💢87:─1─ウクライナ戦争に対する日本の「どっちもどっち」論と陰謀論。~No.364 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 令和4年6月号 正論「怪しい情報に惑わされない
 人間洞察力が情報戦を制す   篠田英郎
 ウクライナ情勢をめぐって、日本において場外乱闘とも言える議論が起こっている。『ウクライナは降伏すべきだ』『なぜにげなかったのか』などの主張は物議を醸した。『挑発したのはウクライナ』とか、『ロシアにも正義がある』といった『どっちもどっち』論も日本社会には根深い。だがさらに深刻なのは、『ロシアは市民を攻撃していない』といったロシア政府を代弁する事実否定の主張や、さらにはアメリカが戦争を煽って『代理戦争』をやらかせている、といった陰謀論めいた話を流布する者もいることだ。
 現代社会では、情報ソースが一層多様性化している。それは望ましいことである。プーチン政権下のロシアの国民は、テレビのような伝統的なメディアへの依存度が高く、独裁政権による情報操作に脆弱になってしまっている。情報ソースが多角的でなかったら、相互チェックが働かなくなる。
 言論の自由は、自由主義社会が信じる社会的価値の一つだが、それは個人の権利としてのみ評価されるべきではない。言論の自由は、一つの社会を健全に発展させるために必要不可欠な潤滑油でもある。多様化が言論の自由の確保に役立つなら、それは喜ばしいことだ。
 ただし、多様化が偽の情報や政治的イデオロギーの宣伝にだけ利用されてしまっては、自由主義社会は、むしろ内側から熔解していく。国際政治で『シャープ・パワー』という言葉が定着してきている。敵対的な勢力が、自由主義社会の開放性につけこんで、偽の情報や怪しい主張を流布させていく行為のことを指す。その狙いは、自由主義社会を内側から崩壊させることだ。したがって自由主義社会の側では、単なる自由放任を許すのではなく、自由に伴う責任を不断に問い続けることが必要だ。怪しい情報や主張には、厳しい精査は必要だ。
 情報ソースが多岐になると、全ての情報に高い質を求めることが難しくなる傾向も出てくる。おかしな情報が意図せずして、あるいは意図的に含まれている場合がある可能性も高くなっていく。相互チェックが求められる。その際に気を付けなければならないのは、情報の精査には人間に対する洞察も必要だ、ということである。 
 いわゆる陰謀論に踊らされる人々の場合、正確な情報を求めるのではなく、見たい情報を求めてしまう人間の弱さがかかわっている。情報を受け取る側にも、そのような人間的な現象を見抜くための心がけが必要になってくる。また、情報を受け取る者は、自らの中にも人間的な偏見の要素がどれだけあるかを、自分自身で意識しておかなければならない。情報の収集・分析は、極めて人間的な作業である。
 情報を取る目的
 われわれはなぜ情報を取るのか。第一義的には、社会の動きを知るためだろう。ではなぜ、社会の動きを知りたいのか。知らないと、社会生活を営むのに困難をきたすからだ。社会の動きを知る情報を的確に入手すればするほど、社会生活を円滑に営むことができる可能性は高まるはずだ。知っていれば対応できることも、知らなければ対応できない。
 厄介なのは、実は情報は社会生活の向上のためだけに入手しているわけでもない、ということだ。個人的な趣味の情報を求める場合もある。たとえば、愛好している音楽家の活動をもっと知るために情報を積極的に獲得していこうとする人は、社会生活を円滑に営むためというよりは、個人的な楽しみを充実させるために情報を得ようとしている。
 社会動向に関する情報と、個人的趣味のための情報は、常に必ず明確に分離しているわけではないが、基本的にはどちらであるかがわかるように提示されるのが普通である。ニュース番組では出演者が冗談を言いあったりはしない。だが、娯楽番組であれば漫才があったりコントがあったりする。
 ところがこの暗黙の前提にしている情報の区分けは、タレントがニュースを伝えたり、バラエティー番組で国際情勢を扱ったりする場合には、不明瞭になる。場違いなコメンテーターが自分の知識を省みることなくテレビ番組を盛り上げるための発言を繰り返している場合などだ。
 より積極的に情報を入手していくSNSなどの場合でも、基本的な構図は同じだ。社会的に有為な情報と、個人的な趣味や空想に基づく情報が混在している。予期しない形で虚偽情報にふれるとき、受け手側が騙されやすいことは確かだろう。
 まずは伝える側に責任があることは言うまでもないが、それだけに依存しているわけにはいかない。情報を入手する側も、社会性のある情報を入手しているのか、娯楽のための情報を入手しているのかを、よく見極めていく必要がある。伝える側の主観的意図にかかわらず、受け手側の目的意識によって相当程度まで情報の整理は可能になる。逆にいえば、受け手側の目的意識がはっきりしていないと、情報のやり取りが混乱するのは避けられない。
 社会性のある情報を取る目的が明確になっていれば、そこに正確さを求める受け手側の自意識もはっきりしてくるだろう。逆に趣味のための情報は、楽しければそれでいいという気楽な割り切りができる。情報の受け手側の目的意識の欠如から、メリハリのない態度が生まれ、怪しい情報に脅かされやすくなる。
 正確な情報とは何か
 もちろん正確な情報を入手したいという目的の意識化は、最初の前提であり、それだけで何かが保障されるわけではない。より正確な情報と、必ずしも正確ではない情報を仕分けることは簡単な作業ではない。究極的には、複数の情報の間に優劣はない、と言うことも不可能ではない。
 神の視点で完璧な情報だけを入手していくことは、不可能である。発信者も、受信者も、能力に限りのある人間でしかないからだ。非現実的な前提にそって『正確な情報』を定義しようとしたら、行き詰まる。少なくとも社会科学の分野では、普遍的かつ絶対的に正しい情報などは存在しない、と言っても驚かれることはない。
 だがそれではわれわれはいったい何を手がかりにして、正確な情報を、正確な情報として入手することができるだろうか。情報の正確さは、相対的にしか保障されない。その認識を冷静に受け止めるのであれば、客観的な相互審査に耐えられれば耐えられるほど、情報の相対的な正確さを増す、と考えるようにしなければならない。いわゆる情報の信頼性の問題である。
 ロシア軍の砲撃で市民が殺害されている動画を見てもなお、そんなことは起こっていないと言うことは難しい。動画の信ぴょう性を覆す要素がないか反証する責任は、疑いを持つ方により多く発生する。その場合、反証者が挙証責任を果たしているかを見極める必要がある。ロシア軍は蛮行を働いているという指摘は嘘だと考える根拠が、当事者であるロシア軍がやっていないと言っているから、ということでは客観的な審査には耐えられない。どこまでいっても絶対的な真実はないかもしれないが、無限の相対的な客観的な信頼性の度合いの差異がある。それを意識することが大切だ。
 正確な情報とは、あくまでも相対的な概念でしかない。ただしそれを前提にしたうえで、どうしても反証が難しいか、反証が容易であるのか、正確な情報を得る目的を持つの受け手側でも一定の努力を払って、意識化しなければならない。
 全ての情報は絶対的に正しいとは言えない、といった徹底的なニヒリズムは、必ずしも否定はできない。ただぞれでも正確な情報を求めるという目的を持つならば、相対的な信ぴょう性の審査を行っていかなければならない、と考えていく姿勢が大切なのである。これは大変な負担であるかもしれないが、不可避的である。
 『どっちもどっち』論の偏向
 ウクライナ情勢をめぐって、ウクライナにも落ち度はあったのではないか、という『どっちもどっち』論が物議を醸した。人間は有限な生き物なので、ウクライナも完璧な聖人君主ではないはずだ、と言えば。もちろんその通りだろう。だが言うまでもなく、そんなことを指摘してみることには何の意味もない。
 重要なのは、客観的に複数の視点から審査して、どれくらいの信ぴょう性があるといえるかだ。その際に、たとえば国際法の規範に照らしてみるべき事項であれば、国際法違反の度合いがどれくらいあると言えるのかを考えることだ。仮にどちらも完璧ではないとして、違法性の度合いが99%の当事者と1%の別の当事者を、どちらも100%ではないという理由で同列に扱おうとしたら、それは社会の運用方法として全く適切ではない。むしろ比較検討の結果、極めて明確な有意の差がある、と評価するのが、より妥当であるはずだ。
 日本では、伝統的な左派系の勢力が、絶対平和主義を掲げる。ほんの少しの合法的な武力行使でも、過剰で違法な武力行使と全く同じように武力行使だから否定されなければならない、という立場である。これは、合法的な自衛権の行使、武力行使を伴うのであれば、むき出しの侵略戦争と同列に扱わなければいけない、という議論につながる。
 厄介なのは、こうした絶対平和主義を信奉する人々が、現実を曇りのない目で見てから自らの主張を展開するわけではない点だ。自分に都合も良い結論を守るために現実を無視したり、今回のロシア・ウクライナ戦争を見ても、何とかして『どっちもどっち』という結論を導き出そうとする。そのように結論を先取りした姿勢で情報を集めるならば、結論に都合の良いところだけを切り取り、都合の悪いところは無視することになることは必至である。
 正確な情報を集めることが目的である人々は、情報の正確さの度合いを審査する。絶対平和主義を主張し続けることを目的にする人々は、情報がイデオロギー的主張に都合がいいかどうかを審査する。
 ロシアが国際法における違法行為である侵略行為に及んでいることは明らかだ、という主張に対して、イデオロギー的結論を優位させる人々は、『それについては反証がある』という反応をしない。ただ『ウクライナだって悪いことをしているのではないか』、といった反応だけを繰り返す。このような徹底した価値相対主義は、日本では現実を批判的に捉える姿勢だなどと言われる場合もあったりする。しかし、実際には、社会的に有意な比較検討を行う審査をする能力を持っていないか、あるいは単にイデオロギー的結論を優先させるあまり、比較検討をする意図すら放棄してしまっているだけである。
 情報を受け取る側は、情報発信者が、『どっちもどっち』という結論を導き出したいというイデオロギー的願望を強く持っていないか、そのような願望を正確な情報を集めて分析するという目的よりも優先させていないかを、よく注意して見極めていくことが大切になってくる。
 目的の自己意識化の重要性
 客観的な相互審査がまだ十分に行われていない噂話や画像情報は、信ぴょう性がまだ十分ではない。それは継続した検証によって、信ぴょう性の度合いを高めていかなければならないものである。画像が合成されたり、全く時期や場所が異なっていたりする懸念は、常にある。まずは情報の受け取り手が懸念の度合いを考えなければならず、また検証を行った者の作業の質と数を考えなければならない。
 噂話の信ぴょう性は、論理的な思考によってだけでも、信ぴょう性を判断することができる。たとえば日本の普通の会社員が、クレムリンに電話したらプーチンが出てきたので、他では見つからない情報を教えてもらった、と言い出したら、それはにわかには信頼できない情報と考えざるを得ない。論理的に考えて奇妙な情報は、少なくとも反証が見つかるまでは、信ぴょう性が低い情報だと見なさざるを得ない。
 ただ、こうした不断の検証を行うのも、正確な情報を得たい、という目的を受け手側が自己意識化できている場合だけだ。とにかく面白い情報がほしい、という意識で情報を収集していたら、偽情報に騙されやすくなることは言うまでもない。世界を操っているディープ・ステートの正体を暴く出したい、世界で一番悪いのは、アメリカだという願望を強く持っている者は、自分の願望を満たしてくれる情報を高く評価し、そうではない情報を無視しがちである。
 政治的プロパガンダが明白である情報を信じてしまう人は、その他の普通の人々と比べて、必ずしも知的能力が劣っているわけでもないだろう。ただ自分の願望を満たすという欲求が強すぎ、正確な情報を得たいという姿勢が失われてしまっているだけである。
 陰謀論の情報操作が、技術的な趣向だけで成功しうるとは思えない。陰謀論は、陰謀を求める人々の心情に訴えることによって、十分な効果を持つ。プーチン大統領が嘘をつかない良いロシアの大統領であってほしい願望を持つ人々に対しては、プーチン大統領は偽の情報を信じ込ませやすい。あるいはロシアは偉大な国になって欲しいという願望を持つている人には、ロシアは英雄的な行動をしているという物語を信じさせやすい。
 したがって、陰謀論に引っかからないようにするためには、まずは自分が求めているのは正確な情報であり、面白そうな噂話ではない、ということをよく自己意識化しておくことが必要だ。そのうえで他者の性癖を識別していくことが重要だ。陰謀論に引っかかっている者を識別するために、情報発信者がどのような思想傾向や政治的利益を持っているのかを、よく分析していかなければならない。
 情報をどう蒐集し、分析し、管理するかは、人類の歴史において、常に大きな重要性を持っている。ただ現代では、機械を操作して行う情報収集・管理・分析の度合いが大きい。それは非常に重要な点だが、逆にしばしば人間的な側面が軽視されがちになる特徴があることにも注意が必要だ。情報戦に勝ち抜くために、高度な情報収集・解析のための仕組みが求められる。しかし最後に重要になるのは、情報を扱う者たちの人間に対する洞察である。」
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 人間社会において、100%完全な絶対的正義・正しさは存在しないのと同じように100%完全な絶対的悪も存在しない。
 意見にも多数意見と少数意見があって白黒付けにく、ハッキリさせる方法として民主主義の多数決と専制君主の強権とその他がある。
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 自分が見たい知りたい情報のみ集める人の中に、陰謀論の虜となってのめり込む人が多い。
 日本にも昔から数多くの陰謀論が存在し、古代からの朝鮮による陰謀論、戦国時代の中世キリスト教会とイエズス会などの修道会による宗教陰謀論、江戸後期から明治期にかけてのロシア、アメリカ、清国(中国)などによる武力陰謀論、大正期から昭和初期にかけてのソ連コミンテルン中国共産党・国際共産主義勢力によるイデオロギー陰謀論、その他である。
 日本の歴史は、何時の時代でも陰険で怖ろしい陰謀論に晒されてきた歴史である。
 現代日本にも数多くの陰謀論が徘徊し、それを盲信する日本人が一定数存在する。
 平安時代と江戸時代、海の外からの陰謀論を断ち切る為に断行されたのが鎖国政策であった。
 日本の鎖国政策は、書籍・知識、技術・工芸品、薬草は積極的に受け入れたが、好ましくない外国人の入国・上陸を禁止・拒絶する事であった。
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 日本人は排他性・閉鎖性・閉塞性・不寛容が強いだけに自分が見たい情報や聞きたい意見を選り好みする傾向が強く、それ以外の情報や意見を毛嫌いして排除もしくは攻撃する。
 その傾向は戦前より現代の方がはるかに強い。
 陰謀論に、惑わされない真っ当な日本人は2割、程度差はあれ信じてしまう日本人は3割、理解できないか興味がない日本人は5割。
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 日本民族は、火がなかなか付きにくい生木に似ているが、一度火が付くと一気に燃え上が発火性油を含んだ木に似ている。
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 日本の自然は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
 日本民族は、死を意識し、死を友とし、死と共に生きていた。
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 日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
 つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
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 日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
 つまり、日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりである。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 西行法師「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮参拝して)
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
 何もしない勇気
 最適化された世界の窮屈さ
 ……
 太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
 ……
 『浅はかな干渉』が生み出す害
 ……
 『注意の搾取』が奪い去ったもの
 私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
 だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
 ……
 物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
  地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本民族は、石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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 日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
 つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、石器人・ヤポネシア人、縄文人・日本土人弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
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 日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
 つまり、日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりである。
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 ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 西行法師「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮参拝して)
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 2022年3月号 Voice「言葉のリハビリテーション 森田真生
 何もしない勇気
 最適化された世界の窮屈さ
 ……
 太陽がのぼるのも、雲が動くのも、鳥が鳴くのも自分のためではない。だからこそ、目に見えるもの、耳に届く音に、素直に感覚を集めることができる。
 ……
 『浅はかな干渉』が生み出す害
 ……
 『注意の搾取』が奪い去ったもの
 私たちはときに、浅はかな理解や理論に基づく性急な行動で安心を手に入れようとする前に『何もしない』という知恵を働かせてみることも考えてみるべきなのだ。
 だが、人間の設計したもので溢れかえる現代の世界において、『何もしない』ことはますます難しくなっている。
 ……
 物思いに耽(ふけ)って電車を乗り過ごし、都会の真ん中で月を見上げて立ち止まる。スマホを横に置いて窓の外を眺め、ただ理由もなく鳥の鳴く声に耳を傾ける。……」
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
  地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 日本の甚大な被害をもたらす破壊的壊滅的自然災害は種類が多く、年中・季節に関係なく、昼夜に関係なく、日本列島のどこでも地形や条件に関係なく、同時多発的に複合的に起きる。
 それこそ、気が休まる暇がない程、生きた心地がない程であった。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
 武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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 徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
 が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
 つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
 それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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 日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
 日本で生きるのは、運しだいであった。
 日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
 それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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 左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
 彼らには、数万年前の石器時代縄文時代と数千年前の弥生時代古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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 日本の自然は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境を生きてきた。
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 日本民族は、石器時代縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。
 それ故に、狂ったように祭りを繰り返して、酒を飲み、謡い、踊り、笑い、嬉しくて泣き、悲しくて泣き、怒って喧嘩をし、今この時の命を実感しながら陽気に生きていた。
 「自分がやらなければ始まらない」それが、粋でいなせな江戸っ子堅気の生き様であった。
 江戸時代は、自助努力のブラック社会であった。
 田代俊孝(仁愛大学学長)「『人は死ぬ』という厳然たる事実を、誰しも普段の生活では見て見ぬふりをしているものです。しかし、自分がいずれは『死すべき身』だということを意識すれば現在の生への感謝が生まれ、生きる気力が湧いてくる。つまり天命、死というものを知ることによって人生観が変わる。祖父母、父母、そして自分と、連綿と続く流れのなかで思いがけず命をいただいたのだ、と気づくのです」
 植島敬司(宗教人類学者)「人生は自分で決められることばからりではありません。不確定だからこそ素晴らしいのです。わからないなりに自分がどこまでやれるのか、やりたいことを追求できるのかが大事で、それが人生の豊かさにつながるのだと思います」
 平井正修(全生庵住職)「コロナ禍に襲われるずっと以前から人類は病に悩まされてきました。病気やケガで自由な身体が動かなくなり、人に介抱してもらうと、当たり前のことのあるがたさに気づきます。何を当たり前として生きていくのか、それは人生でとても大切なことであり、すべての人に起こる究極の当たり前が、死なのです」
 「現代では死というものが過剰に重たく受け止められていますが、そもそも死はもっと身近にあるものです。考えようによっては、現世に生きているいまのほうが自分の仮初(かりそめ)の姿とさえ言える。
 最終的には、誰もが同じところへと生きます。みんなが辿る同じ道を、自分も通るだけ。そう思えば、死も恐れるものではありません」
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