👹3:─4・C─徳川家康と安倍晋三元首相の外交の共通点。~No.14 

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 現代日本人が政治家を評価するのは、他国との外交や国防の軍事ではなく、自分に関係する内政だけである。
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 2022年10月6日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「東大教授が教える「徳川家康安倍晋三元首相の外交の共通点」
 本郷和人
 大教授が教える「徳川家康安倍晋三元首相の外交の共通点」© ダイヤモンド・オンライン 提供 東大教授が教える「徳川家康安倍晋三元首相の外交の共通点」
2022年7月、応援演説中の安倍元首相が銃殺されるというあまりにもショッキングな事件が起きた。安倍氏追悼の言葉が数多く挙がる中で、その外交手腕を褒めたたえるものも多い。では、そもそも外交が「うまい」とはどういうことなのか? 東京大学史料編纂所教授、歴史学者であり『東大教授がおしえる やばい日本史』『東大教授がおしえる さらに! やばい日本史』監修者の本郷和人氏に聞いた。(取材・構成 小川晶子 写真・梅沢香織)
 そもそも外交とは何をやっているのか
――前回、「日本のびっくり外交ベスト3」をお聞きしておいてなんですが、そもそも「外交」とは何なのでしょうか。テレビで各国の首脳同士が笑顔で握手していたりコミュニケーションをとったりしている様子は見ますし、外交官が国のために交渉をしているのだろうなとは思うのですが、正直に言ってあまり理解できていません。
 本郷和人氏(以下、本郷):まず歴史上の外交について言うと、東アジア諸国においてはレゾンデートルのためです。外交によって、自分の存在価値を示すんですね。たとえば朝鮮半島高句麗新羅百済という3つの国があり、誰が一番朝鮮半島の王にふさわしいのかということで、中国に一生懸命働きかけます。中国の皇帝に認めてもらうことによって、私こそ正当な存在であると誇示するためにやるのです。
 日本の場合は、どっちかというと文明・文化を取り入れるため。優れたものを学びたいけれど、タダでは渡してくれませんからね。国の間ですり合わせが必要になります。現代でもそれは同じですね。
 各国の首脳同士が握手しているというのは、外交の儀礼的な部分です。国際儀礼にのっとって、国同士の力関係を見せるのです。水面下では「あれを買ってくれ、この条件をのんでくれ」といった熾烈なやりとりが行なわれているのが外交です。
――なるほど。では、「外交がうまい」とはどういうことなのでしょうか。安倍元首相が亡くなって、「外交がうまかった」と評されているのを何度か見たのですが……。
 本郷:知り合いに安倍元首相づきの外務省審議官がいたので、聞いてみたことがあります。彼によれば、安倍さんはアメリカとの同盟を大切にするという軸が「ブレなかった」のだそうです。
 いまの日本では、アメリカと中国とどのように関係を築くかが非常に重要です。あるときはアメリカに媚びを売り、あるときは中国にすり寄り……ということをやっていたら信頼を失います。そんな状況で、安倍さんはブレることなくアメリカとの関係に軸足を置いた。そして、中国に対してはアメリカとの関係の重要性を説き、アメリカに対しては中国と仲良くする大事さを説いたわけです。安倍さんに対する評価はさまざまありますが、彼はそこを評価していたんですね。
 信頼を得て天下人になった徳川家康
――歴史上も、スタンスを決めてブレずにやっていた人が信頼を得ていたということはあるのでしょうか。
 本郷:そうだと思います。僕はよく徳川家康の話をするのですが、家康は信頼を得たことによって天下人になったんですよ。当時、織田と武田という超大国にはさまれていた家康は、織田信長と同盟を組み、決してブレなかった。どんなにひどい目に遭っても、信長との関係を保ちました。歴史を知っている僕たちは当たり前に思いますが、当時は織田が負ける未来だってありえたわけです。
――『やばい日本史』には、最強と言われていた武田信玄と戦うハメになった家康が、必死に逃げながら恐怖でうんこを漏らすというエピソードが紹介されていました。城に帰ってから、家臣に「ビビって漏らすとは情けない!」と言われ「これはクソではない!腰につけていた非常食のミソじゃ!」と言ってごまかしたとか(笑)。
 本郷:そう。めちゃくちゃ強い武田軍に攻められ、信長に助けてくれと言っても助けてもらえず、それでもうんこを漏らしながら頑張ったわけです。そうやってブレずにいたことで信頼を集めたのです。やはり天下人の器なのでしょう。
 自分に置き換えてみたらわかりますが、たとえばこれから上がりそうな織田株を買ったとする。一生懸命分析して、自分なりに理由をつけて決定したわけです。でも、いろいろあってその株価が下がってしまったときに、自分の決断を守り抜くことができるか。人間の器が試されます。ちょっと下がって慌てふためいているようじゃダメなんですね。僕はすぐ慌てちゃうけど(笑)。」
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 徳川家康も歴代徳川将軍も、漢籍・古典を読んで隣国である中国の明国・清国や朝鮮を知り友好・善隣などは望まず、地球の反対側にある遠国のオランダを通じて西洋とのつながりを強く望んでいた。
 日本は、大乗仏教の仏典・経典を通じてインド、チベットガンダーラ中央アジアそしてシルクロードに憧れていた。
 日本民族の心、精神の拠り所は、唐=中国、朝鮮ではなく天竺=インド、チベットであった。
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 現代日本の外交史において、徳川家康の外交は安倍晋三元首相同様に評価が低く、そして「狸親父」として日本人から嫌われている。
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 徳川家康は、キリスト教の宗教侵略から日本を守った。
 安倍晋三元首相は、中国共産党の経済侵略・軍事侵略から日本を守ろうとした。
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 徳川家康徳川幕府は、信仰宗教のキリスト教邪教と決めつけて禁教とし、キリシタン弾圧をしキリスト教徒を処刑した。
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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 武士は、敵が自分より強者・巨大で戦えば必ず負けると分かっている絶望的状況にあっても、体面・名誉・プライドの為に戦うと決断したら「勝敗は時の運」と思い定め、死を覚悟し、「肉を斬らして骨を斬る」の捨て身の戦いを「正々堂々」と奇策や奇兵を駆使しておこなった。
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 日本の戦争史において、小国・少勢・小部隊・弱者・不利な者が大国・多勢・大軍・強者・有利な者に対して行う、油断を突く・虚を突くという奇襲・騙し討ち・不意打ち・夜襲は卑劣な戦術ではなく道理にかなった戦術である。
 日本軍が戦った対外戦争である、日清戦争日露戦争、シベリア出兵そして満州事変、日中戦争、太平洋戦争はすべてそうといえた。
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 鎖国下の江戸時代、日本の文化はあるがままでの共存と共生であり、日本の生き方は身の回りでの絆と繋がりであり、日本の生活は目の前の地産地消であった。
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 鎖国政策とは、中国や東南アジアから疫病を入れない水際政策であったが、それでもコレラ、ペスト、梅毒、インフルエンザなど日本にはなかった伝染病が侵入して大流行を引き起こしていた。
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 対中国・対朝鮮交易は、富をもたらしたが同時に疫病を引き入れる事になった。
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 日本の総人口は、江戸開府の1600年頃では約1,200万人~1,800万人で明治5(1872)年には約3,295万人(琉球人とアイヌ人を除く)に増加していた。
 人口増加は、慢性的な乳幼児死亡率が高い中で起きていた。
 江戸時代の人口増加を支えていたのは、伝承としての継続的変革と一新する破壊的イノベーションであった。
 江戸時代は人口が微増して、人生50年といわれ、年齢的人口構成は若者が多く老人が少なかった。
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 乱取り
 日本とくに日本民族では、マルクス主義共産主義無政府主義による人民革命は起きない。
 もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
 何故なら、マルクス主義共産主義無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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 庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
 一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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 日本人は、悪人、悪党、罪人である。
 故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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 徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
 東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土南樺太に送って防衛任務に当たった。
 尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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 徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
 戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
 古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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 明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
 が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
 日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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