🎼11:─1─日本の近代化とは外国の侵略に対する独立心と報国心であった。〜No.15 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年11月号 Hanada「新・痩せ我慢の説 渡辺利夫
 独立こそが立国の目的である
 幕末期、欧米列強によるアジア進出には狼藉たるものがあった。アヘン戦争によって香港がイギリスに割譲され、沿海部の主要都市が列強によって次々と蚕食(さんしょく)された。ペリーの黒船来航により日本もアメリカの砲艦外交を受け屈辱的な開国を余儀なくされた。アメリカに次いで他の諸列強との間で修好通商条約といわれる不平等条約を強要された。関税自主権が認められず、外国人に対する裁判権のない治外法権状態が押し付けられた。
 攘夷運動が高まりをみせたものの、一瞬の花火でしかなおあった。明治新政府の指導者は、日本が不平等条約を強要されたのは日本が欧米列強から文明国とみなされていないからであり、かかる状態から脱する道はただ1つ、日本自体が西洋に倣(なら)って文明化する以外にはないと決意した。『五箇条の御誓文(ごせいもん)』の第5条『智識ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ』がこれである。
 文明国を文明国たらしめている物的生産力、社会制度、法体系とはいったいいかなるものか。これを自分の目で視察するための使節団が組織された。右大臣・岩倉具視特命全権大使とし、木戸孝允大久保利通伊藤博文などを副使官とする維新の主役を中心に、総勢100名を超える使節団が欧米12ヵ国を実に1年9カ月にわたり訪問した。新生の明治政府自体がユーラシア大陸を長駆一巡するかのごとき壮挙だった。
 使節団出発の明治4年といえば、その7月に廃藩置県が断行され、幕藩体制が崩壊したばかりの頃であった。不平士族と呼ばれる諸勢力が各地で新政府への反抗の刃(やいば)を研(と)いでいた。新政府の中枢部が日本を留守にすることなど想像しにくい状況にあった。旧体制に替わる政治、経済、社会制度をどうやって建設するか、文明国の文明国たる所以(ゆえん)を新政府自身が確認したいという熱望が、このリスキーな行動を促(うなが)したんである。
 大陸横断鉄道、造船所、紡績工場、倉庫、石畳、水道、博物館、図書館、ガス灯、ホテル、アパートなど、さらには共和制、立憲君主制、徴兵制、議会制度、政党政治などの文明のありとあらゆる側面について修得した。使節団の実感を一言でいえば、文明国のもつ文明の圧倒的な力であった。その後の日本の富国強兵・殖産興業政策、さらには憲法と議会制度があきれるほどの速さで実現されていったのは、使節団の体得した知見のゆえであった。
 福澤諭吉岩倉使節団に参加できなかったものの、そこにいたるまでにすでに3度の洋行、安政6年(1859)には日米修好通商条約の批准交換のために渡米、文久元年(1861)には文久遣欧使節団に加わってヨーロッパへ、慶応3年(1867)には幕府使節団員として再度の渡米を敢行ししている。これらの経験から得た欧米の状況についての記憶を明治3年までの間に『西洋事情』という10冊の著作として刊行した。福澤はさらに明治8年(1875)には『文明論之概略』を著(あらわ)し、文明とはそもそも何なのか、日本は文明化をいかに進めるべきかを、深々とした論法をもって記述した。福澤の数ある著作の中でも最も大きなエネルギーを注いで書かれたものが本書である。議論の密度、文筆の格調、説得力からみて、私はこれが近代日本の最高の名著だと考える。
 明治は文明化に日本の存亡をかけた時代であった。岩倉使節団という明治新政府の中枢が、建国期の最も繁忙期(はんぼうき)で危険な時期に長期をかけて文明国の視察に赴(おもむ)いたこと、それに先立ち、のちに明治最高の知識人となる福澤諭吉がもてる才能と胆力によって文明の何たるかを徹底的に解明しようとして洋行と執筆を繰り返したこと、この2つを語るだけでも明治の文明開化にみずからを賭(と)していたことがわかろう。
 『文明の物たるや至大至重(しだいしちょう)、人間万事皆この文明を目的とせざるものなし。制度と云い文学と云い、商売と云い工業と云い、戦争と云い政法と云うも、これを概して相互に相比較するには何を目的としてその利害得失を論ずるや。唯(ただ)そのよく文明を進(すすむ)るものを以(もっ)て利(り)と為(な)し得(とく)と為し、そのこれを却歩(きゃくほ)せしむるものを以て害(がい)と為し失(しつ)と為すのみ。文明は恰(あたか)も一大劇場の如く、制度文学商売以下のものは役者の如し』
 文明開化論者・福澤の文明に対する憧憬(しょうけい)、旺盛(おおせい)な探究心、これを世に訴える熱意について改めてここで記するのはやめておこう。問うておきたいのは、福澤が往時の日本にあってこの文明をいかに進めようとしていたのか、つまりは文明の進捗(しんちょく)方法についての氏の考え方である。
 福澤の文明論の要諦(ようてい)は氏の発展段階説にあると私はみる。西洋諸国は文明国であるが、日本、中国、トルコなどは『半開国』、アフリカ、オーストラリアなどは『野蛮国』だという。つまり文明は野蛮、半開、文明と『段』を踏んで実現されていくものだと福澤はみる。野蛮国、半開国は、文明国との間に結ばされた不平等条約に呪縛(じゅばく)されて容易に文明に近づくことを許されない。日本はどこに進むべきか。福澤は一気に核心部分にはいる。
 『目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。その目的とは何ぞや。内外の区別を明(あきらか)にして我本国の独立を保つことなり。而(しこう)してこの独立を保つの法は文明の外(ほか)に求むべからず。今の日本国人を文明に進(すすむ)るはこの国の独立を保たんがためのみ。故(ゆえ)に、国の独立は目的なり、国民の文明はこの目的に達するの術(すべ)なり』
 独立のために必要な国民が擁すべき徳目は何かと問うて、福澤は『報国心』だと答える。国家に報いようとする私情こそが、目下の日本人が広く深く心中に抱え持たねばならない徳目だという。
 独立の気概がなければ文明への道は到底開けないというこのような論理は、帝国主義のあの時代にあっては真実であったかもしれないが、グローバリゼーションの現代にあってはそうではないかのような議論が長らく日本のジャーナリズムや教育界を被(おお)ってきた。
 平和安全法制が成立して同盟国アメリカとの集団的自衛権をどうにか手に入れたのは、平成27年(2015)であった。ジャーナリズムや野党の執拗(しつよう)な反対にあいながら辛(から)くも成立した法案だった。あの時に集団的自衛権を手にできていなかったなら、ウクライナ戦争が本格化し、これが中国の台湾侵攻を誘発しかねないこの時期に、日本は右往左往していたにちがいない。
 国益の核心への侵犯がいよいよ差し迫ったものとなり、それでもなお座して死を待つ国家がどこに存在しようか。個別的自衛権の名のもとに、国際法上の個別的自衛権の概念を大きく超えて他国の領域に侵入せざるを得なくなるはめに日本が陥(おちい)る可能性は、国家が生存本能を持つ存在である以上、十分にあり得る。この程度の想像力を持ち合わせない左翼リベラリズムのセンチメンタルに私はウンザリしているのだが、福澤の生きた明治という時代の旺盛な独立心について、今一度私どもは目を向けてみようではないか。たかだか100年と少し前の時代のことではないか。」
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 日本の近代化とは、自由と博愛と平等による非戦の平和国家建設ではなく大陸における対外戦争に勝利する為の軍事国家建設であった。
 近代日本の、戦争相手国とは敵日・反日・反天皇国際勢力であるロシア、清国(中国)、朝鮮の3カ国で、戦争目的は自主独立であった。
 全ての日本民族が一丸となって武器を持って侵略してくる3カ国から日本天皇・日本国そして民族の歴史・文化・伝統・宗教を命を捨てて守る事であった。
 戦後という毒に染まった現代の日本人には、日本の近代化は理解できない。
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 軍国日本の急務とは、力には力で、軍事力には軍事力で、日本国・日本天皇日本民族そして民族固有の歴史・文化・伝統・宗教を外敵の侵略から命を賭けて守る事であった。
 近代日本が怖れたのは、江戸時代後期から存在していたロシアの軍事侵略であった。
 明治時代の大陸進出戦争であった日清戦争と台湾領有、日露戦争日韓併合は、祖国防衛に積極的自衛戦争で合法的な正当防衛である。
 が、現代ではそれらは戦争犯罪として完全否定されている。
 その証拠が、靖国神社問題である。
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 江戸時代後期から明治期までの日本人と1980年代後半から2022年現在の日本人とは、別人のような日本人である。
 その原因は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から如何にして神国日本を守るかという、民族国家滅亡という危機意識である。
 中世キリスト教会とイエズス会などの修道士会は、異教徒非白人の日本人をアフリカ人同様の人間以下の奴隷・家畜として扱った。
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 自分を守るのは自分だけで、誰も助けてはくれない。
 宗教も、憲法・法律も、哲学・思想そしてイデオロギーさえも無力である。
 その理(ことわり)を、現代の日本人以上に昔の日本民族は知っていた。
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