🎵20:─1─キリスト教の宗教侵略。キリスト教系庶民ポピュリズムと皇室・天皇制度の危機。~No.41No.42 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 貴族院は、衆議院が庶民ポピュリズムで暴走しないように抑制する装置であった。
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 2022年6月30日号 週刊新潮「夏裘冬扇  片山杜秀
 参議院選挙を前に緑風会を懐かしむ
 二院クラブという会派がかつて参議院にあった。正式には第二院クラブという。市川房枝青島幸男横山ノックなどが所属した。二院や第二院とは参議院の別称。第一院すなわち衆議院議席を持つ政党とは一線を画し、参議院の独自性を守りたい議員が集まっていた。
 二院クラブには大本がある。緑風会という。1947年の第1回参議院選挙に無所属で当選した議員たちが核となり、所属議員は92人に及んだ。片山哲率いる日本社会党約50,吉田茂率いる日本自由党が約40の議席であったから、緑風会参議院の最大会派になった。以後は下り坂になるが、それでも戦後しばらくそれなりの勢力を保つ。もちろん参議院だけの会派。衆議院にはひとりも居ない。しかし緑風会を無視して議会政治はできない。昭和20年代の片山や吉田の政権には緑風会の議員が入閣していた。
 はて、緑風会結成の所以は?そもそもなぜ参議院の初めに無所属議員が大勢いたのか。参議院の前身と呼ばれるのは帝国憲法下の貴族院である。議員は世襲華族間の互選や勅選で任じられていた。ところが後継役として戦後憲法の定めた参議院の議員は衆議院と同じく国民の選挙によるものへ。でも第1回選挙では衆議院の政党が参議院にまで十分に候補を立てられなかった。旧貴族院議員から参議院に無所属で立候補する者も多く、そうしたら大量当選した。
 そのとき、貴族院から参議院に転じた無所属議員のひとり、作家の山本有三に、政界の黒幕、後藤隆之助が囁いた。貴族院の意義とは何だったか。衆議院を根城とする民衆政党は、選挙のたびに人気取りにばかり走って、国の道を誤らせる可能性が高い。そんなポピュリズムを抑制すべく働いたのが貴族院だろう。参議院はその役目を受け継ぐべし。衆議院と被らぬ会派を育て、衆議院を牽制するのが、第二院の使命!山本は乗った。緑風会誕生譚である。
 後藤の思想は戦後民主主義から見て旧弊だったろうか。そうでもあるまい。日本は欧米の民主主義を手本にしてきたという。英国の上院は今日も国民の選挙を経ない貴族議員らで構成されている。米国の上院はというと、選挙もあれば、下院と同じく民主党共和党の議員で占められる。が、上院に託された思想は下院とは明らかに違う。上院議員は各州の人口に関係なく全州各々定数2.ニューヨークもアラスカも、等しく合衆(州)国を構成する州である限り、同数の代表を出す。東京も沖縄も議員定数は同じみたいな話だ。英米では、そうやってこそ、民衆政党の暴走や地域間の不平等が抑制されるとの思想が、現代にも生きている。
 そう言えば、英国の社会主義者、ウェップ夫妻が提案し、昭和初期の日本でも注目された新しい二院制の構想もあったっけ。議会を政治議会と社会議会に分ける。前者は外交や軍事に、後者は福祉や文教に特化する。同じことを二重に審議する二院制はムダ。それぞれが専門分野を徹底審議したらどうか。夫妻はそう考えた。
 国会改革というと、議員の定数や歳費、あるいは選挙制度の議論ばかりの印象がある。身を切るとか切らぬとか、1票の格差云々とか。そんなことよりも二院制の意義を問うことの方が重要ではないのか。第二院があるならもっと独自性を!参議院衆議院とは別個の党派のみ、若しくは無所属議員のみで構成させるべしと憲法で決めるくらいでもいい。そうでなかったら一院制でも構わぬのではないか。
 緑風会的なるものの居ない参議院なんて、気の抜けた炭酸水のようなものです。」
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『詳説 日本史研究』第9章 近代国家の成立 明治維新と富国強兵
 身分制度の改革
 政府は中央集権体制の強化を推し進めるかたわら、封建的な諸制度を相次いで撤廃した。版籍奉還によって藩主と藩士との主従関係が解消されたので、この機会に封建的身分制度を大幅に改革し、大名・公家を華族、一般武士を士族、農工商ら庶民を平民に改めた。そして1871(明治4)年には、いわゆる解放令を布告して、これまでのえた・非人の呼称を廃止して、身分・職業とも、すべて平民と同じにした。さらに四民平等の立場から、平民に苗字(みょうじ)をつけることを公認し、平民と華族との結婚、職業の選択や移転・居住の自由も認められた。」
 明治6(1873)年時点の人口構成は、華族2,829人、士族154万8,568人、卒(下級武士層、まもなく廃止)は34万3,881人で、合わせて人口の5.7%である。平民は3,110万6,514人、その他(僧侶・神職など)は29万800人である。(『明治史要より』)
 総人口合計3,330万672人。平民 93.4%。
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 明治新政府は、長年虐げられてきた穢多・非人を解放するべく、四民平等の近代天皇の勅に従い身分差別をなくす施策を実行していた。
 庶民は、与えられた平民という新しい地位への満足感に自分より弱い下位身分を見下す優越感と安心感を得る為に、職業的理由からの偏見で部落民を見下して穢れた人間という差別を解消せず持ち続けた。
 琉球民族アイヌ民族への偏見と差別も、政府は同化目的の土人政策を実行したが、庶民は嫌悪の僻地野蛮人認識を持ち続けた。
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 明治政府の身分制度廃止の真の目的は国民皆兵制度で庶民を国民の義務から徴兵し、ロシアの侵略から天皇・国・民族を守る積極的自衛戦争に投入する為であった。
 つまり、身分制度の廃止は対外戦争に勝利する為の兵隊数を増やす事が目的であった。 
 江戸時代までに合戦・戦争をしたのは、武士だけで庶民は参加しなかった。
 総人口のうち、武士は7%で、百姓は85%で、町人は5%で、穢多・非人といった被差別階級は1.5%であった。
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 明治2(1869)年  版籍奉還
 明治4(1871)年  廃藩置県
 明治6(1873)年  秩禄奉還の法。
 2月24日       キリスト教解禁。
             全国でミッション・スクールが開校。
             西洋礼賛者にキリシタンが増え始めた。
             新たな宗教侵略。 
 明治7(1874)年  板垣退助民選議員設置の建白書。
             自由民権運動の始まり。
 明治9(1876)年  百姓一揆の激化。
             廃刀令
 明治10(1877)年 西南戦争。不満士族の騒動や反乱の最後。
 明治11(1878)年 竹橋事件。旧官軍兵士の反乱。
 明治12年~15年   民権派による私擬憲法案50編近く。
 明治14(1881)年 大隈重信の早期国会開設を建議。
             板垣は民主党を結党。
             福地源一郎は政府系立憲帝政党を結党。
 明治15(1882)年 大隈は立憲民主党を結成。
             全国の反政府系政党による自由民権運動が激化。
 明治17(1884)年 秩父事件
 明治18(1885)年 内閣制度発足。第1回伊藤博文内閣成立。
 明治21(1888)年 枢密院設置。議長に伊藤博文就任。
 明治22(1889)年 大日本帝国憲法発布。統帥権
             皇室典範
 {憲法に隠された意図とは、明治維新などの歴史を教訓として、天皇の権限を縛り、政府・体制を転覆させようとする勢力に天皇を悪用されない事である。}
 明治23(1890)年 帝国議会開設。衆議院貴族院の二院制。
             第1回衆議院総選挙、民党派が過半数を占めた。
             教育勅語
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 日本大百科全書(ニッポニカ)
 士族
 明治維新後、新政府が旧武士に与えた身分呼称。1869年(明治2)版籍奉還とともに、旧来の四民(士農工商)からなる身分秩序の整理が開始された。旧公卿(くぎょう)と諸大名の藩主が華族に、旧幕臣、諸藩藩士、神官、寺院などの家士たちが士族に処せられた。翌年、士族の下層であった足軽(あしがる)などを卒族としたが、反対運動があったため、72年に彼らのなかで世襲の者を士族に、一代限りの者を平民に分属させて、卒族の呼称を廃止して、士族身分を確定した。73年当時、その数約41万戸弱、人口約189万人強であった。士族の身分は華族に次いで、平民の上に位置づけられ、また当面、家禄(かろく)や帯刀などの封建的特権が許されたこととも相まって、平民に対する彼らの感情を満足させた。一部には、政官界・学界・軍部などで指導者としての役割を果たし、また商工業の分野に進出した例もあったが、徴兵令、廃刀令、秩禄(ちつろく)処分などを経て、その政治・社会的地位は失われ、没落した者が多かった。生計の手段を失った士族のなかで、職人、教員、邏卒(らそつ)になったり、塾経営者に転身した者などはまだ成功したほうで、「士族の商法」に従って商売を始め失敗した場合も多かった。困窮士族のなかには、貧民街に住み日雇い人夫や乞食(こじき)になったり、強盗や自殺者までも出した例がある。新政府は、金禄公債を与え、資金を貸し付けて失業士族の授産政策を進めたが、彼らを救済することはできなかった。その結果、没落不平士族の不満は蓄積され、西南戦争に至る士族反乱に加わり、また1870年代に始まる初期の自由民権運動の担い手の一部になって活躍した者もあった。1947年(昭和22)戸籍法の改正により、士族は他の身分呼称とともに廃止された。
 [石塚裕道]
 [参照項目] | 士族授産 | 士族反乱
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 一般社団法人 こたえのない学校
 明治時代のキリスト教と教育(その1)横浜にやってきた宣教師たちと学校―私たちの教育のルーツをたどる(12)
 BY 藤原 さと 2021-11-18 ブログ、藤原 さと
 福沢諭吉の回でも少し触れましたが、私の卒業した中学・高校の創立者福沢諭吉と同じ中津藩出身の武士で福沢諭吉を江戸に呼び、蘭学塾を開き、慶應義塾の原点をつくった人物の甥でした。東京高輪にある頌栄女子学院という学校なのですが、この学校はプロテスタントキリスト教の学校で明治17年に開校しています。二代目校長は島崎藤村に洗礼を施し、明治女学校を設立した木村熊二です。私の場合、特別に宗教教育を受けたいと思ってこの学校に入ったわけではないのですが(制服が可愛いと思った)、さすがに6年も毎朝礼拝をするような生活をしていると、なんらかの影響は受けるものだと最近になって思うようになりました。私だけではなく、私のように何気なくキリスト教の学校に入学し、なんとなく聖書を読んでいたという人は結構いるのではないかと思います。
 さて、日本にはカトリックにしろ、プロテスタントにしろ、かなりの数のキリスト教系の学校(私学)があることにお気づきでしょうか。プロテスタント系でいうと、新島襄の設立した同志社、立教、青山学院など、カトリックだと上智大学、聖心女子、清泉女子など相当数あり、とてもではありませんが、全部をここで紹介することはできません。中学・高校になるともっと多く、浦和明の星、女子学院、栄光学園、カリタス女子、雙葉、暁星、サレジオラ・サール、大学もある白百合、明治学院など挙げても挙げてもきりがないくらいにたくさんの学校があります。
 西欧ではキリスト教と学校はもっと密接な関係を持ちます。たとえば、1636年に設立されたハーバード大学は、当初開拓のリーダーたるべき聖職者の養成学校としてスタートしています。イギリスのオックスフォード大学は、1133年にパリ大学から神学者ロベール・ピュランが来講したのを起源とすることが多いそうですが、12世紀末に全キリスト教国に共通の認定権を取得し、「ローマ教会の第二の学校」としてパリ大学に次ぐ地位を与えられています。
 ところで、明治時代にはどれだけのキリスト教系の学校があったのでしょうか。以下の表を見ると、明治期にできたプロテスタント系の学校は、84校が開校し、閉校などされず最後まで残ったものだけを数えても57校あります。そのうち42校が女子校で、明治22年大日本帝国憲法発布前の10年間に開校ラッシュがあり、発布後は一転して閉校だらけとなり、むしろ数を減らしました。一方で、カトリックの学校は、明治20年代までに9校、それ以降に9校設立されています[i]。(この辺の事情については「その3」でカバーしています)
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 近代化によって、西洋や中華からキリスト教無政府主義などの宗教や哲学・思想・イデオロギー流入して反天皇反民族反日本的日本人が増えた。
 明治43(1910)年 大逆事件無政府主義者による明治天皇暗殺計画事件。
 日本にとって最も恐ろしいイデオロギーであるマルクス主義共産主義が、大学に忍び込み、優秀・有能な学生達を洗脳し始めた。
 マルクス主義者・共産主義者による反宗教無神論と反天皇反民族反日本の運動が下層階級・低賃金労働者・部落民の間で盛んになり、人民暴力革命を目指すイデオロギー・テロリストや宗教テロリストによる天皇や皇族、保守派政府要人、財閥幹部らの暗殺テロ計画が囁かれ始めた。
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 庶民ポピュリズムには、左翼・左派も右翼・右派も関係なかった。
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 日本人の共産主義テロリスト・無政府主義テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 明治の元勲や重臣は、有能な庶民が、帝国大学を優秀な成績で卒業し政治家に当選して政治や外交を動かす事を恐れ、士官学校兵学校、陸軍大学・海軍大学を優秀な成績で卒業して上級将官となって作戦を立案し軍隊を指揮命令して戦争を始める事を危惧し、権力を手にした庶民が国家を危険にさらすのではないかと警戒した。
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 日本の近代化とは、侵略してくるロシアの大軍大艦隊から天皇と国と民族を軍事力で守る為の軍国主義国家を建設する事であった。
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 自由民権運動とは、薩長藩閥政府・官吏専横に対する庶民ポピュリズムの走りであった。
 自由民権運動を行ったのは、江戸時代までの百姓や町人の庶民ではなく、政府内で薩長藩閥との政争に負けて下野した土佐閥などの反主流派と旧幕臣や旧佐幕派の旧士族と新政府に不満を持つ庶民達であった。
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 徴兵制は、庶民に国民としての自覚を持たせる為に義務と権利を付与する事であった。
 庶民は、憲法によって四民平等で身分制度から解放され、法律によって国民として政治・財政・軍事の権力を合法的に手に入れる事が可能となった。
 日本の庶民とは、戦国時代に乱取りと落ち武者狩りそして日本人奴隷交易とキリシタン弾圧を行った日本人の子孫であった。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「貴族院」の解説
 貴族院 きぞくいん
 二院制の国会で、世襲の貴族や高官などによって構成される議院。議会制の長い歴史をもつイギリスでは、古くウィリアム1世(在位1066~87)のころから国王の諮問機関として大貴族よりなる大会議magnum conciliumを有していたが、しだいに小貴族、市民代表が参加することになり、のちに分裂して、世襲制の貴族階級によって構成される貴族院House of Lordsと、市民代表からなる庶民院House of Commonsの二院制が成立した。民主政治の発展とともに、公選制の庶民院に政治の実権が移り、貴族院は名目的存在となった。貴族院の制度は、イギリスの影響を受けたヨーロッパ諸国、すなわち立憲君主制時代のフランス、第一次世界大戦以前のプロシア王国、バイエルンなどのドイツ諸国、オーストリアなどにみられたが、現代では、イギリスを除いて存在しない。
 わが国では、明治憲法下の帝国議会衆議院および貴族院から構成された。権限のうえでは衆議院貴族院はほぼ同等とされたが、衆議院が公選議員によって構成されるのに対して、貴族院貴族院令の定めるところにより、皇族議員華族議員および勅任議員によって組織された(旧憲法34条)。
 貴族院令によれば、皇族議員は、成年に達した皇族は当然議員となる。華族議員のうち公侯爵を有する者は、満30年(大正14年〈1925〉の改正前は満25年)に達すれば当然議員となり、伯子男爵を有する者は、総数150人(大正14年改正前は176人)で、同爵者中の選挙により選出され、その任期を7年とした。勅選議員は、(1)終身議員として、国家に勲労ある者または学識ある者のなかから勅選される満30年以上の男子125人、(2)帝国学士院会員より互選される任期7年の議員4名(大正14年の改正により追加)、(3)多額納税者議員として各府県から多額納税者100人に対して1名の割合で互選された任期7年の議員66名以内、の3種類があった。
 以上の組織で明らかなように、貴族院は、大土地所有者、資本家、高級官僚など、旧憲法時代における特権支配層を代表し、また同時に天皇制の防塞(ぼうさい)たる役割を担うものであった。公選議員よりなる衆議院の政党化に伴い、政党と藩閥官僚との対立が表面化すると、貴族院がときにキャスティング・ボートを握り、あるときは政府と対立し、またあるときは政府と結んで野党を抑えた。第四次伊藤博文(ひろぶみ)内閣における予算案(1901)、第一次、第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣における郡制廃止案(1907)、選挙法改正案(1912)をめぐる政府との対立が前者の例であり、清浦奎吾(けいご)内閣の成立(1924)に対する支援が後者の例である。清浦内閣の成立に関しての貴族院の態度に反発する護憲三派の不満を直接の契機として、1925年、貴族院の一部改革が行われた。
 昭和に入り、軍部が台頭し、二・二六事件による政党政治の終焉(しゅうえん)とともに議会政治は有名無実となり、貴族院もその存在意義を失った。1947年(昭和22)日本国憲法の施行により貴族院は廃止された。新憲法下でも二院制は維持されたが、衆議院参議院とも公選議員により組織されることとなった。
 [山野一美]
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「貴族院[日本]」の解説
 貴族院 きぞくいん
 貴族を中心とする議員によって構成される議院。第2次世界大戦前の日本の帝国議会に置かれていた。皇族,華族および勅任議員で構成される。華族のうち公侯爵は全員議員となり(終身),伯子男爵の場合は同爵位者の互選によった(任期 7年)。勅任議員には,多額納税者および帝国学士院会員でそれぞれ互選された者につき勅任された者(任期 7年),ならびに勅選議員(終身)とがあった。現行憲法上の参議院と異なり衆議院とは対等で,反政府的な衆議院を牽制する役割を担っていた。組織については,貴族院令(明治22年勅令11号)に定められていたが,この法令の改正には貴族院の議決を要するだけで,衆議院の関与する余地がなかった。したがって改正は 6回行なわれたが,根本的な改革はできず,議員の選任などによる資格,定数,任期などについて必要な規定の改廃が行なわれたにすぎなかった。議事手続に関しては,議院法(明治22年法律2号)が規定していた。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「緑風会」の解説
 緑風会 りょくふうかい
 参議院院内会派。1947年(昭和22)5月17日、山本有三、下条康麿(やすまろ)らが中心となり第1回参議院選挙に当選した保守系無所属議員で結成。第一国会召集時に93名を擁し、参議院の最大会派であった。初代の参議院議長松平恒雄緑風会所属である。参議院の使命としてその政党化に反対し、綱領に「愛と正義にもとづく政治」「自由と秩序の調和による共同福祉」などを掲げ、新憲法の精神にのっとった良識ある行動を目ざした。また山本や田中耕太郎、佐々弘雄など多くの文化人を擁し、参議院に職能代表的性格をもたせようとした。しかし政策面では自由党に同調し、歴代の内閣にも準与党的態度をとったためしだいに独自性が失われ、所属議員の脱会も相次ぎ、1959年6月の選挙では11名に激減した。1960年1月に参議院同志会と改称し、1962年7月の選挙で7名に減ったため市川房枝(ふさえ)らの無所属クラブと第二院クラブを結成したが、1965年6月2日解散した。
 [吉田健二]
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「緑風会」の解説
 緑風会 りょくふうかい
 参議院の初期において,いずれの政党にも属さない議員の院内交渉団体として結成された政治団体。当時の参議院 (第1回選挙は 1947年) は衆議院と異なり,非政党的立場に立つことによって「批判の府」「良識の府」としての役割を果すべきであるとする考え方が有力で,重宗雄三らの旧貴族院議員や山本有三らの文化人など,いわゆる「無所属」の当選者が多く,これらが集って緑風会を結成,院内第1の会派となった。したがって,議長も同会の松平恒雄が選ばれ,参議院の良識を代表するものとみられた。しかし政党化が次第に進むと,所属政党のない同会議員には選挙が不利となり,当選者数も漸減した。この傾向によって緑風会独自の行動もとりにくくなり,入閣する者も出てきて,かえって緑風会の存在理由を失わせることともなった。この結果,1965年6月の第7回参議院選挙では,わずかに残っていた数名の同会所属議員も立候補を断念,「良識」を期待された緑風会も消滅した。
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 江戸時代後半、7%の武士と85%の庶民は対立していた。
 その7%に過ぎなかった武士の中でさえ、現状を守ろうとした佐幕的な少数派である上級武士・中級武士の一部と現状を変えたいと願う討幕的な多数派の下級武士と中級武士の大部分が対立していた。
 身分が低く貧しい庶民の多くは、身分の廃止、機会の均等、貧富の格差是正、自由の獲得を求めて勤皇・尊皇であった。
 幕末の動乱は、こうした中から起きていた。
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 明治新政府の元勲や重臣は、在野に下った旧幕府勢力と庶民が結託して政党を組織して近代的天皇制度維新政府を打倒しに立ち上がる事を警戒していた。
 政府・国家権力は、避けられないロシアとの大戦争に備えて大軍隊大艦隊をつくる軍資金を集める為に、重税を課して国民に犠牲を強いるべく反政府勢力を弾圧した。
 天皇と国家と国民が一丸となって積極的自衛戦争を勝利する為には、その絆を分断する恐れがあった庶民ポピュリズムを抑え込み弾圧する必要があった。
 体制側は、憲法発布と国会開設の為の選挙で代議士が選出されれば、必ず庶民ポピュリズムは暴走するとの危機感から、庶民ポピュリズムを抑える合法的組織として元老重臣会議と貴族院・枢密院を設置した。
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 明治の近代化において、ロシアとの戦争に備えた富国強兵を推し進める国家・政府と殖産興業による豊かな生活を追い求める国民・庶民は相互不信から対立する定めであった。
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 庶民が生きる上で信仰・崇拝していたのは、仏教の仏様ではなくお天道様であった。
 明治時代、ロシアとの積極的自衛戦争を戦う為に忠君愛国・滅私奉公の中華儒教的武士道が導入された。
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 大正から昭和前期まで、政治・外交・軍隊を動かしていたのは国民願望の庶民ポピュリズムであって、デモクラシーも軍国主義ファシズムも全ては借り物、付け焼き刃、金属の表層を塗装した薄く剥げやすい劣悪な金メッキでしかなかった。
 つまり、日本の戦争は軍人、軍国主義者が引き起こしたのではなく庶民ポピュリズムに暴走した日本国民であった。
 日本国民は、被害者であったはウソで、むしろ張本人・加害者であった。
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 大正デモクラシーとして、抑圧装置としての元老重臣会議と貴族院・枢密院が力を失うと、庶民ポピュリズムによる代議士の衆議院が政治権力を持って政府と国会を壟断し始めた。
 庶民ポピュリズムは、軍隊にも影響を強めた。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「ポピュリズム」の解説
 ポピュリズム ぽぴゅりずむ
 1891年に結成されたアメリカ人民党、通称「ポピュリスト党」によって広まったことば。ラテン語で「人々」を意味する「ポプルス」を語源とする。20世紀になってからも、南米アルゼンチンのペロン体制、中国の毛沢東(もうたくとう)主義、アメリカのマッカーシズム、西欧諸国の極右政党など、多種多様な政治運動と現象がポピュリズムのうちに数えられてきた。
  [吉田 徹 2018年7月20日
 ポピュリズムの特徴目次を見る
 日本では、「大衆迎合」「衆愚政治」「扇動政治」、最近では「反知性主義」などと同じ意味で使われることも多いが、アメリカでは一般的にポジティブな意味合いで用いられることが多い。その反対に、ファシズムを経験したヨーロッパ諸国や日本などではネガティブに用いられる。そのため、ポピュリズムということばは価値中立的に用いられることはなく、日欧では、非難されるべき対象や姿勢を名指しする場合に用いられるものであることに留意しなければならない。ポピュリストとされる政治家が自らを「ポピュリスト」と名のるわけではないため、ファシズム保守主義などと区別して認識する必要が出てくる。
  [吉田 徹 2018年7月20日
 ポピュリズムの共通項目次を見る
 古今のポピュリズムの事例に共通するものとして一般的に指摘されるのは、(1)政治・経済・文化エリートに対する異議申し立てであること、(2)主権者として代表されていない「人々」を顕揚すること、(3)カリスマ的な指導者が扇動することである。いずれの場合も、だれが「エリート」で、だれが「人々」に数えられるかは、その時代や国の文脈に応じて変化することが、ポピュリズム理解のむずかしさの一つになっている。政治エリートは、既成政党であったり議会であったりすることもあれば、官僚機構であることもあるし、経済エリートは財界や資本主義家である場合もある。文化エリートとしては、マス・メディアや知識人が論難されることが多い。また、エリートに無視されているとされる「人々」は、農民や労働者層であることもあれば、自営業者や手工業者であることもある。
 ポピュリズムは非民主主義的で、ファシズムや独裁主義に近いとされることもあるが、実際にはイデオロギー的な体系をもっているわけではない。それが批判するのは、三権分立や官僚機構など、自由主義的原則に基づくエリート支配によって、人民の意思が歪曲(わいきょく)されている状況であることが多い。既存の利益団体や職能団体に包摂されておらず、政治的に正当に代表されていないと感じている層(農民や単純労働者など)の不満を吸い上げ、既得権益層や過度に保護されているとされるエリートを非難して動員を図るものであり、ここから反エスタブリッシュメント、非主流派の政治と呼称されることもある。
  [吉田 徹 2018年7月20日
 ポピュリズムの歴史目次を見る
 歴史的にみてポピュリズムには三つの波がある。最初の波は19世紀末のことであり、これはアメリカ人民党による政治運動に代表される。同党は不況にあえぐ南部・中西部の小作農と都市部の労働者層の支持を求め、鉄道・通信の国有化や企業の農地所有の制限、累進課税強化などの公約を掲げて、共和党民主党という二大政党に挑戦した。しかし1896年の大統領選挙で民主党が同党の政策を取り込み、そのため支持基盤も広がらなかったことで急速に勢いを失っていった。その前の1860年代には、やはり農民の解放を目ざして、ロシア帝政を打倒するナロードニキ(人民主義者)運動が起き、1881年には同運動の急進派によってアレクサンドル2世が暗殺される事件が起きている。
 これらのポピュリズムに共通しているのは、ともに国が農業経済から工業経済へと本格的に離陸する過程で起きていること、またアメリカの人民党の政策の一部はその後民主党に、ナロードニキロシア革命を主導するボリシェビキに引き継がれることになり、ともに過渡的な政治運動に終わったことにある。
 ポピュリズムの第二の波は、第二次世界大戦後の高度成長の時代になってからである。先進国では、アメリカの共和党議員マッカーシーによる反共主義運動であるマッカーシズムが、1950年代のポピュリズムの代表例とされる。さらに当時の西ヨーロッパではイギリスの保守党議員パウエルEnoch Powell(1912―1998)がコモンウェルスイギリス連邦)からの移民排斥を訴えたことや、フランスの自営業者プジャードPierre Poujade(1920―2003)が始めた反徴税運動であるプジャード運動などがポピュリズムの典型例とされた。これらは、戦後の高度発展期にあって、都市部に資本や人が集中するといった社会の構造的な変動に対する反動とされることもある。なお、マッカーシズムはその後大統領となるニクソンレーガンに、パウエルは首相となるサッチャーに、プジャード運動は極右政治家ジャン・マリ・ルペンJean-Marie Le Pen(1928― )に影響を与えている。
 また、開発途上国においては、インドネシアスハルト体制やチリのピノチェト政権、中国の毛沢東体制など、軍部の掌握を背景に、政治的自由よりも経済発展を優先する政治がポピュリズムとされた。
 以上のように、19世紀末と20世紀後半のポピュリズムも、いずれも産業構造が変動して既存の政治の利益媒介が揺らぎ、その後に別の形態を伴って展開していくことが確認できよう。
  [吉田 徹 2018年7月20日
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 その後第三の波として、ポピュリズムということばが広く用いられるようになるのは、21世紀に入ってからのことである。まず、2000年代には、イタリア首相のベルルスコーニやフランス大統領のサルコジなど、社会政策においてはきわめて保守的かつ権威主義的で、経済的には市場原理を重んじる政治家がポピュリストとされた。日本でも小泉純一郎がポピュリスト政治家とされたことは記憶に新しい。こうした政治家は、一様に古い政治を一掃すると主張して、新たな支持基盤を獲得するとともに、個人の自己決定権のようなリベラルな価値を批判する点でも共通していた。
 2010年代に入ってから目だつのは、従来は社会民主主義政党の金城湯池であった旧鉄鋼・炭鉱・重工業で栄えた地域で支持を集める、いわばポスト工業型のポピュリズムである。イギリス独立党United Kingdom Independence Party:UKIP(ユーキップ))党首のファラージNigel Farage(1964― )やロンドン市長ボリス・ジョンソンBoris Johnson(1964― )などが主導したイギリスのEU離脱ブレグジット)にかかわる国民投票で、大量に離脱に投票したのは、グローバル化の恩恵にあずかれなかった地域の人々であった。イングランド北東部は従来、労働党の強い地盤であった。また、トランプ大統領誕生とともに有名になった「ラスト・ベルト」も民主党の伝統的な支持基盤であったが、トランプ支持へと変転することになった。さらに2017年にフランスの大統領選の決選投票に進んだマリーヌ・ルペンが率いる国民戦線(FN)も、近年では社会党の地盤であった北東部で支持を伸ばしている。こうしたポスト工業型のポピュリズムは、製造業が衰退し、サービス産業が進展するなかで、移民の流入を含むグローバル化からの恩恵を感じられない旧中間層の不満に巣くっているといえる。
 なお、日本では石原慎太郎橋下徹(はしもととおる)(1969― )、小池百合子(こいけゆりこ)(1952― )など、大都市の知事を務める改革志向の政治家がポピュリストとされることが多い。これは、二元代表制のもとで首長は住民から直接に選出されることによる。首長候補は地方議会や行政機構の既得権益を批判して、都市部の有権者の支持を集めることができるためである。
  [吉田 徹 2018年7月20日
 民主主義とポピュリズム目次を見る
 このように、ポピュリズムはその時々の政治・経済・文化的エリートが進める政策や彼らが認める価値観に対して、反発を感じる社会階層が一定程度存在しており、その代弁者たるポピュリストが支持を集めることができたときに生起する。民主主義は、統治者(政治家)と被統治者(有権者)との同一性を原則としている。しかし、代表制民主主義においては、実際には両者の間につねに歪(ゆが)みが生ずる。この代表制の歪みを示す兆候としてポピュリズムをとらえることができる。いいかえれば、ポピュリズムによって民主主義が危機に陥るのではなく、民主主義が機能していないためにポピュリズムが生まれるといえる。
  [吉田 徹 2018年7月20日
 『吉田徹著『ポピュリズムを考える』(2011・NHK出版)』▽『国末憲人著『ポピュリズム化する世界』(2016・プレジデント社)』▽『水島治郎著『ポピュリズムとは何か』(中公新書)』
 [参照項目] | ナロードニキ | ファシズム | プジャード運動 | ポピュリスト | マッカーシズム | 民主主義
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 社会を混乱に陥れる「ポピュリズム」の歴史を今こそ学ぶべき深い理由
 指導者選びと同調圧力に細心の注意
 PRESIDENT Online
 蔭山 克秀
 代々木ゼミナール公民科講師
 「ポピュリズム」とは大衆中心の政治をいい、語源はラテン語のポプルス(=populus。人々・一般大衆)。代々木ゼミナールの人気講師・蔭山克秀氏は「ポピュリズムは、コロナ禍で多くの国民が苦しんでいるのに、国が国民の声を聞かない今のような状況で台頭しがち」だという。世界各国で生まれては消えた「ポピュリズムの歴史と、その背景」を聞いた——。
 世界初のポピュリズムアメリカの農民政党
 「ポピュリズム」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのがアメリカのドナルド・トランプ前大統領という人も多いのではないでしょうか。「メキシコとの国境に壁をつくれ!」といった扇動的な発言は、移民に仕事を奪われたプアホワイトを熱狂させました。まさに、仕事がなく苦しむ国民の声を国が聞いてこなかったことで生まれた「ポピュリズム」そのものと感じます。
 コロナ禍で多くの国民が苦しんでいるのに、国が国民の声を聞かない今のような状況もまた、ポピュリズムが台頭しやすいと言えるでしょう。
 もともと「ポピュリズム」という語を最初に使ったのは、1891年にアメリカで生まれた「人民党(ポピュリスト党)」という農民政党です。
 当時のアメリカ社会は、産業革命のおかげでどんどん豊かになっていたのに、農民層だけが取り残され、貧困にあえいでいました。しかも当時は民主党共和党の方向性に大きな違いがなかったため、弱者の受け皿がありませんでした。
 そこで農民を支持層とする「人民党」が結党され、大統領選挙で4州・22人の選挙人を獲得するまでに勢力を拡大したのです。
 最終的に人民党はなくなりますが(危機感を抱いた民主党共和党の党改革が進み、民主党が弱者の受け皿になった)、こういう「忘れられたアメリカ人の受け皿」という流れは、現在トランプ氏を支持するプアホワイトと同じ構図であることがわかります。
 古代ギリシャアテネ衆愚政治
 古代ギリシャ都市国家アテネでは、紀元前5世紀頃から民主政が始まりました。それも市民が全員参加する直接民主制で、最高権力者である執政官(アルコン)も、貴族からの選出ではなく、平民からくじ引きで選ぶようになりました。
 この基礎をつくりあげたのが、ペリクレスです。彼は「われらの政体は、少数者の独占を排し多数者の公平を守る民主政治」と宣言し、民衆を正しい方向へ導くよう指導しました。しかし、ペリクレス亡き後のアテネには、自らの野心のために大衆を利用しようとしたクレオンらの扇動政治家(デマゴーゴス)が登場し、政治的判断力が不十分な大衆を詭弁きべんによって誤った方向に誘導し、アテネペロポネソス戦争敗北へと導いてしまいました。こういう流れを受けて、哲学者プラトンは民主政を“衆愚政治”と批判したのです。
 プラトンとアテナの彫像写真=iStock.com/araelf※写真はイメージです
 ちなみにプラトンは主著『国家』で、「大衆が過度に自由を求めたとき、民主政は独裁者を生む」と指摘しています。確かに自由を求めすぎる民衆にとって、抑制の利いた政治などただのストレス。ならば選挙の際、自分たちと同じニオイのするリーダーを選べば、彼が分別ある人々を制圧して大衆に「我慢のいらない自由」を供給してくれるわけです。私はパッとトランプ氏の顔が浮かびました。大衆に我慢を求めないリーダーは、要注意ですね。
 ナチスポピュリズムを効果的にしたものとは?
 ポピュリズムの歴史を見るうえで絶対はずせない人物が、アドルフ・ヒトラーです。
 ヒトラーといえば「ドイツ国民を全体主義で抑圧した独裁者」というイメージで、大衆から熱烈に支持されるポピュリストとは無縁に思われがちですが、違います。彼はドイツ国民が、選挙という民主的な手段で、自ら選んだ独裁者です。
 民主主義は「多数決による合意」を基本とするため、リーダーシップが不在になりがちですが、有事に強いリーダーがいなかったドイツでは、それが短所として露呈し、大衆に「民主主義への幻滅」を強く与えてしまいました。そこで大衆が、有事に自分たちを導いてくれる強いリーダーを求めた結果、ヒトラーという独裁者を誕生させてしまったのです。
 当時、ナチス党は小政党としてくすぶっていましたが、1929年の世界恐慌を境に、ヒトラーがさまざまなメディアを通じて、既存政党を悪と断じて激しく批判すると同時に、国民に「強いドイツをよみがえらせてくれるのは、民主主義か強いリーダーか?」と選択を迫った結果、1932年の選挙で勝利し、与党の座を勝ち取ることができたのです。
 ヒトラーのカリスマ性を前提としたナチスポピュリズムを、より効果的に演出したものは「宣伝」でした。ナチス政権は1933年に「宣伝省」をつくり、ヨーゼフ・ゲッベルスを宣伝大臣として国民啓蒙・国威高揚・敵の排除などのための宣伝を積極的に行いましたが、そこではラジオが大きな役割を果たしました。
 ヒトラーの演説は弁舌巧みなうえ、内容も、単純明快・敵味方の断定・わかりやすい解決方法・選択を迫る口調などで磨き抜かれた見事なものだっただけに、活字よりも肉声のほうが、はるかに大衆扇動効果が高かったのです。
 ですから宣伝省はラジオの普及に力を入れ、1940年には、ほぼ全家庭に国民ラジオ(海外放送は受信不可)が行き渡るまでになっていました。
 しかし、こうしてヒトラーの演説に扇動されたドイツは、この後全体主義へと進んでいきます。ナチスが国家の維持の妨げになるものを徹底的に排除した結果、ユダヤ人、共産主義者、同性愛者、障害者などは、さまざまな理由で弾圧されました。
 また、そのための組織も整備され、ヒトラーや党幹部の特別護衛組織が「親衛隊(SS)」、ナチス党の民兵組織が「突撃隊」、従来までの警察組織は「秘密警察(ゲシュタポ)」に再編成され、ドイツは危険な方向に流れていくことになったのです。
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 中村法律事務所
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 ポピュリズムとデモクラシー~民主主義の動揺
 2017年03月9日
 1、ポピュリズムは、マスコミでは「大衆迎合主義」と置き換えられているが、いま一つ納得できないところがあり、いろいろ文献にあたってみると、学者も間でも一義的な定義づけはできないようである。ここではポピュリズムの定義を問題とするのではなく、デモクラシーとの関係を問題とすることから、定義については触れないこととする。一方、デモクラシーは、一般的には「民主主義」と訳されているが、これもわかったようでわからない置き換えである。というのも、「民主主義」では、一つの理念であり、正当性が付与された理想のようにも思われるからである。また、「民主主義」という言葉には、ギリシャの民主制における為政者に対する弾劾裁判や、フランス革命における支配階級や対立勢力に対する大量虐殺(ジェノサイド)や、アメリカ独立における先住民族への弾圧など、人間同士のエゴのぶつかり合いのような印象もあり、なにか得体の知れない、いかがわしいものに見えてくる面がある(長谷川三千子「民主主義とはなにか」文春新書 52頁以下など)。したがって、ここではデモクラシーを現実の政治の制度としての「民主制」の意味で使うこととする(佐伯啓思「反・民主主義論」新潮新書 102頁など)。
 2、ところで、民主制ないし民主主義については、「独裁政治が成立するのは、民主制以外の」どのような国制からでもない」(ソクラテス)とか、「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全に賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」(ウィンストン・チャーチル)などと言われ、負の側面を持っているようである。また、一方、ポピュリズムについては、「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」(マーガレット・カノヴァン)と言われているように、なにかデモクラシーにとって胡散臭いイメージもあるようである。このように、ポピュリズムとデモクラシーにはなにか切っても切れない関係がありそうなので、この関係を考えるために、まず近代民主主義に遡ってその意味を考えた上で、現在の民主制ないし民主主義について考えていくこととする。
 3、近代民主主義については、これを自由主義と民主主義という異質な思想の混合物として捉え、一方には、人権の擁護、個人的自由の尊重という法の支配による自由主義の伝統があり、他方には、平等、支配者と被支配者の一致、人民主権を主要な理念とする民主主義の伝統があるとする考え方がある(カール・シュミットシャンタル・ムフ)。これは近代民主主義の「二縒り(ふたより)理論」と呼ばれているもので、デモクラシーを、自由主義の立場から解釈すると、人民主権を認めつつも、議会制を通じたリベラルな統治のあり方とそれによる権力の制限を至言とする立憲主義的なものになり、民主主義の立場から解釈すると、統治者と被治者の一致や人民の自己統治、ないし直接的な政治参加の原則によるものになるということであり、この二つの立場から、ポピュリズムをみると、自由主義の立場からはポピュリズムを警戒するようになり、民主主義の立場からはポピュリズムに民主主義の真髄を見出すことになる。
 4、ポピュリズムの歴史的起源は、アメリカ南部・西部諸州の農民が大企業や政府の権威的な振る舞いに対して反旗を翻して行った農民運動が、社会改革運動に発展して1891年に人民党(後に民主党に合流)の結党にいたったことにあるとされている。その後、アメリカにおいては、エリート階級の固定化を嫌う「反知性主義」(権威化する知性への懐疑)の流れが生じたことからもみてとれるように、ポピュリズムは、大衆への迎合というよりは、置き去りにされ忘れ去られた大衆の反逆という観点から捉えたほうがわかりやすくなる(週刊東洋経済 2016.12.24 特集「ビジネスマンのための近現代史」 53頁)。そうすると、大衆の反逆をうまく捉えて大きなうねりにしていくのがポピュリズムであり、ポピュリズム的手法であり、ポピュリストであるということになるのではないだろうか。この意味において、ポピュリズムは、イデオロギーないし政治思想とはいえなくなり、権力やアイデンティティーを国家に集約させることで様々な問題の解決を図る政治思想、社会思想であるナショナリズムとは異なるものと言えそうである(国末憲人「ポピュリズム化する世界」59頁)。この延長で考えていくと、ポピュリズムは、大衆の直接の政治参加、いわゆるラディカル・デモクラシーに行き着くことにもなり、近代民主主義の二つの思想の中、民主主義の思想の流れにあることになる。したがって、ポピュリズムは、なんらデモクラシーと矛盾するものではなく、むしろデモクラシーの本質に根ざしたものというべきことになり、問われるべきは、どの運動がポピュリズムであるかということではなく、「ある運動がどの程度ポピュリズム的であるか」(エルネスト・ラクラウ)ということになる。
 5、翻って、日本の政治状況をみてみると、一時期の民主党政権が打ち出した政治主導はよかったが、統治から官僚を排除することを政治主導と錯覚したために混乱が生じて挫折してしまい、民主党政権を挟んで自民党政権に落ち着く過程において、政党政治形式主義的な多数支配に変質してしまったように思われる(山口二郎「日本における民主政治の劣化をめぐって」論究ジュリスト 09 特集 憲法”改正”問題 67頁)。現在は安倍1強政治であるが、安倍首相自身、「政治は現実だ。やりたいことを成すためには51対49でも勝つことが大事なんだ」と保守派の議員に繰り返し強調していると報道されているように(日本経済新聞 2019.3.7)、多数決における多数意思の絶対化という現象が広がっている。このような現象は、英国のEU離脱における国民投票や、日本の大阪市における住民投票の例において顕著にみられる。しかも、その手法は、マスメディアだけではなく、ツイッターフェースブックなどのSNSを駆使した一般大衆との直接的なものになっている。客観的な事実よりも、個人の感情や信条に訴えかける情報が、瞬時に不特定多数の人々の間をかけめぐるようになり、オックスフォード英語辞典が2016年の「今年の単語」に選んだ「ポスト真実」ともいえるような状況になっている。さまざまな情報が蔓延し、情報過多てある一方、現在の日本やアメリカ、とりわけEUにおいて見られるように、高度に官僚化された政治機構を前にして、一般の大衆はなんらの決定権を持たないことから、次第に不満がたまっていくことになる。このような状況が、ポピュリズムないしはラディカル・デモクラシーを生みやすくなり、ポピュリズム的手法が効果的になってくる。ポピュリズムが勢いづくのは、左派政権の南米諸国においても、「移民排除」「政教分離」「男女平等」をかかげ反イスラムを訴える右派の国民戦線マリーヌ・ルペンが今度の大統領選で注目されているフランスなどEUにおいても同様の現象であり、結局、グローバル化により資本と情報が瞬時に世界をかけめぐる社会において、一部のエリート特権階級と一般大衆との社会的隔絶が原因となっているものである。
 6、ポピュリズムについては、「民主主義の不均衡を是正する自己回復運動のようなもの」(吉田徹 日本経済新聞 2017.1.1「春秋」欄)とも言われるが、「ディナー・パーティーの泥酔客(それも正論を吐く)」(水島治郎「ポピュリズムとはなにか」中公新書 231頁)に例えられるように、扱い方によっては大混乱になることもあるので、単純に排除すればいいというものでないことだけは確かである。そこで、もう一度、近代民主主義の原点に立ち帰って、自由主義的な諸価値である、普遍的な人権保障、法の支配、適正手続の保障などの立憲主義の原理と衝突しないように、ポピュリズムの民主主義的効用を引き出せるような観点からの議論が大切になってきているといえる(山本圭ポピュリズムの民主主義的効用」参照。なお、この論文は非常によくまとめられたわかりやすい論文なので負うところが多く、一部を引用させていただいている)。
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