🎶15:─2─中国共産党の原点は幸徳秋水の日本語訳「共産党宣言」であった。~No.32No.33 ④ 

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 中国共産党が結党できたのは日本の御陰である。
 そして、孫文辛亥革命中国国民党そして魯迅らによる中国近代文学も日本のお陰である。
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 2022年5月8日 読売新聞「広角多角
 国際部主任 山下福太郎
 誤植から始まった中国『マルクス熱』
 
 1848年 共産党宣言マルクスエンゲルスがドイツ語で発行
 1864年 資本論マルクスがドイツ語で発刊 初版1,000部
 1904年 共産党宣言。幸徳らの日本語版。
 1920年 共産党宣言。陳望道が中国で初めて中国語に全訳 初版1,000部
 2016年 資本論。中国・南京の富豪が2億円前後で購入か

 古書の世界は、『著者の人気』『初版』『誤植』が価値を高めるという。そんな3つの要素を満たす1冊が、中国・上海の巨大図書館に所蔵されている。
 『共党産宣言』
 初めて中国語に全訳し、同国で書籍化された初版。よりにもよって原作者カール・マルクスの肖像が載った表紙のタイトルで、『産』と『党』の順序を逆に表記した。翌月、第2版を出し『共産党』と修正する。1920年8月。中国共産党の結成前年の逸話である。
 1,000部刷られた初版は、日本と国民党との戦禍、文化大革命など激動の1世紀を経て12部が現存する。その価値を国宝級に高めたのは誤植や希少性だけが理由ではない。建国の父、毛沢東は自身の思想に影響を与えた3冊の中に、この初版本を挙げたと伝わる。同図書館はHPで、『党の創立とマルクス主義の普及に積極的かつ多大な影響を及ぼした』と解説している。

 世紀の誤植に至る過程で、実は日本が小さくない役割を果たす。初版を訳した言語学者の陳望道は15~19年に日本へ留学し、大逆事件で処刑された幸徳秋水らが日本語に翻訳した『共産党宣言』に出会う。帰国の翌年、この日本語版を主たる〝底本〟にして中国語版を完成する。陳が用いた単語の多くは幸徳版と一致しているという。
 2000年を超える日中交流の歴史で、日本の漢字の語彙の7割は中国伝来だが、近現代に限れば中国で使われる社会科学用語の6割は、日本から逆輸入したとの研究がある。誤植が生じた『共産党』や、『資本主義』もその一語とされる。
 同様に、マルクス主義や民主主義といった思想、技術や文化も、清朝末期頃、陳のような数万人の日本への留学生を通じて中国に広がる。東北大の大村泉名誉教授(マルクス経済学)は、『明治維新後、アジアでいち早く近代化した日本は、とりわけ漢字文化を共有する中国に対し、西洋との媒介役になった』と評する。
 
 だが、中国ではそうした歴史はあまり積極的に広播(こうは)させていない。『中国共産党』に、幸徳や日本が名実ともの影響を与えたとなれば正統性が揺らぐとの懸念があるのだろう。
 日本は、マルクスのもう一つの代表作『資本論』とも縁が深い。その初版は『共産党宣言』誕生の19年後、マルクスの母国ドイツで1,000部発行された。世界で現存する100部前後のうち半数は日本にある。第一次大戦後、マルクスブームに沸く日本の経済学者や思想からは、ハイパーインフレ下の敗戦国ドイツに渡り、格安で買い集めたという。
 それから1世紀、世界の古書市場で『資本論』が高騰している。初版の取引価格は、1988年の約900万円から2016年には最高で2億円前後に跳ね上がった。ソ連が崩壊し、万国の労働者たちのマルクス離れが進んだ今、中国がほぼ唯一の買い手となる。大学や研究機関、富豪らがその中心で、現在、同国で10部が保有されている。
 中国マネーの力に加え、生誕に200年にたる18年は当地マルクスブームが起きた。『習近平国家主席マルクス礼賛の姿勢を強めている影響もある』と、大村氏は考える。

 マルクス草稿の翻訳・編集を手がける大村氏は1998年からほぼ毎年、中国側の招へいで資本論について講演している。初版や草稿への関心が高い割には内容に関する知識が少ないことに驚かされるという。
 政治的には一党独裁を強める一方、格差是正や平等を掲げた『宣言』『資本論』とはほど遠い自由経済を享受する──。本来、経済理論にすぎない古書の爆買いは、国家体制の矛盾を一段と浮き彫りにしている。」
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 世界大百科事典 第2版「陳望道」の解説
 ちんぼうどう【陳望道 Chén Wàng dào】
 1890‐1977
 中国の学者,政治家。浙江省金華県人。1919年中国で初めて《共産党宣言》を翻訳した(署名陳仏突)。日本の早稲田大学東洋大学で文学,社会学を学び,帰国後《民国日報》《新青年》などを編集,復旦大学中国文学系主任などを経て,新中国成立後,復旦大学校長,民主同盟中央委員,全国人民代表大会上海代表,科学院哲学社会科学部委員などを歴任した。修辞学における業績《修辞学発凡》のほか,訳書に《社会意識学大綱》《美術概論》などがある。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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 中国共産党100周年を祝う-オンラインで習主席と会見   
 軽井沢日中友好協会 会長 佐藤敬
 昨年7月6日、中国共産党創立100周年を記念して、未来に向けて各国の人民の幸福を進める政党と団体のサミットが習主席も出席されてオンラインで開かれました。以前、日本で最初に翻訳された「共産党宣言」(幸徳秋水訳=「社会主義研究(第1号)」=発禁に掲載、60年ほど前にたまたま入手した極貴重なもの)を中国側に寄贈した縁で、私に声がかかり参加させていただきました。150か国から大統領・首相及び各国の各種民間組織代表らが参加しました。日本からは軽井沢日中会長の私ということになり、軽井沢内のクラブハウス会議室から参加しました。当日20時30分(北京時間)習主席が10分間「これからの時代の人民の幸福と世界の平和に向けて」の問題提起があり、21か国の大統領・首相が発言し、民間組織の代表は文書で意思表示しました。代表の発言は順不同で、終わったのは7日2時となっていましたが、習主席は静かに発言を聞きつづけていました。
 私は書面で次のように発言しました。
 ―アジアの歴史を学ぶ一人として、100年前の中国の実情並びに人民の生活の実態と、今日の中国における経済力量と人民の豊かな生活水準を比較すると、実に数学的係数では表すことのできないほどの高い水準にまで充実し、しかも安定しています。このことは中国共産党創建時の初心が「人民の幸福をはかる」こと、その使命は「中華民族の偉大な復興」におき、時代に応じ政策に変化ができた「特色ある社会主義」思想であり、常に初心の基軸を変えず、多数の人民の福祉拡充の政策を推し進めたことが14億人民の強い信頼を得たと考えます。なるがゆえに結党わずか28年で「中華人民共和国」を成立した歴史的必然性が証明します。結党100年を迎えた節目の今日、そして明日から未来に向けて中国の夢を経済・政治・文化・社会等の多面的な課題にわたり発展安定するために中国共産党に高度な政策立案能力と指導が強く求められることになります。中華人共和国の恒久平和を基軸とした発展を全世界各国の人民が期待しています。
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 ウィキペディア
 陳望道(ちん ぼうどう、1891年1月18日 - 1977年10月29日)は、中国の言語学者、修辞学者、教育者。早い時期からの中国共産党員であり、「共産党宣言」を中国語に翻訳した人として知られる。
 生涯と業績
 陳望道は浙江省義烏に生まれ、16歳まで私塾で伝統的な教育を受けた後、近代的な小学校にはいり直し、キリスト教系の之江大学に学んだ。
 1915年に日本に留学し、早稲田大学東洋大学中央大学で学んだ。中央大学の法学士の学位を得た。早稲田大学では五十嵐力に修辞学を学んだ。
 1919年5月に帰国し、杭州の浙江第一師範学校で国文を教えた。この時代には句読点の改良を主張し、新式標点の採用を訴えた。
 翌1920年5月には陳独秀の求めに応じて上海に移り、中国共産党の前身であるマルクス主義研究会と共産主義青年団の創立にかかわった。また『新青年』の編集にも加わり、12月からは陳独秀にかわって編集長になった。1922年には文学研究会に参加した。
 1920年8月に「共産党宣言」を中国語に翻訳し、上海で出版した。この翻訳は日本語訳からの重訳だったが、多くの版を重ねた。
 1920年9月から陳望道は復旦大学の中文系で教え、また陳独秀が1922年に開校した上海大学(同名の今の大学とは別)でも教えた。上海クーデターで上海大学が廃校になると、中華芸術大学に移ったが、1930年に中華芸術大学も廃校になった。
 陳望道は多才であり、1926年に『美学概論』、1930年に『因明学』を出版している。
 1932年に『修辞学発凡』を自ら創立した大江書舗から出版した。この書物は中国最初の科学的な修辞学の書物として評価が高く、文法学における『馬氏文通』に比される。
 その後、1933年から安徽大学、1935年から広西大学で教えた。1934年には陳子展・胡愈之・葉紹鈞・茅盾らと大衆語運動を起こした。
 日中戦争がはじまると上海に戻って共産党の地下活動を行う一方、ラテン化新文字を支持する運動を行った。1939年からは重慶疎開していた復旦大学で教えた。この時期には中国語文法理論の改革に関する多くの論文を発表しており、1943年に多数の作者による論文集『中国文法革新論叢』を編集出版した。
 戦後は上海に戻った。中華人民共和国成立後、1952年には復旦大学の校長に就任し、没するまでその職にあった。
 1960年に舒新城が没すると、『辞海』編集長の任務を引き継いだ。1965年に『辞海』の未定稿版を内部出版するが、文化大革命が勃発したため、実際に出版されたのは陳望道の没後だった。文化大革命では周恩来が積極的に陳望道を保護した結果、あまりひどい暴行を受けずにすんだという。
 最晩年に書かれた『文法簡論』は、没後の1978年に出版された。
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