🎻42:─2─クウェート侵攻と日本外交の失敗。湾岸戦争に不参加。平成2年。~No.121 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本は、第一世界大戦後の国際的枠組みとして設立された国際連盟常任理事国の1カ国として参加したのは、国際連盟設立委員会で「人種的差別撤廃提案」をしたからではなく、集団的自衛権を発動し自己犠牲としてリスクを引き受けたからである。
 靖国神社を否定する現代の日本には、その覚悟と行動力が皆無である。
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 エセ保守やリベラル左派は、集団的自衛権はもちろん個別的自衛権すら否定し、国益、国の安全、国民の安寧そして国際的信用よりも如何なる理由でも戦争反対、再軍備反対の平和憲法を最優先している。
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 人類の常識は、自助努力、自力救済、自己責任である。
 「神は、自らを助ける者を助ける」。
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 クウェート侵攻(英語: Invasion of Kuwait)は、1990年にイラククウェートに侵攻した事件であり、湾岸戦争の発端となった。イラク軍は6時間でクウェート全土を占領し、クウェートの首長など政権幹部は隣国で友好国のサウジアラビアのターイフに亡命政府を作って抵抗した。イラククウェート戦争(イラククウェートせんそう、英語: Iraq-Kuwait War)とも言われる。
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 2024年8月号 WiLL「中国大使の反日妄言にリベンジパンチを!
 松原仁  北神圭朗
 薛剣(せつけん)からの書簡
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 忍び足侵略主義
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 薛剣と呉江浩(ごこうこう)の戦狼外交
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 外務省の弱腰外交
 松原 尖閣諸島周辺の緊張、経済的圧力、台湾問題、サイバー攻撃、安全保障、国際的な孤立──中国の戦狼外交は、日本に多岐にわたって悪影響を及ぼして鋳ます。
 ……。
 弱腰外交は戦後、ずっと行われいます。例えば、1989年12月のマルタ会議で、文字通り冷戦終結の共同宣言が発表されました。これによって世界は一時的に戦争を忘れ、安全保障はなくなったと、世界の列強がお花畑でフォークダンスを踊っているような平和ボケした状況になっていました。
 しかしその直後、イラクによるクウェート侵攻(1990年)が突如起こり、世界は冷や水を浴びせられた。国際連合(以下、国連)は迅速に動き、イラク軍を撤退させようと、アメリカを中心とした多国籍軍が編成されました。
 北神 国連の結束は、冷戦時代には考えられないほどの速さでした。多国籍軍の結成も冷戦終結によって可能になったと言えます。
 松原 アメリカは、同盟国である日本にも参加を切望。その際、ブッシュ大統領海部俊樹首相に『日本が多国籍国に協力するのか否かは、今後の日本が責任ある大国になるかどうかの分岐点になる』と警告しました。
 しかし日本は、軍事の効用を否定する憲法を理由に、直接的な軍事支援は行わず、約130億ドルの財政支援のみを提供しました。アメリカはこれに失望し、日本は『責任ある大国』の立場を自ら放棄してしまった。日本政府は外交を上手くやっているつまりでしたが、世界からは呆れられたのです。
 北神 安倍政権はたしかに明確に中国を抑止する外交・国防政策を実行しましたね。
 だから中国は安倍政権の外交を警戒しました。安倍元総理は、日米豪印戦略対話(QUAD{クアッド})をつくり、アメリカを巻き込んで中国を抑制するという行動をとったからです。しかし、安倍元総理が亡くなられて岸田政権になってからは、防衛予算の増額はしながらも、今回の〝火の中〟発言には厳しく抗議しなければ、その分、中国は日本を甘く見ます。
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 〝紙〟川陽子外相
 北神 カナダ政府は早急に対処しましたが、日本の対応は甘い。……このような対応では、日本は中国に侮られ放しです。
 松原 昨年の呉大使の〝火の中〟発言のときにも日本は抗議しましたが、再度同様の発言が繰り返されたのは、日本の抗議が軽んじられている証拠です。当時の対応の甘さが二度目の発言を招いたのです。
 このような発言や今回の書簡は、サラミを薄くスライスするように、段階的かつ小規模な行動を通じて徐々に戦略的な目標を達成しようとする『サラミ戦術』です。これは、南シナ海東シナ海尖閣諸島周辺で中国が繰り広がる戦術の一つです。
 つまり、煽る発言を繰り返して、少しずつ日本の許容範囲を広げていく。中国は『日本にはここまで言っても大丈夫』という、既成事実を積み重ね続けることで、徐々に抑止力が働かなくなっていきます。
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 日本への侵略
 北神 先述した、尖閣諸島の『戦狼外交』で言えば、尖閣諸島周辺に中国が設置した海洋調査ブイを、外務省が今月で11ヶ月も放置している問題があります。……。
 松原 上川外相なにを言っても『総合的に検討します』と繰り返すだけ。……。
 北神 ……。『中国人による日本の土地買い占め問題』への対応においても、政府の腰は重い。……。」
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 2021年12月22日 LIBRARY シノドス・ライブラリー「「湾岸のトラウマ」とはなんだったのか?――『自衛隊海外派遣の起源』(勁草書房
 加藤博章(著者)国際関係論、国際政治史、東アジアの外交・安全保障政策
 自衛隊海外派遣の起源
 著者:加藤博章
 出版社:勁草書房
 本書は、自衛隊海外派遣がどのように始まったのかを、アジア・太平洋戦争終結にまで遡り、その後に行われた、議論や政策を振り返りながら明らかにしたものです。
 今年は湾岸戦争終結30周年の年にあたります。湾岸戦争は、日本外交において大きな出来事でした。イラククウェート侵攻以降、日本は、多国籍軍への支援を巡って、米国の議会や世論から、その姿勢が後ろ向きであるとして批判を浴びました。この時の日本の経験は、「湾岸のトラウマ」とも称され、その後の日本の国際貢献価値観外交といった日本の外交・安全保障政策の原点となったとも指摘されています。
 「湾岸のトラウマ」論は、その後の日本の外交・安全保障政策における重要な要素となりました。「湾岸で日本が人的な貢献を行わなかったことが、アメリカをはじめとする国際社会の批判を浴びた。だから、日本は人的貢献を行わなくてはいけない」という議論です。この論説は、その後、2001年9月11日に発生した同時多発テロ以降のテロとの戦いなど、自衛隊海外派遣の議論が行われる度にメディアやメディアに登場する論客が指摘し、自衛隊海外派遣を擁護する理由の一つとなってきました。
 本書では、「湾岸のトラウマ」論を直接扱っている訳ではありません。しかし、「湾岸のトラウマ」論のきっかけとなった湾岸危機及び湾岸戦争と、自衛隊海外派遣に至る過程を分析しています。それによって、日本の貢献の実像とその後「湾岸のトラウマ」論が生成された原因に迫ろうというものです。今回は、本書の議論を糸口に日本の人的貢献が如何に始まったのかを、紹介します。
 湾岸危機で日本は何をしたのか?
 湾岸のトラウマとは何かを理解するためにも、湾岸戦争で日本がどういう支援をしたのか、そしてその反応はどういうものだったのかを振り返る必要があります。湾岸戦争というと、多国籍軍による空爆に始まる、クウェート解放をイメージすると思います。しかし、実際にはその前から準備が進められていました。イラククウェートに侵攻し、国連安全保障理事会イラクへの無条件撤退を求めた決議が全会一致で採択された1990年8月2日から多国籍軍空爆を開始した1991年1月17日までを湾岸危機、空爆開始後を湾岸戦争と区別しています。
 1990年8月、イラククウェートに突如侵攻しました。この時、各国は、イラクの行動を非難し、米国を中心に多国籍軍が結成され、イラク封じ込めを図ろうとしました。この湾岸危機において、米国は同盟国への支援という観点から、各国に支援を求めました。この要請は日本にも行われます。クウェート侵攻直後、日本は米国から掃海艇や補給艦の派遣を含む多国籍軍への支援を求められます。
 憲法9条がある日本に海上自衛隊の派遣を求めるのは、奇異に映るかもしれません。米国は、日本の憲法論議を知らなかった訳ではありません。むしろ、十分に知った上で要請を行いました。3年前の1987年、イラン・イラク戦争の最中、米国は日本に同様の要請をしました。この時は、戦闘地域への派遣ということで、派遣は実現しませんでしたが、時の中曾根総理は、「戦時でなければ掃海艇の派遣は憲法上可能」という憲法解釈を国会で示します。米国はこの時の議論から、掃海艇や補給艦といった後方支援を日本に求めたのです。
 しかし、日本は米国の要請を断りました。理由は、やはり憲法第9条の制約です。この時、問題となったのが、湾岸危機が戦争へと変わった場合、日本が行う人的支援や物資支援は憲法が認めていない戦時協力になるのではないかというものです。例えば、日本が船舶などで米軍の輸送を支援した場合、日本の支援によって運ばれた物資は湾岸地域でイラク軍相手の戦闘に使用されるかもしれません、それは憲法上許されるのかということが問題となりました。
 こうした法解釈のもとでは、日本の支援は限定的なものとはなりません。米軍の物資を運ぶ日本の船舶に武器弾薬、兵員は積んではいけないということになりました。資金援助についても、制約を課されることになりました。支援は行われましたが、非常に使い勝手が悪く、日本は法解釈ばかりで、支援に及び腰であると米国の議会やメディアから総スカンを食らうことになります。こうした経験が「湾岸のトラウマ」と呼ばれるようになりました。自衛隊派遣などの人的支援ならば、米国世論も納得しただろうというのがその原点にあります。
 しかし、この時は戦争へと至る可能性が高い状況でした。どのような支援であれ、戦時橋梁力となる可能性が高かったのです。しかも、今よりも憲法解釈が厳格であったため、これ以上の支援は難しかったというのが実情でしょう。
 湾岸戦争の勃発と資金協力、掃海艇派遣
 その後、多国籍軍空爆を開始し、湾岸戦争が勃発します。この時、日本は130億ドルの支援を行い、多国籍軍を支えました。時の大蔵大臣、橋本龍太郎は、日本に助けを求めてきたときに、それを値切るのはおかしいということで、米国の言い値を受け入れることになりました。しかし、橋本蔵相が決めた支援は、外務省を通していなかったため、さまざまな問題が生じることになります。米国は、すべて米国向けと考えていましたが、実際は他の国々にも向けられていました。そして、為替をどうするかを詰めていなかったため、支援額が目減りしてしまいます。これに対して、米国は追加支援を求めますが、米国の対応は当時日本に対してタフネゴシエーターで知られていたアマコスト駐日大使も眉を顰めるものでした。
 この支援については、公明党から待ったがかかりました。公明党は、防衛費を削減し、それを支援金に充てることで増税を縮小しようとします。当時は、自民党公明党の関係が強化されており、小沢幹事長公明党の意向を重視していました。そして、公明党の言うとおりに防衛費を削減し、支援金へと充てることが決定されます。
 しかし、この行動は米国に不快感を与えます。支援金のために防衛費を削減することは、日米の防衛協力を乱すと考えたためです。とはいえ、支援金のために防衛費を削減する方針は変わりませんでした。
 湾岸戦争の停戦によって、新たな展開を迎えます。これまでの支援策はいずれも開戦後は戦争協力になるかもしれないということで頓挫しました。しかし、停戦を迎えたことで、掃海艇派遣が憲法上認められることになります。
 加えて、停戦後にドイツが掃海艇を派遣したことが、日本の掃海艇派遣論を後押ししました。ドイツは、日本同様に基本法によって、海外派兵を厳しく制限されていました。厳しい制約の下で、ドイツはNATO域内において、多国籍軍として投入された他のNATO軍の穴埋めをするなど、多国籍軍を側面から支援していました。しかし、イラク化学兵器開発にドイツ企業が関わったとして、米国世論から日本以上に叩かれていました。ドイツも日本と同様に目に見えた形での貢献を打ち出す必要に迫られた結果、掃海艇を派遣します。
 停戦とドイツの派遣に後押しされ、掃海艇派遣論が再燃します。自民党内だけでなく、財界からも派遣を求める声が大きくなっていきました。しかし、最後の障害として立ちはだかったのが、公明党でした。当時は統一地方選挙を控えており、公明党との協力関係を乱す訳にはいきませんでした。結局、統一地方選挙後に派遣するということで、決着をみます。こうして、1991年4月26日にペルシャ湾に向けて、掃海艇派遣が行われました。掃海艇部隊は一人の犠牲者を出すことなく、任務を成功させ、以後、自衛隊海外派遣は拡大されることになります。
 なぜ、湾岸のトラウマ論が広まったのか?
 ここまでイラククウェート侵攻から、その後の湾岸戦争、そして停戦後における日本の支援について概略してきました。憲法9条の制約の中で、日本は同盟国として出来る限りの支援を行ってきたと言えます。
 しかし、その後湾岸のトラウマ論が起こってきました。冷戦終結によって、ソ連という仮想敵がいなくなり、日米同盟は存在意義を失っていきました。こうした中で、北朝鮮のミサイル・核危機、中国の台頭による緊張の高まりと、日本周辺の安全保障環境は不安定なものとなっていきます。
 こうした危機感の中で、日本の人的支援は対米協力の様相を強めることになります。1997年には新ガイドライン、1999年には周辺事態法と防衛指針法が制定されました。2001年9月11日の同時多発テロ以降は、テロ対策特措法に基づくインド洋派遣や、イラク特措法におけるイラク派遣が行われます。
 対米協力が強化される背景にあったのは、見捨てられの恐怖でした。北朝鮮有事や台湾海峡有事など、日本周辺における安全保障上の危機において、同盟国米国は対応しないのではないかという懸念です。
 同盟国アメリカを引き留めるために日本が主体的に行動することが求められました。そこで登場したのが湾岸のトラウマ論です。資金援助だけでは、誰も感謝をしてくれない、汗を流さないといざというときに助けてくれない。こうした不安に後押しされる形で、日本は対米協力を強めていきました。湾岸のトラウマ論は、日本の対米協力強化と表裏一体のものだったのです。
 湾岸のトラウマを越えて
 ここまで概説したように、日本は厳しい制約の中で、精一杯のことをしてきたのは事実です。しかし、そこでは欠けている視点がありました。なぜ、支援をするのかということです。湾岸戦争にしろ、その後の支援にしろ、協力を行うことが目的とかしてしまい、どうしてするのかということは、二の次となってしまいました。そうして、米国に協力するのは当然という論理がまかり通っています。
 米中対立が激化する中、与党も野党も対米協力はコンセンサスとなっています。しかし、どうして米国に協力をするのかという視点に立って議論は残念ながら行われていません。コロナ禍を経て、米国や中国は自国経済の立て直しが優先となり、他の国に目を向けづらくなっています。日本では、コロナ以前であっても、国際貢献、すなわち日本が国際社会に貢献するという視点は、どんどん注目されなくなってきました。コロナを経て、その傾向が加速することは想像に難くありません。
 しかし、日本は資源の少ない国であり、貿易によって成り立っている国です。国際社会なしでは生きていけない国でもあります。こうした中で、国際社会に背を向けることは出来ないでしょう。だからこそ、日本が国際社会に何をすべきかを問う必要があるのではないでしょうか。
 本書『自衛隊海外派遣の起源』は、憲法9条の制約下で日本が国際社会とどう向き合おうとしたのかを問うた本でもあります。コロナ禍で国際情勢が変動する中、日本がかつてしてきたことを思い出し、今後の参考として頂けたら幸甚です。
 必要なのは「英語で発想する」こと シノドス式シンプルイングリッシュ
 プロフィール
 加藤博章国際関係論、国際政治史、東アジアの外交・安全保障政策
 1983年生まれ。関西学院大学国際学部兼任講師
 名古屋大学大学院環境学研究科社会環境学専攻環境法政論講座博士後期課程単位取得満期退学後修了、博士(法学)。防衛大学校総合安全保障研究科特別研究員、国立公文書館アジア歴史資料センター調査員、日本学術振興会特別研究員(DC2)、ロンドン大学キングスカレッジ戦争研究学部客員研究員、東京福祉大学国際交流センター特任講師を経て、現職。専門は国際政治史、東アジアの外交・安全保障政策。特に日本の国際貢献と援助政策、日本外交史。現在は、インドシナ難民問題と日本外交、日本の国際貢献と経済協力の連関性、国連における国際緊急援助に関心を持っている。
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 2011年12月6日 nippon.com「冷戦後日本外交の軌跡 湾岸戦争と日本外交
 中西 寛 【Profile】
 1990年8月、イラククウェートに軍事侵攻し、翌年1月には多国籍軍によるイラク攻撃へと発展した。冷戦後、世界が初めて経験した国際危機に日本政府は大きく揺れ、日本外交が直面する課題を痛感することとなった。20年余を経た今、「湾岸ショック」とまで呼ばれた日本の湾岸戦争への対応を振り返る。
 1990年8月2日、イラクによるクウェートへの軍事侵攻で始まった湾岸戦争は、冷戦後の世界が経験した最初の国際危機であった。日本にとって湾岸体験は、冷戦後世界の現実に対する不快な目ざめ(rude awakening)となり、「湾岸ショック」や「湾岸のトラウマ」とすら呼ばれてきた。なぜ日本はあれほど対応にとまどったのか、湾岸経験は日本に何を残したのか、20年あまりを経た今、あらためて振り返ってみる価値があろう。
 ニューヨーク市内のホテルでブッシュ米大統領と(左)と会談する海部俊樹首相(1990年9月29日)
 実は危機発生の当初、海部俊樹政権は、8月5日にはイラクへの経済制裁を決定した。これは国連安全保障理事会(以下、安保理)で経済制裁決議が採択される前日のことであり、素早く、かつ明確な対応をとったといえるものであった。しかし結果的には、この対応はすでに日本外交のひとつの弱点を示したものであった。すなわちそれは、日本は過去に先例があるか、あるいは過去の教訓から反省した事例については迅速に対応するが、予想外の新たな事態に際して基本方針が混乱するとなかなか態勢を立て直せない、という性質である。海部政権の措置は、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻の経験、ないし反省に倣った措置であった。日本は基本的に、湾岸危機もソ連アフガニスタン侵攻と同様の事態、すなわち、先進国は中東での地域紛争には直接かかわらず、間接的に支援するというパターンを踏襲すると無意識のうちに考えていたのである。
 踏み絵となった武力行使への支持
 実際には、国際情勢も、日本を取り巻く状況も1980年代に大きく変化していた。冷戦は急速に終焉に向かっており、イラククウェート侵攻の前年(1989年)11月にはベルリンの壁が崩壊し、12月にはマルタでブッシュ米大統領ゴルバチョフソ連書記長が冷戦の終結を宣言していた。中国ではこの年の6月に天安門事件が起きたが、鄧小平は改革開放の継続を求めており、1990年代初頭には西側への協調姿勢が強かった。イラクの侵攻時、ベーカー米国務長官ソ連訪問中で、ただちに米ソ両国はイラクを非難する共同声明を出した。湾岸危機は米ソ協調のテスト・ケースと見なされたのであり、冷戦時代には機能しなかった安保理が前面に出て対応することになった。安保理武力行使の合法性を担保し、アメリカが実体的な軍事力を提供する中で、日本は国連中心主義の建前とアメリカとの同盟関係という実態のいずれでも、武力行使への明確な支持を求められることになった。
 同時に、1980年代後半の拡張的金融政策で金満国家となった日本はアメリカを含めた諸国から次第に警戒されるようになっていた。日本は自国の経済的利益を一方的に追求し、他国の経済支配を狙っている経済的重商主義国家であるという「日本異質論」が唱えられ、アメリカの議会や世論に一定の影響を持つようになっていた。1987年、東芝の子会社がココム(対共産圏輸出統制委員会)規制に違反してソ連に工作機械を輸出したことが明るみにでたことはアメリカで政治的に大きく扱われ、その後、米議会が日米政府間の既存の合意を反故にして次期支援戦闘機(FSX)開発合意を修正させる背景になった。そして1989年には三菱地所ロックフェラー・センターを、ソニーコロンビア映画を買収するというように、日本企業はアメリカ人の感情を逆撫でするように振る舞い、arrogantと非難されても仕方のない心理状態に陥っていた。
 人的貢献の不在
 着任あいさつに竹下登首相(右)を訪れたアマコスト駐日米大使(1989年5月18日)
しかも、日本は経済的繁栄の絶頂にありながらも、1989年のリクルート事件発覚によって自民党政治は揺らぎ、参議院では野党が多数派を占める構造となっていた。さらに、自民党内では政権基盤の弱い海部首相を竹下派、特に小沢一郎幹事長が支えるという二重構造となっていた。こうした中で湾岸危機に対応を求められたことは日本を追い詰めることになった。
 実質を考えれば、当時の日本が軍事的に貢献できる余地は少ないことは明らかだった。自衛隊は発足以来一度も部隊として国外に出たことはなく、そのための法制も訓練も不足していた。日本が最も大きな貢献をできるのは、資金、物資の面であることは明らかだった。しかし経済力による貢献は、部隊を派遣している諸国、とりわけアメリカからは強く批判される運命だった。人的貢献の不在は、日本がいかにも自国中心の重商主義国家であるとの印象を強めるものだからである。それはアメリカ国内での対日批判だけでなく、米国内に存在した米軍による武力行使反対論を強める要因になり得ただけに、米政府は日本の非金銭的貢献に神経を使った。アマコスト駐日米大使は「ミスター・ガイアツ」との異名をとった。
 さらに、日本はイラン革命後もイランと国交を保つなど、中東についてはアメリカの政策を全面的に支持してきたわけではなく、湾岸危機に臨んでも、アメリカと距離をとってイラクに撤退を求めるべきとの議論も存在した。具体的に日本にできる方策はほとんどなかったが、日本人が欧米人とともに人質としてイラク国内に拘束されたために、多国籍軍への協力を抑制するべきとの議論は国民の感情に訴えるものがあった。
 こうした複雑な状況の中で、日本政府の対応は混乱を極めた。ブッシュ大統領からは輸送、補給等の面で日本の支援の要請があった。これはアメリカが大量の部隊を湾岸に派遣する計画の中で当面、実際に不足していた資源であった。しかし自衛隊を提供する枠組みが存在しないため、民間船舶、航空機のチャーターを政府は検討した。しかし戦闘地域への派遣に民間側は消極的であった。日本がこの面でほとんど役に立てないことを伝えた外務省の丹波實審議官に対してアメリカは、ペルシャ湾にいる多数の船舶が日本向けであると伝えて、自国の経済利益のためには民間会社は活動するのかと暗に非難した。
 130億ドルの資金支援
 湾岸戦争多国籍軍への90億ドル追加関連法案が可決され、海部俊樹首相(右)と握手を交わす橋本龍太郎蔵相(1991年2月28日)
 丹波アメリカの厳しい雰囲気を伝えたことを受けて1990年8月29日、日本は資金提供を公表したが、その際には1,000万ドルという数字しか公表されなかった。アメリカの強い不快感が伝えられた翌日、大蔵省は10億ドルという数字を公表した。政府内では10億ドルで検討が進んでいたが、発表のやり方の稚拙さによって、日本はいかにも自己中心的で、外圧によってしか国際貢献をしない国だという印象を与えてしまった。その後も日本政府はアメリカの意向を気にしつつ、資金提供を追加し、結果的に130億ドルを拠出したが、開戦後に提供を表明した90億ドルについてはドル建てか円建てかをめぐって日米で一悶着があった。ブレイディ財務長官と橋本龍太郎大蔵大臣の間でこの金額は即決されたのだが、円建てかドル建てかを決めておらず、その後の為替の変化に対して日本は円建てを表明し、米側はドル建ての支払いを求めた。結果的には対米供与分については日本が譲歩したが、せっかくの資金提供もこうした技術的な問題で効果的な印象を与えることはできなかった。
 この間、10月には日本の人的貢献を法制化するために国連平和協力法案という法案が国会に提出された。しかし政府内では、自衛隊を派遣すべきという見解と自衛隊とは異なる形での人的貢献を検討する立場が完全に統一されないままであった。政治家では、海部俊樹首相は自衛隊派遣に消極的であり、たとえ自衛隊員を派遣する場合でも、自衛隊とは異なる組織の人員として派遣されるべきと考えていた。他方、小沢一郎自民党幹事長は、国連による集団安全保障の場合には現行憲法下でも参加可能という立場であり、自衛隊の部隊としての派遣を主張していた。外務省内でも、消極派と積極派が分かれ、意思統一は行われなかった。こうした状況では法案が成立することはもとより不可能だった。もちろん参議院で野党が多数を占めている状況では、いかなる形であれ、自衛隊員派遣を認める法案が通る見通しは小さかった。世論は自衛隊派遣に2割程度しか賛成していなかったのである。政府内で喧々囂々の議論が行われたが、11月8日には法案は廃案となった。
 また、イラク国内で実質的に人質として拘束されていた日本人の解放に向けても、日本政府は目立った活動を行えなかった。イラクと交渉する材料がなかったが、仮に直接取引によって日本人だけが解放されれば、利己的な日本という評判を強めかねないという懸念すらあった。結局、武力行使の可能性が高まった11月末に中曽根康弘元首相が特使としてイラクを訪れるなどしたあと日本人は全員解放されたが、翌日には欧米人の人質も解放されており、日本外交の働きかけが奏功したというよりも、イラクとしては武力行使の可能性が高まる中、国際世論に影響を与える方策として人質を解放した可能性が高い。
 日本外交に残った深い敗北感
 遠隔操作で機雷処理に向かう自衛隊(1991年6月19日)/写真提供=海上自衛隊
1991年1月17日午前3時(現地時間)、多国籍軍は攻撃を開始した。日本への正式な通告は、村田良平駐米大使と中山太郎外務大臣に対してベーカー国務長官から攻撃開始の30分前に行われた。その戦争の実際はアメリカの軍事的優越を見せつけた。圧倒的な空爆に加え、イラクスカッドミサイルを打ち落としたとされたパトリオット(実際には命中率は低かったことが後に明らかとなった)、新興メディアCNNがアピールしたアメリカのメディアのグローバルな報道力は世界を驚かせた。日本人の多くもテレビの前でリアルタイムの戦争報道を見つめることになった。
 もちろん日本が何もしなかったわけではない。それどころか現場では多くの努力が行われた。多国籍軍には4輪駆動車やウォークマンなどさまざまな物資が提供され、現地では高い評価を受けた。イラク国内に残った民間人や外交官も苦しい状況の中で耐えた。日本の資金は円滑に提供され、多国籍軍司令官のシュワルツコフは日本に深い感謝の意を表明した。さらに湾岸戦争終了後の1991年4月、当時の自衛隊法の枠内で戦闘終了後の機雷掃海は可能であるという解釈のもと、海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、ペルシャ湾の機雷掃海にあたった。しかしこうした地道な努力にもかかわらず、全体としては湾岸戦争の経験は日本外交に深い敗北感を残した。クウェートが謝意を表明した中に日本の国名がなかったことはどの程度意図的だったかどうか分からない。しかし日本の湾岸戦争での「貢献」が世界的には評価が低く、日本外交の威信が低下したことは否めない。
 湾岸戦争の教訓
 湾岸戦争の経験は日本にどのような教訓を残したであろうか。まず、戦後日本が追求してきた経済繁栄が頂点に達していたときに起きた国際紛争について、日本が無力に近い存在であったことは、冷戦後の国際秩序を維持運営するうえでの日本の国力の限界を意識させた。「湾岸ショック」をきっかけに日本人は人的な国際貢献の必要性を意識し、1992年には、強い政治的反対はあったものの国際平和協力法を成立させた。これは自衛隊を国連平和維持活動への部分的な参加を認めるもので、同年、カンボジア内戦終了後の国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による平和維持活動に自衛隊史上初めて部隊が派遣された。
 同盟や安全保障の問題も湾岸戦争をきっかけに、より多く議論されるようになった。日米同盟の重要性を政治家は正面から発言するようになり、1997年には朝鮮半島有事などを念頭においた日米防衛協力のガイドラインが合意され、その後、北朝鮮によるミサイル発射などを受けて日米共同でミサイル防衛が導入されることにつながった。
 カンボジア・タケオ市で、地元市民の協力を得てPKO活動を行う自衛隊員(1992年10月8日)
 湾岸戦争時の混乱ぶりから考えて、これらの変化が比較的順調に進んだことは不思議にも見えるが、ある程度は、過去の失敗から学んだ教訓に備える事に関しての日本人の能力が示されたといえよう。しかしそれだけでなく、1990年代から2000年代にかけて日本はこうした枠組みに基づいて、国連での安保理改革や日米同盟の強化を追求してきたのである。
 戦略的判断力などに弱点
 この方針は、湾岸戦争を通じて形成されたアメリカが主導する国際協調態勢とそれを裏づけるアメリカの圧倒的な軍事的、技術的優越を前提として追求されてきた。逆に言えば、協調的な国際秩序の中でアメリカとの同盟関係を基軸に外交や安全保障を組み立てるという日本外交の発想は、湾岸戦争時から大きく変化していないということである。しかし過去20年の間に国際協調は次第に後退し、アメリカの単独主義的傾向が強まることになった。しかし中央アジアと中東で2つの非対称的な戦争に従事したことで、アメリカの誇る軍事的優越にも陰りが明らかとなった。アメリカの覇権が相対的に低下し、その力が圧倒的とは見なせなくなったと同時に、新興国の台頭によって主要国間の協調が円滑でなくなった今日、湾岸戦争時に日本外交が示した弱点がふたたび浮上してくる可能性はあるだろう。
 弱点の第一は、日本が国際政治の中でいかなる役割を果たすかという日本外交のアイデンティティに関する問題である。戦後日本は軍事力を対外政策の手段として用いず、平和的経済手段に専念することを基本としてきた。今日、平和維持活動に参加する自衛隊の武器使用の問題や、米軍の救援に関する集団的自衛権が論争を呼ぶのも、従来の解釈の変更という技術的問題だけではなく、戦後日本がこれまで抱えてきたアイデンティティはどの程度まで維持され、またどの程度修正されるべきか、日本の中で明確なコンセンサスが欠如していることの反映というべきである。
 第二は、既存の枠組みでは対応できない大きな危機に直面したときの政府の戦略的判断力の弱さの問題があった。これは情報の収集や、官僚のセクショナリズム、政治家と官僚の関係など多くの問題を抱えながら、今日もなお大きな課題である。特に近年、尖閣諸島をめぐる日中間の紛争や、2011年3月11日の大震災と原発事故への対応を見れば、政府の能力は依然として改善すべき点が多いことは明らかである。湾岸戦争の経験はすでに克服されたわけではなく、今も日本外交にとって課題を投げかけ続けている。
 写真=時事通信社
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 2021年12月30日 朝日新聞デジタル連載社説記事「(社説)外交文書公開 「湾岸外交」検証の時
 1990年8月、湾岸危機で多国籍軍イラク周辺国への支援策を発表する海部首相=首相官邸
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 冷戦終結の翌年にイラククウェートに侵攻した「湾岸危機」から30年が過ぎ、当時の外交文書が公開された。日本外交の転機ともなった、この激動の時期に、政治家や外交官たちは何を考え、どう動いたのか。日本の「湾岸外交」への当時の評価は正当だったのか。これを機に検証が必要だ。
 外務省は毎年、30年経った外交文書を原則公開している。今回は湾岸戦争開始直前までの約1年間が対象で、ファイル18冊、約7300ページに及ぶ。目を引くのが、当時の海部俊樹首相ら日本側が、米国から人的・金銭的な支援を迫られ、苦慮しながら対応した姿である。
 一方で、中曽根康弘元首相がバグダッドを訪問してイラクフセイン大統領と会談した時のやりとりや、小和田恒外務審議官が極秘にモスクワや欧州を回って各国の動向を探った様子など、当時ほとんど報道されなかった日本の独自外交の詳細も明らかになった。
 湾岸戦争で日本は、米国を中心とする多国籍軍に130億ドルを拠出したが、人的貢献がなかったとして「小切手外交」と批判された。外交当局を中心に「湾岸のトラウマ」として語り継がれ、その後の米国のアフガニスタン戦争やイラク戦争に際し、自衛隊を後方支援などに派遣する強い動機となった。
 中曽根、小和田両氏の動きに見られるように、米国だけに頼らない、独自の交渉や情報収集の模索はあった。それがなぜ、確固たる外交戦略に結びつかず、「トラウマ」と言われる事態を招いたのか。湾岸戦争開戦後の文書は、来年公開される見通しだ。政府の意思決定の全容を分析し、今後の教訓を引き出さねばならない。
 機微に触れるやりとりが少なくない外交・安全保障の分野でも、交渉や政策決定の過程をつぶさに記録に残し、一定の期間がたてば公開して歴史の検証に付すのが民主主義国の原則だ。日本でも「30年ルール」は定着し、「極秘 無期限」と指定された文書の開示もみられる。
 ただ、「例外」の多さは、かねて批判されてきた。今回も、30年前に日朝国交正常化交渉開始に道筋をつけた、金丸信元副総理らを団長とする自民、社会両党代表団による訪朝の報告書が明らかにされたが、内容の多くが黒塗りで伏せられていた。
 現在の外交・安保に影響を与えるためというが、会談の相手方の発言は公表しながら、日本側は出さないなど、線引きの根拠がわからない。
 外交政策に対する国民の理解や支持を得るためにも、さらなる公開に向けた政府の姿勢が問われている。
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 2021年1月25日 東京新聞湾岸戦争30年 日本への教訓 田原牧・論説委員が聞く
 今年は湾岸戦争から三十年です。一九九〇年八月にフセイン政権下のイラク軍がクウェートに侵攻。翌年一月、米国主導の多国籍軍イラクと開戦し、圧倒しました。侵攻後、クウェートイラクにいた日本人約四百人も一時、イラク側の「人質」にされました。解放に奔走した元駐イラク大使、片倉邦雄さんと湾岸戦争の教訓を考えます。
元駐イラク大使・片倉邦雄さん
 田原 湾岸危機とその後の戦争の主役だったイラクフセイン元大統領が亡くなって、もう十五年です。危機の当時、意外だったのはクウェートイラクに駐在していた日本人たちが欧米人同様、イラク側の人質にされたことです。というのも、そのころはアラブ世界の対日観が極めて良かったからです。
 片倉 そうですね。私がイラクに着任したのは一九九〇年四月で、クウェート侵攻の四カ月前です。その二年前に八年間に及んだイラン・イラク戦争が終わり、イラクでは復興のつち音が響いていました。日本企業も経済協力を再開し始め、イラク側の期待も膨らんでいました。
 六月にはフセイン氏の妻、サジダ夫人と次男のクサイ夫妻らが非公式に来日し、私の妻(イスラム世界研究者の故片倉もとこ氏)も日本で出迎えて、友好ムードが高まっていました。
 イラク側の態度を一変させたのはクウェート侵攻直後の日本政府の対応でした。日本は即時撤退など国連安保理決議への支持のみならず、各国に先駆けて資本取引の停止など独自の対イラク経済制裁を発表します。
 日本はかねて欧米諸国に「エネルギー確保に見合った安全保障上の貢献をすべきだ」とたたかれており、負い目に感じていました。だが、この日本の態度はイラク側には意外で、神経を逆なでされたのだと思います。
 田原 ただ、日本は西側陣営でもアラブへの植民地支配の歴史と無縁です。イスラムをめぐる宗教的確執もない。当時のアラブ地域は反米意識が強く、民衆は「米国と戦争をした国」と日本を評価していました。
 片倉 日露戦争についても同じです。しかし、欧米の帝国主義支配は巧妙です。露骨な侵略の後に、留学生制度や文化交流機関などを通じたスマートな支配を展開します。武器取引や技術移転などもそうです。
 むろん、過去の恨みを蒸し返されるリスクはあります。しかし、第四次中東戦争で湾岸諸国が石油戦略を発動した際も、二枚舌外交でパレスチナ問題の原因をつくった英国やフランスが「友好国」で、日本は当初「非友好国」扱いでした。日本は商売相手だけど、それ以上ではない。「関係のない関係が一番悪い」ということでしょう。
 田原 結果的に四百余人の日本人の人質は開戦前に無事解放されました。「人間の盾」にされた邦人の安否確認のため、拘束されていた施設を視察名目で訪れ、接触を図ったこともあったそうですね。対米協調優先の本国政府と邦人保護第一の現地大使館の立場のはざまで、悩まれたことも多かったと思います。
 片倉 こんな事件は戦後初めてで、「西側スクラム」維持と邦人救出の間で外務省も思考停止に陥っていました。私は出先の大使ですから、邦人救出の優先を訴えました。しかし、日米協調が最優先されたのは事実です。帰国後、この点を省内で問題提起しましたが、振り向かれることはありませんでした。
 ただ、その後、邦人保護を担う領事移住部が領事局に昇格されるなど改善面もありました。
 田原 政府は停戦後、「カネだけで人を出さない」という国際的な批判を口実に、自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣します。自衛隊の海外派遣の始まりです。一方、日本人が標的とされる事件が増えていきます。
 片倉 「カネだけ」という批判は心外でした。イラクが侵攻した際、在クウェート日本大使館は危険を冒して米国の外交官らをかくまっています。
 対米関係への偏りについては日本の独自外交の弱さとして捉える必要もあります。中東和平やイランとの緊張緩和でも、かつて日本は国際舞台の一角を担っていました。それがいまでは「日本の立場は米国と同じ」と見なされ、外されています。
 片倉 米国との協調は重要です。だが、中東で米国が一貫した政策を持ち、かつ功を奏してきたかと言えば、疑問です。イラク戦争の開戦理由だった大量破壊兵器の所有ではニセ情報にだまされた。戦後のイラクについても、確固たる戦略がなかった。それが今日の混迷を招いています。いま、イランの覇権を非難していますが、種をまいたのは他ならぬ米国自身です。
 私は二〇一五年に成立した安全保障関連法に反対の立場でした。理由はそうした米国の危うさに日本が巻き込まれかねないと懸念したからです。
 肝心なのは日本外交の独自性です。その確立には情報収集力や分析能力の飛躍が欠かせません。だが、英仏の重厚さと比べると、まだまだ不十分です。
 田原 米国ではバイデン新政権が始動しました。でも、中東でかつてのような米国の求心力の復活は望めません。加えて脱化石燃料の流れで、戦略物資としての石油などの重要性も下がっています。いわば、日本にとって中東の重要性は相対的に下がっているように感じます。
 片倉 米国のプレゼンスが弱くなっていることは、日本にとっては独自外交を築く好機でもあるはずです。それに中東の重要性はエネルギーに限らない。歴史的に人やカネの流れの観点からは国際政治、国際経済の橋頭堡(ほ)であるという地政学的な価値を見失ってはいけません。
 加えて、重要さを増しているイスラムの問題があります。世界の人口の約四分の一がイスラム教徒で、その中心にアラブ世界があります。幸い、日本社会には欧米のようなイスラムフォビア(恐怖症)がありません。
 〇一年に当時の河野洋平外相は湾岸諸国歴訪の際、「イスラム世界との文明間対話セミナー」を提唱し、世界的な注目を集めました。従来の技術協力と精神、文化面での交流が組み合わされれば、日本の存在力は大きく伸びると確信します。
 田原 片倉さんは戦後のアラビスト(アラブ専門家)外交官の一期生です。アラビアのロレンス(英国陸軍将校のT・E・ロレンス)にあこがれたとも聞いています。長い現場経験から、日本のアラブ外交に何が不可欠だと考えますか。
 片倉 平凡ですが、語学力は欠かせません。私が外務省に入省したころはアラブ担当は欧亜局の付録のような存在でした。いま、現地語に精通するアラビストの数はロシア、中国の専門職員に遜色がないほどです。
 アラブは密な社会です。米国の文化人類学者、エドワード・ホールは息と息を合わせる対人距離をアラブの生活感覚と指摘しています。コロナ禍の時代とはいえ、そうした世界に溶け込むのに言葉は欠かせません。
 人的なネットワークがあってこそ、国際社会に「物を申す」ことができる。これも湾岸戦争の教訓のひとつだと思います。
<かたくら・くにお> 1933年、東京都生まれ。東京大法学部卒。60年に外務省入省。駐アラブ首長国連邦(UAE)、駐イラク、駐エジプトの大使を歴任。大東文化大教授を経て、現在は一般財団法人・片倉もとこ記念沙漠(さばく)文化財評議員。著書に『アラビスト外交官の中東回想録』(明石書店)など。
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 2022年12月22日 読売新聞「湾岸戦争90億ドル支援で日米応酬…政府、円安目減り分を別に拠出
 外交文書公開
 外務省が21日に公開した外交文書には、湾岸危機やソ連崩壊など世界の激変を前に、日本が国際協調を軸に独自の貢献を模索する舞台裏が盛り込まれている。機微に触れるテーマを扱う日中関係の難しさや、ロシアのナショナリズム勃興への警戒など、こんにちに通じるテーマも記載されている。いずれも1991年のものでファイルは19冊。主なポイントを紹介する。(肩書は当時)
 政権基盤が弱い海部首相、コメ問題より政治改革…米政府は「非生産的」と強い不信感
 湾岸戦争多国籍軍支援のため、日本が91年1月に決定した90億ドルの追加財政支援の為替変動による減額分 補填ほてん を巡り、日米首脳間で厳しい応酬が行われていたことが明らかになった。膨大な戦費を負担する米側と、財政支援のため増税まで行った日本側の必死の攻防が見て取れる。
 同年4月4日、米カリフォルニア州で日米首脳会談が行われた。翌日付の極秘公電によると、ブッシュ(父)大統領は海部首相に「どうか90億ドル全額を支払うよう努力していただけないか(My appeal would <字割E />  be,if you politically can, come through with it.)」と、丁寧ながらも強く要請した。
 これに対し、海部氏は「国会の制度上、差益や差損に対応して円建ての拠出を上下することはできない」と要請を拒否した。
 問題の発端は、90億ドル全額が自国向けと思い込んでいた米側に、実際は78億ドルしか振り向けられなかったことにある。日本は支援額について、補正予算編成時の為替レートで90億ドルに相当する1兆1700億円と円建てで計算していたが、米側はうち7億ドルが英国など多国籍軍支援に回ることを知らなかった。さらに円安となって5億ドル目減りしたことから、米側は日本に補填要求を強めていた。
 貿易摩擦による反日感情から、米議会では日本の支援不足を糾弾する声が強まっていた。ブッシュ氏はこれを踏まえ、「本件が解決されていれば、こうした議会の感情を収めることは容易になろう」と説得した。一方、海部氏も「(追加支援分の)増税も円建てで拠出し、国民の理解を得た」と反論した。
 政権基盤が弱い海部首相、コメ問題より政治改革…米政府は「非生産的」と強い不信感
 翌5日、小和田恒外務審議官(皇后雅子さまの父)とロバート・キミット米国務次官が解決策を協議。小和田氏は目減り分の拠出は不可能とくぎを刺し、「事態円満打開のため」「湾岸PKO(平和維持活動)経費への貢献というような形で、別途相当額支出を行う」と提案。日米はこの案で合意し、日本は7月9日、5億ドル相当の拠出を決定した。
 海部氏は回想録で、日米双方が支援額の支払い方法を確定していなかった背景を明かしている。それによると、1月に橋本竜太郎蔵相がニコラス・ブレイディ米財務長官と米ニューヨークで協議した際、村田良平駐米大使の同席を認めなかったという。
 海部氏は「お金のことは大蔵省が決める、という縄張り意識で外務省が重要な交渉の場から外された。その場で支払いが円建てか、ドル建てかを決めていなかった」とし、「手痛い追加出費をする結果になった」と吐露している。
 避難民輸送に自衛隊派遣…計画倒れ
 日本が自衛隊による湾岸地域からの避難民輸送を模索しながら実現せず、米国から失望を買っていた経緯がつまびらかになった。「小切手外交」との批判を 払拭ふっしょく するため人的貢献を試みながら、結局実現できなかったという反省が、後の掃海艇派遣につながっていく。
 91年1月19日付の極秘文書によると、海部首相は同17日、内閣法制局や外務省、防衛庁の幹部らに対し、「移送のために自衛隊を利用する可能性について徹底的に検討してもらいたい」と指示した。自衛隊の海外派遣に強く反対する野党を念頭に、「憲法の趣旨を踏まえ、人道的、非軍事的目的に限定して自衛隊機を利用しているとの説明もできないか」とも尋ねた。
 自衛隊法には避難民輸送を可能とする規定がなく、法的根拠が派遣の障壁だった。政府は同25日、「国の機関から依頼があった場合に湾岸危機による避難民を輸送対象にできる」との暫定的な政令を決定した。
 政権基盤が弱い海部首相、コメ問題より政治改革…米政府は「非生産的」と強い不信感
 第2次世界大戦の記憶が生々しいアジア各国に、自衛隊機の通過を認めてもらうことも課題だった。在フィリピンの日本大使館が同25日に送った公電には、フィリピンが「一回限り」などと断ったうえで、領空通過を認める姿勢を示したことが記されている。同国は「派遣が人道的配慮に基づき行われ、非軍事的な難民輸送に限られること」とも注文をつけた。
 クウェート沖に向け出港する海上自衛隊の掃海艇(ドバイ・ラシッド港で、1991年5月31日撮影)
 こうして輸送実現の道筋をつけた日本政府だったが、すでにイラククウェート侵攻から半年近くが経過しており、避難民の輸送はほぼ終了していた。避難民の移動を取り仕切る国際移住機関から日本への輸送要請はなく、派遣は計画倒れに終わった。政治判断に時間がかかったことが響いたとみられる。
 村田良平駐米大使は3月14日の公電で、「日本は結局実行する気のないことを口約束だけしたのだとつめたく受け取られていることを忘れてはならない」と、米国の冷ややかな日本への反応を伝えている。
 日本はこの後、機雷掃海のための自衛隊派遣検討に傾く。4月の統一地方選では、自衛隊の海外派遣に反対した社会党が惨敗。読売新聞の同月の世論調査でも派遣を容認する人が75%に上り、世論も変化していた。
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 2021年12月23日 しんぶん赤旗「中東派兵 憲法の制約説明
 海部氏「大戦で世界に迷惑」
 外交文書公開
 1990年の湾岸危機でブッシュ米大統領海部俊樹首相に自衛隊派兵を要求した際、海部氏が日本のアジア諸国への侵略戦争の責任を強く意識し、「憲法の制約」を掲げて慎重姿勢を示していたことが、外務省が22日に公開した外交文書から明らかになりました。(関連記事)
 外務省の90年9月30日付極秘電信によれば、イラククウェート侵攻に端を発した湾岸危機を受けた9月29日、米ニューヨークでの首脳会談で、ブッシュ氏は「日本の憲法上の制約は理解している。いかに実現されるかは承知しないが、日本が軍隊(FORCE)を中東における国際的努力に参加せしめる方途を検討中と承知するが、そのような対応が有益であること及び世界から評価されるであろう」と表明。多国籍軍への自衛隊参加を要求しました。
 これに対して海部氏は「わが国は日米安保体制の下の過去45年間の平和になれている」とした上で、「日本人は第2次大戦の際に世界に多大な迷惑をかけたことから武力の使用または武力紛争への関与は行わない旨決意している」と述べ、これが「憲法の枠組み」だと説明しました。
 その上で、海部氏は、非軍事組織の国連平和協力隊を創設し自衛隊員を一部参加させる「国連平和協力法案」に言及。「現時点においては非戦闘、非軍事のあらゆる協力を実現する方向で努力している」と述べるにとどまりました。
 同法案は90年11月に廃案となりましたが、湾岸戦争終結後、日本政府はペルシャ湾に掃海艇を派遣。90年代以降の海外派兵への突破口となりました。
 海部氏は米側の派兵要求に対して、「憲法の制約」との妥協点を探ろうとしていましたが、憲法9条が改悪されれば「制約」は一切なくなり、無制限の海外派兵に道を開く危険を示しています。
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 歴史的事実として、いくら心許せる友人と言っても、共に命を預けて戦わない人間は戦友ではないし信用できる親友でもない。
 つまり、日本には友人はいても親友や戦友はいない。
 日本人は、クウェート侵攻を解決する為に国連で結成された多国籍軍に参加しなかった事で、「人の命を金で買う人間である事」を認めた。
 そうしたエセ保守やリベラル左派が作り出した日本国・日本人像を変えたのが、安倍晋三元総理であった。
 が、安倍晋三元総理が暗殺されて、日本人は昔の日本に戻ってしまった。
 日本は、口先だけの理想的正論で現実的な解決の為に行動しない事が知れ渡っている。
 つまり、いざとなった時、日本を助けてくれる国や地域は存在しない。
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2024-01-08
💖目次)─8─近代天皇と軍部・陸軍の人道貢献・平和貢献。「歴史の修正」は悪なのか?~No.1 * 
シベリア出兵。集団的自衛権発動。
2017-08-14
💖6)─1─日本陸軍は、シベリアからポーランド人戦争孤児765人を武力で助け出した。~No.22No.23No.24No.25・ @ 
2019-10-27
💖6)─2─日本外務省・日本大使館の反ドイツ派は、帰国したポーランド孤児をナチスから助けた。~No.26・ 
2021-02-07
💖6)─3─ポーランド人蜂起部隊イェジキの子供兵士を陰で支えた反ドイツ派日本外交官。~No.27 
2023-10-20
💖6)─4─親日ポーランドと日本。知られざる歴史と友好の絆。~No.28 
2024-01-30
💖6)─5・A─国会の記録に残る〝日本陸軍ポーランド孤児を救出した〟発言。No.29 
2024-06-08
💖6)─5・B─皇室が繋ぐポーランドとの絆「支援が無ければ我々の生活なかった」~No.29 
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2017-08-17
💖7)─1─日本人軍国主義者は、シベリアのロシア人戦災児童約800人をロシア人共産主義者から救出した。~No.30・ @ 
2021-02-11
💖7)─2─ロシア人避難学童救出活動と日本シベリア派遣軍諜報機関。~No.31No.32No.33 
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2020-03-13
💖8)─1─平明丸事件。日本陸軍はシベリアで救出したトルコ軍人捕虜約1,000人を本国に送り届けた。~No.34・ 
2023-10-05
💖8)─2─シベリア出兵時。日本軍は友軍チェコスロヴァキア人傷病兵を治療した。~No.35No.36No.37 
   ・   ・   ・   
第一次世界大戦、日本が5大国の一国として国際連盟の常任事理国になった。
2017-08-18
💖9)─1─日本皇室と日本赤十字社は、パリに日本赤十字社救護班による日赤病院を開院した。~No.38・ @ 
2021-02-17
💖9)─2─日本赤十字社集団的自衛権赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」。~No.39No.40No.41 
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2017-12-04
💖10)─1─青島要塞攻防戦。ドイツ兵士の坂東俘虜収容所。丸亀・松山・久留米。「バルトの楽園」。~No.42・ 
2024-02-05
💖10)─2─日本軍は外国人捕虜の外出も認めたが、国民は敵軍兵士への厚遇に猛反対した。~No.43No.44No.45 
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2019-07-05
💖11)─1─マルタ島の偉業。日本欧州派遣艦隊は地中海の守護神である。~No.46No.47No.48No.49・ 
   ・   ・   ・   
2021-05-09
💖12)─1─1920年の華北大旱害・飢饉に対する軍国日本の調査と救済。~No.50No.51No.52 
   ・   ・   ・   
日本軍の敵軍捕虜に対する扱い。
2018-08-07
💖13)─1─日本軍は、武士道精神で戦い、戦闘が終われば戦場に残された敵軍兵士負傷者を助け保護し治療した。~No.53・ @ 
2022-02-06
💖13)─2─イギリス海軍は撃沈されたら「日本艇に救助してもらえ」と教えていた。~No.54No.55 
   ・   ・   ・   
日本民族日本人の愛国心
2017-08-23
💖14)─1─愛国心とは命を捨てる決意と死を受け入れる覚悟である。~No.56No.57No.58・ @ 
2021-07-09
💖15)─1─日本民族は漂着民の子孫で、目の前で船が難破すれば遭難者・漂流者を助けた。~No.59No.60No.61 
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小灘利春「特攻は愛するものを守りたいとの強い思いから生まれたのです」 
   ・   ・   ・   
2021-09-23
💖16)─1─堀口九萬一はメキシコ・クーデターで大統領一家を助けた。大正2(1913)年〜No.62 
2021-07-24
💖16)─2─渋沢栄一アルメニア人大虐殺のアルメニアの孤児・難民への義援金。大正11(1922)年。〜No.63 
2022-05-21
💖16)─3─東慶丸はトルコの港湾都市イズミルギリシャ人やアルメニア人の難民を助けた。大正11(1922)年。〜No.64 
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 2022年10月4日 日経BOOKプラス「名著を読む『自助論』
 名著を読む『自助論』
 「自助論」 天は自ら助くる者を助く
 奥野 慎太郎/ベイン・アンド・カンパニー 日本法人会長、パートナ...
 自助の精神がなければ、法律や政治も、人間や国家の成長をもたらすことはできない──。英国の作家、サミュエル・スマイルズが書いてベストセラーとなった 『自助論』 を、ベイン・アンド・カンパニー日本法人会長、パートナーの奥野慎太郎さんが読み解きます。 『ビジネスの名著を読む〔リーダーシップ編〕』 (高野研一著、日本経済新聞社編/日本経済新聞出版)から抜粋。
 天才とは奮励努力しようとする意欲
 『自助論』は英国の作家、サミュエル・スマイルズ1850年代後半に著しました。日本では明治維新直後に発行され、明治時代だけで100万部以上売れたとされています。様々な分野で活躍した人々の事例や言葉を引用しながら、自助の精神の重要性を訴えます。「天は自ら助くる者を助く」という序文はあまりにも有名です。
 人生は自分の手でしか開けない、自助の精神こそが人間が真の成長を遂げるための礎になると、同書は説きます。シェークスピアコペルニクスなど、過去の偉人はみな途切れることなく努力しています。こうした努力を促すという意味では、貧しさや困難も、人間の成長には恵みとなります。大数学者のラグランジュも「私が裕福だったら、おそらく数学者などにはならなかったはずだ」と述懐しています。
 天才とは奮励努力しようとする意欲であり、忍耐そのものです。万有引力の法則など、多くの発見を成し遂げた理由を聞かれたニュートンは「いつもその問題を考え続けていたから」と答えました。スチーブンソンは蒸気機関車製造の第一人者となるまでに15年余り、ワットは蒸気機関の改良研究に30年を要しています。
 多くの発見を成し遂げたニュートン(写真/shutterstock)
 根気強く待つ間も、快活さを失ってはなりません。快活さは、どんな逆境にあっても希望を失わず「逆境を逆境としない」生き方をもたらしてくれます。一度希望を失えば、何をもってしてもそれに代えることはできません。どのような仕事でもそれを好きになるように心がけ、自分自身を慣らしていくことが必要です。
 逆に、外部からの援助は努力や忍耐を阻害し、人間を弱くします。自助の精神がなければ、法律や政治も、人間や国家の成長をもたらすことはできないのです。人や社会の本質を捉えているからこそ、『自助論』は現在の私たちに自己研鑽(けんさん)を促す1冊として読み継がれているのです。
 リーダー企業の経営者が認識する「原則」
 「天は自ら助くる者を助く」
 これはビジネスの世界においても多くの場面で私たちが直面する原則です。例えば、自社の業績不振の原因を、外部環境の変化やそれに伴う業界全体の不振に求める議論を聞くことは珍しくありません。しかし、ほとんどの業界において、リーダーとしての地位を確立した企業は高い収益と持続的な成長を実現しています。多くの経営者も、このことを経験的に認識しています。
 ベイン・アンド・カンパニーが全世界の約400人の経営者を対象に実施した調査によると、「自社の成長を妨げる社内外の主要因」として指摘されたものの多くは「重要課題へのフォーカスの不足」「企業文化」「組織の複雑性」などの内部要因であり、「市場における成長機会の不足」などの外部要因を指摘する声は全体の15%に過ぎませんでした。
 結果として表れる業績の違いは、そうした成長を妨げる内部要因を直視し、根気強く社内を説得・変革し、競争力を磨き続けられるかどうかにかかっています。
 言い換えれば、成功のためには「どこで戦うか」より「どう勝つか」がより重要である、ということもできるでしょう。企業全体にせよ、1つの部署やプロジェクトにせよ、常に快活さを失わず、「どう勝つか」を忍耐強く考え続けていれば、そこから成功のための「ひらめき」が得られたり、勝つための新しい道筋が見えてきたりするのです。
 明治維新後の日本が、資源も資金も技術も不足している中で、驚くべきスピードで近代化を成し遂げ、世界の強国の仲間入りを果たしたのも、こうした自助の精神のたまものに他ならないでしょう。明治時代にはこの『自助論』が学校の教科書としても使われていたという事実からも、かつての日本において自助の精神がいかに重視されていたかがうかがえます。
 自助原則の否定は強い企業までむしばむ
 著者紹介
 奥野 慎太郎
 ベイン・アンド・カンパニー 日本法人会長、パートナー
 京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院経営学修士課程修了。東海旅客鉄道JR東海)を経て、ベインに入社。テクノロジー、産業財・自動車、消費財、流通等の業界において、M&Aや企業統合、構造改革などを中心に、幅広い分野のプロジェクトを手がけている。ベイン東京オフィスにおける産業財プラクティスのリーダーを務める。
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