眩まし大騒ぎになった』(『在日一世が語る 日帝36年間 朝鮮民族に涙の乾く日はなかった』『在日一世が語る』出版会)
 と書いている。そして会社から、
 『すでに寮長に金を払ってあるから、二重に払うことはできない。今会社の方でも警察の方でも犯人を手配して捜している。(略)少し日にちをくれ』
 と、言われた李たちは、
 『朝鮮人は解放されたわけだから、国際的問題である』(同前)
 と、GHQに訴えた。
 その結果、秋田県知事に、会社から一人1,000円、衣類一式(毛布、下着、シャツ、上下の服、靴、オーバー)を出すよう命令が下ったのだ。
 こうした朝鮮人班長による着服が常態化していれば、『未払い賃金』の一因にはなったであろう。
 日本政府は、冒頭にも紹介した『朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ニ関スル件』で次のような方針を通達していた。
 『2,帰鮮せしむる迄は、現在の事業主をして引続き雇傭せしめ置き、給与は概ね従来通りと為すべきも、8月15日以降差当り左の如く措置すること。
 ……
 (今後の状勢に依り、右休業手当の支給に要する費用に就いては、国家賠償の途を講ずることあるべきこと)』
 小遣い程度の現金を本人に手渡し、残りは本人名義の貯金を事業主が保管、帰国の際に金は必ず本人に渡す。しかも休業補償をするともある、かなり手厚い措置である。
 しかしながら、戦後の混乱期である。貯金が本人に手渡されたのかどうかはわからないし、急いで帰国した者には通帳が渡らなかったケースもあるだろう。また契約途中で逃亡し、居所のわからない者もいただろうし、空襲で亡くなった人もいるだろう。そうした『未払い賃金』は確かにある。
 ではそれはそのままなおざりにされたのか。否、そうではなかった。未払い賃金は企業から公的機関などに供託されたのである。そして、その供託先のリストがあったのだ。」
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 敗戦後から朝鮮戦争までの5年間、日本共産党や部落解放運動の幹部は日本人であったが、現場で積極的に反天皇反民族反日の人民革命の活動やデモ、暴動や騒動を行っていた一般党員の大半が在日本朝鮮人であった。
 帰還せず日本に留まった約60万人の在日本朝鮮人は、根っからの反天皇反日であった。
 GHQは、マッカーサー天皇を利用して間接的占領統治を行うという基本方針から、天皇制度打倒の共産主義支援を放棄し、天皇擁護の為に共産主義勢力への抑圧・弾圧を強めた。
 ここに、レーニンスターリンが目指した天皇制打倒の8月革命・敗戦革命は失敗に終わった。
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 もし、この時反天皇反民族反日本の日本人共産主義者在日朝鮮人ソ連中国共産党・国際共産主義勢力の力を借りて一斉蜂起したら、アメリカ軍が介入しても天皇制度国家日本を守り切れずに崩壊・消滅したかもしれない。
 それは、日本が古代から朝鮮半島勢力を恐れていた事で、それ故に帰化人を味方にし、渡来人を嫌って東国へ追放していた。
 歴史的事実として、渡来人達は天皇や朝廷に反旗を翻し反乱や暴動を繰り返していた。
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 ソ連中国共産党・国際共産主義勢力は、70年保安騒動まで日本共産党、日本人共産主義者、過激派らに革命資金や武器弾薬を送っていた。
 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 敗戦後の日本人共産主義者は、教育や新聞・出版・放送などのメディアに深く食い込み、学生に戦後民主主義教育としてマルクス・レーニン主義共産主義を教えて大量に革命戦士を育て、日本に反天皇反民族反日本を広めた。
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 日本人にとって朝鮮人は、友・友人、親友でも戦友でもなく明らかに敵であった。
 二等国民の朝鮮人は、天皇に忠誠を誓い命を捧げる日本軍(皇軍)の兵士にはなれず、賃金目的の労働者・徴用工になって重労働に従事していた。
 つまり、日本人は多勢に無勢でも踏みとどまって全滅するまで戦ったが、朝鮮人は負けると分かるや武器を捨て戦場から逃げ出したからである。
 朝鮮人は、欧米など外国に旅行する時は、日本国のパスポートを持ち、旅行先では日本人として日本人と同じサービスを受け、滞在先の政府から日本人と同じ保護が受けられた。
 朝鮮人は海外で日本国パスポートを持っていれば、ユダヤ人のような差別を受ける事はなかった。
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 歴史的事実として、日本にとって朝鮮は敵であり、朝鮮との間に友好関係や善隣関係などなく、疫病神として嫌い国交を拒絶していた。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 歴史的事実として、古代から、日本は被害者であり、中国や朝鮮は加害者であった。
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 日本の戦争は、外国からの日本侵略と天皇殺害に対する合法的正当防衛としての積極的自衛戦争であった。
 自衛とは、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、アメリカの軍事侵略、ソ連コミンテルン中国共産党によるイデオロギー侵略であった。
 そして、日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストによる昭和天皇と皇族の暗殺失敗と、大陸系渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)による第32代崇峻天皇を暗殺である。
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 日本民族にとって、中国人と朝鮮人天皇殺し・神殺し・仏殺しの、冒してはならい穢してはならない尊き存在に対する「畏れ」を知らない、バチ当たりな、心が穢れた非人間であった。
 例えれば、イエス・キリストを殺したユダヤ人である。
 それ故に、日本は中国と朝鮮に対して偏見を持ち差別してきた。
 ユダヤ人のイエス・キリスト殺しは、聖書における信仰宗教であった。
 渡来人(外国人移民)の第32代崇峻天皇暗殺は、歴史的事実である。
 日本民族は、命を捨てても天皇を助け皇室を護ろうとするが、決して天皇を殺し皇室を滅ぼそうとはしない。
 歴史的事実として、権力闘争・政争で、天皇に即位する前の皇族は殺害され天皇を退位した上皇法皇島流しにあったが、日本民族日本人によって殺された天皇は誰もいない。
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 古代から北九州や西中国地方には、日本天皇への忠誠を拒絶し反旗を翻し日本国から独立する為に、中国大陸や朝鮮半島の敵日勢力と手を組み軍事支援を得て天皇に対して反乱を起こそうと企む反ヤマト王権勢力が存在していた。
 ヤマト王権は、国内外に数多くの敵と戦いながら日本統一を行い、天皇の下で日本を一つにまとめいた。
 天皇制度国家日本を取り巻く環境は、昔も現代も同じで、むしろ現代の方が悪化している。
 日本は、古代と同じように中国(中国共産党)、韓国・北朝鮮そしてそこに現代ではロシアが加わった4か国対日包囲網の中に存在している。
 そして、国内外に反天皇反民族反日的日本人達が暗躍している、彼らはマルクス主義者(共産主義者)とキリスト教徒、その他である。
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 親日・知日は、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海
 反日・敵日・侮日は、統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国、韓国・北朝鮮
 韓国は反日派・侮日派であり、北朝鮮は敵日派・嫌日派である。
 日本人にとって朝鮮人とは、信用・信頼できる友・友人ではなく、頼もしい親友ではなく、命を預けて共の戦って生きる戦友でもなかった。
 いつ何時、寝首を掻きに来るか判らない、安心しているといきなり後ろから突然襲ってくる、油断も隙もない敵であった。
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 日本に逃れてきた朝鮮半島の難民や移民達には、帰化人と渡来人の二種類がいた。
 帰化人は、天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いた。
 渡来人は、天皇への忠誠を拒否し、日本国の為ではなく自分の利益の為に働いた。
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 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
 渡来人の中国人や朝鮮人には、皇室に対する畏れはなく、天皇や皇族を殺す事に罪悪感はなかった。
 日本人の朝鮮人や中国人に対する偏見や差別はここから始まっている。
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 663年 唐は、白村江で日本軍を破り、日本侵略の為に山東半島などに大船団を終結させた。
 愛国者大伴部博麻は、白村江の戦いで捕虜となって唐に連れて行かれ、唐軍の日本侵略情報を日本に知らせる為に自分を奴隷に売って資金を作り、唐に残っていた遣唐使に渡して急ぎ帰国させた。
 天智天皇は、唐軍の侵略に備えて北九州から瀬戸内海にかけて水城(みずき)を築き、全国から防人を集めて配置し、万全な防備体制を固めた。
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 668年 草薙剣盗難事件。新羅の僧沙門道行は、尾張熱田神宮に祀られた御神体である「草薙剣」(三種の神器の一つ)を盗んで新羅に逃げ帰ろうとした所を捕らえられた。
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 672年 壬申の乱天武天皇の反唐派(反中派)・保守派は、近江朝廷を滅ぼし、大友皇子を自害に追い込み(追謚・弘文天皇)、親唐派(親中派)を政治の中枢から追放した。
 「大友王子とその周辺の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていた近江朝廷は、急速に親唐外交路線へと傾斜していき、対新羅戦用の徴兵を急いだ」(倉本一宏『内戦の日本古代史』、講談社
 生き残った親唐派(親中派)の日本人や渡来人達は、地方ヘと逃げて土着した。
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 668年~780年 新羅は、朝貢の為に遣日本使を30回以上送った。
 新羅は、対唐(中国)政策として日本天皇に臣下の礼をとって忠誠を誓ったが、それは本心ではなくウソであった。
 つまり、朝鮮半島には信用・信頼、信義・道義など存在しない。
 日本にとって朝鮮は、親日・知日ではなく友・友人、親友、戦友にもならず、反日・敵日・侮日として油断も隙もない恐ろしい「寝首を掻きにくる敵」であった。
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 724年~749年 聖武天皇の御代では、日本各地で自然災害と西国で反乱が多発し、夥しい人々が犠牲となった。
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 764年 藤原仲麻呂の乱帰化人対渡来人の攻防。
 親唐派の藤原仲麻呂は、新羅討伐を計画して軍備を整えていた。
 孝謙上皇(女帝)は、唐から帰国した吉備真備坂上氏など帰化人軍事勢力らと図って藤原仲麻呂を滅ぼした。
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 811(弘仁2)年 弘仁新羅の賊。新羅船3隻は、新羅海賊船団20隻以上を手引きして対馬を襲撃した。
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 813年 第52代嵯峨天皇新羅の漁民と海賊の船団110人は、肥前の五島などに上陸して襲撃し、島民100人以上を殺害し、日本人を拉致して行った。
 五島の島民は、新羅人9名を殺し、多くを捕らえて役所に突き出した。
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 820年 弘仁新羅の乱。東国・関東には半島から逃げて来た移民・難民が多数住んでいた。
 天皇への忠誠を拒否した新羅系渡来人700人以上は、駿河遠江の2カ国で分離独立の反乱を起こした。
 が計画的な反乱ではなかったので、朝鮮半島の統一新羅は動かず日本を侵略しなかった。
 同様に、日本各地に定住していた新羅系渡来人や百済帰化人・高句麗帰化人も反乱に同調せず、日本を揺るがす内乱・内戦に発展しなかった。
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 869年 貞観の入寇。新羅の海賊。
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 870年 太宰少弐・藤原元利麻呂は、「新羅と通謀して謀反を企てている」との告発で捕縛された。
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 893(寛平5年)および894年 寛平の韓寇。新羅の海賊は熊本、長崎、壱岐対馬を侵略。
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 898年と899年に、大規模な反天皇武装蜂起を起こした。さらに各地で、幾つかの反日暴動を起こしていた。
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 906年 延喜の新羅の賊。
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 935年 統一新羅は、高麗の王建によって滅ぼされた。
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 997(長徳3)年 長徳の入寇。高麗の海賊の侵略。
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 1019年 刀伊の入寇満州騎馬民族女真族による北九州侵略。
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 文永の役(1274年)と弘安の役(1281年) 元寇。元(中国)・高麗・旧南宋連合軍による日本侵略。
 高麗軍は、日本人を虐殺し、子供約300人を強制連行し戦利品として忠烈王に献上した。
 日本人の子供たちは奴隷にされ、生きて日本に帰る事はなく異国で死んだ。
 捕らえた捕虜で、元南宋人(中国人)は助けたが、蒙古人や高麗人は殺した。
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 虐殺から生き残った対馬壱岐・北九州の住民は復讐で怒り狂い、前期倭寇となって報復として高麗(朝鮮)や元・明(中国)を荒らし回り殺害・強奪・強制連行を行った。
 前期倭寇が行った残虐行為は、「目には目を、歯には歯を」の「相手の仕打ちに対して同様の仕打ちで対応する」という合法的正当行為であった。
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 1392年 李成桂は、主君の高麗王を裏切って殺害し、高麗王族を根絶やしにする為に女子供まで容赦なく虐殺して、主家の高麗王朝を滅ぼして半島を統一した。
 李成桂は、明帝皇帝に臣下を誓い、明国の属国になり、半島に於ける正当な唯一の支配者・統治者と認められ、その証として「朝鮮」という国名と民族名を下賜された。
 この後、独立国君主でない朝鮮国王は、新たに国王に即位する為には明国皇帝からの認可が必要とされ、明国からの皇帝勅使一行を王都の城門前まで出向き土下座して迎えた。
 朝鮮の小中華思想では、中華皇帝によって正当性を認められた朝鮮人を上位者とし、正当性を認められていない日本人を下位者とし、その偏見で日本人を野蛮人と軽蔑し見下して差別した。
 歴史的事実として、人種・民族・部族に対する偏見・軽蔑・差別・迫害・弾圧・虐殺において、最も激しいのは中国であり、次ぎに朝鮮で、日本は東アジアで最も少ない。
 朝鮮人や中国人は、性悪説として、気が強く傲慢で、嘘をつき人をよく騙す。
 日本人は、性善説で、気が弱くお人好しで、嘘をつかず人に騙されやすい。
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 1419年 応永の外寇世宗大王李氏朝鮮軍による対馬侵略。
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 後期倭寇は、対馬壱岐・北九州などに拠点を持っていたが、日本人は1割以下で、大半が中国人・朝鮮人南蛮人であった。
 日本人は、大陸や東南アジアとの正当な合法的交易で利益を上げていて、人が嫌う危険な海賊行為=倭寇で荒稼ぎするほど物好きではなかった。
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 歴史的事実として、日本国内には中国や朝鮮のような血に飢えた盗賊・野盗・山賊・海賊のような兇悪な犯罪集団は少なかった。
 黒沢明監督の映画「七人の侍」の世界が日本の乱世であった。
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