⛅5:─1─琉球王国は第2のハワイ王国であった。アメリカの軍事と宗教を利用した侵略と北太平洋航路。~No.11 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 徳川幕府は、ロシアの侵略から蝦夷地、北方領土、千島列島、対馬を、アメリカとイギリスの侵略から小笠原諸島を守った。
 明治新政府は、沖縄を琉球処分アメリから守った。
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 琉球・沖縄と尖閣諸島は、日本の固有領土であって中国の領土ではない。
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 日本の開国・文明開化・近代化は、江戸時代後期に現実の脅威となった、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本と現人神天皇を守るかという「攘夷」運動から始まっている。
 無宗教無信仰に近い当時の日本人が最も恐れたのは、キリスト教による日本人奴隷交易を公認する宗教侵略であった。
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 アメリカのペリー黒船艦隊は、鎖国で世界から遅れた日本を開国させ文明開化で近代化させて豊かな国にしようという善意・親切心から来日したのではない。
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 アメリカのアジア・太平洋戦略とは、ハワイ王国琉球王国アメリカ領に編入する事であった。
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 2022年6月2日号 週刊新潮「変見自在 高山正之 
 非人道新聞
 イスラム研究家、飯山楊(あかり)の啖呵は歯切れがいい。
 信仰とテロを結びつける昨今のイスラムを『いい宗教だ』と持ち上げる日本人学者どもを『イスラム再考』で存分に叩いている。
 こっちはホメイニ師テヘランにいた。酒も女もダメはしょうがない我慢しても、初潮がきたらさっさと結婚させ、不倫は石で打ち殺すなど理解を超える。
 石田純一を持ち出すのもなんだけど、不倫だって立派な文化だ。
 何より許されないのが『殉教すれば金髪碧眼の処女72人が天国で前を持っている』とか言って、アラブ世界に自爆特攻を流行らせたことだ。
 信仰心をテロに転用するイスラム坊主の姿から目を逸らす学者を許せないのはよく分かる。
 そんな彼女が今度は朝日新聞を両断した。
 ウクライナに侵攻したロシアは『かつて支那朝鮮を侵した日本にそっくり』と論じた部分だ。
 彼女は言う。悪いのはロシアだ。今のウクライナが明日は日本かもしれないときに『論点をすり替え、日本批判に転じる』
 民が惨たらしく殺される衝撃を利用して『自己のイデオロギーがさも正しいかのように主張するのは人道に悖(もと)る行為だ』(産経新聞コラム『新聞に喝』)
 だいたい日本は、糞尿に塗(まみ)れた貧しい朝鮮に砲弾など見舞っていない。逆に学校を建て、鉄道を敷き、電気を灯してやった。
 支那もしかりだ。蔣介石と中共黄河を決壊させ、長沙の街に火を放った。
 黄河では30万人が溺死した。日本軍は決壊箇所を修復し、大小舟艇を出して溺れる民を救った。
 村々を襲って破壊し、略奪するロシアはむしろ蔣介石軍とそっくりだ。白を黒と報道するのはまさに非人道的と言っていい。
 彼女にもう一つ読んでほしいのが沖縄返還50周年の朝日の社説だ。
 執筆は根本清樹だと思うが、まず手垢のついた『沖縄は捨て石』の嘘で始まる。
 捨て石ならだれが特攻機を出すか。だれがあの戦艦大和を片道燃料で発進させるか。
 さらに昭和天皇の『琉球の軍事占領の継続を望む』という昭和22年9月のお言葉を披露する。
 『ほら見ろ、天皇だって沖縄を率先して見捨てているじゃないか』と。
 尤もらしい。しかし歴史を見れば、お言葉の意味は全く逆だ。
 マッカーサーは早々に『沖縄を含む北緯30度以南の島々は日本の行政権から離され、米国の行政権下に入れる』と布告した。
 トルーマンはそれをさらに推し進め、グアム、ハワイと同じに『恒久的に米国領とする』(昭和23年10月)大統領命令を出した。
 太平洋戦略拠点として米国はペリー以来、沖縄に執着してきた。それを知る陛下は『沖縄野米国領編入』に心を痛められた。
 しかし御身はただの象徴にされ、権限もない。でもせめて領有でなく『沖縄を占領のまま』願った。
 それならいつかは日本に戻ってくる。それがこの『占領の継続』というお言葉の意味だ。
 それを故意に悪意にとったのが鬼籍に入った半藤一利だ。彼は天皇マッカーサーの会談で『沖縄をくれてやるから米軍基地を本土からみな持っていけと言った』とまことしやかに書いてきた。
 何の証拠もない、検証もない半藤の妄想を朝日の論説委員が利用して書いたのがこの社説で。
 社説には高等弁務官ポール・キャラウェイが征服王の気分で『沖縄の自治など神話だ』と言ったとある。
 それは嘘だ。彼は沖縄をハワイやグアムより魅力的にしたいとカネと技術と救助を惜しみなく投入した。
 人々は目を輝かせて、街に活気がみなぎるかと思ったが、何も起こらなかった。なぜなら資金はボス連中が懐に入れ、抗生物質など先端医療品は本土に横流しされていた。『自治は神話』はそんな沖縄人への愛想尽かしの言葉だ。
 陛下まで貶める嘘を並べる。彼女でなくとも啖呵の1つも切りたくなる。」
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 アメリカは、支那・アジア交易に参入する為に北太平洋航路開通を推し進めていた。
 北太平洋航路はスペインの独占航路で、スペインの北太平洋航路とはフィリピン⇄メキシコで鎖国日本は海路の目印でしかなかった。
 アメリカが目指す北太平洋航路とは、東海岸⇄大陸横断鉄道⇄西海岸⇄ハワイ⇄小笠原諸島琉球⇄清国(中国)で、日本は北太平洋航路から外れていた。
 アメリカが北太平洋航路開通を侵略という手法で強行したのは、イギリスとの北太平洋航路独占競争に勝つ為であった。
 アメリカの太平洋侵略の足を一時止めたのは、南北戦争であった。
 日本は、南北戦争アメリカの侵略が弱まった好機を逃さず、グラント元大統領の助言に従い琉球王国沖縄県編入した。
 アメリカは、日本領となった琉球を諦め、スペイン領フィリピンを手に入れるべく謀略を仕掛け「嘘」でフィリピン人独立派に接近し味方に付け利用した。
 そこには朝鮮王国など存在しない。
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 世界主要航路である大西洋・インド洋航路は、沈まない大帝国イギリスの植民地や支配地を寄港しなければならなかった。
 大西洋・インド洋航路とは、欧州・イギリス・フランス⇄大西洋⇄南アフリカ⇄インド洋⇄インド⇄シンガポール南シナ海⇄清国(中国)であった。
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 太平洋航路 Trans Pacific Lines
 日米間の太平洋航路は、パシフィック・メール汽船会社によって 1867年1月1日 一番船「コロラド」の出航から始まる。22日後の1月24日横浜到着、そして最終目的地の香港には1月30日到着したのであった。1896年には日本郵船がシアトル航路を、1898年東洋汽船がサンフランシスコ航路を開始して日本船社の参入となった。
 そして、1941年の日米開戦で中断した太平洋航路は、戦後になって復活したものの、戦争中の航空機の技術革新により、太平洋の連絡の役目において客船の活躍は急速に衰退していった。
 図録 横浜港を彩った客船 横浜まりタイムミュージアム 2004年 より
 ダラーラインのポスター及びカナダ太平洋汽船のポスター(戦前)」
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 正しい歴史認識を、昭和天皇は戦前の帝王学で叩き込まれたが、現代の日本人は戦後民主主義教育を受けて皆無どころか歪曲・捏造・改竄された嘘の歴史を真実として信じ込んでいる。
 つまり、酷な事を言えば、現代の日本人は救いようがない。
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 大まかに、私見の偏見で言うと。
 現代日本歴史教育における、江戸時代後期から明治にかけての開国・文明開化・近代化の記述の50%は多分嘘であり、40%近くが疑わしく、本当であろう記述は多分10%ぐらいだと思われる。
 それは、リベラル派や革新派そして保守派が語る歴史でも同じであり、左翼・左派・ネットサハや右翼・右派・ネットウヨ歴史認識でも突き詰めれば似たり寄ったりである。
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2018-05-22
🎵06:07:─1─マリア・ルス号事件。琉球処分岩倉使節団征韓論琉球漂流民殺害事件。台湾出兵。「ヴィクトリア女王」の称号問題。1871年~ No.10No.11No.12No.13・ @ 
2018-05-23
🎵09:10:─1─樺太・北千島交換条約。西南戦争琉球の先島群島支配。グラント元大統領の助言に従い琉球王国沖縄県編入した。1875年~No.18No.19No.20No.21・ @ 
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ハワイ王国滅亡。
2018-08-05
🗽22」─1─太平洋赤道以北のポリネシア人は渡り鳥に導かれて北上してハワイを発見しカナカ人となる。人・鳥・イルカにおける睡眠の違い。~No.85No.86No.87・ @ 
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2018-08-06
🗽23」─1─宣教師の子弟は、ハワイを白人キリスト教徒の島にするべく、ハワイ王家を改宗させ、ハワイ民族の宗教と文化と伝統を破壊した。1819年~No.88・ @ 
2021-06-27
🗽23」─2─独仏戦争(普仏戦争)と日本の中立宣言。1870年~1870年。~No.89No.90 
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2018-08-09
🗽23」─3─カラカウア国王は、ハワイ王国アメリカの侵略から守る為に日本皇室との姻戚関係と日本国家との同盟を希望した。1871年~No.91No.92No.93・ @ 
2018-08-11
🗽23」─4─カラカウア国王は、誠意と信義を重んじ死んでも約束を守る日本人移民とハワイ人を融合させて祖国を守ろうとした。1882年年~No.94・ @ 
2021-12-23
🗽23」─5─知られざるハワイ移民 広島人の開拓精神。1885年~No.95No.96 
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2018-08-12
🗽24」─1─即位したリリウオカーニ女王は、表向き親米路線を取りながら、裏でイギリスに救援を要請し、そして日本人移民に期待した。1891年~No.97No.98No.99・ @ 
2018-08-15
🗽24」─2─巡洋艦「浪速」艦長東郷平八郎大佐は、ハワイ王家を支援するべくアメリカ系宣教師の子弟ら王制廃止派に抗議した。1893年~No.100No.101No.102・ @ 
2018-08-20
🗽24」─3─日本海軍は、ハワイを日本防衛の要と認識し、明治天皇の裁可を得て抗議目的で軍艦を急派した。1895年~No.103No.104No.105・ @ 
2018-08-21
🗽25」─1─米西戦争アメリカは、外交交渉でハワイ共和国を併合し、軍事力でフィリピンを植民地として40万人を大虐殺した。1898年~No.106No.107No.108・ @ 
2018-08-24
🗽26」─1─アメリカ合衆国は、ハワイ人の王家と民族を消滅させる為に、白人やフィリピン人を移民としてハワイへ送り込んだ。1899年~No.109No.110No.111・ @ 
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2020-04-22
🗽27」─1─1899年12月のハワイ黒死病事件と南アフリカアパルトヘイト。~No.112No.113No.114・ ⑪ 
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2018-08-25
🗽28」29」─1─対日黄禍論。義和団事件で、虐殺を行ったドイツ軍と救済した日本軍。西海岸諸州の日本人移民排斥運動。南部諸州の人種差別。1900年~No.115No.116No.117 @ ⑫ 
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移民大国アメリカ。
2018-08-26
🗽30」─1─移民大国アメリカ。奴隷売買。奴隷制度禁止。公民権法。選挙権法。普通選挙。女性の権利と選挙権も遅かった。~No.118No.119No.120・ @ ⑬ 
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 ジェームズ・クック南極海航行記』
 キャプテン・クックの愛称で、知られているジェームズ・クック(1728-1779)はイギリスのヨークシャーの貧しい家庭に生れた。人々の好意で早くから航海術を教え込まれ、バルト海を渡る貿易船に乗組み経験を重ねていたといわれている。
 折りしも勃発した英仏戦争で頭角を現したクックは、若くして艦長に昇進し北アメリカのケベック攻防戦にも参戦した。1768年には、海軍省の金星観測のため、南米大陸最南端のホーン岬から太平洋に入り、ニュージーランド、オーストラリア、ニューギニア、ジャワなどの海域調査を進めながらインド洋を横断、喜望峰ケープタウン)を北上して1771年に帰国し世界一周の航海を達成した。
 1772年からは、当時存在が信じられていた南方大陸発見のため南極海域から南太平洋を調査し、二度目の大航海を成就させた。また、1775年よりは北太平洋調査を目的としてハワイ諸島から北米大陸西岸沿いに北上し、ベーリング海峡を越え北極海にまで到達するという三度目の大航海を行った。北極海での航海は船にとっても乗組員にとっても苛酷なもので、帰途、修理と休養の必要性から寄港したハワイ諸島で、原住民との間に生じた小競り合いの中、あえない最期を遂げた。
 太平洋での諸発見と調査を重ねたクックの業績は、彼が考案した航海術や乗組員の長期健康管理体制と共に、本書をはじめ他の2回の航海記に著され、イギリスの海外発展史の中でもひときわ輝く存在として人々に語り継がれている。
 『GAIDAI BIBLIOTHECA』 127号より」
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 首里城公園
 首里城にペリーが来た事を知っていますか?
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 1853年、日本に開国を迫ったアメリカ軍人のペリーは、日本の浦賀を来航する前に琉球へ訪れ、さらに首里城訪問を果たしたことを知っていますか。
 当時、アジアに進出した西洋諸国に遅れをとらないよう、アメリカは東アジアへの重要拠点である琉球を開国させ、蒸気船に必要な石炭の補給基地の建設やアメリカ船への物資の補給を行えるようにする思惑がありました。
 来琉したペリーはまず最初に首里城訪問を強く要求しました。王家の住む城へ軍隊を入れることで今後の交渉を有利に行うためです。王府は偽の行政機関を設け、上層部の役人や王族が直接接触することを避けましたが、強行的なペリーの押しに負け城門を開けてしまいます。しかし通したのは北殿であり、偽の役人たちが対応しました。これまで来琉した異国人に許さなかった首里城訪問を結果的に阻止できませんでしたが、首里城で最も重要な場所である正殿、そして琉球国王や中枢部を役人たちは守り抜いたのです。当時の人々が首里城を行政機関としてだけではなく、崇高な念を抱く対象として首里城を捉えていたことが伺えます。(仲嶺 絵里奈)」
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 時事ドットコムニュース>特集>沖縄と米国海兵隊>ペリーの「黒船」で来た海兵隊
 沖縄と米国海兵隊
 ペリーの「黒船」で来た海兵隊
 大統領親書を手渡した翌年の1854年、再び日本を訪れ下田に上陸したペリー一行を描いた銅版画。右手奥で砲とともに行軍するのが海兵隊時事通信社
 米国海兵隊と沖縄の関係は意外に古い。最初の出会いは、琉球王国時代の1853年5月で、日本はまだ江戸時代だった。「黒船」と呼ばれた軍艦4隻を率いる米国のペリー提督が日本本土に向かう途中、補給のため沖縄に立ち寄り、艦隊に所属する海兵隊2個中隊がペリーに随行して那覇に上陸したが、それは決して友好的なものではなかった。
 ペリーは日本の開国実現に強硬手段も辞さない覚悟で、江戸幕府に圧力を掛けるため沖縄を武力占領する意図さえあったとされる。琉球王国政府に対し補給物資を求める姿勢も、極めて高圧的だった。
 ペリーに付き添った海兵隊は砲2門とともに那覇港から首里城まで行進し、米国の近代的軍事力を琉球王国政府と住民に見せつけた。当時の琉球王国には米国に対抗できる武力はなく、ペリーの要求に応じて補給品を提供せざるを得なかった。結果として武力占領は逃れたものの、沖縄と米国との関係は極めて不幸な形で始まったと言える。補給を終えた艦隊は日本本土に向かい、同年7月、ペリーが開国を求める大統領親書を手渡すため久里浜に上陸した際も、護衛部隊として海兵隊が同行した。」
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 【161】アメリカの沖縄政策はペリー当時から始まった≫
 浦賀来航前に琉球
 あまり知られていないかもしれませんが、ペリー艦隊は浦賀に来る前に琉球に寄っています。
 1953年5月26日(嘉永6年4月21日)、那覇に入港します。
 首里城訪問を拒否されたペリーは武装して進軍、入城を果たします。
 下記の画像はその時のものですが、ペリー一行は料理を歓待されたものの、琉球が用意したもてなしは清国からの冊封使に対するよりも下位の料理で、暗黙に拒否の姿勢を示しました。
 アメリカの沖縄戦略はペリー当時に始まった
 艦隊は琉球を発った後、小笠原諸島の調査に向かいます。
 そして北上し江戸を目指すと思いきや、再び琉球に戻るのです。
 江戸に向かうのはその後、薩摩藩が統治する琉球ですので当然ペリー来航の報は伝わっています。
 さらに、江戸湾での交渉後3度目の那覇に入り、この遠征で実に合計5回も琉球を訪れるのです。
 アメリカにとって琉球がいかに地政学的な要衝かということがわかります。
 現在に続くアメリカの沖縄政策は当時から始まっていると言えます。」
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「琉米修好条約」の解説
 琉米修好条約 りゅうべいしゅうこうじょうやく
 1854年7月11日、米国全権大使ペリーと琉球王国との間に締結された条約。英文、漢文二通が作成され、全文七か条よりなる。訪琉米人の厚遇、必要物資・薪水(しんすい)の供給、泊(とまり)外人墓地の保全、難破船乗組員の保護、米船舶に対する水先案内などの諸義務規定をその内容とする。ペリー艦隊は53年5月琉球に初めて来航して以来前後4回にわたって琉球を訪れたが、東アジアに占める琉球の地理的重要性に着目し、同地を拠点の一つとして確保するため琉球側に条約の締結を求めた。琉球側はこれを拒否したが、日米和親条約(54年3月)の締結を知りペリーの要求を受け入れることにした。琉米修好条約を契機に琉球はフランスとの間に琉仏修好条約(1855)を、オランダとの間に琉蘭(りゅうらん)修好条約(1859)を締結している。内容はいずれも不平等条約であったが、琉球処分の過程で明治政府が琉球王国にかわってこれらの条約を引き受ける形をとり、条約改正で最終的に処理された。
 [高良倉吉]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例」
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