🎺24:─2─真珠湾攻撃の成功はデマを信じたアメリカの愚かさが原因である。〜No.122No.123 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 フランクリン・ルーズベルトヒトラースターリンチャーチルに共通する点は、白人至上人種差別主義者で親中国反天皇反日である事である。
 軍国日本は、天皇・国・民族を守る為に、ファシスト中国(国民党)・中国共産党を軍事支援するナチス・ドイツソ連と国際的共産主義勢力、イギリスそしてアメリカに対して積極的自衛戦争を仕掛けていた。
 中期日中戦争(第二次上海事変から)ではナチス・ドイツソ連・国際的共産主義勢力を撃破し、後期日中戦争真珠湾攻撃から)ではアメリカとイギリス、ユダヤ系国際金融資本と多国籍軍需産業(世界的死の商人)などと、中国人被災者(1,000万人以上)を助けるという人道貢献をしながら死闘を繰り広げていた。
 ナチス・ドイツとの日独伊三国同盟ソ連との日ソ中立条約は、外交的には対米交渉を有利に導く為であり、戦略的にはナチス・ドイツソ連・国際的共産主義勢力を日中戦争から手を引かせる為であった。
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 真珠湾攻撃とは、世界戦史上、記録すべき偉業としての奇襲攻撃であって卑劣な騙し討ちではなかった。
 真珠湾奇襲攻撃にける犠牲となったアメリカ兵士の責任は、軍国日本ではなく、“信じがたいデマ”を信じたアメリカのにある。
 東京裁判真珠湾攻撃に対する報復裁判というのならそれは犯罪であり、真珠湾奇襲攻撃には非人道上の罪・犯罪は存在せず、戦時国際法の違反はなく、合法的な正規の作戦計画である。
 アメリカ軍・イギリス軍・オランダ軍は、日本との戦争目的として、軍国日本・日本軍より先に日本包囲網の中で戦争準備を始めていた。
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2019-12-20
🎺24:─1─真珠湾攻撃に関する陰謀説はなかった。〜No.121 
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2024-03-16
〖目次〗貼り付ける記事。:皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の道徳エゴであった。令和6年版。
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 2024年8月10日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「日本のパイロットはすべて近眼」…ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃まで疑わなかった、“信じがたいデマ”の数々
 半藤一利さん『日本のいちばん長い日 決定版』は、玉音放送までの24時間を描いた傑作ドキュメントとして名高い。その「昭和史の語り部」半藤さんには、実はもう一つの『日本のいちばん長い日』と言うべき作品がある。それが開戦の日までの熾烈な国際外交交渉と、開戦の日の24時間を描いた『[真珠湾]の日』である。
 本書より一部抜粋して、真珠湾攻撃の日における、日米双方の緊迫感あふれる事態の推移を紹介する。第1回は、真珠湾攻撃の報を受けたにもかかわらず動きの遅いアメリカの首脳部が持っていた日本人への偏見についてである。(全4回の1回目/続きを読む)
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 “真珠湾攻撃”の報らせにも緊迫感のないアメリカ首脳部
 こうしてアメリカの首脳部は、午前9時から10時すぎ(編集部注:ここではワシントン時間)にかけて、なぜか、ブラットン大佐(注:当時の陸軍情報部極東課長)の言葉ではないが、「ガッデム(くそっ)」というほかないのろのろとした動きをみせている。だれもが平常どおりである。日本からの、解読ずみの“開戦通告〞の覚書全文と手交時刻指定の訓令とを手にしていながら、この緊迫感のなさ、悠長さ。危機意識をかすかにもみせていない。その根底にあるものは、日本人にたいする侮蔑感のみ、と考えざるをえない。
 事実はどうなのか。ここで少し脱線することを許してもらいたい。当時のアメリカ人の日本人観について、である。あるいは人種差別について、である。
 零式艦上戦闘機
 たとえば米陸軍情報部は昭和16年10月に「零式(れいしき)艦上戦闘機」(ゼロ戦)にかんする推定を文書化している。それによれば、その速力、回転性能、戦闘力などの情報はすべて実際よりはるかに下回って推定されている。また、この年の12月には、零戦を中心の日本の戦闘機の生産は、月産400機を上回っていたが、アメリカ軍中央はこれを200機がやっとと見積っている。
 そして、日本海軍の軍艦は一事が万事、イギリスの軍艦をまねた劣悪なコピーにすぎない、と語る軍事専門家が多かった。日本の航空機は三流品であり、パイロットの腕は無残そのもので、イタリア以下だというのが、航空機畑の将校たちの口癖であった。
ひどい偏見の持主だったルーズベルト大統領
 第一部にあげたラスブリッジャー&ネイヴの著書(注:『真珠湾の裏切り』)は、「アメリカ人もイギリス人も日本人のことをチビで出っ歯で眼鏡をかけた滑稽な黄色んぼで、世界中で見たものは何でもメモを取ったり写真を撮ったりして、国へ帰って二流の類似品を作ろうとする連中と見下していた」と紹介している。そして軍艦は基本設計が悪いので艦砲射撃をすると転覆するおそれがある、片目を閉じることができないので銃を正確に射撃できない、そんな軍事専門家の説をも引用している。
 ルーズベルト大統領
 実をいえば、ルーズベルト大統領その人が、ひどい偏見の持主であったのである。日本のパイロットはすべて近眼で、常に敵に先に発見されてしまう。撃墜は容易である。操縦技量はきわめて拙劣で、とうていアメリカ軍パイロットと互角に戦える力はない、というデマのようなことを信じていたという。
 太平洋艦隊司令長官キンメル大将の、無念さまじりの告発も残されている。
 「ルーズベルト大統領も、マーシャル参謀総長も、アメリカ人1人は、日本人5人に相当するし、たとえ、奇襲攻撃が行われても、たいした損害をうけることなしに撃退するであろう、といつも語っていた」
 アメリカ世論は完全に日本を見下していた
 こうした軍当局や指導層の偏見や楽観をそのままに反映して、アメリカの世論の対日蔑視もまた、日本人としては腹立たしいほどひどいものである。
 空母レキシントン
 「日本との戦争が起っても、アメリカは容易に勝てる。戦闘は6カ月で終り、そのあと全軍をヨーロッパの戦場に回すことは可能、いや容易なのである」
 「アメリカは1カ月1500機の飛行機を生産する。たいして、日本は1年に250機。しかも高オクタンのガソリンが欠乏していて、飛行学校は1年に100名を卒業させているにすぎない」
 「アメリカは、空母2隻もあれば日本国内の交通を数カ月途絶させることができる。日本の飛行士はせいぜい速力の遅い爆撃機の操縦ができるくらいで、快速の戦闘機は手に負えない。フィリピンやシベリアの基地から空襲すれば、日本軍は数週間で壊滅される」
 戦争がはじまり、長期戦となり、日本軍の刀折れ矢尽きたのちに、事実、この予測どおりになったが、いかに煽動された結果とはいえアメリカ世論の人種偏見の何とすさまじいものであったことか、驚愕せざるをえない。
 日米交渉で、ハル長官やウェルズ次官が、アメリカの要求はすべて通すことができるといわんばかりの強い態度に終始したのも、これあるためか、と考えたくなってくる。交渉の最初から最後まで、アメリ国務省の立場は冷たく、強圧的であるとともに、まことに官僚的、形式主義的であったことが想いだされてくる。
 どこを探しても見つからない「真珠湾」の文字
 そして、こと真珠湾にかんすることになると、ほとんどのアメリカ軍首脳の見方は一致していた。一言でいえば、日本海軍が真珠湾を攻撃する公算はまったくない、という点で。
 現在のグアム島
 水深が12メートルしかない真珠湾では、雷撃機からの魚雷攻撃は不可能である。爆弾に全面的に頼るとしても、アメリカのもつ航空機による爆弾の常識では、戦艦の厚い鋼板をつきぬけることはできない。つまり、せっかくの攻撃はすべて無効となる。
 アメリカの軍当局は、日本海軍が浅い海面での魚雷投下方法を猛訓練で完成していたこと、知恵のあるだけをしぼって浅沈度魚雷を開発していることを、想像だにしようとはしなかった。2500メートル前後の高度から投下すると、容易に15センチの甲板を貫通する九九式八〇番五号と称する徹甲爆弾を、日本海軍がもっていることを考えてみようともしなかったのである。
 開戦の4カ月前に、アメリカ海軍は「太平洋艦隊作戦計画」を完成させている。そのなかの「日本艦隊の対米行動の見積り」はこうなっている。
 「日本の最初の行動は、つぎのことを目指すであろう。a.グアム島の占領。b.フィリピン諸島ルソン島占領。それにつづいてフィリピン水域、およびボルネオとニューギニア間の水域にたいする制海権の確立。c.北部ボルネオの占領。……」
 どこを探しても「真珠湾」の文字は見つからない。
 「日本人に“大作戦”をおこなえる能力などない」
 もう一つ、あげておこう。真珠湾が奇襲をうけた原因について、米公刊戦史は結論づけている。
 「陸海軍情報部および戦争計画部は、入手しえた日本側資料その他により当然そのことを判断しえたにもかかわらず、日本の行動にかんしていえば、真珠湾および太平洋艦隊にたいしては、特別な脅威を感じていなかった」
 空母赤城。この甲板から真珠湾攻撃の第一次攻撃隊第一波が飛び立った
 「中央の軍当局は、日本軍がかならず攻撃に出ることを予期していたが、真珠湾にやって来るとは考えなかった。1941年が進むにつれ、米陸軍、海軍とも、日本は太平洋中部よりも極東方面に攻撃を仕掛けるだろうと考えていた」
 これ以上に書くことはくどくなるだけであろう。この思いこみは軍当局だけではなかったのである。ルーズベルトがそう確信しきっていた。日本人に、南方作戦と同時に、もう一つの“大作戦〞真珠湾攻撃をおこなえる能力があるなどとは、毫(ごう)も信じていなかった。大統領、陸海軍長官、最高統帥部、そのほか十分な情報を知っていた人びとのほとんどが、日本人にはそんな大それた能力はなし、と見定めていたのである。
 彼らはきっと来る。ただし、攻撃目標はマレー半島を中心とする東南アジアの英領そして蘭領、と頭から結論づけていた。航続距離の短い目本の空母が、真珠湾まで太平洋をおし渡って来るはずはないと。
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 8月10日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「日本人の出っ歯を叩きのめす」…真珠湾攻撃に激怒したアメリカ国民が抱えていた、拭い難い“人種差別意識
 〈「くそ野郎、しょんべん蟻め!」9カ月の交渉が決裂…日本人外交官を見送ったハル国務長官が、テネシー訛りで放った“罵倒”〉 から続く
 【画像】「日本の女が演壇に立ったら、殴りつけてやる」アメリカ人を憤らせた石垣綾子
 太平洋戦争開戦の日までの熾烈な国際外交交渉と、開戦の日の24時間を描いたドキュメント『[真珠湾]の日』は、「昭和史の語り部半藤一利さんの、もう一つの『日本のいちばん長い日』と言うべき作品である。
 本書より一部抜粋して、真珠湾攻撃の日における、日米双方の緊迫感あふれる事態の推移を紹介する。第3回は、真珠湾攻撃の一報を聞いた当時のアメリカ人たちの反応である。(全4回の3回目/ 最初から読む )
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 ルーズベルトは20分間、ロブスターの獲り方を得意げに話した
 笑うルーズベルト大統領
 世界各国の首脳たちが、「真珠湾攻撃さる」のニュースに驚愕しているころ、午後3時すぎ(日本時間午前5時すぎ)、ワシントンでは大統領の招集による戦争会議がひらかれている。スチムソン、ハル、ノックス、スターク、マーシャルが出席したが、同席のホプキンズが会議の様子を伝えている。
 「協議の雰囲気は緊張したものではなかった。なぜなら、私の考えでは、われわれ全部が考える敵はヒトラーであるということ、武力なしには決してかれを打ち破りえないこと、遅かれ早かれわが国が参戦しなければならないこと、そして日本がわれわれにその機会を与えてくれたことを信じていたからである。しかしながら、だれもが戦争の重大さと、それが長期にわたる苦悶となるであろうということに、意見一致した」
 実に正直な観察であり、書きようである。実際に会議は「緊張した」という言葉とまったくかけ離れた、いってしまえば余裕綽々(しゃくしゃく)たる雰囲気のもとにはじまった、といっていいようである。大統領は実に20分間にわたり、メイン州のロブスターの獲り方の極意を閣僚たちに得々として話した。この有名なエピソードは決して作り話ではない。
 「大統領の陰謀」論者のいうように、参戦するために太平洋艦隊を平気で犠牲にした上で、多くの国民が死んでいるのに目をつぶったままで、はたしてエビの獲り方に打ち興じていられるものか。できるとすれば、ルーズベルトは超人というほかはない。
 「日本軍の騙し討ち」と宣伝できる…その楽観は早くも現実化した
 会議は1時間半余つづいた。その間にも報告がどんどん入ってきたという。大統領は電話にはかならず自分ででて、自分でいちいち確認した。そして真珠湾の被害は電話が鳴るたびに、大きくなっていったのである。それでも列席の首脳たちが比較的落着いていられたのは、懸念していた開戦にたいするアメリカ国民の支持が、いよいよ確実となったからでもあろうか。ハル国務長官の日本両大使との会見の怒りをまじえた報告で、米政府は絶好の開戦の口実をえた想いである。ハワイ空襲を「騙し討ち」と宣伝することができるであろうし、対外的に米国の立場をいっぺんに有利にした。国民はこれを知ることで、挙国一致の態勢をとるであろうことは間違いなかった。
 そして首脳たちの、いうなればこの楽観視は、もうこの時刻には現実となっていた。怒りにみちたワシントン市民たちはぞくぞくと日本大使館に押し寄せてきている。怒りの反応は共通していた。
 「この黄色い野郎どもが! 何たる挑戦を」
 「ジャップの出っ歯をいやというほど叩きのめしてやる」
 映画館で映画を楽しんでいた人たちは、突然の上映中止で、「日本軍がハワイを攻撃した。本日の上映は中止とする」というアナウンスを聞くと、その足で大使館前にきて鬱憤ばらしの喚声をあげた。
 大使館内の電話は鳴りっ放しである。
 「このジャップの馬鹿野郎(サノヴァビッチ)」
 ほとんどがそうした怒声ばかりであった。
 日本人女性の身の安全のため、州の軍隊が動員された
 東京日日新聞特派員高田市太郎が、そのころのワシントンの様子を伝えている。
 「もう戦争のことはだれ知らぬものもない。舗道を歩いても、すれ違う米人の視線は、日本人である私に向けて、異様にギラリと光る感じさえした。町には新聞の号外が出ていた。“日本、パール・ハーバーを攻撃〞、ニュース・ボーイのどなる声が、私の耳いっぱいに響いた」
 職業的講演者として、中国人女性とともに講演旅行でアメリカ中を飛び回っていた石垣綾子(いしがきあやこ)は、その日、マサチューセッツ州ピッツフィールド市の市民講座で話すことになっていた。ニューヨークからのバスがこの市に着いたのは午後4時ちょっと前、「全市をあげて興奮の怒りに包まれていた」と石垣は回想する。会場をとり囲んで、いきまく人びとがジャップの彼女の来るのを待ち構えていた。
 「日本の女が演壇に立ったら、殴りつけてやる」「生かして帰さん」
 そんな怒声がシュプレヒコールのようにつづき、主催者側は石垣の身の安全のために州の軍隊の動員を要請しなければならない有様となった。
 短絡的にカッと熱くなるのは、アメリカ人も日本人も同じ
 アメリカ人には、チビで出っ歯で近眼で、目は開いているのか眠っているのかわからない日本人が、世界最強の海軍に攻撃を仕掛けてきた、そのことがもう不遜(ふそん)であり、許せないことであり、不可解なのである。ありえないことがありえた、ということは、不愉快きわまる。そこから流言となって「背後にヒトラー」説がひろまった。「ナチが計画し日本人にやらせた」という断定である。ナチス・ドイツの手先への憤激である。ラジオを聞き、号外を読んだだけで、まだ被害の程度がどれほどのものか知らぬうちに、彼らはもう愚かで無謀な日本への憎悪を燃えたぎらせた。
 検閲のカーテンは決して日本人の目ばかりを塞いでいたわけではない。アメリカ政府も完全に真珠湾の被害についてはその直後にあっては誤魔化した。「若干の艦船の損害を受けたが、日本軍の被害は甚大」と発表しただけである。そして永い間、大惨敗などとは思ってもいなかった。したがって、アメリカ人は完敗にショックを受けて、「リメンバー・パールハーバー」と、憤怒を日本に向けたのではない。では、何故か、となれば、やはり当時の人種差別にゆきつくことになる。うまく煽ったルーズベルトの戦略勝ちということになろうか。このへんのことはかなり日本人は誤解しているようである。
 その優越を誇るアメリカ民衆が、完膚なきまでにやられた真珠湾の被害を知り、それが「開戦通告なしの暴力」と知れば、ひとつにまとまって、国民的熱狂をひき起すであろうことは目に見えている。フランスの哲学者アランがいう「戦争の真の原因は国民的熱狂にある」は、真理と思われる。それにしても、短絡的にカッと熱くなる点において、アメリカ人とは、何と日本人とよく似ていることか。首脳たちが開戦口実に悩むことなど何一つなかったのである。
ルーズベルトチャーチル、ハル長官は馬鹿すぎる」…武者小路実篤横光利一も熱狂した、12月8日の日本人の心の真実 へ続く
 半藤 一利/文春文庫
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 8月10日6:12 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「ルーズベルトチャーチル、ハル長官は馬鹿すぎる」…武者小路実篤横光利一も熱狂した、12月8日の日本人の心の真実
 太平洋戦争開戦の日までの熾烈な国際外交交渉と、開戦の日の24時間を描いたドキュメント『[真珠湾]の日』は、「昭和史の語り部半藤一利さんの、もう一つの『日本のいちばん長い日』と言うべき作品である。
 本書より一部抜粋して、真珠湾攻撃の日における、日米双方の緊迫感あふれる事態の推移を紹介する。第4回は、真珠湾攻撃の一報を聞いた当時の日本人たちの反応である。(全4回の4回目/最初から読む)
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 「生きているうちにこんなめでたい日に遭えるとは」
 日本では――午後8時45分、ラジオが軍艦マーチとともに、大本営海軍部発表の驚倒(きょうとう)するような大勝利の報をやっと全国民に伝えた。
 「1、本8日早朝、帝国海軍部隊により決行せられたるハワイ空襲に於いて現在までに判明せる戦果左の如し。
 戦艦2隻轟沈、戦艦4隻大破、大型巡洋艦約4隻大破(以上確定)、他に敵飛行機多数を撃墜破せり。我が飛行機の損害は軽微なり。
 2、我が潜水艦はホノルル沖に於いて航空母艦一隻を撃沈せるものの如きも未だ確実ならず。
 (3、4、略)
 5、本日同作戦に於いてわが艦艇損害なし」
 戦果は、山本の「少し低い目に見とけ」という指示にもとづいたものであったが、轟沈(ごうちん)という目新しい言葉で勝利に景気をつけている。ラジオは、1分以内に沈んだものを轟沈とよぶ、と解説した。
 徳川夢聲
 ほとんどすべての国民が、ラジオの報に聞きいった。いくらか反戦的であったわたくしの父は、これを聞くと神棚に燈明(とうみょう)をあげたのを覚えている。作家長與善郎(ながよよしろう、53歳)は「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい日に遭えると思わなかった。(中略)すでにアメリカ太平洋艦隊は木っ端微塵に全滅されていた。これではこの聖戦がこれからであると百も承知しつつ、兎も角も万歳を叫ばずにはいられない」と書き、芸能家徳川夢聲(とくがわむせい、47歳)は「今日の戦果を聴き、ただ呆れる」と記し、さらに翌9日には「あまり物凄い戦果であるのでピッタリ来ない。日本海軍は魔法を使ったとしか思えない。いくら万歳を叫んでも追っつかない。万歳なんて言葉では物足りない」と興奮を日記にぶつけている。
西欧と衝突すると、強烈で過敏な反応を示す日本人
 評論家青野季吉(あおのすえきち、51歳)は、「戦勝のニュースに胸の轟くのを覚える。(中略)アメリカやイギリスが急に小さく見えて来た。われわれのように絶対に信頼できる皇国を持った国民は幸せだ。いまさらながら、日本は偉い国だ」と記し、作家武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ、56歳)も書いた。
 武者小路実篤
 「愚かなのはルーズベルトチャーチル、ハル長官たちである。日本を敵に廻す恐ろしさを英米の国民が知らないのは当然だが、彼ら責任者がそれを知らなかったのは馬鹿すぎる」
 つまりは、日本人の多くが、真珠湾の捷報(しょうほう。編集部注:勝利の報せのこと)に字義どおり狂喜したということなのである。痛快の極みと思ったのである。そしてだれもがこの戦争を独自の使命感をもった戦い、「聖戦」と信じた。あるいは信じようとした。
 わたくしは、その根本の日本人の精神構造に、幕末いらいの、いったんは開国によって死んだかと思える攘夷の精神が、脈々として生きつづけていたゆえに、と考えている。
 それはナショナリズムという型をとる。他の民族から日本人を峻別(しゅんべつ)し、優秀民族とする信念をもつ。そしてそれは欧米列強にたいするコンプレックスの裏返しでもあるのである。そのことについては拙著『永井荷風の昭和』(文春文庫)にくわしく書いたことがある。それをくり返すことはやめるが、日本国民は西欧との衝突で、日本人の自尊心や国家目的が問われるような事態に直面すると、異常に強烈にして過敏な反応を示す。それは戦闘的になる。白い歯をむく。つねに攘夷という烈しく反撥する型をとる。
 「尊王攘夷の決戦」としての“大東亜戦争
 昭和史を彩るさまざまなスローガン、「満蒙権益擁護」「栄光ある孤立」「東亜新秩序」「月月火水木金金」「ABCD包囲陣」「撃ちてし已(や)まむ」……すなわち、これらは日本国民が対外関係で興奮し猛り立った攘夷の精神の反映そのものなのである。そして幕末の「尊王攘夷」は「鬼畜米英撃滅」となって蘇り、ついには「尊王攘夷の決戦」としての“大東亜戦争”へとつながっていったのである。
 評論家中島健蔵(なかじまけんぞう、38歳)は「ヨーロッパ文化というものに対する一つの戦争だと思う」と述べ、同じく小林秀雄(こばやしひでお、39歳)も語った、「戦争は思想のいろいろな無駄なものを一挙に無くしてくれた。無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口を利かねばならなかった」。
 小林秀雄
 同じく保田與重郎(やすだよじゅうろう、31歳)になると、もっとはっきりする。
 「今や神威発して忽(たちまち)米英の艦隊は轟沈撃沈さる。わが文化発揚の第一歩にして、絶対条件は開戦と共に行われたのである。剣をとるものは剣により、筆をとるものは筆によって、今や攘夷の完遂を期するに何の停迷するところはない」
 「不思議以上のものを感じた」…神がかりを信じた横光利一
 34歳の亀井勝一郎(かめいかついちろう)も胸をはって書いている。
 「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であったと思う。即ち嘗(かつ)てペルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐だったのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴すべきときが来たのである」
 作家横光利一(43歳)も日記に躍動の文字をしたためた。
 「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、ついに顕れてしまったのである」
 横光利一
 引用が多すぎたかもしれない。が、これが12月8日の日本人の心の真実であった。少なくともほとんどすべての日本人が気の遠くなるような痛快感を抱いたのであり、それはまさしく攘夷民族の名に恥じない心の底からの感動の1日であったのである。
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