🪗32:─1─真の保守とは何か?西部邁の遺言。~No.117No.118 

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 保守は多種多様だが、リベラルと左派は一種一様である。
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 現代日本の保守は、一つではなく正統保守、真正保守、エセ保守、俄保守、右翼保守など数多くの保守が存在する。
 その中でも俄保守が、高市旋風に乗った一時的な保守ブームで急増している。
 自民党は、純粋な保守政党ではなく、党内には安倍・高市などの保守から右派、リベラル、左派まで雑多な政治家が存在している。
 その色分けは、神話の血筋を正統な根拠とする現天皇家を守るか守らないかである。
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 2026年4月10日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「真の保守とは何か?「保守ブーム」の日本を撃つ西部邁の遺言『保守のコスモロジー』刊行記念エッセイ
 富岡 幸一郎(文芸評論家) に
 西部邁からの最後の電話は、「国家論を書け」という遺言だった――。
 「保守」という言葉が乱立し、空前の保守ブームとも言われる今、文芸評論家・富岡幸一郎氏が「真の保守とは何か?」を問う新刊『保守のコスモロジー』が刊行されました。
 政治学者・中島岳志氏が「日本にとって正統とは何かを問う迫真の一冊」と評する本書は、保守論客として活躍し、2018年に自裁した西部邁氏の軌跡をたどりながら、歴史の中に保守思想の「正統」を探る注目評論です。
 著者がその背景を明かすエッセイを、「群像」2026年5月号より転載して公開します。
 「保守」と「革新」の逆転
 「保守」という言葉はながらく負のイメージを荷っていたが、戦後の日本においていつ頃からか逆転が起こった。「革新」という言葉に対してである。
 三島由紀夫が東京・市ヶ谷にあった陸上自衛隊の東部方面隊駐屯地で割腹自殺したとき、私は中学一年生であった。
 昼休みにたまたま職員室に行くと、先生方が立ちあがって大部屋に一台あるテレビに釘づけになっていた。私が入り口で困惑していると、近くにいた教師の一人が、「ミシマユキオが切腹した」と言った。私はもちろんその名前が誰であるかを知らず「アオシマユキオ」と聞き違えて、自分の教室に戻って級友たちに「アオシマユキオが切腹したらしい」と大きな声で言うと、教室は騒然となった。チャイムが鳴り英語の教員が入ってくると、「アオシマ」ではなく「ミシマ」だと言い、授業をつぶして一時間「ミシマユキオ」について喋った。ノーベル文学賞の候補にもなったらしい偉い作家が、何で自衛隊で切腹し、しかも首を落とされたのか。その日帰宅して、その首が写っている新聞の夕刊やテレビのニュースを眺めながら、私は増々困惑する他はなかった。
 1970年11月25日、自衛隊員に向かって演説する三島由紀夫。photo by GettyImages
© 現代ビジネス
大方の報道は右翼的な事件として批判的であった。当時は「革新」が圧倒的に人気で、五年後の東京都知事選では美濃部三選に対抗して出馬した石原慎太郎も革新都政の前に敗れた。一九七二年に連合赤軍のあさま山荘事件があり、七四年には東アジア反日武装戦線の東京丸の内の三菱重工本社ビル爆破事件など、六〇年代後半からの全共闘運動や新左翼運動は過激さのピークに達していた。私は旧来のマルクス・レーニン主義に煽られた連合赤軍事件(仲間のリンチ殺人など)には拒絶反応しかなかったが、東アジア反日武装戦線には何か別な感じを持っていた。「狼」「さそり」「大地の牙」という当時流行していた同世代の阿呆な暴走族めいたグループ名にではもちろんなく、東アジア反日武装戦線が、七四年八月十四日に荒川鉄橋を通過する昭和天皇の「御召列車」を爆破し暗殺しようとしていた(未遂)ことを知ったからである。多くの被害者を出した大企業のビル爆破などは認められないが、この天皇暗殺未遂には明らかに別なものがある。
高校生であった私は、すでに「アオシマユキオ」ではなく三島由紀夫のかなりの著述を読んでおり、特に『太陽と鉄』や『文化防衛論』を精読していた。三島の市ヶ谷自衛隊での「天皇陛下万歳」が決して戦前的な右翼の天皇崇拝ではないこと、むしろ二・二六事件の青年将校磯部浅一が『獄中手記』であらわした昭和天皇への呪詛にも重なり、そしてそれは昭和十年十一月二十五日(すなわち二・二六事件の三ヵ月前)に完結した『夜明け前』の主人公・青山半蔵の悶死(維新の間違いを明治天皇に直訴しようとして幽閉された)にもつながるものを感じていた。その根底にあるのは、明治維新以降の天皇制もふくむ近代日本の存立そのものへの懐疑であり、徹底した批判の思想である。
一九七九年に大学四年生だった私は、『群像』新人文学賞の評論部門で優秀作(佳作)を受賞する。埴谷雄高と三島由紀夫を論じた百枚ほどの評論である。埴谷雄高の「存在の革命」と三島由紀夫の天皇による「革命」を、人間の「意識」の次元でとらえてみようというものだったが、当然ながら未熟な舌足らずに終わった。ちなみに小説部門の同時受賞は村上春樹の『風の歌を聴け』であり、一読驚嘆する他はなかった。その新しさは、現代アメリカ文学の翻訳風の文章によるものではなく、四半世紀以上も続いた戦後的な「政治と文学」の二項対立を、完全に空無化する虚無の風が吹いていたからだ。
その後の、一九八〇年代のジャパン・アズ・ナンバーワン、経済バブルとその崩壊の九〇年代の「空虚」は、村上春樹(当時三十歳)の、この一篇にすでに内包されていた。いや、その後の「失われた三十年」から現在へとつながる時代の喪失の空気感も、この作品にぎゅっと凝縮しているように思われる。
その間、まさに二十世紀後半から「保守」という言葉は奇妙なブームを巻き起こしていった。本書の冒頭で記したので興味ある方は読んでいただきたいが、それは一九九一年の冷戦終結、つまりソヴィエト連邦という社会主義体制の崩壊という世界史的な現実が関与しているかに見えるが、実際には日本では戦後体制(冷戦構造)を、崩れゆくなかでだらだらと保持してゆこうということになった。簡単に言えば、アメリカ合衆国への従属という「戦後」を維持継続することである。言うまでもなく、それは「保持」であり真の「保守」ではない。
 私自身は「ソヴィエトの死」を統一一年目のドイツにおいて目撃することになった。翌年帰国して驚いたのは、日本がこの世界史の潮流に全く無感覚のまま漂流していたことである。ほどなくしてこの国は巨大な空虚の中へと沈没していった。
 西部邁の戦いと死
 一九八八年に私が出会った評論家の西部邁は、この沈没船から真正保守の旗をかかげて言論活動を展開していった。一九九四年に月刊誌『発言者』を創刊、前年の十一月の創刊準備号から執筆者として加わった私は、二〇〇五年からの隔月刊誌『表現者』では編集委員、編集長を務めることになった。およそ三十年余り身近にあって、西部邁の獅子奮迅の言論の戦いをみてきた。若き日に共産主義者同盟(通称ブント)の代表者であり、六〇年安保反対闘争の中心にいた西部邁は、八〇年代以降、保守論客として活動したが、二〇一八年一月二十一日未明、酷寒の多摩川で入水自殺を遂げた。
 その死の一週間ほど前のことである。西部邁からの最後の電話で、「国家論を書け」と言われた。私への遺言であった。八年の歳月を要したが、今回それを別の形で書いてみた。
 今日、「保守」という言葉が乱立している。皇室があり、歴史と伝統の国である「日本」はすばらしい、と保守を自称する人たちは言う。しかしその本質を、誰も問わない。
 西部邁は安保ブントの革命派から、現状維持の保守派に転向したのではない。その思想家としての底流には、一貫して「古く大事な価値をふたたび巡りきたらせる」レボリューション、すなわち革命思想があった。それは天皇の在り方もふくめた、この国の「近代」を根底から懐疑し批判することに重なる。問題は、この国の歴史と伝統の何処に「古く大事な価値」を求めるかである。私はこの本で、それを「正統」という名で呼んでみた。
 そのことを明晰に書き得たかどうか。西部邁との約束を果たし得たのだろうか。読者に判断していただく他はないのである。
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 日本人の共産主義や無政府主義の過激派は、大正時代から昭和時代全般にわたってキリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇や皇族を惨殺するつけ狙っていた。
 戦前までは治安維持法や大逆罪や不敬罪で天皇や皇族をテロリストから守っていたが、戦後は名誉棄損罪しか命や地位を守る法律がなくなっている。
 だが、天皇や皇族には身を守る為とはいえ命を狙ってくる反天皇派の日本人を訴える事ができない。
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