🎺65:─1─日本陸軍が最期に抵抗しなければ敗戦国日本は分断国家・分裂国家になっていた。~No.306No.307No.308 ㊶ 

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 2019年8月27日 JBpress「あの抵抗がなければ日本は分断国家になっていた
 日本側の希望的観測が招いた「ソ連侵攻」の悲劇
 1941年4月、モスクワで日ソ中立条約に署名する松岡洋右外相。その後ろは、スターリンソ連外相モロトフ(出所:Wikipedia
(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)
  今年(2019年)5月、日本維新の会に属していた丸山穂高議員(当時)による「北方領土問題」についての発言が問題視され、国会を巻き込んだ大騒動になった。
 この「事件」によって、北方領土返還に向けて努力を重ねてきた関係者の長年の努力に水を差すことになってしまったのは、たいへん残念なことだ。北方領土を戦争で取り戻すという趣旨の、丸山議員の言動に問題があることは、誰もが認めることだろう。とはいうものの、日本維新の会の代表がロシア側に謝罪したことには疑問を感じざるを得ない。そう思う日本国民も、少なからず存在するのではないだろうか。
 北方領土が戦争で奪われたのは歴史的事実であり、それを戦争で奪い返すという発想は、頭の体操としてなら無意味なことでも悪質なことでもない。発言の自由まで否定するのでは「日本国憲法19条」の「思想・信条の自由」に反してしまう。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する」と定めた「日本国憲法第9条」の規定があろうがなかろうが、戦争で奪い返すことの実現可能性がほとんどゼロに近いことは、もちろん言うまでもない。
 丸山議員の発言が原因の1つとなったわけではないだろうが、北方領土返還交渉は暗礁に乗り上げたままとなっている。歯舞群島色丹島の「2島返還」で妥協して交渉してみたところで、ロシア側の態度に変化はない。なぜなら、「日米安保体制」のもと、米国は日本のどこにでも軍事基地をつくることができるからだ。仮に返還された2島に米軍基地が建設されることになると、ロシアは千島列島で直接対峙することになってしまう。ロシアは、現時点でも世界最強の米軍の存在を恐れている。
 つまるところ、「北方領土問題」には、ロシア(=旧ソ連)だけが関わっているのではないのである。「見えない影」のように、米国がどこまでもついてくる。ロシア側のロジックに従う限り、「日米安保条約」が廃棄されて「日米軍事同盟」が解消するか、あるいは抜本的に改正されるかしない限り、北方領土の返還はありえないということになる。
 いくら日本政府が、返還されることになる2島には米軍基地はつくらせないと主張してみたところで、ロシア側が首を縦に振ることはないであろう。それは、歴史を振り返ってみれば明らかになることだ。
 東アジアの諸問題は日本の敗戦から始まった
 東アジアは、激動の時代に逆戻りしている。1991年に米ソの冷戦構造が崩壊してから、見えなかった問題が顕在化してきたのである。尖閣諸島をめぐる日中対立、軍事的な台湾統一も辞さないとする中国共産党、いっこうに終わることのない香港のデモ、見通しの見えない日韓紛争などなど。枚挙にいとまがない。
 こういった東アジアの諸問題は、いずれもかつての「大日本帝国」の領土で起こっていることに注目したい。現在の「日本国」は、「ポツダム宣言」を受諾して敗戦した結果、日本列島と周辺の島々だけに領土が縮小してしまった。だが、敗戦前は「大日本帝国」だったのである。かつて日本は、良い悪いに関係なく、歴史的事実として海外に植民地を保有する「帝国」だったのだ。
 大日本帝国の領土は、南は台湾、北は朝鮮半島満洲南樺太と千島列島まで及んでいた(ただし、第2次大戦中に占領した南方は除く)。このことからもわかるように、北方領土問題は、けっして朝鮮半島問題と無縁の問題ではない。いずれも、日本の敗戦直前から始まったソ連による軍事侵攻がもたらしたものであり、戦争遂行にあたって日本の海外領土を戦略的に重視してこなかった米国の不作為がそれを助長したのである。そして、不毛な日中戦争の舞台となった中国もまた当事者である。
 「降伏文書」後も続いたソ連の侵攻
 歴史を振り返って考えるにあたって、まずは1945(昭和20)年8月15日の「ポツダム宣言受諾」前夜から始まったソ連軍による侵攻について見ておこう。
 8月6日の米軍による広島への原爆投下につづき、8月8日にソ連は「対日宣戦布告」して、9日午前0時から満洲に侵攻を開始した。「日ソ中立条約」を一方的に破棄したうえで、満洲国、朝鮮半島樺太南部、千島列島に次々に侵攻し、各地で日本軍と戦闘になったのである。
 ソ連満洲に侵攻した8月9日には、米軍による長崎の原爆投下が、ダメ押しのように行われている。このままでは日本民族が絶滅してしまうという危機感を抱いた昭和天皇の御聖断によって、日本の国体である天皇制維持を条件に「ポツダム宣言」を受諾することを決断された。日本政府は、8月15日に天皇による「終戦詔勅」を発布、全国民に向けてラジオで玉音放送が行われた。この時点で、日本の敗戦は実質的に確定した。
 ここまでは、日本国民の多くが「常識」として知っている歴史的事実であろう。だが、実際に大東亜戦争終結したのは9月2日である。東京湾に停泊する米海軍のミズーリ号上で、連合国とのあいだで「降伏文書」が調印された時点のことだ。8月15日から9月2日までのあいだに何が起こったのか、ソ連軍の侵攻について日本国民はよく知っておく必要がある。
 さらにいえば、降伏文書調印の9月2日以降もまだソ連軍の侵攻が終わっていなかったことも知っておく必要がある。「北方領土問題」の焦点となっている歯舞諸島ソ連による占領が完了したのは、9月5日のことであった。このことは銘記しておきたい。
 日本の敗戦直前に始まったソ連満洲侵攻
 ソ連が対日戦争に参戦することは、すでに「テヘラン会議」(1943年11月)で、独裁者スターリンによって公式に表明されていた。
 1944年夏には、ソ連は対日参戦準備に正式に着手している。同じ年の10月には、「ドイツ敗戦から3カ月で対日参戦」するという約束を、連合軍の中心であった米英から取り付けていた。「ヤルタ会談」(1945年2月)の秘密協定において、ソ連樺太南部の「返還」、千島列島の「引き渡し」を米英に認めさせていた。この事実を、日本側はキャッチしていなかったのだ。
 ドイツが連合国に降伏したのは1945年5月7日であり、その日から3カ月とは8月7日となる。ソ連にとっては、ギリギリのタイミングだったことになる。独ソ戦は、史上まれに見る、想像を絶する絶滅戦争となったが、その独ソ戦を戦い抜いた部隊をユーラシア大陸の反対側に位置する極東ロシアに移動するため、対日戦の準備にはそれだけ時間がかかったからだ。もし日本の降伏が早まっていたら、ソ連にとっては、作戦実行が不可能となっていたのである。だからこそ、ドイツの降伏後に停戦に持ち込めなかった日本の指導層の罪は、きわめて大きい。
 ソ連軍による軍事侵攻がいかなるものであったか、満洲朝鮮半島南樺太、千島列島のそれぞれについて見ておくことにしよう。
 ソ連艦隊にとって太平洋側への出口にある千島列島の確保は、ソ連にとっては死活的利益であったが、まずは極東ソ連軍のほぼ全兵力を集中して満洲に侵攻する「第1次作戦」から開始、次に南樺太に侵攻する「第2次作戦」、さらに未遂に終わったが北海道北部を占領する「第3次作戦」を計画していた。
 「第1次作戦」である満洲への侵攻からみていこう。1945年8月8日、「日ソ中立条約」を一方的に破棄して日本に宣戦布告、翌日の午前0時をもって軍事侵攻を開始した。「日ソ中立条約」は、ソ連が日本に対して破棄を通告していたが、翌年1946年の4月26日まで有効であった。日本側は、不意を突かれたのだ。まさか、ソ連が侵攻してくることは、一部の関係者を除いて想定内にはなかったようだ。
 精鋭とうたわれた帝国陸軍関東軍満洲国を防衛していたはずだが、南方戦線に部隊の主要部分が移動してしまっていたためすでに弱体化しており、満ソ国境付近で多くの部隊が全滅、あっというまに総崩れとなってしまった。関東軍の首脳は、8月10日に新京から撤退を決定、日本人居留民が取り残されてしまった。いくつかの例外はあったものの、関東軍は居留民保護という軍の使命を結果として放棄したのである。
 「満州事変」(1931年)によって日本の傀儡国家として成立した満洲国には、100数十万人を超える日本人が居留民として暮らしていた。官僚や企業の駐在員として、勤務の関係で暮らしていた人たちとその家族だけでなく、農業移民として開拓にあたっていた人も多い。過酷な独ソ戦を体験していた極東ソ連軍は、最初から軍紀が乱れており、日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発している。この悲劇については、現在でも映画やドラマのテーマとなることも多いので、比較的よく知られていることだろう。
 難民となった満洲の日本人居留民の帰国は大幅に遅れ、朝鮮半島を経て逃げた人びとも多く、命からがらの脱出行では多くの人びとが辛酸をなめることになった。それだけでなく、武装解除された将兵以外の民間人の成年男子もシベリアや中央アジア強制収容所ラーゲリ)に送られ、過酷な強制労働を強いられた。25万人以上が死亡したとされている。いわゆる「シベリア抑留」である。
 満洲侵攻の側面支援だった朝鮮半島北部への侵攻
 ソ連軍はまた、満洲に侵攻した8月9日、ほぼ同時に国境を接している朝鮮北東部から爆撃を開始し、地上部隊が南下しながら「日本統治下の朝鮮」を制圧していった。1945年9月2日の日本の降伏までに、北緯38度線以北の朝鮮(=北朝鮮)全域に進駐を完了している。
 だが、ソ連軍にとって朝鮮北部への侵攻は、主作戦である満洲侵攻の側面支援を意図したものであり、最初から38度線以北を確保することが目的だったわけではない。対日戦において朝鮮半島を戦略的に重視していなかった米軍が、朝鮮半島に進駐するのが遅れた結果、米ソ間のあわただしい取り決めによって、38度線を境に北部はソ連、南部は米国が進駐することになったのである。
 朝鮮半島の南北分断は、大日本帝国による植民地支配が背景にあったことはたしかだが、直接の原因は当時の2大超大国であった米ソに帰すべきであろう。北部のソ連の占領地域には、ソ連領内でかくまわれていた抗日ゲリラの金日成(キム・イルソン)が送り込まれ、南部の米軍の軍政下では、米国で亡命生活を送っていた李承晩(イ・スンマン)が送り込まれることになる。
 日本人居留民の満洲難民の多くは、朝鮮半島を南下して難民収容所で過ごしたあと、帰国船によって日本に帰還しているが、朝鮮半島が38度線で分断されていたため、その苦労はきわめて大きなものとなった。
 樺太南部と千島列島への侵攻
 先にも触れたように、樺太南部への侵攻は「第2次作戦」であった。8月11日、樺太北部のソ連領から地上軍が国境線を越えてきた。日本の敗戦による戦争終結が時間の問題となっていたためだ。
 実はソ連は、占領後の南樺太を基地にして、「第3次作戦」である「北海道北部侵攻作戦」を計画していた。だが、ソ連の意図を正しく見抜いていた帝国陸軍の第5方面軍の指導により、南樺太においては第88師団が頑強に抗戦、8月15日時点では国境付近の要所もいまだソ連に占領されていない状態であった。8月15日以降も南樺太では戦闘がつづき、停戦協定が結ばれたのは8月22日のことであった。
 想定外に南樺太の占領が遅れたため、スターリンは8月22日、最終的に北海道北部侵攻作戦を断念することになる。そもそも、北海道北部侵攻は、米国のトルーマン大統領が拒絶しており、降伏文書調印までの限られた時間で北海道北部を占領することは、軍事的にみてきわめて困難だとわかったからだ。もし仮にソ連軍が「第3次作戦」を決行していたら、圧倒的な兵力を持つ米陸海軍と衝突していた可能性もある。樺太での帝国陸軍による頑強な抵抗が、北海道分断を防いだのである。
 ソ連は、千島列島はなんとしてでも押さえたいと考えていた。8月17日深夜、ソ連軍は北千島の最北端の島である占守島(しむしゅとう)に対岸のソ連領カムチャツカから上陸したが、帝国陸軍の第91師団は3日間にわたってソ連軍と激戦を戦い抜き、停戦に持ち込んでいる。その結果、幌筵島(ぱらむしるとう)以南へのソ連軍は無血占領となったものの作戦展開が大幅に遅れ、この点からも、北海道北部侵攻作戦が不可能となった。
 南樺太占守島の守備隊の頑強な抵抗のおかげで、北海道北部が占領されることなく、日本が分断国家となることから免れ得たのであった。この事実は、日本国民として十分に認識しておく必要がある。米国は、ソ連による北海道北部占領は拒絶していたが、千島列島をソ連が占領することは暗黙のうちに認めていた。北方領土問題が米ソ間の問題であるとは、このことを指している。
 ちなみに、スターリンが北海道北部を要求した理由に、「シベリア出兵」(1918~1922年)の代償を主張していた。たしかに、このコラムでも取り上げたように(「知られざる戦争『シベリア出兵』の凄惨な真実」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55568)シベリア出兵において帝国陸軍が現地で行った暴虐行為の数々は否定することはできない。だからといって、北海道北部を占領する必要があるというロジックは理解に苦しむ。
 ソ連侵攻をもたらした日本の指導層の「希望的観測」
 ソ連侵攻は、「日ソ中立条約」が存在するにもかかわらず、ソ連側が一方的に条約を破棄して侵攻を断行したものだ。ところが、その直前まで日本の指導層は、なんとソ連に連合国との停戦交渉の仲介を期待して働きかけていたのである。なぜそんなバカな事態を招いたのだと言いたくなるのは私だけではないのではなかろうか。
 もともと、ドイツとの戦争の危険を感じていたユーラシア国家のソ連は、ユーラシア大陸の東西両サイドで、ドイツと日本との二正面戦争を戦うはめになることを極度に恐れていた。「独ソ不可侵条約」(1939年)が締結されたのはそのためであるし、ソ連は日本にも「不可侵条約」の締結を求めていたのである。
 というのも、大戦の最末期の「ソ連対日参戦」の前に、近代に入ってから日本とロシアは4回にわたって激突してきたからだ。「日露戦争」(1904~1905年)、「シベリア出兵」(1918~1922年)、「張鼓峰事件」(1938年)、「ノモンハン事件」(1939年)である。最後の2つの戦争は、ともに国境紛争であった。日ソの双方に多大な犠牲者を出した上で政治的に決着がつけられ停戦となった。ともに全面戦争は回避され、限定戦争となったのである。かつて、ノモンハン事件では日本が惨敗したとされてきたが、ソ連側の被害も大きかったことが現在では明らかになっている。だから、ソ連は日本を脅威と見なし、その後も警戒を怠らなかったのである。
 その後、日本側から「不可侵条約」の締結をソ連に求めた際、ソ連側は「中立条約」を逆提案し、1941年4月に「日ソ中立条約」が締結されることになる。その直後のことであるが、「独ソ不可侵条約」が、1941年6月になってドイツによっていとも簡単に破られている。その事実を知りながら、日本の指導層が、ロシアが日本を裏切ることはあるまいと考えていたのは、現在から見て実に不思議な印象を受ける。根拠なき楽観というべきであろうか。
 「独ソ不可侵条約」が廃棄された直後の1941年6月には、「関特演」(=関東軍特殊演習)が行われている。これは、対ソ戦を意識して、いつでも戦争に入る準備として行われたものだ。ドイツからソ連を挟み込んで攻撃することが要請されていたからである。結局、「関特演」にともなう対ソ戦は実行に移されなかった。だが、「日ソ中立条約」がありながら帝国陸軍はこうした動きを示しているのであり、当然のことながらソ連側でも警戒を怠っていなかった。1945年8月9日に「日ソ中立条約」を破棄してソ連軍が侵攻してきたわけだが、自分たちもすでに実行しようと意図していたことであり、ちょっとでも考えてみれば十分予想できたはずである。日本側にはイマジネーションが欠けていたのであろうか。
 ソ連軍の非道な行為と、それを命令した独裁者スターリンの罪は重く、言語道断というべきだが、一方では、それを許した日本の支配層の見通しの甘さ、希望的観測もまた同様に罪が重いと言わざるを得ない。
 希望的観測をもたず自分の身は自分で守れ!
 「希望的観測」とは、「そうあってほしい」とか「そうだったらいいな」という「希望」に基づいて判断を行うことをいう。確実な証拠があるわけでもなく、そのために何か具体的なことに取り組むというわけでもない。「相手がわかってくれるはず」という思い込みもまた「希望的観測」のなせるわざだ。そもそも、他人が自分のことをどう考えるかなんて、本当はわかるはずないのだが。
 大戦末期のソ連侵攻は、日本側の希望的観測が招いた悲劇というべきだろう。「備えあれば憂いなし」とはいうものの、人間には、なぜか自分だけは関係ないという認知バイアスが働きがちだ。満洲の日本人居留民たちもまた、無敵の関東軍がいるから自分たちは大丈夫だと思い込んで、根拠なき楽観に囚われていたのである。ある意味では、指導層と似たようなものだ。
 人間には、自分自身が痛い思いをしないとリスクに備えようとしない傾向がある。大日本帝国崩壊時のように日本人が難民化する可能性は、確率的には高くないだろう。だが、それでも1945年8月15日前後から9月2日前後までに起こった事態を知ることで、先人たちのつらい体験を自分自身のものとして追体験し、リスクに備える準備をするべきではないだろうか。日本から難民が発生することはないにしても、再び動乱の時代になっている東アジアの各国、とくに朝鮮半島から大量の難民が発生する可能性が高い。難民を受け入れる立場からも、そのときをイメージして想定内にしておく必要があると思うのである。
 希望的観測をもつことなく、自分の身は自分で守らなければならない。これは日本人にとっての「常識」としたいものなのだ。だが、残念なことであるが、どうも日本人は健忘症のように思えてならない。」
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