💢84:─1─対ロシアに結束対応=日フィンランド首脳会談。親日派フィンランド。~No.355No.356No.357 

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 フィンランド親日派なのは、ロシアやソ連と戦った好戦的な戦前の日本であって、平和憲法で戦争を放棄している現代の日本ではない。
 好かれて尊敬されている日本人とは、現代日本人ではなく昔の日本帝国軍人であった。
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 2022年5月11日20:03 MicrosoftNews 時事通信「対ロシアに結束対応=日フィンランド首脳
 © 時事通信 提供 共同記者発表に臨む岸田文雄首相(右)とフィンランドのマリン首相=11日午後、首相官邸
 岸田文雄首相は11日、フィンランドのマリン首相と首相官邸で会談した。両首脳は、ウクライナ侵攻を続けるロシアに結束して対応する方針を確認。覇権主義的な動きを強める中国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」実現をめぐっても意見を交わした。
 岸田氏は会談で、「ロシアによるウクライナ侵略は欧州のみならずアジアを含む国際秩序の根幹を揺るがす行為だ」と指摘。「欧州とインド太平洋の安全保障は不可分であり、力による一方的な現状変更は世界のどこであっても許されない」と結束を呼び掛けた。」
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 5月11日21:47 MicrosoftNews KYODONEWS 共同通信「対ロシア、毅然対応を継続で一致 日フィンランド首脳会談
 © KYODONEWS 首脳会談を終え、共同記者発表で握手するフィンランドのマリン首相(左)と岸田首相=11日午後、首相官邸
 岸田文雄首相とフィンランドのマリン首相は11日、官邸で会談し、ロシアによるウクライナ侵攻を強く非難し、普遍的価値を共有する国々で結束して毅然とした対応を継続する方針で一致した。科学技術分野の協力推進も確認。中国の台頭を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」実現への連携を申し合わせた。マリン氏は北大西洋条約機構NATO)加盟を申請する可能性があると岸田首相に伝えた。
 岸田首相は共同記者発表で「世界はロシアによる非道な侵略を終わらせ、平和秩序を守るための正念場を迎えている」と強調した。 フィンランドはロシアと約1300キロにわたり国境を接する。」
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 5月11日19:37 MicrosoftNews 毎日新聞「「侵攻を容認すれば、誤った含意与える」 22年版防衛白書素案
 © 毎日新聞 提供
 防衛省=東京都新宿区で、小川昌宏撮影
 防衛省がまとめた2022年版防衛白書の素案が11日、判明した。ロシアの軍事動向を「懸念を持って注視」するとし、ウクライナ侵攻に関する章を新設。「侵略を容認すれば、他の地域でも一方的な現状変更が認められるとの誤った含意を与えかねない」との文言を盛り込む。7月にも閣議で報告し、公表する。
 22年版の防衛白書には他に、台湾を巡る国際情勢▽科学技術の発展が安全保障に与える影響▽国家安全保障戦略の改定▽経済安全保障の取り組み--などに関する記述を新たに加える。ロシアのウクライナ侵攻については「ロシアの国際的な影響力や周辺地域との軍事バランス、中国との軍事協力に変化が生じる可能性」があるとし「米中の戦略的競争の展開を含め、グローバルな国際情勢にも影響を与え得る」と分析した。
 ウクライナ情勢や北朝鮮の核・ミサイル開発については、5月以降の動向も盛り込む予定だ。【川口峻】」
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 5月12日5 時間前 MicrosoftNews 共同通信「自民、9条の優先議論主張 立民「改憲ありきは反対」
 © KYODONEWS
 開催された衆院憲法審査会=12日午前、国会
 衆院憲法審査会が12日に行った討議で、9条を含む安全保障の議論の在り方が論点となった。自民党新藤義孝氏は党憲法改正案4項目に盛り込んだ9条への自衛隊明記の意義を訴え、憲法審で安保に関する議論を優先的に進めるべきだと主張した。立憲民主党奥野総一郎氏は臨時国会の召集義務などを挙げ「さまざまな論点がある。9条改憲ありきには断固として反対する」と述べた。
 新藤氏は、国の最大の責務は国民の生命や領土を守ることだと指摘。「最も根幹的な国防規定について議論し、憲法に反映させることは、緊急事態条項の整備と併せて最優先で取り組むべき課題だ」と強調した。]
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 日本陸軍の、多数派・主流派はポーランド派であって、ドイツ派は少数派・非主流派であった。
 日本陸軍ユーラシア大陸横断戦略とは、ロシア・ソ連共産主義勢力を共通の敵とする、大日本帝国満州国、モンゴル、ウイグル中央アジア、トルコ、ポーランド、北欧、フィンランドに至る人種・民族・部族、宗教、文化、言語、イデオロギー、その他、有りと有らゆるわだかまりを超えた大同団結としての反共長城構想である。
 盟主は、天皇制度国家日本であった。
 反共長城を繫ぎ止める重要なカギは、宗教であった。
 反共産主義大同盟・防共同盟に参加する宗教は、神道、仏教、イスラム教、ロシア正教カトリック教、プロテスタント、その他であった。
 そこには、ナチス・ドイツファシスト・イタリアなどのファシスト諸国とアメリカやイギリスなどの自由・民主主義諸国は加わっていない。
 スターリンソ連ボルシェビキヒトラーナチスドイツ・ナチズム、ムッソリーニファシストイタリア・ファシズム三者イデオロギーは、同じマルクス主義である。
 バチカンは、反共産主義の立場から満州国を承認していた。
 軍国日本のイデオロギーは、軍国主義であってファシズムはなかった。
 日本陸軍の「防共回廊」構想を潰したのは、アメリカとイギリスであった。
 何故か、アメリカは裏でソ連共産主義勢力とつながっていたからであり、イギリスはインドや中東・パレスチナのなど植民地を守る為であった。
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 近代的軍国日本の戦争とは、数千年前の弥生時代古墳時代からの天皇を中心とした国體を死守する為の積極的自衛戦争であった。
 国體には、数万年前の石器時代縄文時代からの原始的民族神話が深層に流れている。
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 昭和8(1933)年頃から、日本人の共産主義者社会主義者から大量の転向が続出し、日本共産党治安維持法による弾圧で壊滅状態に追い込まれ、過激分子は地下に潜って反天皇反民族反日運動を続けた。
 転向を拒否した日本共産党幹部は、逮捕されて収監されるか、中国に亡命しソ連アメリカの支援を受けた。
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 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に狙っていた。
 日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
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 1930年代後半 極左組織フランクフルト学派の哲学者達はナチス・ドイツの弾圧を逃れてアメリカに亡命した。
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 2014年10月1日 Zzakzak dy 夕刊フジ「【賞賛されていた陸海軍 知られざる日本】北欧の親日フィンランド 日露戦争の勝利が独立の精神的支柱に
 フィンランドスオメンリンナ島に保存されている日本製120ミリ砲【拡大】
 フィンランドの対日感情はすこぶるいい。1917年までロシア帝国の統治下にあった同国にとって、日露戦争(1904-05年)での日本の大勝利は、国民を熱狂させ、独立への精神的支柱となり、日本に畏敬の念を抱かせたのだ。
 パーシキビ元大統領は次のようにつづっている。
 「私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着したとき、友人が私の部屋に飛び込んできた。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した」(名越二荒之助=ふたらのすけ=著『世界に生きる日本の心』展転社)。
 日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃ち破った東郷平八郎提督はフィンランドで英雄としてたたえられ、「東郷ビール」が生まれたのだ。
 当時日本を訪れたフィンランド独立運動家、コンニ・ジリアスクは、日露戦争の情報戦で活躍した明石元二郎大佐と出会った。これを機に、日本の対フィンランド経済支援が開始(05年)された。そして、多くの日本製兵器がフィンランドに送られた。
 世界遺産にも登録されているスオメンリンナ島(要塞群)には日本製の120ミリ砲が保存されている。大砲には「明治参拾壱(1898)年」「呉海軍造兵廠」と刻印されており、説明書にはこう記されている。
 《この大砲は後のソ連との『冬戦争』最中の1939年12月6日に162発を撃ってソ連軍の攻撃を撃退した。そして、その後も活躍し、1940年2月19日の戦闘で砲身にクラック(ひび)が入ったが、それでもなお照準器なしで撃ち続けて敵を粉砕した。射撃弾数は648発に達した》
 その他にも、首都のヘルシンキ市内の軍事博物館には、日本の「三十三年式小銃」や「騎兵銃」なども展示されており、多くの日本製兵器がフィンランド軍で使われていたことがよく分かる。
 「親日国家・フィンランド」の近現代史は、宿敵・ソ連(ロシア)との戦いの歴史でもあった。前出の「冬戦争」でフィンランド軍を指揮し、ソ連の支援を受けた赤軍を撃ち破ったのがカール・グスタフ・エミール・マンネルハイム将軍だ。同将軍は第2次大戦でも軍総司令官として祖国を守り抜いたが、実は、帝政ロシア時代、ロシア軍の師団長として日露戦争に従軍し、乃木将軍と戦ったというから驚きだ。
 フィンランド人はいまもマンネルハイム将軍を救国の英雄として尊敬している。かつて将軍が暮らしたヘルシンキ市内の住居は現在は博物館となっており、将軍に贈られた日本の勲一等桐花大綬章も展示されている。日本とフィンランドのつながりを知ることができる。
 ■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。著書に『国防の真実』(双葉社)、『尖閣武力衝突』(飛鳥新社)、『日本が戦ってくれて感謝しています-アジアが賞賛する日本とあの戦争』(産経新聞出版)など。
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 ウィキペディア
 日本とフィンランドの関係(日芬関係、フィンランド語: Suomen ja Japanin suhteet、スウェーデン語: Relationer mellan Finland och Japan、英語: Finland–Japan relations)について述べる。
 歴史
 国交樹立100周年を記念する旗を掲揚している駐日フィンランド大使館(2016年)
 最も早い時期に公的な立場で日本を訪問したフィンランド人は、エカチェリーナ2世の命により交易調査のために日本に派遣されたアダム・ラクスマンで、1792年に釧路に上陸した。次いで、1879年に冒険家アドルフ・エリク・ノルデンショルドが北極海航路を通り、横浜港に到達している。国交樹立の約20年前からは、フィンランド人宣教師が日本での活動を行っている。
 1917年に独立宣言を採択したフィンランドは、1919年に日本から独立の承認を得た。日露戦争で実力を示し、コンニ・ジリアクス (Konni Zilliacus) など、フィンランド独立運動活動家に対して支援を行った日本からの承認は、フィンランドにとって大きな意味をもつものであった。まだ自国の外交官がいなかったため、ルードルフ・ホルスティ外務大臣は、外務省外の人材としてアルタイ諸語を専門とするヘルシンキ大学教授のグスターフ・ラムステッドを初代公使に任命した。地政学上ロシア極東部の情勢を把握しやすい位置にあることもあり、日本はアジア諸国のうちフィンランドが常駐使節を送った最初の国となった。ラムステッドはマルセイユから日本へ向かう伊予丸の船中で、ロンドンで購入した書籍や日本人乗客の協力により日本語を学んだ。日本に着く頃には流暢な会話ができ、通訳を依頼する必要がないほどであった。1919年晩秋、築地精養軒ホテルに在外フィンランド公館を開設。1920年5月には麻布の旧アルゼンチン大使館に移転したが、1923年9月の関東大震災により喪失した。
 両国間の貿易が始まったのもこのころであり、1920年代初めには日本の絹製品や陶器がフィンランドで知られるようになる。1930年代にはフィンランドから日本へパルプなどの工業製品の輸出が始まった。
 1920年代半ばにはソビエト連邦極東部の軍事的緊張が緩和したことから、駐日フィンランド外交官の活動は通商・政治に重点を置く。1920年代末になると、日本の軍部に国粋主義が台頭し始めた。1941年からは日本の軍事行動により、フィンランドの外交団は大きな制約を受けることとなる。そして1944年には両国間の国交は断絶した。
 1952年、フィンランド政府と連合国軍最高司令官総司令部との協議により、日本にフィンランドの通商代表を駐留させることに合意。在日フィンランド通商代表部・総領事館と在ヘルシンキ日本国総領事館を開設した。総領事館は1957年に公使館となる。1962年9月26日、ヴィルヨ・アホカス大使が昭和天皇に信任状を捧呈した時点で、公使館は正式に大使館に指定された。
 1977年2月には、ケイヨ・コルホネン (Keijo Korhonen) 外務大臣が日本に初の公式訪問。同年12月には、カレヴィ・ソルサ首相が、日本で開催された社会主義インターナショナルの国際会議に出席した。日本からは1985年に安倍晋太郎外務大臣、同年に皇太子・皇太子妃(当時。令和時代の上皇上皇后)、1987年には当時の内閣総理大臣中曽根康弘フィンランドを公式訪問するなど、交流を深めている。2000年5月には天皇・皇后(当時。令和時代の上皇上皇后)が、オランダ・スウェーデン訪問の際にフィンランドに立ち寄っている。
 2011年の東日本大震災の際には、タルヤ・ハロネン大統領から天皇に宛ててお見舞い表明があったほか、寄付金や物資の支援があった。
 2019年には国交樹立100周年を迎えた。
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