🎺29:─2─日本の戦争犯罪。アレクサンドラ病院事件。昭和17年年2月14日。~No.145No.146 ⑲

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 2023年3月31日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「早く抜くべき日英間の歴史の棘、「アレクサンドラ病院虐殺事件」の真相とは
 極東国際軍事裁判。再開された法廷2日目、主要戦犯容疑者に対し判決文を読み上げるウィリアム・ウェブ裁判長(中央)(資料写真、1948年11月5日、写真:近現代PL/アフロ)
 (橋本 量則:日本戦略研究フォーラム研究員)
 現在、日英関係はこの100年間で最も良好である。だが、一方で先の大戦中の日本軍が行ったとされる「残虐行為」のため、反日感情を持つ英国人が少なからずいるのも事実だ。
 その日本軍の「残虐行為」としては、捕虜虐待や非戦闘員の殺害が語られることがほとんどである。本稿では、非戦闘員の殺害の例として度々引き合いに出される「アレクサンドラ病院虐殺事件」の謎について述べてみたい。この謎を解くことで日本軍の「残虐行為」がどのように作られていったかを明らかにしたい。
■ 資料がほとんど残っていない奇妙な事件
 この「アレクサンドラ病院虐殺事件」は実に奇妙な事件だ。日本側にも英国側にも資料がほとんど残っていないのである。
 戦後、英軍当局はジュネーブ条約等の国際法に違反した日本軍の「戦争犯罪」を徹底的に捜査、立件したにもかかわらず、英軍が行ったBC級戦犯裁判でこの事件は取り上げられていない(ロンドン郊外の公文書館には英国軍が行った全ての戦犯裁判記録が保管、公開されている)。
 これは一体どういうことであろうか。可能性は2つある。1つは事件そのものがなかった可能性。もう1つは、事件が戦争犯罪に該当しないと判断された可能性である。
 英軍の戦争犯罪捜査チームは確かにこの事件を調査していた。それを担当していたのがシリル・ワイルド大佐であった。彼は、英軍がシンガポールで降伏する際の山下・パーシバル会談で通訳を務めた将校で、捕虜となってからは、泰緬鉄道建設のためタイ・ビルマ国境地帯に派遣された部隊の通訳も務めた。戦後は戦争犯罪捜査官となり、東京裁判で日本軍の悪行を証言したことでも知られる。
 実は東京裁判でワイルドはアレクサンドラ病院虐殺事件について証言している。英国陸軍医療隊のジェームズ・ブル少佐から受けた報告に基づいたワイルドの証言は概ね以下の通りである。
■ 東京裁判でのワイルド証言
 1942年2月12日と13日、シンガポールのアレクサンドラ病院で虐殺事件が発生した。
 2月11日から12日未明にかけて、英軍は戦線をアレクサンドラ病院の後方深くまで後退させた。そこで英軍司令部は同病院の指揮官クレイバン大佐に電話し、後退によってこのマレー半島最大の英軍病院を守ることができなくなることを伝えた。病院は赤十字の旗を掲げていたが、日本軍の接近に備えて更に多数の赤十字旗を掲げ、日本軍の目に入りやすくした。
 日本軍が病院に到着すると、病院内になだれ込み、1階にいた者で目に入る者全てに対して、銃剣で突き、銃で撃つなどした。ワイルド自身もこれをクレイバンから聞いた。手術室で手術中の医師や患者も日本軍によって殺害されたが、負傷しながらも助かった麻酔医が生き証人となった。
 ブル少佐は病院屋上のベランダに出て赤十字旗を掲げたが、日本軍の銃撃を受けた。日本軍は病院に入ると、2階以上にいる患者で自分の足で立てる者たちを歩かせ、病院の外に連れ出した。その数は200名に及んだ。彼らは病院から半マイルほど離れた家々に押し込まれ、その結果、その晩5名が窒息で死亡した。
 翌朝(2月13日)、残りの患者たちは家々から連れ出され、機関銃や銃剣によって殺害された。5名がその場から逃れ、そのうちの1人が後にワイルドにこれを報告した。
■ ワイルド証言の問題点
 現在も英国内で語られ続けているこの事件は、ワイルドが残した「捜査記録」と「証言」に基づいているのだが、これまで英国のBC級戦犯裁判の研究を行ってきた者として言わせてもらえば、ワイルドの証言・証拠は虚偽、誇張、隠蔽、歪曲を多分に含み、証拠として価値がないと断ぜざるを得ないものばかりなのである。
 彼は捜査官でありながら、時には都合よく、被害者、目撃者として「証人」になり、また、通訳になっては容疑者の供述の改ざんまでしていた。思うがまま証拠に手を入れられる捜査官など信用できようか。
 このワイルドの証言を検証するため、他の英軍捕虜の回想録等と比較してみると、案の定、異なる真相が見えてきた。ワイルドはある重大なことを隠していたのである。
■ パビラード軍医の回想録
 英軍の軍医としてシンガポールで捕虜となり、泰緬鉄道建設地にも派遣されたパビラード軍医大尉は事件直後に現場を訪れた1人であった。
 彼の回想録『Bamboo Doctor』によれば、シンガポールの英軍が降伏した翌日の2月16日、総合病院にいたパビラードは、アレクサンドラ病院から救援要請を受け取った。「虐殺」の生存者の治療を行うためであったという。
 現地に着いたパビラードは英軍の二等軍曹から次のようなことを聞いた。
 英軍のインド人部隊が日本軍から逃れ退却中に病院の塀を乗り越え、病室にまで入ってきた。その時、日本軍に向かって撃ち続けたので日本軍は激怒して、1階の病室に入ってきて、視界に入る者を全て、ベッドに横になっている者も含め、銃剣で刺してきた。手術室の医師と患者も襲われた。この襲撃の間、上の階は逃げ出す人々により混乱を極めた。ある指揮官はトイレにいち早く逃げ込んで閉じこもった結果、大英帝国勲章を戦後授与された。200人ほどが病院から連れ出されたが、その後の消息は不明だという。
 パビラードがアレクサンドラ病院に到着した2月16日、日本軍のある将官が病院を訪れ、謝罪し、戦闘で精神が高ぶっていた前線の兵士たちが何の建物か理解せずに攻撃したと説明した。また、彼は緊急に必要な給水車2台を送ることを約束した。
■ べインズ軍曹の回想録
 同じようなの証言は他の元英軍人の回想録にも見られる。ベインズ軍曹は当時ブキテマ付近のアダムパークにおり、赤十字旗を病院から借りてくる任務を与えられた。位置関係から判断するに、その病院とはアレクサンドラ病院と推測される。ベインズは次のように記している。
 <私は軍医を見つけ、私の任務を説明した。軍医は、我が方が日本軍の担架係に向かって撃ったので、日本軍は赤十字を尊重することをやめてしまい、こちらの担架係や救急車に対しても無差別に攻撃するようになった、と云った。>
 この回想録は1983年に出版されたものだが、2013年に再出版された時、この件は次のように改変された。
 <軍医は、インド人中隊がロバーツ病院を占拠し、窓から発砲したので、敵は赤十字を尊重することをやめてしまい、こちらの担架係や救急車にも無差別に攻撃するようになった、と云った。>
 しかし、ロバーツ病院とは、英豪軍が降伏した後で捕虜病院として設立された病院であり、この時には存在していない。何より、英軍側が日本軍の医療隊に先に攻撃を加えたくだりが削除されている。この改変には何か恣意的なものを感じざるを得ない。だが、英軍側が先に日本側に発砲し、病院を戦闘に巻き込んだという描写は共通している。
■ ウルマン下士官の回想録
 英軍側が別の病院を戦闘に巻き込んだ例もある。ジョン・スチュアート・ウルマンという下士官の回想録には、シンガポールが陥落する直前の2月15日の総合病院(アレクサンドラ病院とは別)の様子として次のような記述がある。
 <奇妙なことに、偵察機以外の航空機の活動は、終日ほとんどなかった。ただ、病院の敷地内に設置された2つの対空砲への攻撃は例外だった。対空砲を指して、あるスコットランドからの兵士が、日本軍を非難できないよなと静かに言ったが、その通りであった。>
■ 病院を戦闘に巻き込んだのは英軍だった
 これらの元英軍人の回想録を見る限り、日本軍が病院を攻撃した事実はあったようだが、その前に病院を戦闘に巻き込んだのは英軍の方であったというのが事件の真相だと言ってよい。
 英軍がBC級戦犯裁判でアレクサンドラ病院事件を取り上げなかった理由はここにあると考えるのが妥当だろう。立件すれば、英軍が非戦闘員を巻き込んだことが問題にされることは不可避だからだ。
 ワイルドは、英軍が責任を負うべき事実には一切触れず、日本軍を一方的に悪者に仕立て上げる証言を東京裁判で行ったが、英軍当局はワイルドよりも冷静であった。
 だが、ワイルドの証言は彼の伝記などを通じて世に広まり、今も日本軍を非難する材料として使われている。このような日英間の「歴史の棘」は早く抜いてしまった方がよい。今後の日英関係の発展に百害あって一利なしである。
  [筆者プロフィール] 橋本 量則(はしもと・かずのり)
  1977(昭和52)年、栃木県生まれ。2001年、英国エセックス大学政治学部卒業。2005年、英国ロンドン大学キングス・カレッジ修士課程修了(国際安全保障専攻)。2022年、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)博士号(歴史学)取得。博士課程では、泰緬鉄道、英国人捕虜、戦犯裁判について研究。元大阪国際大学非常勤講師。現在、JFSS研究員。論文に「Constructing the Burma-Thailand Railway: war crimes trials and the shaping of an episode of WWII」(博士論文)、「To what extent, is the use of preventive force permissible in the post-9/11 world?」(修士論文)など。
 日本戦略研究フォーラム
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 アレクサンドラ病院事件は、シンガポール攻略戦中の1942年2月14日に、シンガポールのアレクサンドラ病院で、日本軍 (第25軍)が、、病院のバルコニーにいる英軍インド兵が彼らに発砲したことを理由に英軍医療隊の軍医将校・看護兵、負傷者ら200人以上を殺害したとされる事件。
 背景
 シンガポール市街の西に位置するアレクサンドラ病院は、第二次世界大戦前にイギリスが海外に持っていた軍用病院の中でも最大規模の病院だった。
 1942年2月のシンガポールの戦いでは、日本軍 (第25軍)の第18師団がアレクサンドラ病院の位置するシンガポール島の西側を担当していた。
 同月12日、連合軍の前線はアレクサンドラ病院の後方まで後退し、病院は日本軍と連合軍との間の中間地帯となっていた。アレクサンドラ病院のクレイヴン大佐はこのことをマラヤ軍(英語版)司令部から知らされ、既に病院には赤十字章が方々に印されていたが、それでも日本軍が侵入してくることを予想して、あらゆる入口に更に赤十字旗を掲げた。
 事件発生
 1942年2月14日、病院のバルコニーにいるインド兵が彼らに発砲したことを理由に、日本兵が病院になだれ込んだ。英軍インド兵が病院を通って逃げて来たため、日本兵は追いかけていたのだとする説もある。
 J.W.D.ブル少佐は、病院最上階のベランダに立って赤十字の旗を振ったが、銃弾が旗を打ち抜き、後ろの壁にあたった。ブル少佐は、階下で日本の将校が銃撃を指示しているのを見た。日本兵は病院スタッフと患者を撃ち、英軍将校のウェストン中尉は白旗を持って降伏の意思を示そうとしたが射殺されたという。
 日本軍は、手術室にいた者全員を、銃剣で突くか銃殺し、手術台の上にいた負傷兵1人と執刀中の外科医も殺害した。麻酔医だけが銃剣で刺されながらも生き延び、のちに英軍ワイルド大佐に傷痕を見せながら自身の体験について語った。
 日本軍は病棟中を歩き回り、医療班員や立つことのできる病人すべてを建物の外へ追い出した。軍医将校R.M.アラダイス大尉は日本語を解したので、自ら日本の将校を探し、この事態を止めさせようとした。しかしアラダイス大尉も200人の負傷者や医療班員とともに半マイルほど離れた家屋に連行され、狭い部屋に入れられて、戸や窓を閉め切ったまま一晩の間監禁された。これにより5人が窒息死した。残った者も翌日銃剣や機関銃で殺害された。アラダイス大尉はこのとき死亡した。生存者は5人だけだった。
 この事件で、200人の負傷者と、20人の軍医将校、60人の看護兵が日本兵に殺害された。
 事件後
 同月16日、或る日本軍の将校が病院を訪れて事件を謝罪した。
 事件の3ヶ月後、当時日本軍の捕虜となってリバーヴァレー通りの収容所に収容されていたワイルド大佐の統率する捕虜たちが、遺体を集めて埋葬した。
 戦犯調査
 戦後、この事件の戦犯調査にあたったワイルド大佐は、1945年10月28日、米軍によってマニラに拘留されていた山下奉文元第25軍司令官を尋問した。
 山下は、今まで事件について聞いたことがなく、「このような無分別で暴虐な事件を犯すのは大馬鹿者だ」と言った。ワイルドが、事件後に日本軍の将校が謝罪に訪れているので、日本軍が虐殺事件を公式に知っていたのは立証できると伝えると、山下は当時の第18師団の師団長・牟田口廉也中将の名前を明かし、謝罪に訪れたのはおそらく第18師団麾下の部隊の将校で、牟田口に責任があるから、日本にいる牟田口を尋問すべきだ、と話した。なお、そのためか連合国圏や現地における戦後の巷間伝わる話には、単純に、この謝罪に訪れた将校を牟田口あるいは山下本人とするもの、さらに、この虐殺あるいは寧ろその後の略奪により処刑された兵士がいたとするものもみられる。
 牟田口は1945年12月に逮捕された。
 ワイルドは、牟田口の尋問を予定しており、1946年9月11日に証人として出廷した東京裁判でもアレクサンドラ病院の事件について証言していたが、東京裁判からの帰路、香港で事故死した。
 1946年10月、牟田口はイギリス軍シンガポール裁判のためシンガポールへ移送され、同年12月7日に取り調べを受けたが、アレクサンドラ病院の事件については問題とされず、起訴されることはなかった。
 のちにナトールという元軍医が1984年7月の『世界医学』誌に掲載された手紙の中でこの事件を公表し、世界的に報道されている。
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