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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2022-04-11
🏋04:─3・B─『失敗の本質』完成秘話。歴史力がない現代日本は敗北・失敗から学ばない。~No.42No.43
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1940年5月 ノモンハン事件でソ連軍を指揮したジューコフ将軍は、スターリンに接見して日本軍の評価を尋ねられ、「兵士は真剣で頑強。特に防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは、狂信的な頑強さで戦います。しかし、高級将校は訓練が弱く、紋切り型の行動しかできない」と答えている。(「ジューコフ元帥回想録」)
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高学歴で出世する日本人が役に立たない、無能力者に近いのは、昔の日本ではなく現代の日本でも通用する日本人論である。
何故か、指導者・経営者は引退しても権力を維持しながら院政を敷く為に、自分より劣り裏切らない忠実な「イエスマン」を後継者に指名するからである。
それが、日本の闇将軍、キングメーカーそして院政の実像である。
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2024年5月3日10:02 YAHOO!JAPANニュース 新潮社 フォーサイト「太平洋戦争の敗因は「指揮統帥文化」にあり!――軍事史研究の第一人者が新たな視座から解き明かす、日本陸海軍必敗の理由
第一次世界大戦は日本陸海軍将校を絶望に陥れた
21世紀の戦争においても、実戦の指揮を執るのは各軍の指揮官である。当然彼らは各国軍事組織に所属し、概ね士官学校の出身者だろう。とすれば、そこには太平洋戦争と通底する問題が、生じないとは言い切れない。2020年の新書大賞を受賞した『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』の著者・大木毅氏は、最新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)の終章「昭和陸海軍のコマンド・カルチャー:一試論として」において、日米英12人の指揮官参謀の戦歴から、特に日本軍人に顕著だった、ひとつの芳しからざる特徴を指摘する。以下、同書より一部抜粋・再構成してお届けする。
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指揮統帥の文化とは
昭和の日本陸海軍の指揮統帥には、一定の特徴、それも芳しからざる特徴がはっきりとみられる。
戦略における政治との相互作用への配慮の乏しさ、硬直したドクトリンへの固執、作戦要素の偏重(当然、兵站や情報といった他のファクターの軽視につながる)、即興性・柔軟性の欠如、不適切な人事……。
歴史家ムートは、国際政治学を専攻するハーヴァード大学教授アラステア・I・ジョンストンの「文化とは、個人もしくは集団の思考に一定程度の規則性を課すもので、共通の決定ルール、処方箋、標準作業手順、決定のルーティーンである」との定義、さらに「文化が行動に作用する場合、それは選択される行動に制限をつけること、そして、その文化に属する者が相互の交流から何を習得するかに影響を与えることによってなされる」との指摘を引き、軍隊もその例外ではないとの問題設定から、第二次世界大戦の米独将校の「指揮統帥文化(コマンド・カルチャー)」を討究した。
仮にこうした分析枠組みを援用するならば、こうした昭和陸海軍の宿痾はまさしく、そのコマンド・カルチャーの帰結であったとみなすことができる。では、多数の問題点をはらんだ日本的指揮統帥の文化は、いかなる種子から芽を吹き、根を下ろしていったのか。
形骸化・官僚化する軍隊
軍隊が、軍事的合理性を敵と競い合い、戦争に勝つことを目的とする特殊な性格を持つとはいえ、本質的には官僚組織であることは論を俟たない。その色彩は、平時にはより濃厚となり、軍隊の弱体化をもたらす。脅威なき平時においてはなおさらである。
近年のドイツ連邦国防軍(ブンデスヴェーア)などは、その典型例といえよう。冷戦のさなかには、NATO(北大西洋条約機構)諸国の軍隊中でも精強を謳われ、米軍が一目置くほどの存在であったのが、ソ連と東欧社会主義体制が崩壊し、四囲に脅威がない状態になってから(もっとも、それは近代以降のドイツにとって初めての経験だった)わずか四半世紀ほどで、質量ともに戦力の低下を来し、徹底的な再建の必要が叫ばれるようになってしまったのだ。
おそらくは、第一次世界大戦後の日本陸海軍もそうした状態にあった。中国は辛亥革命後の混乱なお収まらず、ロシア帝国は革命によって滅びたから、北の脅威は消えた。また、海上の仮想敵であるイギリスやアメリカとは協調体制をきずくことに成功している。
日本は、幕末以来ほぼ半世紀を経て、ようやく外国の脅威から解放されたのであった。
戦前期日本の戦略ドクトリンである「帝国国防方針」をみても、大正12(1923)年の改定で、アメリカを第一の想定敵国として、ロシアおよび中国がそれにつぐと決めたものの、明治40(1907)年、日露再戦の可能性を念頭に置いて作成された際、あるいは戦争の可能性がより現実的になってきた昭和11(1936)年の改定時ほどの切迫感はない。軍隊という官僚組織の存在理由を主張するための仮想敵設定とまでいえば、酷な評価ということになろうが、そうした側面を全否定することもできまい。
いずれにせよ、かような戦略環境のなかで、つかの間の安定を享受することはしばしば、戦いに勝つことを至上命題とする暴力装置という軍隊の理念型からの逸脱、さらには、前例主義や硬直した思考など、官僚組織としての諸側面の肥大につながる。昭和陸海軍のコマンド・カルチャー頽廃の起点の一つは、この時期にあったように思われる。
総力戦から眼をそむけた
艦隊決戦というドグマの犠牲となった「大和」と「武蔵」
もう一点、日本軍のコマンド・カルチャーの停滞や退化を間接的に醸成した要因として、戦争の性格の変化が挙げられよう。すでに日露戦争において、勝敗は、戦場での激突ではなく、国力や生産力の競争、国民の継戦意志保持の程度によって定まるという傾向がみられはじめていたが、第一次世界大戦は、その潮流の向かう先を残酷なまでにあきらかにした。
中立国スイスの国境から英仏海峡まではりめぐらされた野戦築城や、それを破壊せんとして、ときには数週間におよぶ砲撃が加えられるといった第一次世界大戦の様相は、もはや戦争は、軍隊ではなく、国民対国民の闘争であり、そこで決定的になるのは、将兵の士気や練度、作戦や戦術よりも、生産力の多寡であることを如実に示していたのである。
その第一次世界大戦の実情や教訓を研究した日本陸海軍の将校の多くは、絶望に襲われたにちがいない。なぜなら、第一次世界大戦の戦勝国として、米英仏伊とならぶ「五大国(ビッグ・ファイヴ)」の一つになりおおせたとはいえ、日本の国力はとうてい諸列強が繰り広げたような「総力戦」に耐えられるものではなかったし、また、近い将来にそのような態勢を構築できる見込みもなかったからだ。
かくのごとき事実を突きつけられた陸海軍の将校は、さまざまな対応をみせた。この問題に思想史研究の視点からアプローチした片山杜秀の言葉を借りれば、「本気で『持たざる国』を『持てる国』にしようと夢想した者もありました。精神力という『無形戦力』で『持たざる国』に相応しい金のかからない下駄を履かせ、何とかごまかして切り抜けようと思い詰めた者も居ました」ということになる(片山杜秀『未完のファシズム』)。
しかし、陸海軍首脳部のほとんどは、総力戦の要求に正面から向かい合うことを避け、日本の国力でも可能な戦略・作戦・戦術を正解として設定し、将校たちに叩き込んだ。日本軍の第一次世界大戦史研究を検討すれば、その過程が浮かび上がってくる。
なるほど、陸海軍は、厖大な予算と人員を投じ、英独仏露をはじめとする列強の公刊戦史の翻訳刊行、高級将校育成・研究機関である陸軍大学校や海軍大学校、軍の各学校などで研究を実行させるなど、第一次世界大戦から学ぶ努力を怠りはしなかった。
だが、当時の日本社会のエリートであった陸海軍の将校が出した結論は、空虚なものであったといわざるを得ない。彼らの多くは、戦争の実態から最適のドクトリンを追求するのではなく、おのれが取り得る作戦や戦術に都合のいい戦例を述べ立てる「教訓戦史」に走ったのである。
陸軍は、第一次世界大戦の西部戦線に現出した物量戦の本質をみきわめようとはせず、短期決戦のための作戦案だったドイツの「シュリーフェン計画」や、タンネンベルク包囲殲滅戦の指揮統帥をもてはやし、日本も、さような戦争のわざにより、つぎの戦争に勝利すると呼号した。
海軍は、海上交通保護に象徴されるような新しい課題が生じているにもかかわらず、艦隊決戦による制海権の確保という古典的な認識をあらためることなく、第一次世界大戦の水上部隊による海戦の作戦・戦術的分析に注力し、そこからみちびかれた、現実的ではない「戦訓」にしたがった。それが、来るべきアメリカ太平洋艦隊の来寇を迎え撃ち、最終的には日本海海戦式の艦隊決戦で勝利するとの日本海軍の「漸減邀撃」ドクトリンに即していたことはいうまでもない。
つまり、昭和陸海軍は、第一次世界大戦を経験していながら、それよりも前の戦争理解と対応に終始したのであった。日本軍は、日露戦争のやり方で太平洋戦争を遂行したとはよくいわれることだけれども、かかる研究のあり方からすれば、しごく当然のなりゆきだったろう。「将軍たちは常に一つ前の戦争に備える」との皮肉な箴言がある。しかし、昭和の陸海軍は「一つ前」どころか、「二つ前」の戦争の準備をしていたのである。
そうした仮構(フィクション)にもとづく戦略が通用した背景には、陸海軍指導層の大部分に、総力戦遂行は不可能であり、強行すれば必ず破綻するとの語られざる共通認識があったのではないか――と結論づけるには、なおいっそうのリサーチと検討が必要だが、筆者は、前出の片山同様、そのような仮説を抱いている。
秀才の戦争
いずれにせよ、昨日の理解によって、明日の戦争にのぞまんとした昭和陸海軍のあり方は、制約なき思考にもとづき不確定な将来を洞察するという知的営為を封じる結果となった。先制、機動、寡兵よく大軍を破る、艦隊決戦で一気に雌雄を決するなどの陸海軍のドグマが、当局の定めた「正解」とされ、将校たちに教え込まれた。同時期のドイツ国防軍の教範は「用兵は一の術にして、科学を基礎とする、自由にしてかつ創造的な行為なり」と概念規定していたが(「軍隊指揮」1936年版、ドイツ国防軍陸軍統帥部/陸軍総司令部編纂『軍隊指揮』所収)、昭和陸海軍はその逆へと走ったのである。
陸軍士官学校はもちろん、高級指揮官養成機関である陸軍大学校でさえも、「自由にしてかつ創造的な行為」を奨励していたとは言いがたい。図上演習や現地戦術(実際に演習地ほかに行き、現地に即した設問に答え、討議する教育方法)などで、一見、未知なる混沌とした状況に自らの思考で考える能力を鍛えているかのようではあったけれど、拠って立つ原理原則が当局の「正解」であり、それを疑うことが許されていない以上、その教育は、悪しき意味での「教化(インドクトリネーション)」にすぎなかった。
海軍も同様で、海軍大学校では、やはり図上演習や兵棋演習といった今日でいうシミュレーションや戦史教育による自主的な判断能力の育成に努めたものの、その教育は結局、漸減邀撃作戦への意思・認識の統一に終わったとみてよい。小沢治三郎が、日本海軍の「教科書」であった「海戦要務令」を読むなと述べたという挿話は、現実はそうでなかったことの裏返しの証左といえよう。
さらに致命的であったのは、陸大・海大ともに、おおむね作戦・戦術次元の知識や理解を教えるだけで、第一次世界大戦で重要性が認識された、政治(当然、外交や経済政策等も含む)と戦略を包含した「戦争指導」については等閑視したも同然だったということだ。結果として、作戦、場合によっては戦術の延長として戦略を構想する、偏頗な将校たちが誕生、累進し、日本軍の指揮統帥の責任を負って――奈落の底に落ちていった。「正解」を完璧に習得した秀才の戦争は、教科書にない局面に遭遇するや、混乱におちいり、敗北に傾いていったのである。
人事システムの硬直
新潮社 Foresight(フォーサイト)
ドグマへの執着、さらには、それを拳々服膺する秀才の重用は、昭和陸海軍の人事システムを硬直させていった。米軍のROTC(予備役将校訓練課程)、イギリスのマーヴェリックの存在を許容する軍隊文化といった人事上のバイパスを持たぬことも相俟って、日本軍の将校たちは、独創的な異分子を持たぬ均質的な集団となっていく。
加えて、先に触れた官僚組織としての側面が肥大したことは、実戦において功績を上げた者や正統的なキャリア以外で頭角を現した者の抜擢を困難にした。海軍は海大よりも海軍兵学校の、陸軍は士官学校よりも陸大の成績を重視するといった差異はあるものの、おおむね学校の、それも非常に若い時期における評価をベースにした、精緻ではあるけれども融通の利かない昇進・人事システムがつくりあげられていたのである(むろん、いわゆるコネの影響がないわけではないが、その問題はひとまず措く)。
ゆえに、適材適所の配置は、戦争遂行にクリティカルな意味を持つ高級指揮官の人事においてさえも望めなくなった。たとえば、海軍では、艦隊の司令長官を更迭しようと思えば、先任順位の玉突きが起こり、それを解決しなければ、配置転換は実現し得ないのであった。
かくのごとき人事システムの欠陥は、すでに少なからぬ論者によって指摘されてきたことではある。とはいえ、その根源を探るにあたっては、昭和陸海軍のコマンド・カルチャー、とりわけ官僚組織としての性格ならびにドグマ化したドクトリンの問題を念頭に置く必要があるかと思われる。
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◎大木毅(おおき・たけし)
1961年東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学他講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師等を経て著述業に。雑誌「歴史と人物」の編集に携わり、旧帝国軍人を多数取材。『独ソ戦』(岩波新書)で「新書大賞2020」大賞を受賞。近刊に『指揮官たちの第二次大戦 素顔の将帥列伝』(新潮選書)、『戦史の余白 三十年戦争から第二次大戦まで』(作品社)、『勝敗の構造 第二次大戦を決した用兵思想の激突』(祥伝社)など。
フォーサイト編集部
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2022年6月11日 YAHOO!JAPANニュース 新潮社 フォーサイト「「戦略」「作戦」「戦術」――戦争に勝つためには、どんな能力が必要なのか。軍事史研究の第一人者が説く、「現代の名将」の条件とは
執筆者:大木毅
アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥(左)、ソ連邦元帥のトゥハチェフスキー(右)といった「名将」たちに共通する条件とは
今年2月に勃発した、ロシアによるウクライナ侵攻。日夜激しく繰り広げられる戦いの帰趨は、国家指導者の意思や兵器の優劣のみで決まるわけではない。そこには作戦をリードする、双方の指揮官の存在が大きく関わってくる。実際、ロシア軍の思わぬ苦戦の背景には、戦略・作戦・戦術それぞれの次元で、指揮官たちの能力不足があったと言われている。 2020年の新書大賞を受賞した『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』の著者、大木毅氏の最新刊『指揮官たちの第二次大戦 素顔の将帥列伝』(新潮選書)の最終章では、軍人にとって最も必要な資質とは何かを問うた、「現代の指揮官要件――第二次世界大戦将帥論」が展開されている。以下、同書より一部抜粋・再構成してお届けする。
執務室の統帥
戦場を見下ろす丘に立ち、一時的な敗勢にもひるむことなく、勝機を見抜いて最後の予備を投入、ついには決勝を得る。あるいは、旗艦の艦橋にあって、砲煙弾雨のなか、巧みに艦隊の運動を指示して、有利な態勢をつくり、敵を潰滅に追い込む。おそらく、日本語の「名将」という言葉が連想させるのは、こうしたイメージであるはずだ。加えて、将兵をして進んで死地に赴かしめる統率にも優れているといったところか。
残念ながら、かかる「名将」概念は、作戦・戦術次元の能力評価に限られているばかりか、人格評価も多分に含まれていることから、現代的な戦史・軍事史研究の分析に使うのは難しい。第一次世界大戦によって、戦争は軍隊のみならず、国民と国民の衝突による「総力戦」になることがあきらかになって以降、優れた指揮官であるための要件は、多種多様になっている。
そのなかでもとくに重要なのは、おそらく、戦闘や戦役ではなく、戦争に勝つ策を定める戦略の次元において卓越していることであろう。事実、第二次世界大戦中、さらに戦後にあっても、切実に必要とされてきたのは、この戦略次元での人材なのである。外交、同盟政策、国家資源(人的・物的資源)の戦力化、戦争目的・軍事目標の設定、戦域(たとえば「太平洋戦域」など、「戦線」や「正面」といったエリアを超える戦争範囲)レベルでの戦争計画といった、きわめて高度の判断と戦略策定の可能な軍人こそ、求められるべき「名将」なのであった。
こうした将帥のほとんどは、戦線での実兵力運用には関わらず、もっぱら首都にある国防省や参謀本部の執務室で過ごし、「指揮官」の名にはふさわしくないように思われる。第二次世界大戦の帰き趨すうを決めたのは、これら執務室の将帥だったのだ。
実例を挙げるなら、アメリカの陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥、イギリス帝国参謀総長を務めたアラン・フランシス・ブルック(アランブルック)元帥などがその典型である。彼らは、それぞれ合衆国と英帝国のリソースを動員・配分し、効果的に使用するという巨大な計画を立案・遂行し、卓抜した戦争指導を示したのだ。
ただし第二次世界大戦において、こうした戦略的逸材は、連合軍側にしか現れなかった観がある。それも当然で、枢軸側は、日独伊ほかの「持たざる」国々から成っていた。かような国家にあっては、リソースの合理的運用を追求し、敵に対して戦略的優位に立つという正攻法を取ろうとしても、不可能という結論に至らざるを得なかったのである。
日本では、今日のシンクタンクにあたる組織、総力戦研究所や秋丸機関が対米戦争の可能性を検討したが、必敗と占わないわけにはいかなかった。ドイツでは、国防経済・軍備局長のゲオルク・トーマス歩兵大将が、総力戦の準備・実行に努力したものの失敗し、開戦を回避する、あるいは敗戦という最悪の事態をまぬがれることをめざして、戦争遂行を叫ぶヒトラーに対する抵抗運動に走っている。
いずれにせよ、このような戦略的劣位に置かれた枢軸国、とくに日独の指揮官たちは、戦争目的を達成するために、「戦役」(campaign)、すなわち、一定の時間的・空間的領域で行われる軍事行動を計画立案し、実施する「作戦」の次元でのアクロバットに頼るしかなかった。それは、下位階層である作戦次元の勝利を積み重ねることによって、戦略次元の窮境を打開するという、九割九分は失敗を運命づけられた試みだったのだ。
「作戦術」の妙
続いて、作戦次元の指揮官要件を考えてみたいが、その前に、戦略次元と作戦次元の両階層が重なるところで威力を発揮したソ連の「作戦術」に触れておきたい。
すでに触れたように、戦争には三階層、戦略・作戦・戦術の三次元があるといわれる。だが、実は古代や中世には、「戦略」と「戦術」の概念しかなかった。言い換えるなら、戦争を準備し、遂行する策と、戦闘を有利にすすめるわざしかなかったわけである。
しかし、近代になって、国民軍、一般兵役制による巨大な軍隊が出現し、戦争が時間的・空間的に拡大するとともに、戦略と戦術の二分法ではなく、その中間に作戦というあらたな次元があると考えられるようになってきた。この作戦次元で、戦略目標を達成するためにいかなる思考・行動をなすべきかが問われはじめたのだ。
かかる理論構築において、ロシア軍は二十世紀のはじめに顕著な進歩をみせた。一九〇四年から一九〇五年にかけての日露戦争で、日本軍よりもずっと優勢な軍勢を持ちながら、時間的・空間的駆け引きに失敗し、苦杯を嘗なめた経験が、ロシアの軍人たちに深刻な思索をうながしたのだ。
彼らの理論は、第一次世界大戦やロシア革命後の内戦の戦訓を受けて、ソ連でもいっそう深化されていった。それは、アレクサンドル・A・スヴェーチンやミハイル・N・トゥハチェフスキーといった、傑出した軍事的才能を得たこともあって、一九三〇年代の作戦術の完成に結実する*。
かくて誕生した作戦術は、ソ連兵語辞典によれば、以下のごとき定義となる。「地上部隊の正面軍〔日本軍の方面軍に相当する規模のソ連軍の編制単位〕作戦、軍作戦ならびに各軍種〔陸海空三軍〕の準備と実行の、理論と実際を研究する兵術の構成部分。作戦術は戦略と戦術を結ぶ環である。戦略の諸要求に立脚し、作戦術は戦略目的達成のため、必要な作戦準備と実行の方法を定め、かつ作戦目的と作戦任務に合致するように諸兵連合部隊を準備し、実施するため、必要な戦術の基礎諸元を与える」(片岡徹也編『軍事の事典』)。
このままではイメージしにくいであろうから、説明を加えてみよう。すでに述べたごとく、戦争目的を定め、国家のリソースを戦力化するのが戦略である。その目標を達成するために、戦線各方面に作戦、あるいは「戦役」を、相互に連関するように配していく。それが作戦術なのだ。
作戦術は、独ソ戦後半に大きな威力を発揮した。個別の作戦こそ実行したものの、それらを意識的に協調させることのなかったドイツ軍に対し(ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」で、ドイツが投入した三個軍集団は個々の作戦こそ遂行したものの、相互の連関はほとんどなかったことを想起されたい)、ソ連軍は多数の戦役を連動・協同させて、圧倒的な成功を収めたのである。
この作戦・戦役の協同において、忘れられがちではあるが重要な貢献をなしたのが、ともにソ連邦元帥にまで昇りつめたゲオルギー・K・ジューコフとアレクサンドル・M・ヴァシリェフスキーであった。独ソ戦中の二人の軍歴をみていると、しばしば「赤軍大本営代表」の任についていることがわかる。両者は、それによって強大な権限を与えられ、攻勢にあたる複数の正面軍の調整を遂行するという、作戦術を機能させるのに必要不可欠な作業を行ったのであった。
つまり、ジューコフとヴァシリェフスキーは、戦略・作戦次元の両方で手腕を発揮した、有能な将帥だったのである。
*もっとも、ロシア・ソ連以外でも、作戦次元の存在と、そのレベルでいかなる対策を取るべきかについて、研究と検討がなされていたことはいうまでもない。かような努力の成果や理論は、欧米では一般に operational art と呼ばれており、和訳してしまえば、これも「作戦術」となってしまうから、誤解を招きやすいところだ。よって、本章では、ロシア・ソ連流の「作戦術」の概念にしたがい、記述していることを確認しておく。
両極端─ドイツとアメリカ
では、一つ下の次元、戦役を遂行する作戦次元においては、指揮官はどのような能力や資質を要求されたか。
作戦そのものを進めるという点で、きわめて優れた人材を輩出したのがドイツであることは間違いない。「砂漠の狐」の異名を取ったエルヴィン・ロンメル元帥、装甲部隊の運用で傑出した働きを示したハインツ・グデーリアン上級大将、「ドイツ国防軍最高の頭脳」ことエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥……。
なかでも、マンシュタインは、一九四〇年にベルギー、オランダ、フランスを降伏させ、イギリスの大陸遠征軍をヨーロッパから駆逐した西方作戦計画の構想を出した将帥であり、特筆すべき存在である。作戦次元の成功によって、上位の次元にある戦略の不利をくつがえすことは非常に困難であり、古今東西の戦史をみても、ごく限られた実例しかない。マンシュタインは、その難事をやってのけた。戦争犯罪への関与等で、彼のオーラが陰ることがあったとしても、この偉業ばかりは否定できないだろう。
しかしながら、ロンメルやマンシュタイン、グデーリアンといった、今なお作戦・戦術次元では卓越していたと評価されるドイツの指揮官たちが、ひとしく批判されている点がある。あまりにも作戦にこだわり、それが戦略次元で有効なのか、なすべきことなのかという考慮がほとんどなかったというものだ。
これはおそらく、ドイツの指揮官たちの個人的欠点というにとどまらなかったろう。すでに論じたように、ドイツは総力戦を貫徹することが困難な、「持たざる国」でしかなかった。さような国家は、リソースをフル動員し、国民に犠牲を強いながらも、相対的な戦略的優位を獲得するという正道によることができない。だとすれば、ドイツ軍の指揮官は、作戦次元で連勝を続け、戦略次元の劣勢を挽回する以外になすすべがなかったのである。当然のことながら、かかるアクロバットは、何度となく美技を示したとしても、いつかは失敗し、床に叩きつけられる運命にある。
これと対照的なのがアメリカであろう。本書の第三章に記述したごとく、これぞ作戦レベルの名人と思われるようなパットンは、実は米軍内部では必ずしも評価されていない。それもそのはずで、米軍は作戦次元で綱渡りの末に大成功を得ることなど求めていなかった。有り余るリソースを適切に配分・投入し、堅実なかたちで勝利を得ることを追求していたのだ。
スイスの歴史家ヨーナタン・ツィマーリは、こうした米軍の作戦・戦術指揮のあり方を研究した著書に、いみじくも『将校かマネージャーか?』のタイトルを付した。答えが「マネージャー」であることはいうまでもない。アメリカ軍は、リスクを冒して戦果を上げることよりも、リソースのマネージメントによって勝利を得ることを、作戦次元での指揮官要件としていたのである。
そうした基準からすれば、本書第三章に示したアイゼンハワーの部下将帥に対する評価のように、優れた指揮官は、ノルマンディ上陸以降、第一二軍集団司令官を務めたオマー・ブラッドレー中将をはじめとする「マネージャー」たちだったということになる。ツィマーリによれば、かかる傾向は、朝鮮戦争やヴェトナム戦争までも続いたという。
一般的には奇異に感じられる評価かもしれないが、第二次世界大戦のアメリカらしい指揮のあり方として、記憶にとどめておく意味のある視点だろう。
戦術次元の新基準
最後に、作戦実施に際して生起する戦闘に勝つための術策、戦術の次元について述べる。もっとも、この次元で第二次世界大戦の指揮官に要求されたことは、近代以前とそう変わってはいない。
ガダルカナルで、巧みな陣地選定により、日本軍の最初の攻撃を粉砕してのけた米第一海兵師団長アリグザンダー・ヴァンデグリフト少将、あるいは、独ソ戦後半でしばしばソ連軍に有効な反撃を加えて、もっとも優秀な装甲部隊長とうたわれたヘルマン・バルク装甲兵大将のごとく、文字通り、いくさのわざに秀でていることが求められたのである。
これらの実例を示すには、より詳細に戦闘経緯を分析しなければならないし、別の一書を必要とするであろうから、ここでは論述を避け、他日を期すこととしたい。
ただし、一点だけ、当時加わった新しい要素、しかも、今日ではいよいよ重大さを増しているファクターについて、簡単に触れておく。
それは、戦術次元の決断においてすら、戦略・作戦次元での目的に関する考慮が欠かせなくなったことである。ときとして、前線の小部隊、単独行動する艦船といえども、その進退が戦略に影響をおよぼしかねないという可能性が出てきたのだ。本書で取り上げた例でいえば、第八章で述べたラプラタ沖海戦が典型であるかと思われる。
このとき、「シュペー」艦長ハンス・ラングスドルフ大佐は、イギリス艦隊に対して、いかに有利に戦闘を進めるかということだけでなく、避退するとしたら、その政戦略への影響はどうなるのか、中立国の港湾に逃れるとしてもその国にどれだけ支援を期待できるかという戦略的な問題に頭を絞らねばならなかったのだ。かような傾向は、現代でいうCOIN(counter-insurgency)、対反乱戦において顕著であった。
こうして戦略・作戦次元の判断に戦術次元の指揮官がいかに対応するかという問題は、すでに第二次世界大戦で生じており、今日の各国軍隊でも重要な課題として検討されつづけているのである。
以上、第二次世界大戦の指揮官たちを判断するに際しての評価基準を概観してみた。これらに留意して、本書を読み返していただければ、また別の感想が得られるかもしれない。筆者もそうなることを期待している。
大木毅『指揮官たちの第二次大戦―素顔の将帥列伝―』
大木毅(おおき・たけし)
1961年東京生まれ。現代史家。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師等を経て著述に専念。雑誌「歴史と人物」の編集に携わり、旧帝国軍人を多数取材。『独ソ戦』(岩波新書)で「新書大賞2020」大賞を受賞。著書に『第二次大戦の〈分岐点〉』(作品社)、『「砂漠の狐」ロンメル』『「太平洋の巨鷲」山本五十六』『指揮官たちの第二次大戦―素顔の将帥列伝―』、共著に『帝国軍人』(いずれも角川新書)など。
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