💢86:─1─ノリリスク収容所蜂起でウクライナ人独立派と一緒に戦った元日本陸軍将兵。1953年。~No.361No.362No.363 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 いい事をする日本人は2割、悪い事をする日本人は3割、いい事も悪い事もしない薬にも毒にもならない無害人畜は日本人は5割。
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 令和4年6月号 正論「知られざる日宇(ウクライナ)交流史  岡部芳彦
 プーチン露大統領は2021年7月、『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性』という論文を露宇両言語で発表した。『ウクライナの主権はロシアあってこそ』と言い、『特別軍事作戦』と偽った今回の戦争を始める際の演説でも東ウクライナで『ロシア系住民のジェノサイドがあった』と偽りの主張をした。
 2013年から14年にかけて、EU(欧州連合)との協定締結を拒否したヤヌコービッチ宇大統領に反発する抗議デモが、警察・機動隊との衝突の末に大統領を失脚させたマイダン革命が起こった。その隙をついてロシアがクリミア半島を占領し、東ウクライナでは実はロシア軍が主体であった『親露派武装勢力』とウクライナ軍の間で戦闘が始まった。
 筆者は2009年から13年の間に、東部のドネツクを計16回訪れたが、『私はロシア人だ』という人に出会ったこともないし、迫害とは縁遠い長閑(のどか)な地方都市に過ぎなかった。ロシアに後押しされた一部の住民がその出世欲からドネツクとルガンスクに自称『共和国』を作り、8年にわたりこの地のウクライナ人を抑圧的に支配してきたのが実態である。
 プーチン氏には『先の大戦ナチスを倒したロシア』との誇りとゆがんだ愛国主義だけが残り、2014年の誤った成功体験が『ウクライナナチスから解放する』との妄想を膨らませた。このプーチン氏の『妄想の歴史観』こそ、ロシアによるウクライナ侵略の主因といっても過言ではない。
 筆者は、プーチン大統領やその取り巻きの『歴史学者』のように異なる民族との『歴史的一体性』を信じない。一方、日本人とウクライナ人の交流の歴史については、ソ連崩壊後の30年あまりと思っている人も少なくないだろう。そこで、プーチン大統領に対する皮肉も込めて、あえて『ウクライナ人と日本人の〈歴史的一体性〉』と題して、日本の隣の隣の国であり、知られざる親日ウクライナと日本の100年を超える歴史を振り返りたい。
 言うまでもないが、本稿の内容は妄想の歴史観ではなく、一次史料や事実に基づいている。
 ウクライナの地に憧れて
 ロシア帝国からソ連支配の約300年間の間に、ウクライナ語禁止令は少なくとも10回以上出されている。
 ……
 1924年に宮沢賢治は『曠原(こうげん)淑女』という詩の中で故郷の農婦を『ウクライナの舞手』に例えた。宮沢は理想の農業が行われた同地に憧れの念をいだいていた。
 ……
 1930年代前半に、ウクライナ人に対するジェノサイド『ホロドモール』を目撃した日本人もいた。当時、ソ連は農業の集団化をすすめる一方、外貨獲得のため、穀物の飢餓輸出(自国民への食糧供給を度外視した輸出)を強行するべく、ウクライナから小麦などを徹底的に徴発した。独立意識の強いウクライナ人に対してのスターリンによる人工飢饉であったとの説もあり、少なくとも400万人以上が凄惨な飢餓の犠牲となった。
 それをウクライナの地で目撃したのが『共産党幹部』の正兼菊太である。もともと船員であった正兼は、1929年にソ連に渡り活動したが、スパイ容疑で逮捕された。帰国後の35年、大川周明が代表を務めた全亜細亜会で、早稲田大学教授でエクトール・マロの『家なき子』を翻訳する一方で『我国反共運動の理論的文化的指導者』と称された五来素川、ロシア文学者でありながら国際反共連盟からソ連に批判的な著作を出版した山内封介、善隣協会調査部長の吉村忠三らと座談会を行い、ホロドモールの実態について語った。なお、戦後のアメリカ軍戦略事務局(OSS)の尋問記録によれば、正兼は実はラトビアフィンランド駐在武官を務めた小野打寛の指揮下で共産党員を偽装した日本当局の工作員だったとされている。
 独立運動を支えた日本人
 1938年4月から5月にかけて『在米ウクライナ人団体』より廣田弘毅外相宛に書簡が送られた。全米各地で4月から5月にかけて開催された会合の決議文で、その内容はポーランドソ連によるウクライナ人迫害の惨状を訴えるものであった。
 来日したアインシュタインの通訳を務めたこともある稲垣守克は1920年代から30年代にかけて、ジュネーブの地で外務省嘱託として国際連盟協会日本代表をはじめとするさまざまな役職を務めた。その稲垣が1930年代後半に高い関心を示したのがウクライナ独立運動であった。稲垣は、ウクライナ民共和国亡命政府元首のリヴィツキーやプロコポヴィチ首相らと接触した。その会談を通じて、稲垣はウクライナ独立を支援するための具体的な強化計画を記し、それを日本政府に報告した。
 同じ頃、ベルリンではもう一つの日本とウクライナ接触が続いていた。30年代を通じて、駐ドイツ日本大使館駐在武官であった大島浩少将の下で、臼井茂樹中佐、馬奈木敬信大佐らが、独立を目指すウクライナ民族主義者組織(OUN)の幹部リコ・ヤリを通じて、リーダーのイェヴヘン・コノヴァレツィと接触を続けていた。日本側は、日独防共協定が結ばれる中、反共戦線を構築するため東京へOUNの使節を派遣することを提案していた。
 1938年9月のミュンヘン会談の結果、ドイツがチェコスロバキア領ズデーデン地方を併合したことをきっかけに、現在のウクライナ西部のザカルパッチャ州にあたる『カルパト・ウクライナ』も自治を認められるようになった。ウクライナ語が政府、学校での使用言語となり、独自の軍隊も作られた。
 同地域のOUN幹部であったユリアン・ヒミネツはカルパト・ウクライナ外交部代表としてベルリンの日本大使館とも接触していた。1938年10月、日本大使館で『日本軍の将官』と面会し、カルパト・ウクライナ建国の大義を説明し支援を求め、同地の視察を提案した。ヒミネツによれば、1938年12月15日、日本軍の将官とリコ・ヤリ、ヒミネツらは、車でベルリンからウィーンなどを経由し、カルパト・ウクライナの首都フスト市を極秘裏に訪問した。1939年2月9日にフスト市ではヒミネツらを中心に『反共協会』が設立されたが、その発会式の壇上にはウクライナ、ドイツ、イタリア、スペインとならんで日本の国旗が掲揚された。
 満州での日宇の交流
 1934年から35年にかけて満州国ハルビンウクライナ人居留民会が運営した『ウクライナ・クラブ』の1階部分が日本人女学校に貸し出されていたことは、ほとんど知られていない。ウクライナ人と日本の女学生や教員が実は2年に渡り、ひとつ屋根の下で共生していたのである。
 20世紀初頭に極東に移民したウクライナ人は満州にも移動し『緑ウクライナ(緑の楔{くさび})』と呼ばれる広大な巨大地域が形成された。日本の影響下にあった満州国の外交部は、極東のウクライナ人について詳細に調査・研究し、1936年には『極東蘇領におけるウクライナ人口分布図』を日本語で作成するなど正確な理解に努めていた。
 満州ハルビンには6万人以上のいわゆる『白系ロシア人』が住んでいたが、そのうち1万5,000人はウクライナ人であった。1935年、日本当局によって策定された『対蘇諜報機関強化計画』には『白系露人操縦費』とは別に『ウクライナ操縦費』が分けて計上されている。ハルビンの日本当局は、ロシア人とウクライナ人を明確に区別していたのである。
 ハルビンでは1931年から37年までウクライナ語の週刊新聞『満州通信』が発行されていた。その編集者であったイヴァン・スヴィットは、杉原千畝をはじめとする様々な日本人と出会った。ある日、スヴィットは、元ハルビン特務機関長で非常に短期で知られる橋本欣五郎にロシア人と間違えられ怒鳴られるものの、ウクライナ人であることを説明した上で意気投合し『満州通信』創刊の支援を取り付けた。スヴィットは、特に親しかった、またハルビンウクライナ人を支えた人物として堀江一正の名前を挙げている。
 堀江は元近衛将校で、シベリア出兵の際、ロシア語研修のためイルクーツクに派遣された。そこで出会ったウクライナ系女性と結婚し一児をもうけた。離縁すれば問題なしと説得する陸軍当局に『此處まで来て彼の母子を見捨てたのでは、日本の将校として如何にも無責任と信ずるから、寧ろ潔く退官の道を選びその責任をとる』と答えた。
 軍を辞した堀江はロシア語を生かして南満州鉄道で活躍した。コンスタンティン・コンスタンティノヴィチの洗礼名を持つ正教徒であった堀江はハルビン特務機関の顧問として、ハルビンウクライナ人居留民会(ウクライナ・クラブ)の運営に協力した。スヴィットは堀江が『1924年以来の友人』であり、『その対話すべてが感慨深い』と述べるほど深い友情で結ばれていた。
 1937年、ベルリンの日本武官室とウクライナ民族主義者組織(OUN)の合意がまとまり、フリホリー・クペツィキーを含む3名のOUNグループが日本にやってきた。日本で出迎えたのは兵務局付きで防諜研究所(のちの後方勤務要員養成所、陸軍中野学校)の設立準備をしていた秋草俊である。クペツィキーは、『マルコフ』というロシア系の偽名を与えられ、大阪、神戸、下関、釜山、大連を経て11月末に満州国の首都新京(現在の長春)に到着した。ハルビンに移った後、同特務機関のウクライナ担当を堀江から引き継いでいた哈爾浜(ハルビン)高等法院翻訳官の井上喜久三郎の助けを得ながら、タクシー運転手に身分を偽装して活動を始めた。
 井上の次の担当者である関東軍情報部第4班所属の赤木陽郎通訳官は、ハルビン郊外の哈爾浜保護院に収容されていたウクライナ人約500名の名簿を提出し、クペツィキーらは1942年5月末、目立たぬよう彼らの面接を始め、OUNグループへの勧誘をした。
 クペツィキーが日本から新京に到着した時、流暢な日本語を話すウクライナ人アナトリ・ティシチェンコと出会った。……
 深い関係を築いてきた満州におけるウクライナ人と日本人にも別れるときが訪れる。1945年8月13日、ソ連軍がハルビンに迫る中。日本の特務機関は、協力者のいわゆる『白系露人』を脱出させるために特別列車を用意した。クペツィキーが乗車しようとするとき、ハルビン特務機関の最後のウクライナ担当者であった松坂與太郞は、他の日本人と共に残留する旨を告げ、涙ながらに次のように語った。
 〈なぜ今あんたを救おうとしているのか・・・あなたがウクライナ民族主義を選んでからの一貫性と不屈さ、意志の硬さ、そして目標へと向かって真っ直ぐな道を歩んできたからです。もしあなたが日本人だったら、おそらくサムライの出身でしょう。〉
 初めて涙する日本人の姿を見たクペツィキーは、ウクライナ・コサックの習慣に従って3回抱擁したのち、『命を救ってくれてありがとう。日本よ、永遠なれ、バンザイ・ニッポン!』と叫んだのであった。
 極北ノリリスクでの連帯
 1953年3月5日、スターリンが死去し、ベリアによって一時期改革路線が採られたが、政治犯に対しては変化がなく、100万人を超える囚人がグラーグ(矯正収容所)に残っていた。政治犯の70%以上がウクライナ人と言われており、その多くは独立運動を行ったウクライナ蜂起軍(UPA)、ウクライナ民族主義組織(OUN)関係者であった。同年5月にウクライナ政治犯を中心に北極圏にある都市ノリリスクで大蜂起が起こった。『自由か死か』をスローガンに掲げ激しく抵抗を続けたが、8月に武力鎮圧された。
 ノリリスクには、100名を超える日本人が長期抑留されており、その中には数名の女性も含まれた。日本人抑留者たちは日ごろからウクライナ人とロシア人の関係を観察し理解していた。樺太鉄道局豊原管理部長だった草野虎一は『ウクライナとロ助とは非常に仲が悪い。吾々日本人から見れば、ウクライナ人もロ助だと思って居たが、彼等はロ助ではないと主張』し、『彼等は今同志がアメリカに渡って、独立運動を展開して居るから、独立も間近かだ』と聞いた。樺太特務機関員であった南部吉正は、『グワントンスカヤ・アールミヤ(関東軍)が、ドイツが対ソ戦を始めた時、東から攻撃していれば、敗れることはなかった』とウクライナ人の作業班長から聞かされた。
 ウクライナ人収容者ヴァシリ・ニコリシンによれば、ノリリスク蜂起で日本人抑留者はウクライナ人とともに闘った。少し長くなるが、重要な証言であるが翻訳して紹介したい。
 〈私は、我々ウクライナ人が他の民族や国々の代表と持つ友情や連帯感について、少し温かい言葉を述べたいと思います。(中略)あるエピソードの一例を紹介しますが、それは私にとって非常に印象深いものです。(中略)
 蜂起の真っ只中、日本人の大佐が私のところに来て、『私たちはどうすればいいのか?』と聞いてきました。私は彼に、ここは死の匂いがするからこの問題に関与しないようにと提案し、収容所から出ていけるように回路を作ると言いました。そうすると彼は、『私、考える』と言って去っていきました。暫くすると、彼は私のところに来て、『ヴァシャさん、私たちはあなたが公正で正直な人だと思っている。私たちもあなた達と一緒に死ぬということを言うために来た』と言いました。
 正直なところ、この危機的状況、緊張感、厳しさにもかかわず、私は涙が停まりませんでした。日本人側が自らこのような行動にでるとは思ってもいなかったからです。もちろん、私は彼らの連帯に感謝し、彼らに守るべき場所を割り当てました。そして、彼らが最後まで、名誉を持って任務を果たしたと言わなければなりません。戦いの後、皆さんのご存じのとおり、私たちは敗北しました。日本人の運命がどうなったかは知りませんが、私はこのエピソードを一生忘れないでしょう〉
 ソ連の圧政の象徴であり、最も過酷な環境であったノリリスクの収容所で、ウクライナ人と日本人が出会い、共に生きた事実は、ニコリシンが『一生忘れない』と言ったように、日宇両国民の記憶にもっと留められてもいいのではないだろうか。
 祖国を愛するということ
 プーチン大統領とそれを取り巻く歴史修正主義者の主張は、エビデンスなしで語られるナラティブ(物語)であるとともに、史料なしで創り出される陰謀論である。歴史研究や記述への尊敬の念すら感じられない。
 キーウ・ルーシ(キエフ公国)時代の教会や修道院が残る古都チェルニヒウではソ連によるウクライナ人弾圧の貴重な史料を保管していたアーカイブが、ロシア軍によって燃やされた。ロシアにとって、ウクライナNATO北大西洋条約機構)加盟問題は建前で、ウクライナ人の独自性と民族性を消し去りたいだけなのかもしれない。
 『一体性』論文発表後は、ロシア軍兵士も読むように指示されたが、ひょっとすると一部兵士はその『妄想の歴史観』を信じてウクライナに侵攻し、ウクライナの『ナチス政権』に抑圧された『同族』であるウクライナ人から花束を渡され大歓迎されると思っていた者もいたのかもしれない。そのナイーブな期待は裏切られ、戸惑いは憎悪に変わって、マリウポリやキーウ近郊のブチャ虐殺のような暴力の連鎖に繋がった。
 ……
 冒頭で述べたとおり、筆者は他の民族との歴史的一体性を信じない、ウクライナ人と日本人の間にそれがあるわけもない。しかし、日宇両国民には、100年を超える深い交流の歴史がある。また、『祖国を愛する』ということでは共通点があったのは間違いない。シベリアの矯正収容所ウクライナ人による蜂起を目撃した黒澤嘉幸という人物が、1991年12月にソ連崩壊の報に接した時の心境を紹介して本稿を終えたい。
 〈囚人仲間であったウクライナの親父の顔が浮かぶ。彼は言っていた。『独ソ戦が始まって、ドイツ軍がやって来た時、祖国ウクライナの旗を押し入れの奥深いところから、引きずり出して、〝祖国解放万歳〟を叫んだ。が、再び、ソ連支配下になった。ウクライナの旗は、また、しまい込まれてしまった。しかし、いつか、その独立の日に・・・』
 半世紀の歳月の間、ウクライナの人々は、ソ連官憲の目を恐れながらも、祖国の旗をわが家に隠し続けていることを教えられた。
 <祖国を愛する>ということは、こう言うことだ、今ごろ、しまい込んだままのその旗を掲げているだろう。高々と祖国の旗を・・・
 そして私めも、人知れず、心の中にしまい込んでいた『日の丸の旗』を、この日本の大地に立てた。永久にと・・・〉」
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 32(昭和7)年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 現代日本は、開国・幕末・明治維新・近代化軍事主義国家建設と弱小国日本が世界を相手に一人孤独に戦った積極的自衛戦争を領土拡大目的の侵略戦争と認めている。
 現代の日本人は歴史の全てを詳しく知る裁定者・審判・判定者と自認して、当時の天皇・国家・民族を自己犠牲で絶望的な死闘を続けた日本人を戦争犯罪者と断罪している。
 その象徴が、靖国神社問題であり、昭和天皇に対する戦争責任・戦争犯罪追認である。
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 現代の日本人には、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力はない。
 その傾向は、高学歴な知的エリートや進歩的インテリに特に多い。
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 昔の日本人は、戦場で人を殺す戦争犯罪などの悪い事をしたが、同時に戦場で人を助ける人道貢献などのいい事もした。
 現代の日本人は、「第9条」や「平和」を呪文のように念じて戦場に行かないが、人畜無害な生き物として悪い事をしないが同時にいい事もしない。
 つまり、現代日本には本当の意味での戦友は存在しないし親友や友人・友の存在も疑わしい。
 日本人にとって、朝鮮人や中国人は友・友人、親友、戦友ではない。
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 現代日本には、天皇・国・民族を命を捨てても守る事を拒否し、むしろ自分の命を守る為に捨てて逃げるべきだと説く亡国の徒とも言うべき日本人が少なからず存在する。
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 日本軍は、日露戦争で世界最強と怖れられていたウクライナ・コサック騎兵団と戦い撃破した。
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 降伏した旧日本軍兵士(主に陸軍兵士)の中には、祖国日本に帰らず現地に留まり、植民地支配を復活させようとする欧州諸国に対する地元住民の独立戦争に参加した者がいた。
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 現代の日本人は、昔の日本人とは別人の様な日本人である。
 現代日本には、数千年前の弥生時代古墳時代からの文明はもちろん数万年前の石器時代ヤポネシア人)・縄文時代(日本土人)の文化、そして日本民族の心・志、念いなどその他諸々の多くが受け継がれていない。
 全ては、口先で見せかけで偽りである。
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 近代的軍国日本の戦争とは、数千年前の弥生時代古墳時代からの天皇を中心とした国體を死守する為の積極的自衛戦争であった。
 国體には、数万年前の石器時代縄文時代からの原始的民族神話が深層に流れている。
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 日本人共産主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺するべく付け狙っていた。
 それは、日本に対するイデオロギー侵略と宗教侵略であった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として輸出して金を稼いでいた。
 つまり、戦国時代、世界の人々は日本人の命を金で買っていた。
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 ウィキペディア
 ノリリスク蜂起 - Novoselitba
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 ノリリスク蜂起はグラグによる大規模なストライキでしたGorlag の収容者、主に政治犯のための特別収容所、そして後にNorillag [ITL]、Norilsk の2つの収容所、 ソ連、現在はロシア、1953年の夏、ヨシフスターリンの死後間もなく。受刑者の約70%はウクライナ人であり、「バンデラ基準」に関与したというKGB の告発により、25年間の刑を宣告された者もいた。 KGBは虚偽の告発をしたことで悪名高い。これは1953年から1954年にかけてのグラグシステム内での最初の大規模な反乱でしたが、グラグ収容所での以前の多数の不安事件が知られています。 1キャンプでPavelFrenkiel、3DキャンプでBoris Shamaev、4番目のキャンプでYevhen Hrytsyak、5番目のキャンプでPavel Filnev、6番目のキャンプでLesyaZelenskaが主導しました。Wikipedia site:guiagyn.com
 歴史
 1953年5月26日から8月4日まで、Gorlag -メインキャンプはストライクで69日間続いた。これは、グラグの歴史の中で最も長い蜂起でした。ソビエトアーカイブによると、同時に最大16,378人の囚人がストライキを行っていた。 ラヴレンチーベリヤの逮捕前に蜂起が起こり、その抑圧が彼の逮捕のニュースと一致したことは重要です。蜂起の前提条件は次のように見ることができます:1952年の蜂起に参加したゴーラグへの囚人の波の到着、1953年3月5日のスターリンの死、そして彼の死に続く恩赦の事実刑期が短い(非政治的な)犯罪者と囚人にのみ適用され、その割合はゴーラグでは非常に低かった。 ノリリスクの近くに2つのキャンプシステムがありました。特別収容所ゴーラグの囚人の大多数は、政治犯罪で有罪判決を受けていた。 Norillagの囚人の大多数は、非政治的な犯罪者、いわゆるbytovikiに属していました。蜂起は、収容所行政の命令で数人の囚人を射殺したことによって引き起こされた。囚人のすべてのカテゴリーが蜂起に参加し、元軍人と西部のウクライナジョージアおよびバルト諸国<78の国家解放運動の参加者が主導的な役割を果たしました。>囚人は武器を持っていませんでしたが、最初は調査中に内務省によって蜂起を「反ソビエト武装反革命」として分類することが提案されました。 -革命的な蜂起」。 (最終的に、ソビエト裁判所は「収容所行政への囚人の大規模な不服従」という用語を使用した。)訴訟は単なるストライキではなかった。訴訟にはソビエト法内の広範囲の非暴力的な形態の抗議が含まれていた。会議、政府への手紙、ハンガーストライキ。このため、「スピリットの蜂起」という用語は、グラグシステムに対する非暴力的な抗議の一形態として提案されまWikipedia site:guiagyn.com
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 レーニンは、世界人民革命戦略から、中国共産党日本共産党など極東アジア共産主義者に対して、日本とアメリカを戦争させ世界戦争に拡大し、西洋列強の富と力の源であるアジアの植民地を解放するように示唆した。
 つまり、軍国日本が戦った日中戦争や太平洋戦争はレーニンが仕組んだ謀略であった。
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 昭和6(1931)年9月18日 満州事変。
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 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を惨殺して大虐殺を伴うロシアのような共産主義暴力革命を起こすべく活動を本格化させた。
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 スターリン日露戦争で屈辱的な敗北を喫したのは、日本に天皇制があったからだ。これを打倒しなければ、日本はいつまでたっても極東においてロシアの脅威になる。権力の中枢である天皇制に何としても打撃を与えなければならない。日本共産党の任務はそこにある」
 イギリス、イタリア、ベルギーなど西洋諸国の各国の共産党は、自国の王室を人民の敵とは認めず、それ故に一度も「王室打倒」とは叫ばなかったし、ソ連・国際共産主義勢力も命じなかったし求めなかった。
 ロシア人理論家のニコライ・ブハーリンスターリンの意向を受けて、日本共産党・日本人共産主義者マルクス主義者らに送られる書簡に「天皇打倒」を書き加え、同時に各国の全ての共産党共産主義者にも同様の文言を送った。
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 昭和8(1933)年頃から、日本人の共産主義者社会主義者から大量の転向が続出し、日本共産党治安維持法による弾圧で壊滅状態に追い込まれ、過激分子は地下に潜って反天皇反民族反日運動を続けた。
 転向を拒否した日本共産党幹部は、逮捕されて収監されるか、中国に亡命しソ連アメリカの支援を受けた。
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 日本人共産主義者を庇っていたのが、敵日の中国共産党人民解放軍(現代の中国軍)であった。
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 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に狙っていた。
 日本人共産主義者とは、反天皇反民族反日本であり反宗教無神論である。
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 1930年代後半 極左組織フランクフルト学派の哲学者達はナチス・ドイツの弾圧を逃れてアメリカに亡命した。
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 日本の戦争は積極的自衛戦争であり、共産主義勢力の脅威にあったアジア諸国にとって正義の戦争・正しい戦争であった。
 つまり、積極的自衛戦争とは共産主義勢力に対する熱戦で、後の米ソの冷戦につながるところがあった。
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 日本陸軍の、多数派・主流派はポーランド派であって、ドイツ派は少数派・非主流派であった。
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 日本陸軍ユーラシア大陸横断戦略とは、ロシア・ソ連共産主義勢力を共通の敵とする、大日本帝国(日本・朝鮮)、満州国、モンゴル、ウイグル中央アジア、トルコ、ウクライナポーランド、北欧、フィンランドにいたる人種・民族・部族、宗教、イデオロギー、その他のわだかまりを超えた大同団結としての反共長城構想である。
 盟主は、天皇制度国家日本であった。
 それらの地域の共通点は、親日・知日で反ロシア・反ソ連・反共産主義であった。
 反共長城を繫ぎ止める重要なカギは、宗教であった。
 反共産主義大同盟・防共同盟に参加する宗教は、神道、仏教、イスラム教、ロシア正教カトリック教、プロテスタント、その他であった。
 そこには、ナチス・ドイツファシスト・イタリアなどのファシスト諸国とアメリカやイギリスなどの自由・民主主義諸国は加わっていない。
 スターリンソ連ボルシェビキヒトラーナチスドイツ・ナチズム、ムッソリーニファシストイタリア・ファシズム三者イデオロギーは、同じマルクス主義である。
 バチカンは、反共産主義の立場から満州国を承認していた。
 軍国日本のイデオロギーは、軍国主義であってファシズムはなかった。
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 アジア・中央アジア・中東そして東欧・北欧が親日・知日なのは、平和憲法で武器を持って戦争を一度もしていない現代日本ではなく、ロシア、ソ連、国際共産主義勢力と一人で戦い各国各地域の独立派や宗教者を支援した戦前の軍国日本に対してである。
 ましてや、日本を批判し自国を貶め自国民の名誉を穢して祖先の歴史を認めないリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育者は軽蔑されている。
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 日本の軍国主義国家建設は、侵略してくるロシア・ソ連・国際共産主義勢力、中国(中国共産党)・朝鮮に対する正当な自衛行為であった。
 軍国日本の戦争は、戦時国際法に違反しない合法的な正当防衛の積極的自衛戦争であった。
 つまり、日本は戦争犯罪国家ではなかった。
 当然、歴代天皇戦争犯罪者ではない。
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 紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
 日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
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