🎺43:─3─東京大空襲。米軍幹部も実は「野蛮な戦争」と自認していた。1945年3月10日。~No.201 

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 アメリカ軍・連合国軍(国連軍)が行った、東京・神戸・敦賀などの大中小都市に対する無差別縦断爆撃やヒロシマナガサキに対する原子爆弾投下実験は、戦争犯罪であり、非人道的虐殺行為であった。
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 2023年3月7日 MicrosoftStartニュース ダイヤモンド・オンライン「東京大空襲、米軍が人道主義を掲げながら「焼夷弾爆撃」で焼き尽くした理由
 鈴木冬悠人 第二次世界大戦末期、米軍によるわずか1年足らずの日本への空爆で約46万人のもの命が奪われた。特に1945年3月10日深夜の東京大空襲は激しく、一夜にして12万人の命が失われたといわれている(正確な犠牲者の数字は判明していない)。本来、米国の空軍(陸軍航空隊)は、敵の心臓部だけをピンポイントで爆撃する精密爆撃を掲げていたはずだった。しかし実は、その裏で一帯を焼き尽くす焼夷弾による爆撃の準備を同時にしていたことが分かった。東京の街並みを再現し、焼き尽くす実験をするほどの入念さだった。しかも、空軍の父と称される幹部ヘンリー・アーノルドは「これは野蛮な戦争」だと自認すらしていた。
 Photo:Keystone-France/gettyimages
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 ※本稿は、鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)の一部を抜粋・編集したものです。
 精密爆撃を掲げつつも
 実は焼夷弾空爆も準備
 航空軍の真価が問われた日本への空爆。長年練り上げてきた精密爆撃では、思うような成果を上げることができなかった。切り札だったB-29は、エンジントラブルが相次いだ。超高高度からの爆撃は、気象条件に阻まれたことで机上の空論となり、ほとんど役に立たなくなってしまった。万策尽きたかに思えたアーノルドら航空軍。だが、突如、新たな秘策として「焼夷弾」が浮上した。あたり一帯を焼き尽くす焼夷弾による地域爆撃は、敵の心臓部をピンポイントで爆撃する精密爆撃とは、全く考え方が異なる。掲げてきた人道主義とも矛盾する。アーノルドは、一体いつから焼夷弾を使った空爆を考え始めていたのだろうか。私たちは、改めて調べてみることにした。
 航空軍が策定した空爆計画の詳細を知るために、再びアラバマ州にあるマクスウェル空軍基地を訪れた。かつて陸軍航空隊戦術学校があったこの場所には、1世紀に及ぶ空軍の歴史的な資料が保管されている。
 特別な許可を得て入室した資料庫は、まるで巨大な古本倉庫のようだった。だだっ広い部屋の端から端まで、ただ数百の本棚だけがずらりと並んでいる。航空軍が設立された1907年からの記録が、年代ごとにエリアを分けて整理されていた。本棚の一つ一つには、50センチ四方のボックスがぎっしり収められている。数万を超える膨大な文書は、ジャンルによって細かく分類されて、ボックスにまとめられていた。70年以上前に作られた日本への空爆計画は、残されているのか。太平洋戦争中の作戦資料を探す。ボックスのラベルに書かれた年号を頼りに、1940年から順番に確認していく。すると、1943年代のボックスの一つから、なにやら分厚い資料が見つかった。革張りの表紙からして、重要そうだった。刻まれたタイトルを見て、確信する。
 「日本空爆目標データ」。それは、322ページにも及ぶ日本への空爆計画の資料だった。作成されたのは、1943年3月。中を開くと、空爆の標的となりうる日本の軍事拠点や産業施設がズラリと列挙されている。日本の空爆目標のリストだった。
 その数は、実に2000カ所以上にのぼった。東京の中島飛行機三菱航空機などの飛行機工場、横須賀や呉の海軍基地や造船所など主要な軍事拠点はもちろんのこと、兵器製造に必要な材料を生産する鉄鋼業や軍服生産に不可欠な紡績工場、電力や石油、自動車などの生産関連施設が並ぶ。さらにリストを細かく見ていくと、エレベーター製造工場やタイプライター製作所などの小さな町工場、一般市民の生活を支える給水所や食料工場までもがターゲットにされている。
 INCENDIARY(焼夷弾)と
 ハッキリ書かれた資料発見
 アーノルドは、この資料の作成を1943年2月に命じていた。担当した陸軍航空軍司令部は、軍事アナリストや経済学者など様々な分野の専門家を交え、日本の攻撃目標の情報をつぶさに調べ上げ、「日本空爆目標データ」としてまとめた。その内容は、まさにハンセルが練り上げていた「精密爆撃」を実行するためのデータのようだった。やはりアーノルドら航空軍は、精密爆撃を成功させようと、念入りな準備を進めていたのだろうか。さらに年代をたどって、計画の変遷を追うことにする。再び、1943年の資料ボックスを探っていく。新たな作戦資料は、1943年10月のボックスから見つかった。「日本空爆目標データ」の作成から半年後である。緻密な精密爆撃の計画だろうか。だが、その表紙を見て、言葉を失った。
 「日本焼夷弾空爆データ」。INCENDIARY(焼夷弾)とハッキリ書かれていたのだ。なんと、アーノルドは精密爆撃を掲げながらも、その一方で焼夷弾による空爆作戦の準備を進めていたのだ。しかも、1943年10月に作成されていた。東京大空襲が実行される1945年3月より、1年半も前のことである。
 レポートの中身を見てみる。まず冒頭に、攻撃目標として20都市が列挙されている。東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、広島、呉、新潟、八幡、福岡、長崎、佐世保、小倉、大村、門司、久留米、延岡。それらの都市は表として一覧できるようになっており、各都市の人口、建物の密集度合いに応じて算出した焼き払うために必要な焼夷弾の爆弾量、それを投下した場合の被害予測が分析されている。そして、こう述べている。
 「20都市の人口総計の71%、1200万人の住宅を焼き払うことができる。都市としての基本的な機能を失わせて、あらゆる面に甚大な影響を与えることができる」
 さらに、重要目標とされていた10都市、東京、川崎、横浜、大阪、神戸、名古屋、広島、八幡、福岡、長崎に関しては、焼夷弾爆撃が有効な地域を記した詳細な地図が添えられていた。地図は、赤、ピンク、白の3色に色分けされている。赤色で塗られた地域は「最も焼夷弾爆撃が有効な地域」、ピンクは「有効な地域」、白は「有効とは言えない地域」。色が薄い地域ほど、効果は薄れていくという分類だった。
 地図が作られたこれら10都市はすべて、のちに焼夷弾爆撃によって焼かれている。中でも驚いたのは、東京の地図だった。真っ赤に塗られた地域を見ると、東京大空襲で焼き払われた地域とほぼ一致していたのだ。レポートは、焼夷弾の有効性を強く主張している。
 「東京では、工場、倉庫、住宅などに用いられる建築資材の90%以上が木材であり、とても燃えやすい。木造建築が密集しているため、焼夷弾による延焼率が高く、非常に有効である。それは、他の都市も同様である。火災によって燃焼しやすい日本の都市は、焼夷弾爆撃の目標として最適である」
 ルメイに命じられた焼夷弾爆撃は、1943年の時点で、すでに準備されていた。しかも、被害予測や爆撃効果まで詳細に分析し、日本に対して有効だと結論づけていたのだ。表向きは精密爆撃を掲げたアーノルドの、全く別の顔が浮かび上がってきた。
 『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』 (新潮新書) 鈴木冬悠人 著
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 航空隊戦術学校で研究されていたのは、精密爆撃のはずだった。では、焼夷弾についての研究は、いつから、どのように進められていたのだろうか。
 本格的な研究に乗り出したのは、1943年に入ってからだった。アーノルドら航空軍は、早くから焼夷弾に目を付け、日本への空爆で活用方法を探っていた。そのために、焼夷弾の有効性を確かめる実験まで行っていたのだ。焼夷弾爆撃の研究には、焼夷弾を製造する石油会社や化学者、さらには火災保険の専門家らが協力していた。例えば、戦争前に日本で営業していた保険会社からは、日本の市街地の火災情報を提供してもらっていた。
 焼夷弾爆撃の実験場は、ユタ州ダグウェイに広がる砂漠地帯にあった。そこに、日本の下町の住宅街を建設していたのだ。街並みは、通りの幅、建物の距離、家の寸法、建築木材、さらには住宅の中に置かれている家具や畳に至るまで、東京と全く同じものを再現する徹底ぶりだった。この巨大な“東京の模型”を、わざわざ実験のためだけに作りあげていたのだ。
 当時の実験映像が残されていた。一機の爆撃機が飛来し、無数の焼夷弾を投下する。住宅の屋根を突き破り、一階部分に着弾すると、たちまち炎が立ち上った。着火したゼリー状のガソリンが、まるで生き物のようにピョンピョンと跳ね上がり、広い範囲に飛び散る。木造家屋は瞬く間に燃え上がり、隣家へ次々と延焼していく。ゴオゴオと炎を上げて燃える住宅街は、やがてバラバラと崩れ去った。航空軍は、こうした実験を繰り返し行った。焼夷弾は、どの程度の火災を引き起こすことができるのか。最適な投下場所は、どこなのか。消火活動を妨げるために、殺傷能力の高い爆弾と組み合わせるべきなのか。焼夷弾と高性能爆弾の比率は、どの程度が最適か。実験で得られたデータを分析し、最も効果的な焼夷弾爆撃の方法を導きだそうとしていた。「日本焼夷弾空爆データ」は、その研究の成果をまとめあげたものだった。
 米軍幹部も実は
 「野蛮な戦争」と自認していた
 精密爆撃を掲げる裏で、焼夷弾による無差別爆撃を準備していたアーノルドは、1943年当時、どのような考えをもっていたのか。決して大っぴらに公言することがなかった胸の内を、部下への手紙に記している。
 「これは野蛮な戦争であり、敵の国民に甚大な被害と死をもたらすことで、自らの政府に戦争中止を要求させるのである。一般市民の一部が死ぬかもしれないという理由だけで手心を加えるわけにはいかない」
 側近だったバーニー・ガイルズも、隠されていた航空軍の狙いを証言している。
 「一番の目的は、人口の中心を破壊することだった。それについては、決して公表することはなかった。しかし、それが真の目的だ。それは抵抗する者に対する爆撃だった。我々は日本に降伏してほしかったのだ。従わなければ、人口密集地が破壊されることになる」(肉声テープより)
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