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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
大正デモクラシーは、欧米の自由・民主主義ではなくロシアの共産主義人民暴力革命を理想として、最終目標が天皇制度廃絶・皇室消滅の反宗教無神論・反天皇反民族反日本によるマルクス主義政党一党独裁体制にあった。
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共産主義者の二十七年テーゼと三十二年テーゼ。
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8月13日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「〈部下に自殺強要し責任逃れ〉辻政信には「旧軍エリートの悪いところが如実に表れている」《保阪正康氏らが徹底分析》
保阪 正康,川田 稔,山下 裕貴,新浪 剛史,楠木 建 に
〈「牟田口廉也は無能、悪玉、卑劣の“三冠王”と言ってもいい」各界専門家が分析する“無責任”日本陸軍エリートの実名 〉から続く
昭和の陸軍を分析すると、日本型エリートの問題点が浮き彫りになる——。経営、軍事、歴史の専門家が、太平洋戦争で露わになった日本型組織の欠陥を語り合った。軍人の愚行を振り返ると、現代に通じる教訓が見えてきた。
◆◆◆
失敗してもなぜか舞い戻る
保阪 私は服部(卓四郎)と辻(政信)は旧軍のエリートの悪いところが如実に表れている人だと考えています。派閥の引きで出世し、失敗しても責任を取らず、戦後は自分たちの失敗が無かったかのように振舞う。
楠木 服部と辻は共に陸軍幼年学校出身で、陸士、陸軍大学校を優等卒の俊才でした。服部の方が陸士は2期上ですね。
保阪 2人が最初に問題を起こしたのはノモンハン事件です。関東軍作戦主任参謀だった服部は、作戦の積極拡大を作戦参謀の辻と共に主張したところ、ソ連軍の大規模攻勢により大打撃を被ってしまいます。しかし東條の機嫌を取るような報告をすることで、服部は一時閑職に移るも、すぐに栄転しました。
辻も部下に責任を押し付けました。部下を査問した後、何も言わずにピストルを置いて部屋を出て行った。自殺の強要です。結果、辻も軽い処分で済んだのです。
戦後しばらく逃亡し、国会議員にもなった辻政信 ©時事通信社
© 文春オンライン
新浪 ノモンハンでは約8000人の兵士が亡くなっています。それでいて東條に気に入られているからと言って、責任を問われない組織はおかしいと思います。緩すぎますよね。
保阪 1940年に服部は参謀本部作戦班長に就任します。さらにその服部によって、辻は1942年3月に参謀本部作戦課に呼び戻されるのです。同年夏からのガダルカナルの作戦では、戦死・餓死者約2万2000人という大損害を出してしまいます。服部は一旦東條の秘書官になりますが、不思議なことに10カ月でまた作戦課長となった。東條にとって服部は、相当使いやすい人間だったのでしょうね。
川田 1944年のサイパンの守備作戦を計画したのが服部でした。彼は米軍の戦術や情報をまったく分析せずに、中国戦線での作戦をそのまま適用した。激戦の末、最終的に日本軍は全滅しました。約3万人の兵士が亡くなり、民間人の死者も約1万人だったと言います。
その結果、東條が首相・陸相を辞め、服部はその後、作戦課長から外されました。
山下 辻は各部署で厄介払いされている間に栄達してしまったと言われています。ノモンハンの後、支那派遣軍総司令部付になるのですが、そこでも波風を立てた。すると総参謀副長の本多政材(まさき)は、「台湾軍に出して、将来はまた参謀にするか」と台湾軍に行かせた。たらい回しにされている内に、また参謀になったというわけです。
川田 彼は統制派というか、もろに東條派なので、どこへ飛ばされても東條が目を配っている。だから失敗しても必ず戻ってこられる。
もう一つ指摘すべき点があります。彼は行った先の上官の行動調査をするんです。弱みを握って、脅すわけではないけれど、「知っているぞ」と匂わせる。だから巷間言われているように、部下に持ちたくない人になるわけです(笑)。
保阪 辻はシンガポール華僑粛清事件の後、陸大の教官もしています。当時、陸大で学んでいた人から辻の試験問題を見せて貰って驚きました。すべて本土決戦を想定した問題だったんです。ある意味、勘の良い人ではあったのだとは思いますが。
楠木 破滅型というか……自分が気持ちよくなれるなら、破滅してもいいやという印象も受けます。どこまでも自分本位の人だったのではないでしょうか。
責任逃れの本を出版
保阪 服部は戦後、ガラッと生き方を変えました。
楠木 服部は官僚のように出世第一で、そこまでは一つの生き方としてありだと思います。ただちょっと驚くほどの変わり身の早さです。
新浪 確かに開戦時は、まだ40歳で作戦課長だったので東京裁判の訴追は逃れている。前線に出ていないのでBC級戦犯にも問われていない。責任を問われないポジションでしたが、対英米開戦派の中心人物ですよ。「責任」ということについて、しっかり考える必要があると思います。
山下 まず、第一復員局の史実調査部長となり、その後、GHQ参謀第2部の部長チャールズ・ウィロビーの下で、復員してくる各軍の要員に聞き取り調査をして、太平洋戦争の戦史編纂を行っていましたね。マッカーサー最高司令官の意に沿う太平洋戦史づくりが目的でした。再軍備研究のための「服部機関」も作られます。
楠木 いま、我々が振り返ってみても、この人、なんで戦後すぐにGHQに取り入ってこんなことが出来るんだろうと思ってしまいます。おそらく軍の同僚たちは、もっと憤っていたはずです。きっと彼は、それが平気な人なのだと思いますが。
保阪 服部は旧軍の参謀を次々に呼び出して、戦況を聞き出します。私は、そのとき彼らは隠蔽工作などもしていたのではないかと疑っています。東京裁判の陸軍側被告に有利になる証拠や資料がないか、聞きまわっていたようですから。
さらに1953年には、『大東亜戦争全史』を自分や元陸軍将校の名前で出します。しかし、ノモンハン事件での自分や辻の役割に一切触れないなど、典型的な責任逃れの本なんです。「歴史を舐めるな」と言ってやりたいですよ。
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本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています( 大座談会 昭和陸軍に見る日本型エリート )。全文では、下記の6つのテーマについて議論しています。
(1)東條英機|トップに立ってはいけない根に持つタイプ
(2)永田鉄山と石原莞爾|突出した才能は組織では生き残れない
(3)山下奉文と武藤章|人事に翻弄された「亜流」の名コンビ
(4)今村、本間、栗林|旧制中学出身の非主流派は戦場で活躍する
(5)牟田口、服部、辻|威勢のよい行動派は自分本位なだけ
(6)陸軍の“失敗の本質”は人事にあり
(保阪 正康,川田 稔,山下 裕貴,新浪 剛史,楠木 建/文藝春秋 2023年12月号)
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マルクス主義・共産主義は、明治後期から旧制高校や帝国大学など最高学府に浸透して反天皇反民族反日的エリートを養成していた。
レーニンは、日中戦争が日米戦争をプロデュースし、日本を戦争に追い込みように中国共産党・アメリカ共産党・日本共産党に指示した。
日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた
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GHQとアメリカ・キリスト教会は、日本人敗戦利得者(右のエセ保守と左のリベラル左派)の協力を得て、天皇制度を廃絶し天皇家・皇族を消滅させる為に政治・教育・メディアなど社会全般から正統派保守エリートを公職から追放し、エセ保守とリベラル左派を新たなエリートとして権力と権威を与えた。
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世界のエリートは、戦争を始めると自国の勝利の為に自国民を守らない。
その傾向は、西欧キリスト教価値観を持たない中国やロシアなどで特に強い。
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2024-08-14
💖目次)─8─近代天皇・A級戦犯・靖国神社による歴史的人道貢献。~No.1 *
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5月19日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済ONLINE「政治・経済ウクライナ侵攻、危機の本質
戦争を始めた世界のエリートは自国民を守らない
ミアシャイマー『大国政治の悲劇』が示す国家の自己保存
的場 昭弘 : 神奈川大学 名誉教授
2024年5月、ウクライナのハルキウで、ロシア軍のミサイルが住宅に被害を与えた(写真・Svet Jacqueline/ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ)
2024年5月9日、第2次世界大戦勝利を祝う式典が終わった後、ロシアはハルキウ(ハリコフ)への総攻撃を開始した。ウクライナ戦争は、今新しい局面を迎えたともいえる。
これまでの戦場は、ドンバス地域からザポロジエ(ザポリージャ)地域に限定されていた。いわば2014年のミンスク合意をめぐるドンバス、ルガンスク地域の攻防線として展開されていたともいえる。
新局面を迎えたウクライナ戦争
2022年3月末にトルコで合意寸前までいった停戦の前提は、ロシアにとってドンバス地域の独立とウクライナの中立が主たるテーマであった。ウクライナにとってはNATO(北大西洋条約機構)加盟とドンバス地域の維持がテーマであった。
そのころ展開されたキーウ(キエフ)、ハルキウ近辺へのロシアの当初の攻撃は、ドンバスとザポロジエの兵力の集中を避けるための陽動作戦であった。しかし、今回の攻撃はハルキウ占領を視野にいれた攻撃である。
その目的は、ロシアの戦争の目的は、もはやドンバスやザポロジエ地域の維持ではなく、ウクライナ全土をせん滅することに変わったのだともいえる。
今後、キーウやオデーサへのロシア軍の侵攻は避けられないであろう。その目的は、もはやロシア人居住区の保護ではなく、NATOの勢力圏を完全にウクライナの外に押し出すことにある。その意味で、ウクライナ戦争は新しい局面を迎えたのである。
いまやこの戦争は、NATOとロシアとの勢力圏をめぐる直接対決になったということであり、第3次世界大戦の可能性がさらに強まったことを意味する。人類にとっては悲劇というしかない。
ロシアの猛攻に対しもしNATOが本格的に介入すれば、世界大戦は避けられない。そうならないことを祈るが、ウクライナ政権がロシアとの停戦協定に進まない限り、ウクライナでの戦争が終わることはない。これも悲劇だ。
ゼレンスキーは国民を犠牲にしてウクライナ消滅を待つのか、それともNATOを巻き込んで世界大戦へ突き進むのか。世界はこの戦況を不安をもって注目せざるをえない。
国家の自己保存権
ロシアとNATOとの対決は、非西欧と西欧との対決でもある。ではなぜこうした対決が戦争へと至るのか。これまで膨大な学者たちがその解明を行ってきたが、これといった原因究明ができたわけではない。
経済的利益、領土問題、資源問題、支配欲、攻撃性向といった理由をいくらあげても、これといった戦争にいたる決定的原因がつかめたわけではない。
本来人間は理性的で、合理的であり、世界がそれを理解すれば戦争はないという国際均衡論の発想でも、戦争が防げるわけではない。社会主義国は利益の相反がないがゆえに戦争がないという議論や、民主主義国同士は戦争しないという議論も、これまで何度となく戦争によって破られており、今では説得力を失っている。まさに不条理に、突然戦争へと進むこともあるからだ。
こうした議論の中で、きわめて現実主義的であり、なおかつゲーム理論的な戦争論が出てきてもおかしくはない。ジョン・J・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』(奥山真司訳、五月書房、2007年、新装完全版は2019年)は、まさにそうした戦争の原因を追究した、興味深い書物だといえる。
本書には国家は生存願望をもち、そのためならなんでも行うという前提がある。スピノザの時代、17世紀に盛んに議論されていた自己保存権(コナトゥス)を国家に当てはめ、そこから問題を展開するのだ。
そこでは、国家は単体の意思決定をもつ人間個人と同じものとされる。国家を構成するのは国民であるといった問題は、最初から念頭にない、国家の存続という世界が前提される。
自己保存権という考えは、最小限の単位としての個人を設定し、すべての人間は自己を保存する権利を、最初から神によって与件されているのだと考える思想である。だから、人間は自己を守るために集団を形成し、国家をつくり、ひたすら自己の保存を図る戦略をとる。
こうして、国家の成立は、自己保存権を前提として説明されたのである。自己保存のために、個人の上に立つ巨大な権力である国家が人々に承認されたのだ。
「攻撃的現実主義」
この自己保存権を、個人ではなく、国家そのものに適用したところに、ミアシャイマーの議論のユニークさがある。世界を構成する意思をもった最小単位が国家であり、その国家が存在することが当然の権利としてあれば、国家は自らの生存を求めて、戦略を立てる。
国家の自己保存本能を、ミアシャイマーは「攻撃的現実主義」という言葉で表現している。国家が最も安全に保てる方法は、その国家の周りにある地域の覇権を獲得することである。
しかしそれは国家の規模や世界の情勢に左右されているので、覇権国家であることは必然ではない。時に、弱い国家は同盟を結び、覇権国家の衛星国になるなど、なんとか生き延びる術を考える。
時と状況によって、国家は生き延びる戦法を変えるわけである。米ソ冷戦時代のように二極対立構造の場合、2つの覇権国家ががっぷり四つに組むことで比較的安定を生み出し、米ソは直接戦うことはないし、その衛星国も同盟の中で戦争も起こらない。
あえて戦争があるとすれば、対立の最前線に立つ、弱小国家の代理戦争という名の地域戦争である。だから皮肉なことだが、核戦争の危機をはらんでいた冷戦時代は、二極に覇権国家が対立していたことで、きわめて安定した平和な時代であったということになる。
しかし問題は、冷戦が終わった多極化の時代である。当初は、アメリカ1国の覇権主義が存在し、世界はグローバル化の中で、統一した価値観と国際基準で支配される時代であるかのように見えた。
ところが21世紀になって、アメリカの力は政治、経済、軍事において相対的に低下し、今や多極化時代を迎えている。そして中心を失った世界は不安定な多極化へと進んでいるのである。
多極化時代の危険さ
この多極化時代が、もっとも危険な時代といえる。ミアシャイマーは18世紀以来の世界の戦争史を分析しながら、多極化時代について分析している。国家は多極化時代を生き延びるために、地域の覇権を獲得しようとあらゆる手段をとるからである。
そこで用いられている手段は意味深長である。バック・パッシング(責任転嫁)という手段である。これは、覇権を狙う国家同士が直接対決することを避ける方法で、覇権を狙う国家に対しその近傍の国をそそのかし、代わって戦うようにさせる方法だ。
いわゆる代理戦争である。ウクライナやイスラエルの戦争は、まさにそのバック・パッシングともいえるものだ。
とりわけバック・パッシングを行うことで、相手国を戦争という名の消耗戦に誘い込み、長期化させることで、覇権を狙う国の経済力、軍事力、政治力などを衰退さえ、覇権への願望をくじくことである。そのために、戦争以外の経済制裁などあらゆる手段が使われる。
しかし問題は、今回のウクライナ戦争のように、逆にそそのかされた国を覇権を望む国家が圧倒的兵力で打ち負かしてしまえば、そそのかした国でさえも逆に覇権を失ってしまう可能性があるということである。
これは、諸刃の剣であるということだ。ヤブ蛇という言葉もあるが、まさにヤブをつついて、危険な蛇に襲われる結果となるのだ。
ミアシャイマーは、ウクライナ戦争が起こったころからユーチューブといったネットメディアにさかんに登場してきたが、けっしてマスメディアで評価されることはなかった。
おそらく、それは彼のバック・パッシングといった議論が持つヤブ蛇効果の部分を指摘し、アメリカの好戦的な政府や大手メディアの意向を逆なでしたからであろう。
彼はこう語っている。
「多極構造が持つ究極の問題は、国家の誤算が発生しやすい点にある。多極構造は「ライバル国家の決意の強さ」や「相手側の同盟の強さ」などを国家に過少評価させてしまうことが多いからだ。このシステムの中の国家は、自国が敵に意思を強要するだけの軍事力を持っているとか、それが失敗したとしてもとりあえず戦闘で勝つことができると勘違いしてしまいがちなのだ。戦争は、ある国家が違う意見をもつ相手側の固い決意を過小評価した時に発生しやすい。国家がこのような勘違いをしたまま自分の意見を相手におしつけすぎ、そろそろ相手が降参するだろうと思ったときにはすでに不可避になっている、ということだ」(440ページ)
ウクライナ戦争が始まって2年が過ぎ、弱いと思ったロシア、そしてその背後にいるアジア、アフリカ諸国の同盟が意外に強いことにアメリカも気づいたはずだ。なぜアメリカは、このことにもっと早く気づかなかったのか。
そして実は今でも、それに気づいていないふしがある。それは長い間君臨してきた覇権国家が陥る慢心でもある。世界は21世紀になって大きく変わってしまったのである。
そして国家を構成する国民にとって不幸なことに、いずれの戦争においても、一度戦争を始めてしまえば始めた側の国家のエリートたちは国民が何人殺されようと停戦へと動きだすことはないということである。
国家は自己保存のために、国民という生き血を絞り出し、わが身を守るということなのである。この不幸な戦争がこのまま続くのだとすれば、これほど絶望的なことはない。
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的場 昭弘 神奈川大学 名誉教授
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8月15日 MicrosoftStartニュース 文春オンライン「《インパール作戦の裏で》兵士も民間人も軍需物資も捨て、司令官が慰安婦を連れて敵前逃亡…将校に「日本は負ける」と悲嘆させた“乱行ぶり”とは
石動 竜仁 によるストーリー
前編では「史上最悪の作戦」を主導した牟田口廉也中将の第15軍司令部が遊興に使った料亭と、そのお膝元メイミョウの異質な雰囲気について触れた。では、その上級部隊であるビルマ方面軍とそのお膝元であるラングーンはどうだったのか。
メイミョウと同じようにラングーンにも料亭が著名な料亭が存在した。それが翠香園だ。もとは第18師団のお膝元である久留米にあった料理屋で、杉山元元帥陸軍大将と懇意であったことが伝わっている。ラングーンにおけるその偉容、繁盛ぶりを読売新聞の若林正夫記者は次のように伝えている。
牟田口廉也中将 ©文藝春秋
© 文春オンライン
〈それはともかくとして、ラングーン一流のクラブをいただいて、そこに陣取ったこの一隊は総勢百五十名になんなんとする大部隊で、芸妓、雛妓はもとより女中、下働き、料理番。これまではわかるがあとが凄い。髪結いさんに三味線屋、鳴物屋、仕立屋に洗張屋にお医者さんまで、これが婦人科兼泌尿器科医であることはもちろんのことだ。それに青畳、座布団、屏風、障子、会席膳一式まで海路はるばる監視哨つきの御用船で、つつがなくラングーンにご到着となった。(中略)
灯よもしごろともなれば、青、赤、黄の小旗のついたトヨダさんが門前に並んで、椰子の樹蔭から粋な音じめがもれて来るという始末で、チークの床に青畳を敷きつめた宴会場では明石か絽縮緬の単衣かなにかをお召しになった久留米芸妓のお座付からはじまってあとは、例によって例の放歌乱舞が日毎夜毎の盛宴に明け暮れていた。
S奴姐さんはX参謀、M丸さんはY隊という具合で、僕ら軍属や、民間人はとても姐さん方に拝謁を得るのは難事中の難事だった。
出展:若林正夫「ラングーンに傲るもの」『秘録大東亜戦史(ビルマ篇)』富士書苑〉
「軍需品を、少し横流しすれば悠々と一ヶ月遊べたのに」
ここまで豪華な料亭を外地で経営する以上、それにかかる経費は莫大で利用客である軍人が支払う料金も相当なはずだ。
同じ疑問を戦後口にしたのがビルマ方面軍の後方参謀だった後勝(うしろまさる)だ。彼は同席者から聞かされた話に唖然とする。
〈戦後ある会合で、「戦時中に私は、部付将校を連れて偕行社に行き、月に一度か二度すき焼きを食べたら、月給は空っぽに使い果たしたのに、値段の高い翠香園が、連日繁昌していたのは理解できなかった」と言ったところ、「ガソリンやその他の軍需品を、少し横流しすれば悠々と一ヶ月遊べたのに、方面軍の後方主任がそんなことを知らないようでは、戦さに負けるのも無理はない」と笑われて、まったく二の句がつげなかった。
出典:後勝『ビルマ戦記』潮書房光人新社〉
メイミョウの清明荘と同じく、料亭遊びの原資は元を辿れば公金、それも横領した物資の横流しであった。この後勝はビルマ方面軍司令部による翠香園への贔屓に度々悩まされており、更には軍事行動まで邪魔されている。
繁盛したラングーンの翠香園も終わりを迎える。1945年4月にはラングーン近郊にイギリス軍部隊が迫ったからだ。恐慌状態に陥った木村兵太郎ビルマ方面軍司令官は、方面軍より上位の南方軍に無断でラングーンから空路脱出する。方面軍司令部ごとの敵前逃亡だった。
この方面軍司令部の逃亡は、後勝にとっても寝耳に水だった。後はラングーンからモールメンへの軍需物資の輸送船を手配していたが、物資がラングーンに置き去りにされた事を後に知る。
その理由を聞いたところ、緊急軍需品を港に集め、いよいよ舟に積み込もうとしたとき、作戦課長命で舟を全部取り揚げられ、軍需品は放置したまま、方面軍司令部はモールメンへ撤退することになったというのである。
〈それでは、後方で集めた舟は何に使ったかと聞けば、作戦課長直轄の特殊部隊を乗せて撤退したという返事で、私がカレニン山系の山越えのとき、恥ずかしい思いで聞いた風聞の通りであった。
出典: 後勝『ビルマ戦記』潮書房光人新社〉
「芸者や将校慰安所の女たちは、なじみの将校が看護婦にしたてて船にのせて逃がした」
「作戦課長直轄の特殊部隊」と聞いても意味が分からないだろう。後はボカして書いているが、1953年に出版された初版ではハッキリと書かれている。
〈幾千の邦人は急に小銃を持たされてラングーンに残留され、また六百屯の緊急軍需品は一物も運び出すことなく、準備した舟艇には、偕行社に働いていた数十名の女子軍属、翠香園その他にいた百名近い慰安婦、偕行社の雑品等を乗せて、モールメンに遁走してしまつたではないか。
出典:後勝『ビルマ戦記』日本出版協同(初版)〉
物資よりも慰安婦の輸送が優先されたのだ。戦闘に関係ない婦女子を優先して退避させたと弁護することも可能かもしれない。しかし、逃れる事のできた婦女子には明確に序列があった。「芸者や将校慰安所の女たちは、なじみの将校が看護婦にしたてて船にのせて逃がした」と読売新聞の斎藤申二記者は書いている(『秘録大東亜戦史 第3 改訂縮刷決定版』富士書苑)。
兵や下士官向けの慰安所にいた慰安婦たちは置き去りにされていたのだ。司令部に近しい慰安婦を軍需品より優先して逃がしたとなれば、ビルマ方面軍は戦争よりも愛人を優先したと言われても仕方あるまい。
上記の引用からも分かるように、後勝の『ビルマ戦記』は初版と新版で内容が異なっている。1953年に出版された初版では戦争から時間が経ってないせいか怒りも大きかったのか、特に物資輸送の件で告発的内容になっているのに対し、新版では記述がボカされている。軍時代からの人間関係など、様々な事情がそうさせたと思われるが、これに対して告発の価値が薄れたとする批判も存在した。
しかし、後はただでは転ばないタイプの人間だったようだ。初版では具体的な醜聞が描かれているのに対し、後の版では醜聞はボカされているが責任者について記述してある。両者を合わせて読むと全体像がわかる構造になっている。後の怒りは相当のものだったようだ。
方面軍司令部が逃げ出した後、ラングーンに置き去りにされた軍人の中に、更なる方面軍の恥部を目撃した人物がいる。ラングーンの高射砲部隊にいた小宮徳次少尉は、方面軍司令部が逃げ出した後、戦闘用物資調達のために貨物廠に出向いたところ、最高級品の日本酒やビルマで最も良質とされた英国煙草のマスコットが山積みにされていたのを目撃している。
この少し前、ラングーンの兵士に恩賜の煙草が大量に支給されていた。煙草としての価値はマスコットに遥かに劣るが、それでもこれまでほとんど支給されなかったのに突然の大盤振る舞いに兵士は訝しんだが、後に方面軍司令部が逃げ出したことを知って事情を察した。
菊の御紋が入った恩賜の煙草を投棄するわけにいかないため、ラングーン脱出にあたり貨物廠の在庫を置き去りにした部隊に放出した。多くの兵士達はそう察した。しかし、より価値の高いマスコットや日本酒は隠したままであった。この行為に対し、残留部隊はかえって不信感を軍首脳に抱くようになったと小宮少尉は書き残している(小宮徳次『ビルマ戦 : 戦争と人間の記録 前篇』現代史出版会)。
「これでは日本は負ける。兵隊は死ぬことができぬ」
前後編と通じて、ビルマ方面軍の料亭・慰安婦を巡る醜聞について記述した。牟田口中将の遊興話はよく知られているが、その上級部隊であるビルマ方面軍も相当の腐敗が蔓延っていたとみられる。だが、数々の腐敗は多かれ少なかれ、日本軍の他の部隊にも存在している。なぜビルマ方面軍麾下の部隊に限って、これほど不正が後世に伝わっているのか。
インパール作戦中止後、他の戦線からビルマに回された部隊が多数ある。その一つ、野戦重砲兵第5連隊の下級将校の証言が伝わっている。
〈昭和十九年(引用者注:1944年)十月、野重五連隊がタンビザヤのゴム林に舎営していたとき、第二大隊本部の通信係将校・氏家官少尉(熊本県出身)が、業務連絡のためメイミョーの第十五軍司令部に出張した。出張から帰ってきた彼は、その目で見てきた司令部上級将校の夜の乱行ぶりを語り、「これでは日本は負ける。兵隊は死ぬことができぬ」と嘆き憤っていた。下士官出身であった氏家少尉は、イラワジの戦線で戦死した。私はあのときの氏家少尉の、涙をうかべた憤りと悲しみの眼を思い出す。
出展:浜田芳久『ビルマ敗戦記』図書出版社〉
前編での辻参謀と同じく、外部からやってきた軍人にとって、ビルマでの乱行ぶりは目に余ったようだ。下級将校に「日本は負ける」とまで言わせた司令部の乱行ぶり。一体、彼は何を見たのだろうか。
(石動 竜仁)
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8月15日 MicrosoftStartニュース 産経新聞「「死ぬばかりが国のためではない」不条理と絶望が支配するインパール 支えた上官の言葉 記憶をつむぐー戦後79~80年㊤
インパール作戦から生還した佐藤哲雄さん。過酷な戦場で上官の言葉が支えになった=新潟県(池田祥子撮影)
© 産経新聞
先の大戦中、日本軍の最も無謀な戦いの一つといわれるのがインパール作戦だ。補給もままならない中、日本兵の遺体が折り重なった敗走路は「白骨街道」と呼ばれた。インパール作戦を始め、ビルマ(現ミャンマー)、インドでは計16万7千人もの日本軍将兵が命を落とした。
「死ぬばかりが国のためではない。必ず生きて帰って国のために働け」
激しい戦闘でインド、ビルマの深い密林を退却する道中、陸軍第31師団歩兵第58連隊の伍長、佐藤哲雄の脳裏には、駆け出し時代に連隊長代理だった副官が訓示で述べた言葉がこだましていた。
入営間もない21歳の新兵に、上官の真意は理解できなかった。
「死ねば靖国神社に祭られる。名誉なことだし、当時は死ぬことを何とも思わなかったな」
だが、戦地で手負いとなり、マラリアの高熱にうなされ、何度も死の淵に立たされる中で、支えとなったのはこの言葉だった。間もなく105歳。故郷の新潟で静かに暮らす今も、その重みをかみしめる。
陸軍時代の佐藤哲雄さん(本人提供)
© 産経新聞
食料も弾も補給なく
中国大陸を転戦した58連隊は昭和18年8月、ビルマに到着。翌19年1月、3個師団を繰り出すインパール作戦が発令され、同連隊を含む31師団は要衝・コヒマを攻略するよう命じられた。
米や乾パンなどの食料を1週間分持ち、3月8日にチンドウィン川の渡河を開始。幅数百メートルもあり、濁った水が渦巻いて流れていた。その先は険しい稜線(りょうせん)が続く山岳地帯。当初から弾薬や食料の補給が困難だと反対の声が多く、食料として分隊ごとに牛やヒツジ、ヤギなどが分配された。
「死ぬばかりが国のためではない」不条理と絶望が支配するインパール 支えた上官の言葉 記憶をつむぐー戦後79~80年㊤
© 産経新聞
漆黒の闇の中、兵士と動物を乗せたいかだが大河を行く。だが川幅の半分も行かないうちに牛が暴れ出し、動物はすべて流れに手放した。
猛進した31師団はコヒマを占領したが、取り巻く敵は強固だった。「食料は続かね。弾も来ねろ。しかも敵の戦車は弾をはね返すんだ」。英軍の兵器は比べ物にならないほど強力だった。
過酷な戦場で、士官学校を卒業したばかりの若き指揮官らが次々と倒れる。味方の損害が増えても、居並ぶ敵戦車や兵を機関銃で撃てとの命令が出た。「敵は形成不利だとすぐに撤退したが、日本軍は違う。決死隊を募り、多くが死んだ」
敗走路は「白骨街道」
31師団長による撤退命令が出たのは19年5月末だった。師団長の「抗命」で救われた一方、残る2個師団の負担が大きくなったとの指摘もある。
師団長は直接話をできるような階層ではなかったが、気遣いの人だった。自ら前線に赴き、「自分が車や馬に乗れば移動が速くなり、兵たちが疲れる」と言って兵士と撤退路を歩いた。直に声をかけられたこともあり、尊敬の念を抱いた。
撤退路の両脇には、栄養失調や病に倒れた兵士らの白骨が連なった。敵だけでなくハゲタカも兵士を狙った。「ふらふらの兵隊に大きな羽を広げてぶつかり、倒れると一斉に食らいつくんだ」。トラやヒョウに襲われる兵士もいた。
ただ人的損害の多寡は上官の采配によるところが大きかった。「兵士は(召集令状の)切手代でなんぼでも集まる」と言い放った上官もいた。
故郷で家族と
不条理で絶望的な戦場では、生きることを説いた上官だけでなく、軍隊生活で生き抜く術を教えてくれた同郷の先輩、師団長、現地住民ら多くの人に助けられた。
戦前、農閑期の出稼ぎで得た溶接などの技術を糧に戦後を生きてきた。2年に1度は靖国神社を参拝していたが、仲間もいなくなった。山形県境近くの故郷で家族に囲まれ、「じいちゃん」と呼ばれる穏やかな日々を過ごす。
「今は言うことはね。家族といられることは幸せだぞ」。元兵士が紡いだ命は、子供5人、孫13人、ひ孫12人、玄孫(やしゃご)2人に引き継がれている。(肩書は当時、敬称略)(池田祥子)
インパール作戦 第二次世界大戦時、連合軍の補給路遮断のため、英軍の反攻拠点のインド・インパール占領を目的に、日本軍が昭和19年3月8日に始めた作戦。太平洋戦線などで劣勢に立たされる中、窮余の一策という政治的側面もあった。陸軍第31師団(烈兵団)、15師団(祭兵団)、33師団(弓兵団)の計10万人を投入。全軍壊滅状態に陥り、司令部は作戦続行に固執したが、31師団の佐藤幸徳(こうとく)師団長の独断退却を契機に同年7月、作戦を中止した。戦闘のほか、飢えやマラリア、赤痢で死者は3万人、戦傷病者は4万人に上り、無謀な作戦の代名詞とされる。
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戦後79年。先の大戦で主力だった明治・大正世代は総人口の0・3%となった。あの時代、戦場を知る人たちの言葉を紡ぎ、今の私たちを見つめ直したい。
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8月16日19:18 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞「失敗は「恥」…現場の意見顧みず盲進した日本軍 現代に通じる教訓
防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室の松原治吉郎主任研究官=8月6日、東京都新宿区(池田祥子撮影)
「『この方針は無理だ』との思いを共有し、皆がやめたいと思っていても、言い出せない。今の時代、私たちにも思い当たることはありませんか」。防衛省防衛研究所の松原治吉郎主任研究官はこう問題提起する。
【時系列で見る】敗戦への道を突き進む日本
「失敗から学ぶべきことは多いが、日本軍は失敗を『恥』ととらえて隠蔽した。国家の存亡がかかるとき、どこかで原因を考える必要があった」
米海兵隊は「失敗したら修正する」をモットーにしている。プランAがだめなら、Bで行くという柔軟性を示している。
日本軍の場合、いったん決めたことは修正や変更がきかず、抜き差しならない事態まで突き進む傾向が強かった。「戦略面でまとまった方向を示す人がおらず、結局は『玉虫色』で決着した。上層部の現場軽視から、思い付きともとれる作戦も発動された」
意見する人が皆無だったわけではない。ガダルカナル島の戦いでは、十分な補給がない中での作戦発動は控えるべきだと陸軍第17軍参謀長が進言。無謀な作戦の代名詞とされるインパール作戦でも第15軍参謀長らが中止を求めたが、いずれも顧みられなかった。
「組織からみれば(意見する人は)ルールを守らない人。『やる気がない』とみられ、『空気が読めない』存在として左遷された」
貴重な人材を有効活用していたとも言い難い。松原氏は航空機の搭乗員養成を例に「野球でいえば日本は4番バッターやエース級に頼り切り、裾野が広がらない欠点があった。一方、米軍は合格点に達すればよいと考え、平均的な搭乗員を量産した」と指摘する。
「日本軍の問題点は、今のわれわれが抱える問題と通底している」。松原氏は「過去にふたをするのではなく、現代に生かす。今に照らし合わせて客観的に検証することが必要だ」と話した。(池田祥子)
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