⛅10:─3─日本軍による久米島虐殺事件。日本人兵士が惨殺した久米島島民は20人。~No.30No.31 

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 2022年7月10日号 サンデー毎日サンデー毎日が見た
 100年のスキャンダル」
 1972(昭和47)年〝沖縄ソンミ事件〟報道
 久米島で住民20人〝処刑〟スパイ容疑が招いた惨劇
 沖縄が日本に復帰した1972(昭和47)年は本誌『サンデー毎日』の創刊50年と重なる。その記念特集で本誌は終戦の年に起きた日本軍による島民虐殺事件をスクープした。折しも沖縄返還から半世紀。改めて問う──銃は、軍隊は、本当に国民の命を守るのか。
 ベトナム戦争中の68年、当時の南ベトナム・ソンミ村で子供を含む住民約500人が米軍に殺された。北ベトナムに支援され、ゲリラ戦で米軍に対抗していた『ベトコン』(南ベトナム解放民族戦線)と通じていると疑われたからだった。
 米国の歴史に汚点として残る虐殺事件の名を、本誌は時計を逆回しし、終戦前後の沖縄・久米島で日本軍が島民を〝スパイ容疑〟で次々と殺した罪に重ねた。
 〈そこから、私たちは敵の米軍より味方の日本軍の方が恐ろしくなったですよ。こわくて焼け跡から遺骨も拾うこともできない〉
 27年前、友軍の手で実弟を殺された男性の訴えを、本誌72年4月2日号は『特ダネ』として報じている。
 45年3月、慶良間諸島への米軍上陸から始まった沖縄戦は本土決戦を先延ばしする『捨て石作戦』とされる。6月下旬に本島での組織的戦闘は終わると、米軍は久米島に上陸、島の大半を制圧した。島には当時、通信任務を担っていた約40人の海軍部隊がいた。〝守備隊〟とは名ばかり、島北部の山中に籠もり、もっぱら島民が米軍の味方につくことを恐れ、監視していた。
 6月27日、最初の犠牲者が出た。米軍に捕まった郵便局員の男性だった。
 〈米兵に山の中の日本軍にあてた降伏勧告状を持って行けと命令されたですよ。断れば殺されるかと思って山に行ったら、日本軍にスパイと決めつかれて、隊長に射殺されたですよ〉
 男性の親類は取材にそう明かした。さらに同29日、民家に集められた9人が隊員に刺殺され、家を焼き払われた。家族の中に米軍の上陸前、偵察兵に連行され、後に帰された人がいたことがあだとなった。
 スパイと見なされれば一家全員皆殺し──それが日本軍のやり口だと島民は理解した。先述した郵便局員の妻は親族に累が及ぶのを恐れて家出、入水自殺した。
 『もういい』と『やつざき』の落差
 惨劇は〝終戦〟となっても続く。8月18日、久米島出身の海軍兵、仲村渠(なかんだかり)明勇さんが殺された。捕虜だった仲村渠さんは米軍の案内役として久米島に戻り、島民に投降を説いて回った。艦砲射撃をやめさせ多くの命を救った恩人とされるが、妻と2歳の乳児とともに殺され、家を焼かれた。同20日には、朝鮮人を主(あるじ)とする一家7人が殺害された。
 結局、20人の島民が日本軍に〝処刑〟されていた。本誌は命令を下した『隊長』こと、元兵曹長のK氏を探し出して直撃している。
 〈スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリ軍にやられるより先に、島民にやられてしまうということだったんだ。(中略)いまは戦争を罪悪視する平和な時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていない〉
 K氏はそう語り、殺害の様子を淡々と説明した。
 〈処刑は銃剣でやるように(隊員に)命令しました。突くようにね。
 ──突き殺して、放火した?
 ええ、火葬しました。家と一緒にね〉(一部改変)
 まさに闇に葬られてきた事実を暴いたスクープは沖縄内外のメディアで大反響を呼んだ。本誌が初報でK氏と匿名にした元兵曹長はテレビにも出演。実名『鹿山正』を名乗り、『軍人として当然だった』と述べた。
 テレビ局には視聴者の電話が殺到した。だが、〈その声は本土と沖縄ではまったく対照的〉だったと本誌72年4月23日号は伝える。本土からの電話の7割は『戦争の犠牲者は沖縄だけではない』といった意見だった。
 〈『もういではないか』(本土)に対し『やつざきにしてやりたい』(沖縄)。この落差は何か〉
 記事はそう書いている。
 ライター・堀和世」
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 日本は昔から、社会的な地域や職業、個人的な出身や身分、職業や家の貧富、家族や家柄など、数えれば切りがないほど数多くの差別要因が存在するブラックな国で、そのブラックで惨劇が繰り返されていた。
 日本人の琉球人やアイヌ人に対する偏見と差別、いじめや嫌がらせ、暴力や虐待、殺害や見殺しは起きるべくして起きた必然とも言えた。
 だが、日本人によるアイヌ人や琉球人を差別していたのと同様に、日本人の日本人に対するイジメや差別も陰湿で陰険であった。
 日本人に対する偏見と差別が、歴史的な同和問題部落民差別であり、現代ではイジメ・嫌がらせで自殺に追い詰められる生活保護者や女性や子供などの弱者である。
 コロナ禍での、空気圧力や同調圧力、マスク警察なども偏見と差別の一種である。
 日本人は優しく親切であるは、日本は信用され日本人は愛されていると同じようにウソである。
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 朝日新聞デジタル記事
 終戦後に…スパイと決めつけ、日本兵が一家刺殺 久米島
 有料会員記事
 吉田拓史2017年9月7日 5時27分
 日本兵に殺された仲村渠明勇さん(左)=徳田球美子・島袋由美子著「久米島の戦争」(なんよう文庫)から
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 1945年、沖縄で大規模な戦闘が終結した後から8月の終戦後にかけて、住民が殺害され続けた地域がある。那覇市の西100キロに浮かぶ久米島日本兵が住民を米軍のスパイとみなし、乳児を含む計20人の命を奪った。島にいた最後の日本兵が投降してから、7日で72年。悲劇は島で今も語り継がれている。
 特集:沖縄はいま
 「何で日本軍に殺されなきゃならんかね」。久米島の喜友村宗秀(きゆむらそうしゅう)さん(88)は72年前、隣人で兄のように慕っていた仲村渠明勇(なかんだかりめいゆう)さん(当時25)とその妻、1歳の息子の遺体を見た。その時のことを思い出すと目が潤んだ。「3人とも真っ黒に焼かれて、頭がなかったですよ。殺した証拠として持って行ったんでしょう」
 沖縄本島や周辺の離島が焦土と化した沖縄戦で、久米島は無傷に近かった。
 沖縄県教育委員会が編集した2種類の「沖縄県史」(1974年と2017年に発行)によると、米軍が久米島に上陸したのは沖縄戦終結した3日後の45年6月26日。米兵966人の案内役に、島出身の仲村渠さんがいた。
 海軍兵だった仲村渠さんは沖縄本島で捕虜になり、収容所で上陸作戦を知った。久米島に対する大がかりな攻撃が計画されていた。仲村渠さんは、島内の日本兵は海軍通信隊の数十人だけであることを米軍に説明し、投降の呼びかけ役を志願した。
 県史に収録された当時の地元…
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 ウィキペディア
 久米島守備隊住民虐殺事件は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。
 当時の責任者だった日本海軍通信隊の守備隊のトップであった鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)は、戦後の1972年にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。
 なお大島幸夫著の『沖縄の日本軍』(新泉社刊)によれば、一家を殺害した理由について鹿山は、朝鮮人一般の反日的傾向から「こやつも将来日本を売ることになる」と危惧し、その旨を住民に説明した、いずれにしても朝鮮人および久米島島民に対して深い疑心暗鬼の感情を現在も抱いている一連の発言に対して、当時の久米島にあった2つの村議会は鹿山個人に対する弾劾決議を採択したとし、また虐殺された島民の遺族からも強い不快感が示されたとしている。
 事件の概要
 沖縄戦も終盤にさしかかった1945年6月、アメリカ軍はそれまで放置していた久米島を攻略するため、上陸作戦の2週間前に工作部隊が上陸し情報収集のため住民の16歳の少年も含む男性2名(資料によっては3名とされており、途中で1名は自殺したとされる)を拉致した。この男性らの情報から、島にはわずか27名の日本海軍が久米島に設置した電探(レーダ)を管理運営する通信兵などの守備隊しか駐留していないことを知ったアメリカ合衆国海兵隊は、上陸部隊の兵員を966人に減らしたという。久米島守備隊は武器弾薬に乏しく実戦部隊でなかったため、ほとんど組織的抵抗もできないまま山中に撤退し、久米島は占領された。
 久米島派遣軍を率いるE・L・ウッド・ウイルソン少佐はただちに占領業務のための久米島米軍政府を設置し、住民から島の村長と区長をあらたに指名するなど軍政府長官として久米島の行政を掌握した。また6月22日には、沖縄戦を指揮していた日本側の沖縄守備軍司令官であった牛島満中将と、参謀長の長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅し、6月25日には大本営が沖縄における組織的な戦闘の終了を発表した。現在では6月23日を「沖縄慰霊の日」として沖縄戦における戦没者の慰霊の日とされている。
 しかし、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないものであった事に加え、沖縄戦に参加していた日本軍の指揮系統が崩壊していたため、組織的戦闘が終結した事実や、既に内地の大本営からも事実上見放されたことが正確に伝わらず、この後も残存兵力による散発的な戦闘が沖縄本島各地で続いていた。沖縄本島と同様に久米島に残された少数の守備隊も疑心暗鬼のなか勝算なきゲリラ活動を続け、そのなかで住民虐殺が発生した。
 拉致された住民は6月26日、アメリカ軍の上陸時に解放されたが、守備隊の鹿山兵曹長拉致被害者に対し、アメリカに寝返ったのではないかという疑問を抱いた。鹿山兵曹長はまず、6月27日にアメリカ軍に拉致され降伏勧告状をもっていくように命令されて部隊にやってきた久米島郵便局の電信保守係(郵便局長という説もあり)であった安里を銃殺刑に処した。6月29日には工作部隊によって拉致されていた区長の小橋川と区警防団長の糸数盛保の2家族9人を処刑し、その遺体を家屋ごと焼いた。
 兵曹長による刑罰はその後も続き、部下の兵士と義勇兵を「斬込隊」としてアメリカ軍に特攻させ、生きて帰ってきた部下を「処刑」した。また、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていたり、投降しようとした者についてもスパイもしくは利敵行為(戦前の刑法では罪となった)であるとして処刑を行った。兵曹長は守備隊の最高司令官として徹底抗戦の構えをみせ、山にこもって戦うように住民に指示し、従わないものは処刑すると警告した。また8月20日の処刑には地区の住民も命令に従い協力したという。住民の中には鹿山と共に山に立てこもった者も少なくなかったが、戦況はアメリカ軍有利であることが明白であり、またアメリカ軍は「(山から出て)帰宅しないと山を掃討する」と伝達されていたうえ、実際に久米島の実務はアメリカ軍政府が掌握しており、住民の多くはその命令に従わなかったという。なお、当時の島には3000戸の住宅と7073名の労働人口があったという。
 守備隊は8月18日には一家4名を処刑したほか、さらには鹿山隊長は島の16歳の少女を連れ逃げまわる一方で、具志川村字上江洲に住むくず鉄集めで生計を立てていた朝鮮人谷川昇一家(朝鮮名は不明)を住民と部下に命令して8月20日に惨殺した。この行為は日本が降伏した8月15日以降の出来事であった。そのため、海軍刑法が禁ずる停戦命令後の私的戦闘の疑いもある。
 9月には、昭和天皇による玉音放送で『終戦詔書』が伝達されている事実をしらされたこともあり、守備隊も最後は全面的に降伏した。最終的に守備隊が処刑した5件で住民は22人(一説では29人)となる。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が処刑された。そのなかには前述のように突撃命令で特攻し、生還した兵士もいた。
 住民虐殺の問題性
 鹿山が朝日新聞に語ったインタビュー[3]にこの時の心情が垣間見える。また7月までには陸軍がくるはずと認識していることが伺えるため、彼はすでに6月23日に沖縄戦終結したことを知らなかった可能性もある。
 これら一連の虐殺事件は、終戦直後の混乱と日本政府からの管轄権分離という非常事態もあり、一切の刑事訴追を受けていない。そのため、事実上のクーデター未遂事件である宮城事件と同様に誰も罰せられることはなかった。
 海軍刑法(明治四十一年法律第四十八号)の第1条は「本法ハ海軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス」としており、一般日本人には適用されないと明記されている。また処刑するにしても軍法会議を経たうえで第16条は「海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス」としており、一定の法的手続きを要求している。また日本国内でスパイとして処刑されたリヒャルト・ゾルゲ治安維持法等違反で処刑されたが、一般の刑事裁判で裁かれており、外地の戦場における占領地住民と同じように、内地であった沖縄県で部隊長の判断で処刑する権限は無い。
 元兵曹長軍法会議で処刑を決めず「住民からの情報」から判断して処刑したことについて、「われわれの部隊は少人数で大部隊のように軍法会議を開いてそういう細ごまとした配慮をするヒマはなかった」と語っている。実際に、軍法会議は大戦末期には戦場で孤立化した部隊が続出したことから法務官不在でも開廷された例もあり、少尉以上の士官が3人集まれば軍法会議をすぐ開催することができたうえに、戦時においては民間人にも特定の犯罪に関しては処断できるとされていた。そのため一般人にも適用された可能性もある。
 また、海軍刑法22条の3で「軍事上ノ機密ヲ敵国ニ漏泄スルコト」(スパイ)と22条4では「敵国ノ為ニ嚮導ヲ為シ又ハ地理ヲ指示スルコト」は「罪」と規定されており、それに対する刑罰は20条で「首魁(首謀者)ハ死刑」と規定されているほか、そのほか謀議に入ったものも「死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ」とするなど重罰が規定されていた。そのため大部隊のように少尉以上の士官が3人(それよりも少なくても即決で処刑が決められた場合も否定はできないが)集まれば軍法会議をすぐ開催することができたため、住民に対するスパイ容疑での処刑があった可能性がある。しかし久米島においては守備隊長の最高位が兵曹長であり尉官より下の下士官であった。そのため久米島では軍法会議の開催は事実上不可能であったといえるため、兵曹長に住民を処刑する権限はなかった。そのため、守備隊が住民を「合法的」に処刑することは、人道上の問題だけでなく、軍規にすら違反する行為であった。」
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