🎺19:─3─太平洋戦争に突き進んだ「東條英機世代」の正体。日本の外交オンチ。~No.109 

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 戦争を望んだのは日本国民であり、「日本人は軍国主義者に騙され戦争に送り出された被害者だった」はウソであり、国民世論が軍部に戦争を強要したのが真実であった。
 国民世論において、「戦争」に、反対は少数派で、賛成は多数派であった。
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 2022年12月8日 YAHOO!JAPANニュース
 日米開戦80年 30代のエリート官僚たちの「日本必敗」提言はなぜ闇に葬られたか
 猪瀬 直樹作家
 プロフィール
 80年前、総勢35人による「模擬内閣」
 2021年12月8日。この日で日米開戦からちょうど80年が経つ。僕は『昭和16年夏の開戦』(1983年初版、中公文庫)で内閣「総力戦研究所」の存在を書いた。
 Photo by GettyImages
 1941年4月、つまり太平洋戦争開戦の8ヵ月前、当時の帝国政府は「総力戦研究所」を立ち上げ、30代前半のトップエリートが集められた。大蔵省や商工省といった省庁のキャリア官僚、陸軍省の大尉、海軍省の少佐、さらには日本製鐵日本郵船、日銀、同盟通信(のちの共同通信)の記者まで総勢35人。
 彼らは、もし日本がアメリカと戦争をしたら、日本は勝てるのか、そのシミュレーションをした。
 大蔵官僚は大蔵大臣、日銀出身者は日銀総裁、記者は情報局総裁というように、それぞれが役職に就いて「模擬内閣」をつくった。出身の省庁や会社から、できうる限りの資料、データを持ち寄って検討していった。侃々諤々の議論を経て出た結論は「緒戦は優勢ながら、徐々に米国との産業力、物量の差が顕在化し、やがてソ連が参戦して、開戦から3〜4年で日本が敗れる」というものだった。
 葬り去られたシミュレーション
 日米戦争継続のポイントは、「インドネシアの石油」だった。 石油がほとんど出ない日本が戦艦などを動かすためには、ここを押さえて、かつ燃料を本国まで運んでこられることが絶対条件だった。 研究所は、「石油を運ぶ商船隊が、ほどなく米軍の潜水艦の攻撃を受けるようになり、補給路は断たれる」とシミュレートした。
 ゲッティイメージズによる写真
 実際、2年後には輸送船が壊滅的な打撃を被り、翌年には全滅し、研究所のシミュレーションどおりとなった。
 知性とデータを駆使した「日本必敗」のシミュレーションだったが、この結論は時の内閣に葬り去られた。
 8月下旬、当時の近衛文麿内閣にこの結論が報告されるものの、陸軍大臣だった東條英機は「君たちの言うことも分かるが、“日露”がそうだったように、戦争はやってみないと分からない」と発言する。 結局、総力戦研究所もあえなく解散する。
 この模擬内閣が使命を終えたあと、10月には東條内閣が誕生し、直後には最高意思決定機関としての「大本営・政府連絡会議」がもたれる。 この場で、今度は軍と政府が開戦の是非を判断するためのシミュレーションが行われた。
 だが結論は、総力戦研究所とは真逆の「開戦しても、なんとか戦いを維持できるだろう」というものだった。
 開戦の鍵は、11月5日に開かれた御前会議における鈴木貞一企画院総裁の発言だった。 「開戦しても、石油はギリギリ確保できる」というデータを、鈴木総裁は昭和天皇の前で説明したのである。
 御前会議で報告した男の証言
 僕は1982年、当時93歳になっていた鈴木氏を自宅でインタビューしている。耳が遠いので、質問は紙に書き、答えは肉声だった。以下は、『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)における僕と鈴木氏のやりとりだ。
──11月5日の御前会議の報告はどういう気持ちでしたか。
 「僕は腹のなかでは、アメリカと戦争をやって勝てるとは思っていなかったから、とても憂鬱な気持ちで読み上げましたよ・・・・・・。あの時はねえ、陸軍が戦争をやるといっていたが、実際にアメリカとやるのは海軍なんだ。海軍が決心しないとやれない、陸軍は自分でやるんじゃないから腹がいたまない、それで勝手なことをいっていたんです。海軍は自分がやるんだから、最終的な決断は海軍がすべきだったんだ。ところが海軍は、できないとははっきりいわんのだ」
──企画院総裁の提出した数字は「やる」ためのつじつま合わせに使われたと思うが、その数字は「客観的」といえますか。
 「客観的だよ。戦(いくさ)にならないように、と考えてデータを出したつもりだ」
──でも石油は南方進出した場合のみに「残る」とでていたが・・・・・・。
 「戦争を何年やるか、という問題なんだ。仕掛けたあとは緒戦に勝利して、すぐに講和にもっていく。その戦はせいぜい一年か二年。そうすれば石油は多少残る、と踏んでいたんだ」
──しかし、三年間分の数字が提出された。
 「・・・・・・とにかく、僕は憂鬱だったんだよ。やるかやらんかといえば、もうやることに決まっていたようなものだった。やるためにつじつまを合わせるようになっていたんだ。僕の腹の中では戦をやるという気はないんだから」
 「数字を出さなければならん」
──「やる」「やらん」ともめている時に、やる気がない人が、なぜ「やれる」という数字を出したのか。
 「企画院総裁としては数字を出さなければならん」
──「客観的」でない数字でもか。
 「企画院はただデータを出して、物的資源はこのような状態になっている、あとは陸海軍の判断に任す、というわけで、やったほうがいいとか、やらんほうがいいとかはいえない。みんなが判断できるようにデータを出しただけなんだ」
──質問の答えになっていないと思うが、そのデータに問題はなかったか、と訊いているのです。
 「そう、そう、問題なんだよ。海軍は一年たてば石油がなくなるので戦はできなくなるが、いまのうちなら勝てる、とほのめかすんだな。だったらいまやるのも仕方ない、とみんなが思い始めていた。そういうムードで企画院に資料を出せ、というわけなんだな」
 「データより空気」の日本人
 鈴木の記憶力と分析力は、目を見張らせるものがあった。耳が遠いだけである。質問は、答えるはじから、画用紙にサインペンで大きく書いて渡す、その繰り返しだが、矢継ぎ早に、ポンポンと答えが返ってきた。
 その勢いに乗じて九十三の老人に対して、少し厳しすぎる質問になったが歴史にとって必要な証言である。
 「やる」という勢いが先行していたとしても、「やれる」という見通しがあったわけではなかった。そこで、みんな数字にすがったが、その数字は、つじつま合わせの数字だった。
 (猪瀬直樹昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)より)
 日米開戦必敗のデータは、完全に揃っていた。総力戦研究所のメンバーはわかっていた。鈴木企画院総裁もわかっていたはずだ。だが鈴木氏は、開戦への「空気」と「同調圧力」のなかで、もはや抵抗力を失っていた。全員一致という儀式をとり行うにあたり、その道具が求められていたにすぎない。
 日本人のDNAとも見紛うこの独特の忖度し合う態度は江戸時代にゆっくりと熟成されたもののように思われるが、明治時代にヨーロッパの思想や制度を導入した「近代」という革命を経てもついに克服しきれなかった。
 あれから80年、データより空気を優先する風潮を変えないかぎり、日本人が変わることもないと切に思う。
 猪瀬直樹昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)
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 12月10日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「太平洋戦争に突き進んだ「東條英機世代」の正体がヤバすぎた…「世代」で昭和史を読み解いてみたら
 戦死者230万人の87%は大正生まれだった
 東條英機 (c) Photo by GettyImages
 近現代史研究の第一人者であるノンフィクション作家の保阪正康氏は、とりわけ昭和史の研究に心血を注いできた。1972年に作家デビューしてから50年にわたるキャリアを通じて、実に延べ4000人以上から聴き取り調査を続けている。
 『文藝春秋』2023年1月号では、「平成の天皇皇后 両陛下大いに語る」と題し、上皇上皇后両陛下との計6回の懇談の中身を披露し、その貴重な肉声を公開して話題になっている。
 その保阪氏が、このほど新刊『世代の昭和史 「戦争要員世代」と「少国民世代」からの告発』(毎日新聞出版)を発刊した。「戦争を遂行した世代」「戦争の要員とされて犠牲になった世代」「少年少女期に戦争を経験し、戦後の価値転換を目の当たりにした少国民世代」「純粋戦後民主主義世代」と4種類のカテゴリーに分け、「世代」という切り口によって歴史を鮮やかに腑分けする。
 太平洋戦争では、民間人80万人を含めて合計310万人が戦死したと言われる。興味深いことに、戦死者は大正11~13年(1922~24年)生まれが最も多いボリュームゾーンなのだそうだ。現在も存命しているとすれば、98~100歳にあたる。
 〈軍医の経験のある医師が書いている原稿で知ったのだが、大正生まれの男子は総数で1340万人だったというのである。このうちのおよその戦死者は200万人であったという。なんのことはない、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争の軍人、軍属の戦死は230万人と言われているのだが、実にその87%は大正生まれが占めている。日本の近現代史では、確かに「明治の指導者が企画し、大正生まれを動かして始めた戦争」であり、犠牲になった者が多いのも頷ける。〉(『世代の昭和史』35ページ)
 大正生まれの世代の「人柱」の上に、今日の日本があるという冷厳な事実を噛み締めたい。
 司馬遼太郎の軍部批判
 作家の司馬遼太郎(大正12年=1923年生まれ)は、戦死者が最も多い大正11~13年世代だ。大阪外国語学校(現・大阪大学国語学部)時代に徴兵された司馬は、満州の陸軍戦車学校に進む。成績が良かったおかげで、前線に配属されなかったのが不幸中の幸いだった。
 戦死を免れた司馬は、旧日本軍の愚行を舌鋒鋭く非難する。保阪正康氏は、司馬の著書を引用しながら次のように綴る。
 〈「こんなばかなことを国家の規模でやった。軍人を含めた官僚が戦争をしたのですが、いったい大正から昭和までの間に、愛国心のあった人間は、官僚や軍人の中にどれだけいたのでしょうか。
 むろん戦場で死ぬことは『愛国的』であります。しかし、戦場で潔く死ぬことだけが、愛国心を発揮することではないのです。(略)愛国心ナショナリズムとも違います。ナショナリズムはお国自慢であり、村自慢であり、家自慢であり、親戚自慢であり、自分自慢です。(略)愛国心、あるいは愛国者とは、もっと高い次元のものだと思うのです。そういう人が、はたして官僚たちの中にいたのか、非常に疑問であります」(『「昭和」という国家』、日本放送出版協会、1998年)
 つまり司馬は、あの戦争に至るプロセスに呆れていて、ああいう道をまっしぐらに突き進んだ国の指導者の愚かさを冷たい目で見つめていると言えるのではないか。〉(『世代の昭和史』46~47ページ)
 愚かな戦争に突き進んだ日本の過ちを、司馬は作家ならではの絶妙な表現で喝破する。
 〈「日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。
 この魔法はどこから来たのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました」(同)
 その上で司馬は、もし織田信長のような人物がいたら、戦争など考えもしなかったであろうと言っている。なぜなら彼にはリアリズムがあったと指摘するのである。結局この国は、「国というものを博打場の賭けの対象にするひとびと」がいたというのである。そういうタイプが愛国者を気取っていたという。それが魔法使いの魔法にかけられた人々の心理だったのである。〉(『世代の昭和史』47~48ページ)
 東條英機山本五十六…あまりにも対照的な姿
 山本五十六 (c) GettyImages
 太平洋戦争の指揮を執り、大正世代の兵士や軍属を200万人も戦死させたのは、明治17年(1884年)生まれの東條英機を中心とする体制だ。同い年の生まれには、戦後に内閣総理大臣を務めた石橋湛山、政治家の三木武吉もいる。海軍の山本にしても、石橋や三木にしても、東條ほど好戦的な人物ではなかった。
 彼らとは対照的に、東條英機はイケイケドンドンで太平洋戦争に突き進む。慨嘆すべきことに、日露戦争(1904~05年)当時に陸軍士官学校在学中だった東條は、本格的な戦闘体験がないまま日本軍の最高指揮官に就いてしまった。保阪正康氏は、東條の発想の特徴を5点にまとめる。
〈(1)軍人は職業ではない。「神(天皇)」に仕える神兵である。
 (2)臣民はすべからく天皇に帰一する存在である。
 (3)軍事は国家の主体であり、この動きに意見を挟むことは許されない。
 (4)国益とは戦争によって拡大され、戦争によって守られる。
 (5)妥協は敗北であり、敗北は国家衰退の源である。〉(『世代の昭和史』56ページ)
 〈東條のような戦場体験のない、軍官僚として机の上で戦争を考えていた軍人は、かなり歪んだ命令を出すことが立証されている。要はなぜ東條のような軍官僚が政権を握って、あのような時代をつくったのかが検証される必要がある。〉(『世代の昭和史』57ページ)
 連合艦隊司令長官山本五十六は、日露戦争中の日本海海戦で最前線に立った経験がある。戦闘中、左手の人さし指と中指を欠損した。保阪正康氏は、山本の発想の特徴を5点にまとめる。
 〈(1)軍事は政治のコントロールの下にある。
 (2)海軍の政治的意思は軍政の側にあり、この原則は崩すべきではない。
 (3)これからの戦略は航空戦にある。
 (4)枢軸体制に反対し、対米英戦には消極的である。
 (5)海軍内部の条約派(軍縮条約に賛成派)である。〉(『世代の昭和史』58ページ)
 東條英機山本五十六が10歳のときに日清戦争、20歳のときに日露戦争が火の手を上げた。〈同世代が亡くなっていることにどれほど思いが込められているか〉〈(※山本五十六とは対照的に)東條の5条件にはその思いが全く込められていない〉(『世代の昭和史』59~60ページ)と保阪氏は指摘する。
 東條英機ではなく、山本五十六のような軍人が最高指揮官に就いていれば、太平洋戦争はあそこまで泥沼化していなかったのかもしれない。
 保阪 正康
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 12月24日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「天才・小室直樹から読み解く「日本の外交オンチ」
 1976年の初版版発刊以来、日本社会学の教科書として多くの読者に愛されていた小室直樹氏による『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』が2022年に新装版として復刊された。社会学者・宮台真司氏「先進国唯一の経済停滞や、コロナ禍の無策や、統一教会と政治の癒着など、数多の惨状を目撃した我々は、今こそ本書を読むべきだ。半世紀前に「理由」が書かれているからだ。」と絶賛されている。40年以上前に世に送り出された書籍にもかかわらず、今でも色褪せることのない1冊は、現代にも通じる日本社会の問題を指摘しており、まさに予言の書となっている。『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』では、社会学者・橋爪大三郎氏による解説に加え、1982年に発刊された【増補版】に掲載された「私の新戦争論」も収録されている。本記事は『【新装版】危機の構造 日本社会崩壊のモデル』より本文の一部を抜粋、再編集をして掲載しています。
● 日本は歴史から学び取っているか
 われわれが注目しなければならないことは、国際政治の初等的論理が、全くわが国の指導者や国民に理解されていなかったことである。
 なんという外交オンチであろうか。歴史オンチであろうか。そして、このことこそ最も強調されるべきことであるが、社会科学オンチであろうか。
 しかしこのことは、昭和14年になって、忽焉として現われてきたことではない。禍根はさらにさかのぼる。第一次大戦終結によって、日本は五大国にのしあがった。海軍については三大国である。が、不幸にして日本人はこのことを理解しえなかった。ヴェルサイユ会議をはじめとする戦後における主要国際会議で、日本代表は「沈黙の全権」といわれた。何も発言しなかったからである。これらの会議においては、いうまでもなく、戦後の世界の動向を決定するような多くの議題が論じられた。
 しかし、それらの大部分は、日本と直接関係のないものであった。ゆえに、日本代表の関心の的とはなりえなかった。彼らはどうしても、「直接日本に関係のないことであっても、めぐりめぐって日本にとって重大なことになる」という国際社会の論理を理解しえなかったのである。
 吉田茂は、外務次官のとき、田中(義一)首相の通訳をつとめたことがあった。そのとき、バルカンの代表がやってきて、自国がおかれた立場について詳細に説明し日本の了解を求めた。これを聞いた田中首相は、(こんな日本になんのかかわりもないことについて日本の了解を求めることについてあきれて)日本語で「こいつ、ばっかじゃなかろうか」と大声をあげたので、吉田茂は訳すのに困ったといわれる。
 国際政治の定石からいえば、的外れなのは、田中首相のほうなのである。重要事項に関して列強の了解を求めておき、その後にはじめて行動の自由が得られるということは、国際政治の定石である。こんな定石すら、戦前日本の指導者は理解しえなかった。そしてこの無理解はきわめて高いものについた。
 つまり、このことを理解しえなかったことこそ、日本の致命傷となったのである。今日(1976年当時)ではだれしも、「支那事変」が日本の命取りになったことを知っている。その理由については多くのことが語られているから、ここでそれらの大部分を繰り返す必要はないが、右に述べたこととの連関において注目すべきことは、日本の指導者が、「中国への鍵はアメリカにある」ことを理解しえなかったことである。つまり、国際政治においては、すべてがすべてに依存しあっているから、中国問題は中国問題にとどまりうるものではない。その影響は全世界に及ぶであろう。なかでも大きな利害を有するのは、米英仏ソであるが、当時において、実力によって日本の行動を制約しうるのはアメリカ以外にない。
 この意味において、「中国への鍵はアメリカにある」のである。これは、国際政治の連関メカニズムの理解の問題であって、日本がアメリカに隷属するかどうかという問題とは全く別の問題であり、カヴールが、イタリア統一の鍵はパリにあり、といったようなものにすぎない。そして、このことに関する日本の指導者および国民の理解の程度の低さは、まさに戦慄すべきほど幼稚なものであった。
 まして彼らには、バルカン問題や独ソ関係が、めぐりめぐって日本の進路にいかなる意味を持ってくるか、ということについて、教科書的知識すらどうしても理解することができなかったのである。そして、このことによって日本は破局を迎えるのであるが、現在日本人の行動様式、思考様式は、当時の日本人のそれらと、少しも変化していない。
 つまり、われわれは、あの大戦争とその結果を、科学的に学び取ることをまだしていないのである。ニクソン・ショックや石油危機を全く予知も分析もしえなかった日本の政治家や外交官は、なんと当時の平沼首相や外交官と似ていることであろう。遠いイスラエルとアラブとの戦争がめぐりめぐって日本に致命的影響を及ぼしうることを夢想もしえなかった田中角栄前首相は、遠いバルカン問題は日本とは全く無関係であると思っていた時の田中義一首相と、なんとよく似ていることであろう。
 小室直樹
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 軍事中程度国日本は、アメリカとの戦争を望まず、戦争回避の為に昭和16年の3月頃から12月まで外交的話し合いを続けていた。
 避戦の外交努力を潰したのは、日本側の素人による民間外交であった。
 軍事強大国アメリカ、ホワイトハウスアメリカ軍、反日強硬派フランクリン・ルーズベルト大統領、ユダヤ系国際金融資本、アメリ軍事産業は、1941年の初期の段階で日本との戦争を決断し開戦準備に入っていた。
 つまり、日米戦争は避けられない戦争であった。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
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 靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
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 歴史的人道貢献とは。昭和天皇A級戦犯である東条英機松岡洋右松井石根らは、ソ連ポーランド侵略から逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人を保護し、ナチス・ドイツゲシュタポと日本人の反ユダヤ派、親ドイツ派の上海ホロコーストを阻止しユダヤ人難民数万人を敗戦後まで守り続けた。
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 軍部・陸軍、憲兵隊・特高は、同盟国のナチス・ドイツからの外圧を無視し、友好国のアメリカやイギリスが嫌がっても、天皇と日本を頼って逃げて来た数万人のポーランドユダヤ人難民を助けていた。
 朝鮮人を助け、中国人を助け、ロシア人を助けたが、彼らは日本人に恩義を感じず感謝しない。
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 昭和天皇の平和貢献とは、戦争には不同意であったが政府と軍部が決定すれば裁可するが、戦争が始まれば早期に講和を行って戦争を止める事を求め続けた。
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 日本国内には、天皇制度を廃絶しようとしている反天皇反民族反日的日本人達が高学歴の知的エリートや進歩的インテリに数多く存在している。
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 現代の日本人、政治家・官僚・学者そしてメディア関係者も誰も重大問題とはせず、沈黙、つまりは黙認している。
 現代の学校歴史教育では、昭和天皇が行った数々の歴史的偉大な功績は否定され抹消されている。
 つまり、生徒・学生で昭和天皇は嫌いが大多数で、昭和天皇が好きだという子供は異常・おかしいとされている。
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 昔の日本人は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人助けの人道貢献や平和貢献を行った。
 現代の日本人は、戦争犯罪を行わないが、人道貢献や平和貢献も行わない。
 事実、中国共産党ウイグル内モンゴルチベットで行っている人道に対する犯罪であるジェノサイドから目を逸らしている。
 興味も関心もないと公言する親中国派・媚中派の政治家や官僚が存在する。
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 杉原千畝が助けたポーランドユダヤ人難民とは、ドイツ軍占領下の西ポーランドではなく、ソ連軍占領下の東ポーランドから逃げてきたポーランドユダヤ人であった。
 イギリスのポーランド亡命政府とポーランド軍の密命を帯びたポーランド軍スパイは、陸軍の密命を受けて情報収集活動を行っていた杉原千畝に協力していた。
 ポーランド亡命政府とポーランド軍は、ドイツ軍と戦っていたが、同時に連合国の一員であるソ連共産主義勢力をも憎んでいた。
 ポーランド軍は、親日派として日本陸軍と繋がっていた。
 日本陸軍の主流派は、親ポーランド派であって親ドイツ派ではなく、親ユダヤ派であって反ユダヤ派ではなかった。
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 ロシア・ソ連と国境を接する北欧のフィンランドイスラム教国のトルコやイランは親日派であった。
 特に、イスラム教徒は、反宗教無神論共産主義を激しく憎み、日本陸軍に協力してトルコ・中央アジア満州までの長大なソ連封じ込めのユーラシア防共廻廊(宗教防壁の長城)を作ろうとしていた。
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 日本海軍は、アメリカの対ソ軍事支援ルートであるウラジオストック・ルートとインド洋・ルートを遮断しなかった。
 軍部と陸軍は、ナチス・ドイツの要請を無視した。
 ウラジオストック・ルートの先にはモスクワとレニングラードがあり、インド洋・ルートの先にはカイロとスターリングラードがあった。
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2022-12-06
🎺32:─3─ナチス・ドイツ日本海軍に仏領マダガスカル攻撃を要請した。~No.154 ⑳ 
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