🐒3:─1─統一教会・勝共連合は天皇と権力にすり寄ろうとして挫折した。朝日ジャーナル1987年2月27日号。〜No.5No.6No.7 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2022年9月3日 MicrosoftNews AERA dot.「【朝日ジャーナル #8・有田芳生天皇と権力へのすり寄りに挫折した勝共連合(1987年2月27日号)
 © AERA dot. 提供 有田芳生氏(撮影:張溢文)
 近年、ジャーナリストの有田芳生さんは、しばしば「反日」のレッテルをはられ、ネット右翼ネトウヨ)からの批判にさらされてきた。
 「特に(自身が)参議院議員のときは毎日のようにすごい攻撃だった」と、有田さんは振り返る。
 ところが、安倍晋三元首相銃撃事件を発端に、旧統一教会(現世界平和統一家庭連合)批判をするようになってからネトウヨからの攻撃がぴたりと収まったという。
 有田さんは「彼らも戸惑っているところがあるんじゃないかなあ」と、ネトウヨの心理を推察する。
 最近、いわゆるリベラル派は旧統一教会を「反日カルト」と位置付ける。それを攻撃する有田さんは「親日」というわけだ。
 ところが実際の旧統一教会の姿は「反共団体」である。東西冷戦時代、教団の実質的な政治部門である「国際勝共連合」は反共の旗を掲げる保守政治家と強く結びついてきた。
 「それはもうぼくらにとっては常識なんだけど、若い人は知らないよね」と、有田さんは笑う。
 旧ソ連が崩壊してからはや30年。「反日」なら理解できるが、「反共」と言われても、あの時代の空気を知らない世代からすればピンとこないのがふつうだろう。
 そこで今回、かつて朝日新聞社が発行していた週刊誌「朝日ジャーナル」1987年2月27日号に掲載されていた記事「建国記念の日・奉祝派の亀裂 天皇と権力へのすり寄りに挫折した勝共連合」を紹介する。筆者は、同誌で80年代後半に旧統一教会の闇を追及し続けた有田さんだ。
 旧統一教会は反共を背景に、保守政治家だけでなく、なんと天皇にも近づいてきた過去を持つ。教団の複雑怪奇な動きを追った有田さんの渾身のレポートを、再びお届けする。(編集部・米倉昭仁、以下の本文にある所属、肩書きなどはすべて当時のまま)
  *  *  *
 2月11日、中曽根首相も出席して開かれた建国記念の日を祝う国民式典(主催・財団法人「国民の祝日を祝う会」)は、式次第をめぐって式典数日前までもめていた。
 それは、高松宮死去で皇室が喪に服していたため、最後の万歳三唱が適当かどうか、意見が分かれていたからだ。
 万歳の音頭を誰がとるかも、最後まで決まらなかった。一時は西武ライオンズ清原和博選手に決まりかけ、西武球団の堤義明オーナーも賛成するという場面もあった。これは、この式典を自民党サイドからすすめてきた中山正暉国民運動本部長が、大阪の地元で清原選手の後援会長をつとめていた縁によるものだった。
 清原案が球団内の反対でつぶれ、万歳三唱の人選は、その後、相撲の横綱千代の富士の名前もあがったが、結局タレントの西郷輝彦氏に落ちついた。
 午後1時、勇壮なマーチの演奏とともに開かれた式典は、奥原唯弘「祝う会」常務理事が「開式の辞」をのべ、『君が代』斉唱に続いて五島昇代表理事が「主催者式辞」をのべた。
 式典は、そのあと来賓祝辞へと移った。最初に壇上に立ったのが中曽根首相。昨年の祝辞で「旺盛な愛国心」を強調したのに比べると、当面の政策課題にふれるなどトーンは落ちている。
 その後、衆院議長、参院議長などの祝辞が続き、なかでも目を引いたのが、一般代表として壇上に立ったタレントの森田健作氏と歌手の中尾ミエ氏だった。
 「スパイ防止法制定の必要性を訴えてきた青春の巨匠モリケン」(勝共連合の機関紙『思想新聞』)、こと森田氏は、胸を張り高らかな声で「愛国心を失ってはならない」「日本は青春の国だ」と強調した。
 「こうしたところに招かれたのははじめて」という中尾氏は、建国記念の日を「日本人がこぞってお祝いしないのは不憫な気がする」「じっくり時間をかけて国民みんなで祝えるよう頑張って下さい」と語った。
 休憩をはさんで午後2時から始まった第2部は、狂言師野村万作氏らのイベントで構成されていた。
 そして式典の最後に行われたのが、万歳三唱だった。壇上には幼稚園児はじめ参加者が勢揃いし、その中に中曽根首相や五島氏らが立った。
 ここで西郷輝彦氏がマイクの前に立ち、「幸せな国にいることにありがとうを言いたい」とのべたうえで「日本国の建国を祝し、天皇陛下の更なるご長寿を祈り世界の平和と繁栄を祈って」万歳三唱が行われた。
 式典参加者は約1700人。閣僚の参加者は、昨年の17人に対し、今回は首相をふくめ11人と欠席が増えている。
 106カ国の外交官(大使)出席予定のうち、参加したのは27カ国にとどまった。
 野党からは、民社党代表として柳沢錬造参議院議員が参加し、公明党国民運動本部からは祝電が寄せられた。
 なお、恒例となり今年の式次第でも予定されていた祝電披露は、なぜか急遽とりやめとなった。ちなみに、今年の祝電は公明党本部のほか、数人の自民党代議士から寄せられていた。
 「国民の祝日を祝う会」で
 決定的亀裂へ
 式典を準備した財団法人「国民の祝日を祝う会」は、昨86年3月15日に設立された。そして役員には代表理事に稲山嘉寛経団連名誉会長、五島昇日商会頭、常務理事に奥原唯弘近畿大学教授が就任した。
 「祝う会」は、1年間に12日ある、法で制定されている国民の祝日の意義を啓発することを目的に設立され、その事業内容として「日本国旗の掲揚推進運動」などをうたっている。
 形の上では憲法記念日までも評価するという新しい「祝う会」の登場は、この数年間、亀裂を深めていた奉祝派の間の対立を決定的なものにした。
 もともと、亀裂のきっかけとなったのが82年11月の中曽根内閣の誕生であった。
 建国記念式典は世論の賛否両論のなか、78年には総理府、81年に文部省、83年に自治省、85年に外務省と後援をとりつけ、実質的な国家行事化がはかられてきた。
 そして「戦後政治の総決算」を唱えた中曽根首相は、就任当時から歴代首相としてはじめての式典参加を強く望んでいた。
 ところが「建国記念の日奉祝運営委員会」(黛敏郎委員長)が催す式典は、紀元節を前面に出したあまりにも復古的なものであったため、中曽根首相でさえ容易に参加することはできなかった。
 「奉祝運営委員会」の式典は、神社本庁国際勝共連合生長の家などが前面に出、紀元節の歌の斉唱、神武天皇陵遥拝が行われ、「天皇陛下万歳」「八紘一字」が強調されていたからだ。
 そのため中曽根首相は、建国記念式典には「祝電」を打つにとどめていた。同時に首相の式典参加を可能にする条件づくりを、自民党中山正暉国民運動本部長らに命じる。
 その条件とは、主催団体の変更、式典内容の手直しなどであった。
 84年11月27日、自民党国民運動本部主催の「式典準備会」が「奉祝運営委員会」代表もふくめて開かれた。そこでは中山氏から総理出席の条件を整えるため式典から「政治色・宗教色を排する」ことが説明された。
 さらに12月4日、神社本庁日本を守る会日本郷友連盟、新日本協議会、国際勝共連合生長の家などの出席のもと「奉祝運営委員会」役員会が開かれた。そこに出席した中山氏は、式典内容の変更などについてこう主張した。
 「天皇を中心とした建国記念の日を否定するグループに攻撃の材料を与えない事だと思います。急がば回れと申すように、2月11日というものを定着させて、やがて新しい日本国民が誕生した時、2月11日とは一体何だったのだろうかという事を思い返していただき、やがて日本が安定する国になった時、神武建国の意義をよみがえらすときがやって来る」
 この中山氏の発言に対して「首相の出席のために内容をうすめることはできない」「不敬だ」といった罵声が浴びせられた。
 そしてこうした反対意見をおし切り12月6日、「建国記念の日を祝う会」が、中曽根ブレーンの1人である五島昇氏を会長として発足した。「祝う会」の財団法人化はこの時から密かに計画されている。
 年があけた85年1月29日、中曽根首相は、参議院本会議で、「ぜひ式典に参加したいと熱望している」と、はじめての首相参加に意欲をみせた。
 翌30日、「祝う会」の第1回運営委員会が開かれる。ここで、それまで強硬な態度をとっていた副島広之明治神宮権宮司は「別の集会は開かず、いっしょにやっていく」と表明し、一連の内紛はひとまず収束した。
 こうした経過をたどって、中曽根首相は歴代首相のなかではじめて85年2月11日の建国式典に参加することができた。
 それから1年後の86年3月、「建国記念の日を祝う会」の財団法人化が、ほとんどの関係者に知らされないまま「国民の祝日を祝う会」として強行された。
 この一方的なやり方に対し、「建国記念の日奉祝会」(会長・黒神直久神社本庁総長)と「祝運営委員会」(黛敏郎委員長)は強い反発を示し、今年は「静観」を決め込んで、従来通り明治公園での「紀元節祭」を催した。
 天皇制に近寄る勝共
 強まる疑惑の目
 政府・自民党神社本庁などとの対立は、双方にすり寄ろうとしていた国際勝共連合の立場を微妙なところに追い込んだ。「建国記念の日奉祝会」の有力メンバーとして加わっていた勝共連合は、4、5年前まで式典では常に数100人の動員を行ってきた。が、85年からは、中曽根首相の指示で式典の性格や構成団体が変わったのをきっかけに、組織動員としてでなく、自民党下部組織の動員割りあての枠内で参加するにとどまった。
 そして、今年の式典ではついに「勝共連合から組織動員はなかった」(奥原常務理事)という。
 奥原氏自身、勝共連合とのかかわりを「世界平和教授アカデミーの会員になった覚えはない。名前を勝手に使っているだけでしょう。会合に出たこともありません」と否定した。
 奥原氏といえば、憲法「改正」を目的とする「日本を守る国民会議」の結成発起人やスパイ防止法制定促進国民会議運営委員であるとともに、勝共連合のパンフレットなどによると、統一教会文鮮明教祖が提唱した世界平和教授アカデミー理事だとされている。そして、別のパンフレット『勝共連合案内』では「応援しています」という声を寄せ、勝共連合の友好紙である世界日報社から『世界の機密保護法』を出版しているように勝共連合に非常に近いとされてきた。
 奥原氏は、東京・立川市議選での選挙妨害裁判でも勝共連合側の代理人となっていた。「祝日を祝う会」の事務局ともなっている東京・千代田区の奥原氏のオフィスでは、定期的に裁判の対策会議が行われていたが、いまでは全く行われなくなったらしい。
 これは、建国記念式典を国民的行事と装い、それを定着させ国家行事として完成させるため、勝共連合という反共団体のカラーを式典としても奥原氏としても一掃する必要があったのではないか。
 「国民式典」から追われたかたちの勝共連合は今年の2月11日は奉祝会主催の明治公園での「紀元節祭」に参加した。
 こうした勝共連合の動きに対し、奥原氏は「おかしいねえ」という。
 たとえば勝共連合と友好関係にある統一教会幹部だった副島嘉和氏は、その手記(『文藝者秋』84年7月号)のなかで、天皇文鮮明氏に拝跪する儀式があるとのべている。
 韓国が「神の国」で、日本はその「僕(しもべ)」だという教義からは、こちらの方が当然の帰結なのだ。
 たしかに天皇元首化を主張する神社本庁などと勝共連合の主張とは矛盾している。みずからの基盤を広げ、そこで市民権を得ることができるなら、本来は矛盾する天皇賛美であろうと何であろうとかまわないのであろうが、それにしても、いささか度が過ぎる。
 勝共連合は昨年の天皇在位60年パレードに積極的に参加するなど、最近、天皇制への傾斜を深めている。
 しかし、天皇制へ近寄れば近寄るほど疑惑の目が厳しくなっていることも事実だ。神社本庁の関係者の中にも「どこまで一緒にやれるかわからない」という声は少なくない。
 さらに、86年の衆参同日選挙以降、自民党内でも勝共連合への反発を示す国会議員が出はじめている。
 サタンの国の神武建国を
 祝う自家撞着
 それはダブル選挙時、勝共連合が150人の候補者を推薦、応援し、134人が当選したことが背景になっている。同一選挙区内の自民党候補にとって、勝共連合の組織的動員による選挙活動が“脅威”ともなり、反感を覚えるというのだ。
 さらに、国家秘密法制定を推進しようという議員のなかで、運動の足腰が勝共連合であることに対し、「だから熱心になれない」という意見も生じている。
 そして、これらの底流には、声高には語られないが、“異国生まれ”の政治団体が、日本の伝統、日本の政治に深く介入することへの不信が横たわっている。
 来年、政府・自民党主導の国民式典に対し、神社本庁など奉祝会側は「神武建国」を正面からうたった独自の式典をぶつける可能性がある。
 国民式典からはじき出された勝共連合は奉祝会側にいっそうすり寄らざるをえまい。しかし、戦前に逆戻りしたような復古調の中で、韓国を神の国とする勝共連合は生き延びることができるだろうか。
 統一教会の教理解説書『原理講論』は「日本は代々、天照大神を崇拝してきた国として、更に、全体主義国家として、再臨期に当たっており、また、以下に論述するようにその当時、韓国のキリスト教を過酷に迫害した国であった。(中略)サタン側の国家なのである」と述べているのである。
 (フリージャーナリスト・有田芳生
 ※「朝日ジャーナル」1987年2月27日号から」
   ・   ・   ・