🎺86:─1─日本は大戦中「戦争捕虜」を一貫して虐待していたのか?~No.382 

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 2022年12月28日「『帝国の虜囚』歴史家サラ・コブナーがその実態に迫る
 日本は大戦中「戦争捕虜」を一貫して虐待していたのか?
 「バターン死の行進」中のアメリカ人とフィリピン人の戦争捕虜たち(1942年5月)Photo: MPI/Getty Images
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 サラ・コブナーサラ・コブナー
 Text by Sarah Kovner / Translation by Takako Shirakawa
 アジア・太平洋戦争中、日本軍が連合国の捕虜を一貫して虐待していたという「定説」が欧米では根強く残っている。アメリカ人の日本現代史家サラ・コブナーは、そうした定説と膨大な資料を照らし合わせ、歴史的な実態を浮き彫りにしていく。
 サラ・コブナー『帝国の虜囚』
 この記事は1回目/全3回
 1941年12月、大日本帝国の陸海軍は2日にわたり真珠湾、マラヤ、タイを攻撃し、世界に衝撃を与えた。
 日本は1937年半ばにも中国に侵攻していた。そのため注意深い観測筋は、日本が軍事行動を起こす可能性を予測していた。
 だがアメリカやイギリスでは、大多数の市民が降って湧いたような事態に仰天した。電子メールや無料通話が存在せず、東京とタイを結ぶ直行便も飛んでいなかったその時代、日本で生じる脅威は、遠いかなたの話でしかなかった。
 しかしいまや日本軍は、何千キロも外洋を渡り、アリューシャン列島からマラッカ海峡マーシャル諸島からビルマ公路までの領域へと、猛進撃をつづけたのである。
 日本軍は太平洋戦争を開始した最初の5ヵ月間に、14万人を超える連合軍兵士と13万人の民間人を、十数ヵ国で捕虜にした。日本の指揮官たちは急遽、大量の捕虜収容所や民間人の収容所を設置しなくてはならなかった。
 戦争中にはアメリカ軍捕虜の3人にひとりが、故郷に帰ることなく命を落とした。戦争末期になると、オーストラリア兵も、戦闘で死亡する者よりも収容所で死亡する者が多くなった。
 映画や小説に登場する日本兵は、不可解な人々である
 遠いかなたの国でしかなかった日本と日本人は、太平洋戦争により西洋諸国によく知られる国となった。それも主として、憎しみの対象として。それ以来、回顧録、読み物、映像や論述を通し、日本がいかに一貫して捕虜を虐待し、屈辱を与えたかが伝えられてきた。
 1957年の映画『戦場にかける橋』のニコルソン大佐がたどる悲劇であれ、ローラ・ヒレンブランドのベストセラー『不屈の男 アンブロークン』に描かれる陸軍飛行士ルイス・ザンペリーニの英雄的な活躍であれ、捕虜は収容所所長や監視兵から残酷な仕打ちを受ける対象として描写されている。
 映画や小説に登場する日本兵は、不可解な人々である。捕虜の残酷な扱いについて説明がなされる場合には、たいていの場合、日本の軍事教育と武士道(20世紀に復活し、再構築された以前の侍の道)が作り上げた軍事思想によって起きたことであるとされてきた。
 日本軍は兵士に、捕虜になるのを最大の恥であると思わせる教育をした。そのために、進んで投降する敵兵を軽蔑する意識が生まれた、というのがその説明である。
 太平洋地域で捕虜にとられた連合軍兵士は、連合軍全体の0.5パーセント前後でしかなかった。そのことを考えれば、太平洋戦争の記憶には、周知となっている歴史観がきわめて大きな影響を及ぼしている。
 第二次世界大戦終結から65年後に発行された『アンブロークン』も、長くベストセラーになっていた。
 ジョン・グリシャムのスリラー小説に登場する人物について背景説明がなくても、ビデオゲームの「コール・オブ・デューティ──ワールド・アット・ウォー」が前置きもなしにストーリーに入っても、すぐに文脈が理解されるほど、太平洋戦争の捕虜が経験した苦しみは広く世に知られている。
 タイ、カンチャナブリで保存されている泰緬鉄道の建設現場
 #09 日本軍の元捕虜の遺族が語る「父の虐待の記憶」─オーストラリアで消えぬ太平洋戦争の「負の連鎖」
 捕虜の経験には、簡単には説明のつかない側面もあった
 だが、捕虜の経験には、簡単には説明のつかない側面もあった。1904年に勃発した日露戦争では、日本はロシアの捕虜を手厚く扱い、国際的な報道機関や西洋のオブザーバーから称賛を受けた。
 捕虜にきめ細かい配慮を見せた日本は、国際法キリスト教文明の延長線上にあるものと考えていた西洋諸国に、普遍的な法としての再定義をうながした。
 しかし第二次世界大戦では、日本軍の捕虜収容所で監視兵をしていたのは、多くが朝鮮人や台湾人の〈軍属〉であり、日本兵ではなかった。
 また、戦いで名誉を重んじる日本の精神が連合軍捕虜の扱いに影響を与えたことは確かであるとしても、戦闘員ではなかった民間人の抑留者が経験したことは、どう説明すればいいのだろう。
 民間人抑留者の経験は捕虜とは異なっていたものの、彼らも同様に苦しんだのである。民間人でありながら、捕虜と同じ収容所に入れられた人々もいた。スティーブン・スピルバーグ監督によって映画化されたJ・G・バラードの小説『太陽の帝国』には、そのような状況が描かれている。
 ヨーロッパ人、アメリカ人やオーストラリア人による戦争中の上海、香港、シンガポール、マニラが舞台の小説や映画は、太平洋戦争の捕虜や抑留者にかかわる見方を形作ることに貢献してきた。連合軍捕虜の死亡や苦しみは、アメリカやイギリスでは悪名高い出来ごととして知られている。
 一方、日本ではそのことが民衆の記憶に刻まれていないのは、どのように説明することができるのだろうか。
 日本は戦争捕虜を残酷に扱ったのか?
これらの問いに答えるには、比較分析を行なう必要がある。しかし英語で書かれた言説は、アメリカ人はアメリカについて、オーストラリア人はオーストラリアについて研究し、総じて国際的な視点を欠いている。日本の文献が引用されているものも限られている。
 アメリカで抑留されていた日本人や日系アメリカ人についても、ほとんど触れられていない。だが戦争中の日本政府は、アメリカが邦人抑留者をどのように扱っているかに注目し、アメリカ側の扱いは、日本の連合軍捕虜の処遇に影響を与えていたのである。
 捕らえたアメリカの航空兵の処刑などに見られる日本の振る舞いを比較分析の観点から評価するにあたっては、日本の都市への空爆など、日本政府が戦争犯罪とみなした連合軍側の行為も、比較の俎上に載せて論じる必要があるだろう。
 英文の言説では、友軍の攻撃を受けて死亡した捕虜がかなりの割合でいたことも、軽視される傾向がみられる。連合軍の指揮官は、捕虜が犠牲になる可能性があることを承知の上で、輸送船団を潜水艦で攻撃し、日本の都市に空襲をかけていたのだ。
 日本軍による虐待やネグレクトよりも、友軍による爆撃の巻き添えになって死亡した捕虜の方が多かったとも言われている。
 本書では、日本人の性質や日本文化には、捕虜の非人道的な扱いに結びつくような固有の特性は内在していなかったことについて論じたい。
 日本には何十万人もの捕虜を残酷に扱うような行動規範が元来備わっていた、という見解を前提とはせずに、日本の高官が今日の言説に示されるよりもはるかに低い程度でしか、捕虜の管理の問題を考慮していなかったことを指摘したいと思う。
 投降した連合軍兵士の人数は、日本の指揮官たちの予想を大幅に上回る規模であった。兵站の制約に圧迫を受けながら、自軍の倍近い敵軍と戦うこともあった日本軍の指揮官は、捕虜の世話や食事の問題を後まわしにせざるを得なかった。
 日本軍が捕虜の管理に無頓着であったこと、捕虜の面倒を見ることに関心がなかったことは、残酷で非人道的な出来ごとをもたらした。
 捕虜の扱いに関して日本軍が際立っていた点は、〈無意識〉に残酷な扱いがなされていたことであった。強制労働、栄養失調、医療の不備といったネグレクトや虐待が、多くの捕虜を苦しめたり死亡させたりしたことは間違いない。しかし日本側の事情を考察しない論述では、その理由を説明することは難しい。
 日本は捕虜を虐待する方針を掲げていたわけではなかった
 この本では、日本政府と軍部は、捕虜を虐待する方針を掲げていたわけではなかったことを明らかにしたい。日本軍の士官や監視兵は、捕虜の虐待、利用、射殺などを命じる指令を受けたことはなかった。
 日本の公式方針はジュネーブ条約を尊重することであったが、それを知っていた将兵は少なかった。そして知っていた者でさえ、たいていはジュネーブ条約を守るための条件や力を欠いていた。
 また、大日本帝国の政策立案者は、勢力圏の拡大にとって必要となる資源について首尾一貫した検討を行なっていなかった。日本軍はそのために十分な兵站や労働力を整えることができず、一連のジレンマに見舞われることになった。
 日本政府は、一貫性のある管理体制や明確な指揮系統の構築も怠っていた。その結果、捕虜への虐待やネグレクトを未然に防ぐための基準の策定や運用が難しくなっていた。
 さらに、捕虜の窮状について対策を講じようとする場合にも、日本の行政と軍部は深く分裂し、明快な方針を打ち出すには至らなかった。収容所の状況が各所各様で、捕虜の体験にも収容所によって大きなばらつきがあったのは、このような背景を踏まえれば当然のことであった。
 捕虜の扱いには状況に左右される重要な要素と、収容所ごとの環境の相違が両面から作用していたのである。そのため捕虜の経験は、道義的な問題としてとらえる枠組みだけでは論じることができない。
 日本政府は、戦争の開始当初から連合軍捕虜を即座に処刑することもできた。欧州の東部戦線ではそれが行なわれていた。日本も中国兵に対しては、そうすることが珍しくなかった。
 しかし日本政府は、ジュネーブ条約の遵守に合意し、全員ではなくとも捕虜に赤十字の救恤(きゅうじゅつ)品の受け取りを認め、紛争地域外の視察官が中立の立場で収容所を視察することも受け入れた。政府は捕虜の厚遇も宣伝したため、日本人のなかにはそれを羨望する人も出た。
 日本政府が自国の市民と兵士をどのように扱っていたかという視点から考えると、連合軍捕虜への扱いは別の意味合いを帯びてくる。(続く)
 ※この記事は『帝国の虜囚』からの抜粋です。注などは割愛しています。
 『帝国の虜囚──日本軍捕虜収容所の現実』
 サラ・コブナー 著 白川貴子 訳 みすず書房
 EDITORS’ PICKS
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 サントリー食品の女性CEO就任が示す、日本企業が変わるために必要なこと
 死者の肉で飢えを凌いだ…「アンデスの墜落事故」からリーダーが学べる“6つの教訓”
 PROFILE
 サラ・コブナー Sarah Kovner コロンビア大学サルツマン戦争と平和研究所上席研究員(日本研究)。イェール大学国際安全保障研究所フェロー、フロリダ大学准教授(歴史学)も務める。コロンビア大学で博士号取得。京都大学東京大学でも研究を行なう。初の著書『占領権力──戦後日本の売春婦と軍人』(未邦訳)は、米国大学・研究図書館協会(ACRL)書評誌が選ぶ「傑出した学術書籍」に選ばれている。
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 12月28日 「日本軍の行動に浮かび上がってくる別の様相
 日本はなぜ大戦中、秩序だった捕虜の扱いができなかったのか?
 ジャワの戦いで日本軍に捕らえられたアメリカ兵たちPhoto by Keystone/Getty Images
 サラ・コブナーサラ・コブナー
 Text by Sarah Kovner / Translation by Takako Shirakawa
 戦時中、日本が意図的に戦争捕虜を虐待していたわけではないとする根拠は何か? 日本現代史家サラ・コブナーが引き続き、「帝国の虜囚」を取り巻いていた文脈を解き明かす。
 サラ・コブナー『帝国の虜囚』
 この記事は2回目/全3回
 広範な文脈に照らして捕虜の経験を捉え直す
 連合軍捕虜がきわめて残酷な行為と考えた平手打ち、強制的な行進、貧弱な米粥の食事は、大日本帝国陸軍の兵士にとってべつだん珍しいことではなかったのである。それにもかかわらず、日本軍が捕虜虐待の嫌疑で監視兵を軍法会議にかけていたことは、注目に値する。
 戦争中には、連合国政府に捕虜にかかわる情報を提供するための行政体制も大幅に拡充された。
 日本は、〈大東亜共栄圏〉構想の受益者とされていた中国、インドやフィリピンの捕虜が、日本兵と同等もしくはそれ以下の扱いを受けてアジア諸国がどう反応するかということより、西洋諸国からの評価を重視していたのは明らかであった。
 本書は、一見すると矛盾しているこれらの行動を可能な限り広範な文脈に照らし、捕虜の経験を考察する。
 そのなかには、国際機関に参加したり、欧米の植民地主義を模倣したりする形で、西洋とかかわり、競争しようとしてきた日本の長年の努力の歴史も含まれる。
 日本は非西洋国として最初に赤十字国際委員会(ICRC)に参加した国であった。赤十字の日本支部が世界最大の規模を誇っていた時代もあった。
 だが太平洋戦争がはじまる1941年のかなり前から、日本の軍部はアジア人の捕虜は〈戦争捕虜〉とみなすに値しないと考えはじめていた。台湾の現地民とのちには大陸の中国人は、一貫して匪賊とみなされ、〈便衣隊(べんいたい)〉と呼ばれていた。
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 12月28日 「さまざまな「歴史の産物」
 「日本軍の戦争捕虜」をジェンダー、人種、階級の観点からも分析する
 台湾の日本軍俘虜収容所から解放され、パンとバターを持って喜ぶ連合軍の捕虜たち(1945年)Photo by Keystone/Getty Images
 サラ・コブナーサラ・コブナー
 Text by Sarah Kovner / Translation by Takako Shirakawa
 日本は戦時中、戦争捕虜を一貫して虐待していたわけではなかったと立証する日本現代史家のサラ・コブナーは、軍事史のなかで見落とされてきたジェンダー、人種、階級の観点からも「帝国の虜囚」が置かれていた文脈を分析する。現代の戦争捕虜をめぐる問題にも通じる、その重要な視点とは──。
 サラ・コブナー『帝国の虜囚』
 この記事は3回目/全3回
 軍事史では異色のテーマ
 捕虜収容所という主題もまた、軍事史においては異色である。著名な学者が述べている「戦史の本質は戦闘であり、それがこの分野を独特なものにしている」という言葉が、そのことをよく表している。しかし敗北や武装解除も、戦争の一部ではないだろうか。
 現代の戦争は20世紀後半まで、どちらか、もしくは双方の降伏をもって終結するのが典型的な形だったのである。
 戦争中の活動は肉体を鍛錬して剛勇を発揮するというような、男らしさや武勇に結びつけて考えられるが、囚われの状態を特徴づけるのは、戦闘の〈不在〉である。軍事史において重要な要素であるそのような面は、捕虜収容所ではほとんど発揮することができない。
 連合軍の兵士は、捕虜になった場合は脱走やサボタージュを試みることとされていた。しかしアジアの捕虜収容所では、脱走もサボタージュも、実行するのは現実問題としては難しかった。
 捕虜たちはそうする代わりに、減っていく体重を記録し、擦り切れていく服を繕い、日本軍から与えられる屈辱に鬱屈を募らせる生活を送っていた。
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