🎺02:─1・B─日独伊三国同盟締結。昭和天皇はアメリカとの戦争を恐れて内心不同意、枢密院は不安。~No.3No.4 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者テロリスト・無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
   ・   ・   ・   
 2022年6月29日 MicrosoftNews 現代ビジネス「日独伊三国同盟の締結と枢密院 第二次世界大戦下、枢密院ではどのような議論がなされたのか
 望月 雅士
 大日本帝国憲法下における天皇の最高諮問機関として設置された枢密院。しかし第二次世界大戦下の急速に展開する国際情勢への対処と、総力戦のための強力な指導体制の確立には、明治憲法の牽制と均衡の原理は桎梏となっていきます。枢密院の誕生から廃庁までの60年の軌跡をたどり、これまでほとんど研究されることのなかったその全体像を検証した現代新書の最新刊『枢密院 近代日本の「奥の院」』より、戦時下における枢密院の動向を描いた「第4章 戦争と枢密院 1937〜1947」を一部抜粋してお届けします。
 © 現代ビジネス
 第二次世界大戦下の選択
 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへの進撃を開始し、第二次世界大戦が勃発した。大戦勃発直前の8月28日には、平沼騏一郎内閣がドイツからの軍事同盟の提案に翻弄された挙げ句、独ソ不可侵条約の締結によって総辞職していた。日本の外交はどこへ進むべきか。8月30日に発足した阿部信行内閣は平沼内閣の失敗をふまえ、9月4日に大戦への不介入を声明する。
 9月13日枢密院で阿部首相兼外相が外交報告を行い、大戦への不介入とともに、欧米諸国を介入させずに日中戦争の解決をはかると、新内閣の方針を説明した。この政府方針に深井英五顧問官は、ドイツとの関係が清算され、自由な立場から国際政治に対応できると歓迎する。
 この方針で進んでいったら、日本は別の道を歩んだのではないか、これが1945年2月の深井の述懐である。深井はフリーな国際関係に立ったこのときに、その後の敗北への道とは違う選択肢があったのではないかと、戦局が絶望的となるなかで振り返 っている(深井英五『枢密院重要議事覚書』(1953)、岩波書店、41〜43頁)。
 1940年に入ると、ヨーロッパ戦線では、4月9日にドイツ軍がデンマーク、ノルウェーに進撃し、大戦は新たな局面を迎えた。5月10日ドイツ軍がオランダ、ベルギ ー、ルクセンブルク、北フランスへの攻撃を開始すると、15日オランダ軍が降伏、6月14日にはパリが陥落し、イギリスの降伏も間近と予測されていた。
 ドイツによって蹂躙されたフランス、オランダ、イギリスは東南アジアに植民地を保有しており、日本からすれば、資源の獲得と援蔣(えんしょう)ルートの遮断をねらいとする南進への好機到来の感があった。
 意図的な諮詢の回避
 こうした国際情勢下、7月22日に第2次近衛文麿内閣が成立する。すでに6月29日、仏印へ援蒋物資輸送禁絶監視団が送り込まれていたが、現地交渉は難航した。そのため8月1日から東京で松岡洋右外相とアンリ仏大使の間で交渉が開始され、30日、北部仏印進駐に関する公文を交換した。いわゆる松岡=アンリ協定である。
 この日、松岡外相は急を要するため、枢密院への諮詢(しじゅん)を奏請しないで締結することを上奏した。意図的な諮詢の回避である。木戸幸一内大臣は問題とはなるだろうが、戦時中のことでもあり、政府の責任で処理するのはやむを得ないと見ていた(『木戸幸一日記』下(1966)、東京大学出版会、1940年8月30日の日記)。戦争の長期化は、憲法の秩序よりも戦時の緊急性を重視する思考へと木戸を導いていたのである。
 政府のなかでは村瀬直養(なおかい)法制局長官が、今回のように緊急を要する場合でもいちいち枢密院の承認が必要であるならば、枢密院改革を促進させるとの考え(※1)を示していたが、結局9月26日に近衛首相が天皇に謝罪し、それを枢密院で報告することで決着させた(『覚書』68〜69頁)。
 枢密院が直面したジレンマ
 ヨーロッパ戦線をドイツが席巻するなか、近衛内閣は新たな国家体制の構築に動く。7月26日「基本国策要綱」を決定し、対内的には新政治体制の確立、対外的には大東亜新秩序の建設を国家の基本方針とし、8月27日には新体制の声明案を閣議決定する。
 この声明では、高度国防国家を築くため、政治、経済、教育、文化など、あらゆる領域で新体制の確立が要請されていた(矢部)。近衞首相はこの声明案を天皇に内奏し、さらに木戸幸一内大臣に意見書を渡し、天皇の内覧を依頼した(『木戸』下、1940年8月27日)
 近衛のこの意見書は矢部貞治東京帝国大学教授に書かせたものだが、その冒頭の「憲法の運用について」(※2)の趣旨をまとめると以下のようになる。
 明治憲法の権力分立、牽制と均衡の原理は、国家に対して自由を求めた自由主義的立憲国家の憲法をモデルとしており、国家権力をできるだけ弱小にして、個人の自由を拡大させようとする時代精神のなかで成立したものである。
 しかるに現在の国家総力戦の時代には、国家権力を集中、一元化させなければならない。とはいえ、さすがに憲法の改正はむずかしいから、憲法第8条(緊急勅令)、第14条(戒厳宣告)、第31条(戦時における臣民の権利の制限)、第70条(緊急財政処分)などの条項を最大限に活用すべきだ。
 要するに、この意見書は明治憲法を改正せずに、その超法規的条項を活用することで、首相への権力集中を目指しているのである。しかしながら憲法第8条、第14条、第70条は枢密院の承認を必要とする。
 権力の一元化を目指そうにも、憲法上、枢密院が立ちはだかることになる。目まぐるしく急展開する戦時の緊急性に憲法の牽制と均衡の原理がはたして必要なのか、その余裕があるのか。このジレンマに政権、そして枢密院は直面することになる。
 (※1)「枢密院関係」、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. B02030670400、「支那事変関係一件 仏領印度支那進駐問題 第二巻」(外務省外交史料館)
 (※2)伊藤隆編『高木惣吉 日記と情報』上、みすず書房、2000年、449〜450頁
 日独伊三国同盟の締結
 1940年7月27日、大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。大本営政府連絡会議とは、1937年11月20日大本営設置にともない、政府との連絡統一のために設けられた協議体で、第1回の会議は11月24日に開かれた。
 この会議は第1次近衛内閣期には開かれたものの、その後中断し、2年半ぶりに第2次近衛内閣が再開させ、右の「要綱」決定をみることになった。
 この「要綱」は日中戦争とともに南方問題の解決を方針とし、そのためのドイツ、イタリアとの政治的結束の強化と、ソ連との国交調整(※3)を明記する。この「要綱」に基づき、松岡洋右外相によって日独伊三国同盟条約締結への動きが加速し、9月7日にはドイツからスターマー公使が来日して同盟締結に向けた交渉が開始された。
 日独間でまとまった三国同盟案は、以下を内容とした。
 ドイツ、イタリアのヨーロッパにおける新秩序の建設と、日本の「大東亜における新秩序建設」を相互に承認する。三国のうちの一国がヨーロッパの戦争または日中戦争に参入していない一国に攻撃された時は、三国はあらゆる政治的、経済的、軍事的方法で相互に援助することを約す。
 天皇が抱いた不安
 三国同盟は条約として締結されるため、枢密院での諮詢が必要となる。だが松岡外相は諮詢の回避をはかり、条約締結後に枢密院へ詔書を下して政府から事情を説明するという、かつてしばしば採られた収拾策で決着させようとした。
 松岡はなぜ諮詢を回避するのか。外務省外交顧問として松岡のもとで条約締結に関わった斎藤良衛(よしえ)は、秘密を要し、迅速に成立させなければならない条約は枢密院に諮るべきではないからだと説明する。秘密裡にドイツと交渉を進めていた政府は、枢密院を通さずに条約の迅速な成立をはかりたかった(※4)のである。
 松岡外相が枢密院への諮詢を回避しようとはかったのは、迅速性だけが理由ではない。枢密院が三国同盟条約案の通過にとって障害だったからである。
 枢密院内には、外務省出身の小幡酉吉顧問官が松岡に三国同盟反対の意見書を送る(※5)など、批判的意見が根強いと見られていた。けれどもそうした松岡の思惑に反し、同盟条約案が枢密院へ諮詢されたのは天皇の意向による。
 9月19日の御前会議は三国同盟条約案を可決し、天皇はこの決定を即座に裁可する (『実録』8)。御前会議の後、枢密院へ諮詢の運びとなるが、この日御前会議を前に天皇木戸幸一内大臣に、同盟案の枢密院への諮詢については詔書を発布して事後承諾とするよりも、二・二六事件の際の戒厳令のケースのように徹夜をしてでも審議すべきだとの考えを伝えた。
 さらに、もし枢密院が否決するならば、政府は反対上奏をすればよいではないかとの意向まで示した(『木戸』下、40年9月19日)。天皇は条約成立の手続きを重視するばかりでなく、松岡外相のいう、同盟を結べばアメリカは参戦しないとの見込みに確信をもてずにいた(※6)のである。天皇が不安に感じていたこの点こそが、枢密院での最大の争点となった。
 (※3)外務省編『日本外交年表並主要文書』下、原書房、1966年、437頁。
 (※4)斎藤良衛「日独伊同盟条約締結要録」、三宅正樹『日独伊三国同盟の研究』南窓社、1975年、528頁
 (※5)斎藤良衛『欺かれた歴史』中公文庫、2012年、133頁。
 (※6)寺崎英成・マリコ.テラサキ.ミラー『昭和天皇独白録』文春文庫、1995年、62頁
 三国同盟の締結に対する顧問官たちの不安
 9月26日午前11時20分からはじまった三国同盟条約締結のための枢密院審査委員会は、じつに8時間におよんだ。三国同盟締結が対米戦争を誘引するのか否か、松岡外相は日独が提携すれば、日米戦争を阻止できる可能性が高まると答弁した。
 この松岡の発言に顧問官たちは激しく迫った。そのひとり深井英五は、政府の説明は準備や計画、目算など抽象的な希望や努力目標が挙げられるばかりで、ことに戦争が長期化した場合の見通しについては全く自信のある説明を聞かず、不安の念を禁じ得ない。作戦能力、軍需品の生産、国民生活、さらには人心の動向について、最悪の場合をどのようにして切り抜けるのかを政府に問い質した。
 その上で深井は、この条約によって日米戦争を必ず阻止できるとの説明であるならば、首相に対する質問は不必要となるゆえ撤回しようと、政府に明言を迫った(『覚書』79〜86頁)。政府の瀬戸際外交を危惧する深井の発言は、翌年の開戦を予期するかのようである。
 三国同盟の締結に不安を言明したのは、深井だけではない。深井の手記によると、枢密院審査委員会で条約締結に積極的な賛意を示した顧問官は河合操、有馬良橘(りょうきつ)の陸海軍の両大将に過ぎず、同盟が日米戦争を誘致するのではないかとの予感のもと、最悪の場合に至った際に政府はどうするかを問う顧問官が多く、議論を通じて陰鬱な空気の重圧があったという(『覚書』97頁)。
 南弘(みなみ・ひろし)顧問官は、日米戦争に至った場合の石油の所要量や受給力の均衡、財政の見込みなど国力の実態を問題にし、小幡酉吉(ゆうきち)顧問官も、中国との戦争ですでに国力の疲弊した今日、太平洋方面で強国と衝突するのは危険と、危機感を隠さなかった。三国同盟に対する枢密院内の雰囲気は、諮詢を回避しようとした松岡の危惧どおりとなったのである。
 なぜ枢密院は条約案を否決しなかったのか
 だが8時間にわたった枢密院審査委員会ではあったが、結局、英米両国への刺激はできるだけ防止する手段を講じ、最悪の事態に充分準備すること、およびソ連との関係を円滑にすることを希望条件として同盟案を承認した(『覚書』80〜91頁)。
 審査委員会に続いて、午後9時45分に開会した枢密院本会議では、石井菊次郎顧問官だけが発言した。石井の演説は次のような内容である。
 同盟国として、ドイツは最悪の国だ。過去ドイツと同盟を結んだ国は、すべて不慮の災難を被っている。しかもヒトラーは国際条約を一片の紙切れとしか見ていない。イタリアはマキャベリを生み出した国だ。だが今日、利害関係が一致したこの三国の結合は自然の勢いで、国策として当を得たものだ。
 石井の同盟締結賛成演説の後、本会議はただちに採決に移り、審査報告を全会一致で可決した(※7)。本会議に要した時間は、わずかに25分だった。
 本会議後、天皇はただちに裁可し、日独伊三国同盟は27日、ベルリンで締結された。 三国同盟に危惧をもちつつも、枢密院本会議が審査報告を承認したことについて、深井は手記に、同盟条約案を可決上奏した責任を枢密院は免れないと書いている。であるならば、なぜ枢密院は条約案を否決しなかったのか。
 「否決によりて内外に大なる紛糾を惹起すると、政府の画策の線に沿い、所見を加えて、その施行上の善処に寄与せんことを期すると、何れを妥当とすべきや」(『覚書』96頁)
 枢密院が諮詢案を否決して内閣を総辞職に追い込み、一挙に政治を転換させるか、それとも政府案に沿って枢密院側の意見を加え、政府に善処を促すか、果たしてどちらが枢密院のあり方として妥当かと深井は問うている。そして深井は、次のように述べた。
 「顧問官が所見、または希望を表明せるのみにては、固(もと)より院議たるの重要性を有せずと雖も、これを本会議においてすれば一観点として直接上聞に達すべく、政府に対しては 警告を与うるの効果あり」(『覚書』10〜11頁)
 たとえ政府案を承認するとしても、その問題点や希望条件が天皇の前で明らかになれば、政治に与える影響は少なくない。事実上の御前会議である枢密院本会議で国策の問題点が明示されれば、政府への警告となる。
 この深井の言葉のうちには、明らかに昭和天皇への期待がある。かつて織田万や吉野作造は、天皇親裁はひとつの「形式」に過ぎないと喝破した。それがデモクラシー期の天皇像とするならば、それとは明らかに違う天皇を深井は見ている。そこに深井は望みをかけていたのである。
 (※7)外務省編『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本』第一冊、2012年、247〜248頁。なお日独伊三国同盟に関する枢密院会議筆記と審査委員会録は、敗戦後、連合国に接収されたため、国立公文書館の枢密院文書には存在しない(坂本国夫 「枢密院の文書について」『北の丸』第三号、32頁)。
 © 現代ビジネス」
   ・   ・   ・   
枢密院 近代日本の「奥の院」 (講談社現代新書)