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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本国政府は、日本領土に住む沖縄の琉球人や北海道のアイヌ人を日本国民と認めていた。
琉球民族・アイヌ民族は、日本民族と同じ縄文人(日本土人)の子孫である。
絶望的なロシアとの戦争の為に、日本国に住む全ての日本民族・琉球民族・アイヌ民族の天皇に対する忠誠心と国に対する愛国心を信じていた。
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明治政府にとって、江戸時代後期から避けられない戦争とされた日露戦争(世界ゼロ世界大戦)に勝利する為に、琉球処分、宮古島島民遭難事件(台湾出兵)、日清戦争は前哨戦であり、韓国併合、義兵内戦は最終戦であった。
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2024-11-16
⏱61:ー7・G・②ー心の知能指数が低い外務官僚は同情や共感の不足が顕著。深圳事件と瀋陽事件。~No.147
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2024年11月8日 YAHOO!JAPANニュース 華盛頓Webライター「日本史の大きな転換点となった、宮古島島民遭難事件
credit:pixabay
1871年11月8日、台湾に漂着した宮古島の島民たちが、原住民に殺されました。
この事件は大きな悲劇として今でも語り継がれており、さらに日本史の大きな転換点ともなったのです。
この記事では宮古島島民遭難事件の日本政府の対応とその後について紹介していきます。
近代日本の大きな転換点となった宮古島島民遭難事件
明治初期、琉球漂流民が台湾で殺害された事件をきっかけに、日本政府内で台湾への出兵論が沸き起こることとなりました。
鹿児島県参事の大山綱良は、漂流民の命を奪った台湾原住民の責任を追及すべきだとして、政府に出兵を建議します。
これを受けた日本政府は、事件の責任を清朝に問いただすべく抗議を行ったものの、清朝側の対応は鈍く、台湾原住民を「化外の民」、つまり国家の統治の及ばない者だとして、責任を回避しました。
この無責任な対応に加え、1873年にはさらに別の日本船の乗組員が台湾で略奪を受ける事件が発生し、国内では台湾征討論がさらに盛り上がったのです。
政府内でも強硬派が台頭し、ついに1874年、日本は台湾出兵を決定します。
この一連の軍事行動は「牡丹社事件」として知られるようになるのです。
台湾出兵の背景には、単なる漂流民殺害事件の報復にとどまらず、琉球の地位を巡る日本と清国の微妙な外交関係が絡んでいました。
琉球は日本と清国の両属関係にあったため、どちらの国も琉球の扱いについて慎重に対応せざるを得なかったのです。
日本政府は、琉球が日本の一部であることを内外に示すため、積極的な外交と軍事行動を進めていました。
外務卿の副島種臣は、台湾出兵に向けた外交交渉のため清国に渡り、現地で李鴻章やその他の清朝高官と交渉を行いました。
だが、清朝側は一貫して台湾原住民の行為に対する責任を否定し、「化外の民」の仕業だと主張するのみです。
この状況を受け、日本は独自に台湾に軍を派遣する正当性を主張し、1874年4月、ついに西郷従道が率いる軍が台湾に上陸します。
西郷従道は、日本軍を指揮し、台湾原住民の集落を次々と制圧しました。
最終的に、牡丹社や他の部族の頭目たちが降伏し、日本軍は勝利を収めたのです。
さらに、西郷は戦後、事件で命を落とした漂流民たちの遺骨を集め、現地に墓を建てるなど、和解と鎮魂のための努力も行いました。
しかし、この出兵は国際的な波紋を呼びました。
清国政府は突然強い抗議を表明し、アメリカやイギリスも介入して日本に出兵中止を求めたのです。
だが、日本軍の士気は高く、政府も一度決めた出兵を簡単に撤回することはできませんでした。
最終的には、清国との交渉において日本の主張が通り、償金50万両が支払われることで事態は収束したのです。
この償金は、日本の出兵が「正義の行動」であったことを清国が認める形となり、台湾出兵は日本に有利な結果で終わりました。
この事件を通じて、日本は琉球が自国の領土であることを国際的に認めさせることに成功します。
台湾出兵の背景には、日本の琉球に対する支配を強化し、清国との間に確固たる国境を引く意図がありました。
事実、台湾出兵からわずか数年後の1879年には、琉球王国は正式に廃止され、沖縄県として日本に組み込まれることとなります。
琉球王国は、日本と清国の間で巧妙に両属関係を保ってきたものの、この事件を機にその独立性を失い、日本の一部としての地位が確立されていきます。
明治政府は、琉球が日本の統治下にあることを内外に示すため、清朝との冊封関係を断ち切り、琉球王尚泰を東京に強制的に連行し、事実上の廃位を決行しました。
こうして、長い歴史を誇った琉球王国は幕を閉じ、沖縄県として新たな道を歩み始めることになります。
台湾出兵は、単なる軍事的勝利にとどまらず、琉球を巡る日本の外交戦略の一環であり、東アジアにおける日本の影響力を確立する重要な一歩となりました。
この事件をきっかけに、明治政府は琉球と清国の関係を解消し、琉球処分へと突き進むのです。
事件のその後
明治初期、台湾での宮古島民遭難事件の犠牲者たちの遺体は、現地住民たちの手によって埋葬されました。
事件後、鄧天保や林阿九、楊友旺らは、生存者を送り届けた後、殺害現場に残された遺体を集め、台湾式の土饅頭型の墓を5つ作り、手厚く葬ったのです。
この墓は後に楊友旺と林阿九の手で、統捕という場所に移され、5個の甕に収められ一か所にまとめられました。
1874年、台湾出兵時に日本軍がこの旧墳墓を目撃し、その光景に感銘を受けたと言われています。
西郷従道らはこの墓を修復し、新たに石碑を建てることを決定しました。
しかし、適切な石材が台湾にはなかったため、中国大陸から取り寄せ、間に合わせたのです。
石碑の正面には「大日本琉球藩民五十四名墓」と刻まれ、背面には建碑の理由が漢文で記されています。
西郷都督らは慰霊の祭祀を行い、供養料を送ることも約束したものの、大正期にはその額が減り、やがて途絶えてしまったのです。
1895年、日本が台湾を併合した直後、特別な墓前祭が行われ、楊友旺や林阿九の子孫ら70名以上が集まり、紙幣を燃やし、祭辞を唱え、爆竹を鳴らして犠牲者を弔いました。
その後、照屋宏が島袋亀ら生存者の証言を元に、犠牲者全員の名前を調べ、高雄州知事の許可を得て現地墓の修復を発起します。
1928年に修復が完了し、犠牲者の氏名が刻まれた墓碑の前で、救助者の子孫らが参列して墓前祭が執り行われました。
また、犠牲者の遺体のうち44体分の頭蓋骨は、日本軍が回収し、長崎経由で那覇へ運ばれました。
最初は那覇市若狭の「上ノ毛」に埋葬されたものの、1898年に波の上の護国寺に移され、「台湾遭害者之碑」が建立されたのです。
この碑も1980年に再改修され、犠牲者の氏名が刻まれました。
再び行われた墓前祭には、救助者の子孫や宮古島の遺族らが参加し、歴史的な慰霊の儀式が続けられたのです。
参考文献
大浜郁子(2006)「「加害の元凶は牡丹社蕃に非ず」-「牡丹社事件」からみる沖縄と台湾」『20世紀研究』第7巻p.79-102
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華盛頓
Webライター
歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。
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