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日本は日中友好を続けるにあたって、習近平国家主席に「公の場」で深圳日本人学校男児惨殺事件に対する謝罪発言を求めるべき。
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2024年10月10日 YAHOO!JAPANニュース 日テレNEWS NNN「【速報】日中首脳会談で石破首相、中国軍機の領空侵犯に「深刻な懸念」伝える
石破首相は、訪問中のラオスで中国の李強首相と首脳会談を行いました。両首脳は、引き続き戦略的互恵関係を推進することを確認しました。
▼石破首相が「外交デビュー」 韓国・尹錫悦大統領と会談
会談では、両国間の懸案についても意見交換を行いました。石破首相は、中国軍機の領空侵犯について「深刻な懸念」を伝えました。また、中国の深センで日本人男児が刺殺された事件で、事実解明と説明を求めました。その上で、中国に住む日本人の不安が急速に高まっているとして、安心・安全の確保を求めました。
石破総理はさらに、日本産水産物の輸入再開の早期実現を求めました。
また、石破首相は、日中国交正常化を実現した田中角栄元首相の発言を紹介したということです。石破首相は、田中角栄元首相について、「私の政治の師であり政界入りを後押しした」とした上で、田中氏の発言として「日中両国の指導者が明日のために話し合う事が大事だ」との発言を紹介したということです。
中国との関係悪化が進む中、石破首相としては首脳会談を対中外交の改善につなげていきたい考えです。石破首相は、来月に行われる国際会議の場を利用して、中国の習近平国家主席との首脳会談も模索していて、今回の会談を実現にむけた環境整備としたい狙いです。
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10月10日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「いま中国で広がる「日本人憎悪」と「治安悪化」の原因が判明…!さらに日本人が直面する低迷中国「新たな懸念」
藤 和彦(経済産業研究所コンサルティングフェロー)
治安悪化と日本への憎悪のヤバすぎる関係
中国の地方政府の弱体ぶりが鮮明になっている。治安当局の予算が減少しており、それと連動するように日本への否定的な見方も広がっている。在留邦人の警戒感は高まる一方だが、その根源的な理由は中国経済の低迷に求めるしかない。
前編『習近平、もう手遅れだ…中国19億人の“ケチケチ旅行”が映し出したデフレ経済「悪夢の真相」』で紹介したとおり、国慶節の大型連休(10月1日~7日)で中国国内では19億人が移動し、コロナ禍以前以来の活況だった。
国慶節の大型連休では節約旅行が目立った…Photo/gettyimages
© 現代ビジネス
ただし、国内線の航空運賃やホテルの宿泊価格は、2割以上下落しており不況の影も色濃く映し出した。
中国経済は30年前の日本が陥ったように、消費不況に見舞われている。
中国の国内総生産(GDP)に占める個人消費の比率は40%未満で、世界平均を約20ポイントも下回る。日本がGDPに占める個人消費の比率を10ポイント上げるのに17年もかかった(9月30日付ロイター)ように、中国と世界の大きな個人消費の差は簡単には埋められない。
日本人への「憎悪」と「治安悪化」の関係
消費主導の経済に転換するためには、脆弱な社会保障制度の拡充などが不可欠だ。米モルガンスタンレーは「7兆元(約147兆円)を農民工などへの社会福祉を拡充するとともに、不動産市場の安定化のために3兆元の資金を投ずるべきだ」と主張しているが、10兆元(約210兆円)もの資金投入は、いまの中国にとって容易ではない。
財政赤字が急拡大すれば、ハードカレンシー(国際市場で他国通貨と自由に交換ができる通貨)である日本円とは異なり、人民元の価値は大きく毀損する可能性がある。
そうなれば、資金流出が加速し、中国経済は深刻なカネ不足になってしまうだろう。
根詰まりをおこした経済は、深刻な治安悪化を引き起こそうとしている。清華大学が9月30日に発表した世論調査によれば、中国人の81%が日本に対して否定的な見解を持っている。この比率は調査対象国の中で第1位だ。
深刻な不況が仇となり、中国で「社会に報復してやる」との負の感情がかつてなく高まっている。このような状況下で、治安対策がおざなりとなれば、「中国で活動する日本人の安全はもはや保障できなくなってしまうのではないか」との不安が頭をよぎる。
実際、治安維持を担う地方政府の弱体ぶりは深刻だ。
地方政府が借金した「驚きの相手」
地方政府の弱体化は、歳入の4割を占める土地使用権売却収入が激減したのが主な要因だ。8月は前年比41.8%減となり、2ヵ月連続で大幅な落ち込みとなっている。
窮地に立たされた地方政府は寺院からも借金しているようだ。「上海市は管内の寺院から100億元(約2100億円)の短期資金を借りた」との情報がネット上で流れている(9月30日付朝鮮日報)。
地方政府は猛烈なリストラを断行しており、治安維持の経費も大幅にカットしている。注目すべきは、「制服を着た暴力団」と呼ばれる「城管(城市管理行政執法局)」の廃止が各地で進んでいることだ。
地方政府の弱体ぶりを表す例は「治安悪化」にとどまらない Photo/gettyimages
© 現代ビジネス
彼らの暴力におびえてきた市民にとっては朗報だが、「コワモテ」の不在が引き金となり、治安の悪化がさらに深刻化する可能性は排除できないと思う。
しかし、深刻なのはそれだけではない。地方政府の機能低下は感染症対策の不備にも直結しかねない。
ふたたび警戒される「感染拡大」
中国では昨年末から今年にかけてマイコプラズマ肺炎が大流行した。9月以降、広東省を中心にデング熱の感染者が急増している。
最近の事例は報告されていないが、鳥インフルエンザ(H5N1型など)のヒトへの感染が最も多い国の1つは中国だ。
中国経済の再興はいつの日になるだろうか…Photo/gettyimages
© 現代ビジネス
世界に悪名をとどろかせた「ゼロコロナ政策」を担ってきたのは地方政府だった。
大量のPCR検査を連日実施するなど新型コロナの蔓延を未然に防いできた。だが、金庫にカネがなくなってしまった今、鉄壁の感染症対策を期待するのは無理だ。
中国で新たなパンデミックが起きたら、日本を始め国際社会が受ける被害は新型コロナの規模をはるかに上回ってしまうのではないだろうか。
中国の地方政府の弱体化が日本に悪影響を及ぼさないことを祈るばかりだ。
さらに連載記事『中国EVの「弱点」が発覚して販売台数が激減…!国民の不満を映す「中国版お年玉」の寒すぎる事情』でも、中国経済の現状を詳しく解説しているのでぜひ、参考としてほしい。
関連するビデオ: 中国で殺傷事件相次ぐ 経済悪化による社会不安が背景か (日テレNEWS NNN)
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10月10日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「深圳に続き広州でも…中国で相次ぐ刺殺事件 犯人は「外来者」か?
10月9日、中国でまたも無差別殺人事件が起きた。場所は広東省広州市で、刃物を持った男(60)が通行人3人を襲い、負傷させた。事件は小学校の校門前で発生し、負傷者のうち2人は小学生だったという。
中国メディア『財新網』によると、逮捕された男は以前も殺人未遂を起こし、実刑判決を受け、刑務所に入った経歴があったことがわかった。
男の詳しい素性はまだ明らかになっていないが、中国では、23年7月に広東省で刃物を持った男が幼稚園を襲撃した事件、今年5月に雲南省の病院が襲撃された事件、6月に吉林省で米国人教員が襲撃された事件、同じく6月に蘇州市で日本人母子が襲撃された事件、そして、9月には深圳市で日本人男児が刺殺された事件などが発生している。
そのうち、蘇州の事件の犯人は、他の都市から蘇州にやってきた「外来者」だったことがわかっている。
中国での「外来者」の存在
他の事件の犯人の詳細はわからないが、今回、広州の小学校前で起きた事件について、中国のSNSを見てみると「広州は外来者が多いからな……」というコメントがいくつかあることに気づいた。
日本人男児が殺害された事件も、広州に隣接する深圳市で起きており、深圳はとくに「外来者」が多いことが昔から知られている。「外来者」とは、もともと深圳生まれではなく、仕事などのため、他の場所からやってきた人々のことを指す。
では、中国の都市で「外来者」とは何を意味するのだろうか。
中国には「農村戸籍」と「都市戸籍」という2つの戸籍があり、蘇州市、深圳市などの都市で働く場合は、その都市の「受け入れ先」がなければならない。雇用側がその人を一時的に都市の「団体戸籍」(都市戸籍のひとつ)に入れ、そこに入ることによって、「準市民」のような扱いとなり、医療や社会保障などを受けられる仕組みになっている。
だが、それはもともと都市生まれ、都市育ちの人が受けられるものとは少し異なり、場合によっては差別的な待遇となることがある。出稼ぎ労働者の中には、そうした「団体戸籍」に入ることさえできず、日雇い労働者向けの安い宿で生活する場合もあり、病院にかかることもできない。
近年では、「外来者」の中にホワイトカラーの会社員も増えてきているため、戸籍制度は徐々に変わってきているが、言葉使いや外見などで「外来者」とわかるため、差別を受けることもあり、疎外感や孤独、無力感、都市出身者への妬みなどを感じる人も少なくない。
今回の刺殺事件や、9月に深圳で起きた事件の犯人の経歴や動機は明らかになっていないが、日本人の「地方出身」というのとはまったく異なる中国独特の「外来者」の存在は、経済が悪化し、失業率が高くなっている今、中国社会の不安要素のひとつになっているといえる。
中島恵
ジャーナリスト
なかじま・けい ジャーナリスト。著書は最新刊から順に「日本のなかの中国」「中国人が日本を買う理由」「いま中国人は中国をこう見る」(日経プレミア)、「中国人のお金の使い道」(PHP新書)、「中国人は見ている。」「日本の『中国人』社会」「なぜ中国人は財布を持たないのか」「中国人の誤解 日本人の誤解」「中国人エリートは日本人をこう見る」(以上、日経プレミア)、「なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?」「中国人エリートは日本をめざす」(以上、中央公論新社)、「『爆買い』後、彼らはどこに向かうのか」「中国人富裕層はなぜ『日本の老舗』が好きなのか」(以上、プレジデント社)など多数。主に中国を取材。
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10月10日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「モンゴル出身者が感動した親日派中国教師の教え 先生が歴史の教科書を「これは全部ウソ」と否定
モンゴルで生まれ、日本に帰化した著者が、文化大革命前後の中国で目の当たりにしたカルチャーショックを赤裸々に綴る(写真:barks/PIXTA)
世界の目から見ると、日本と中国は同じ文化と思われがちだ。しかし歴史をつぶさに見れば、両者のあいだには大きな隔たりがある。モンゴルで生まれて中国で学び、日本に帰化した著者が、文化大革命前後の中国で目の当たりにしたカルチャーショックを赤裸々に綴る。
※本稿は、楊海英氏著『中国を見破る』を一部抜粋・編集したものです。
■「日本人のように正直に、公平に、規律正しく」
私の名を初めて目にされる方は、「楊海英とは何者か?」と思われることだろう。
そこで、私がこれまで見聞きしてきたモンゴル人と中国人の対日感情を、年代を追って紹介することで、私・楊海英(モンゴル名はオーノス・チョクトで、日本名は大野旭)についても知ってもらえればと思う。私の人生を振り返ると、モンゴル、中国、日本の関係性が見えてくる。そう考えるからだ。
まず私が生まれ育った土地は今、内モンゴル自治区と呼ばれている。かつて蒙疆(もうきよう)やモンゴル自治邦と呼ばれた時代は、実質的には帝国日本の支配下にあった。
ただ、日本に虐げられているという感覚はなかった。というのも、モンゴル軍の騎馬兵だった父は、幼い私に「日本人のように正直に、公平に、規律正しく生きなければならない」とよく話してくれたからだ。
私は1964年生まれだが、2年後にあの悪名高き文化大革命がはじまった。中国全土を混乱に陥れたことでのちに「災難」とまで評されるこの文革は10年も続いたのだが、私が12歳のときにようやく終わった。中国と無関係なはずのモンゴル人も故郷が中国に占拠されたがゆえに、大量虐殺の対象とされた時代である。
高校生になった私が、日本語の勉強をはじめると、家族は皆、よろこんだ。わが家が特別なわけではなかった。南モンゴル(あえてそう呼ばせていただくことにする! )には知日家が多く、傀儡政権を置かれた植民地という意識は薄かったからである。
私が高校に入学した1980年は、あとで振り返ると特別な年だった。文革が終わって3年がたち、ようやく大学入試制度が再開された、その翌年だったのだ。
中国の大学は、文革期には入試がなかったと記憶している。大学の機能はほぼストップしていた。そうなると、共産党幹部の子弟だけが入学できることになる。
文革が終わった翌年から、大学は学生を受け入れたのだが、文革中はまともな教育が受けられなかったから、中学・高校で以前の学生ほどは勉強をしていない子供たちが、そのまま大学生になったわけである。
私は、小学5年のときに文革が終わったので、中学生になってからは猛烈に勉強した。そして、地元の南モンゴルにあるオルドスの高校に進学した。
高校の先生には、この南モンゴルの地に下放された、もとはフフホト市や北京、それに上海などで暮らしていた知識人たちがいた。下放とは、中国共産党幹部や知識人が農民の生活と仕事を体験することである。文革期には、大学教授などの知識人が農村地域に下放された。「反革命知識人」「反動分子」と糾弾され、紅衛兵や中国人(漢人)農民から暴力を受けた知的エリートたちもいた。
■中国共産党が全人民を率いて、日本軍に勝利した
私が入学した高校では、元大学教授などが先生だった。中国人(漢人)の先生もいた。「知識青年」という用語があるが、こうした先生は、私からすると「下放知識人」と呼ぶのがしっくりくる。彼らの授業は、今思い出してもレベルが高くておもしろかった。
当時、歴史の教科書をひらくと〈中国共産党が全人民を率いて、日本軍に勝利した〉と書いてあったように記憶している。しかし先生は「これは全部ウソだよ。僕らは日本軍にいたけど、中国共産党と戦ったことは一度もない。蔣介石の国民党軍と戦っていたのだ。ただし、大学入試に出るから、ウソと承知で暗記しなさい」といっていた。戦争の現場にいた人の話だから、疑いようがない。
「日本軍は、教科書に書いてある通り、村を襲って殺人や放火、強姦を働いたんですか?」と尋ねると、先生は「そんなわけないよ! 日本軍は規律正しかった」と怒っていた。
満蒙という用語は聞いたことがあるだろう。中国東北部の満洲と、内蒙古(内モンゴル)を指す。その地に1932年、満洲国が成立するが、満洲国の軍隊には、日本人部隊、モンゴル人部隊、高麗人部隊があって、先生はモンゴル人部隊に所属していた。
先生は、南京事件の記述も「デタラメだ」と語っていたように思う。教科書を否定する知識人の反骨精神は、10代の私たちには刺激的だった。
■漢人にも親日派が
「日本人はどんな人たちだった?」と尋ねたとき、先生が「礼儀正しく、清潔だった」と答えたことは強く印象に残った。父の言葉は噓ではなかったのだなと子供ながらに確信した。ちなみにこの清潔というのは、衛生的な意味もあるが、洗練されていたという意味でもある。
私が日本語を教わった朱先生は、仙台の東北帝大(同大の医学専門部の前身が仙台医学専門学校)に留学したというから、のちの「文豪」魯迅の後輩だった。戦時中は満洲国の役人だったそうだ。真夏でもシャツのボタンを首もとの一番上までかけていた。いつも始業の5分前に教室へきて、授業を終えるとさっと帰っていく。パーフェクトな日本語で、父や先生から聞いた日本人のイメージそのままだった。
私の家族だけでなく、モンゴル人には知日家が多いとは思っていたが、漢人にも親日派がいることは意外だった。先生たちは知識人だから、文革期に紅衛兵と漢人農民などから暴力を受けたようだった。障害が残って足を引きずっている先生もいた。
下放知識人に教わった私の学年は、40人ほどいて、そのうち1人が浪人しただけで、全員が難関大学に合格した。紅衛兵の暴力で後遺症がある校長先生は、共産党から「全国労働模範」として表彰されていた。当時の中国全土の大学進学率は4%程度だった。
私たちが卒業した年、知識人の先生たちはみんな大学へ戻ってしまい、大学合格率は翌年から従来のレベルに下がったそうだ。奇跡的なめぐり合わせで、難関大学へ進んだ同級生たちは、現在も各界の要職で活躍している。
私は日本語を勉強するため、北京第二外国語学院(大学)に進学した。この大学(以下、第二外大と略す)は、政府の外交部(日本でいえば外務省)とつながりが強く、外交官をめざす学生が多かった。周恩来が初代名誉学長で、今の王毅外相は私の6年先輩にあたる。
第二外大に漢人以外から入学したのは、どうも私が最初だったようだ。入学したての頃は「草原からきた奴って、どいつだ」と先輩たちが、学生寮へ見物にきた。
アジア・アフリカ語学部で日本語学科の教授は、ほとんどが旧満洲国の知識人か愛国華僑だった。愛国華僑というのは、日本に住んでいた華僑の人たちで、政府の「祖国が新中国になったよ。すごく発展している。あなたたちの力が必要だよ」という誘いに乗って中国に渡った人たちだ。各国語に愛国華僑の先生たちがいたが、2世・3世なので中国語があまりできない人もいた。
旧満洲出身の日本事情を教える先生がいて、講義のたびに「満洲国は素晴らしかった」という話が出た。何がよかったかといえば、白米のご飯が毎日食べられたというのだ。
■「きれいな字を書いてはいけません」
愛国華僑の先生たちは「自分たちは騙されて中国へきた」とよく話していた。共産党のキャンペーンに乗せられ、新中国をめざしてきたのに文革がはじまったというのだ。「あなたたちはようやく育った知識人なのだから、ちゃんと勉強しなさい。礼儀作法やマナーも身につけなさい」と繰り返し言われた。
共産党政権になってから、上流階級の礼儀作法は封建社会の文化だと否定されたからだ。むしろ、粗野であることはプロレタリアートの美徳であり、正しい生き方だと教えられた。
たとえば、毛筆できれいな字を書くことはブルジョアジーの悪い趣味で、汚い字を書くことこそ正しいと習った(耳を疑うかもしれないが、本当のことだ! )。
私の父は達筆だったから、私は、物心がついた頃から、父に字を習っていた。ところが小学校に入ると、先生から「きれいな字を書いてはいけません」と言われ、私の字がどんどん下手になることを父は嘆いていた。
第二外大の先生たちもたいてい達筆で、学生たちの字が汚いと嘆いていた。愛国華僑の先生は、女子学生に「下着が見えるような座り方はよしなさい」とよく叱っていた。女性の振る舞いも、すっかり粗野になっていたからだ。粗野こそが労働人民の素朴な美徳だ、と奨励されていた時代だ(ちなみに日本の進歩的知識人たちも、中国人の粗野な行動をもろ手で賛美していた! )。
南モンゴルの高校で、蒙疆政権を知る先生や、留学経験がある朱先生に教わっていた私は、そうしたことに違和感はなかった。しかし漢人の同級生たちは、これまでと真逆のことを言われたのか、カルチャーショックを受けたようで、礼儀作法やきれいな字を書くことに苦労していた。彼らのほとんどが共産党の高級幹部の子弟なのに、北の草原からきた私のほうが洗練されていたわけだ。
楊 海英 :静岡大学教授
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