🎺57:─2─李氏朝鮮王族が参加した皇族会議は、バーンズ回答文を受け入れて降伏する事に同意した。1945年8月12日 ~No.280No.281No.282 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軍国日本にとって、二発の原爆投下よりもソ連の参戦の方がよりショックで、ソ連軍によって日本本土が蹂躙され、日本が共産主義に占領される前に降伏するべきであると判断した。
 軍国日本が降伏した理由は、2発の原爆ではなく、ソ連の参戦であった。
 ソ連軍は、国家間の国際法に基づいた正式な条約を不義理に破り、軍国日本を侵略し、軍国主義者を惨殺していた。
 ロシア人兵士は、満州樺太などで逃げ惑う数十万人の無抵抗な日本人避難民を襲い、悪鬼の如く、悪魔のように、女子供や老人を容赦なく虐殺して回っていた。
 それが、共産主義者の真の姿であった。
 軍国主義者は、日本天皇と祖国日本を共産主義者の魔の手から守る為に戦争犯罪を行った。
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 8月12日午前零時45分 外務省ラジオ室と同盟通信社は、サンフランシスコからの短波放送でバーンズ回答文を受信し、午後2時にバーンズ回答文を翻訳して関係各方面に届けた。
 昭和天皇も、独自に、皇居内で短波放送を聞いていた。
 バーンズ国務長官の回答。「日本政府の形態は、日本国民の意思によって決定される」。天皇制度の存続は日本人が決めれば良いとして、国體護持を認めた。
 アメリカ陸軍航空部隊は、軍国日本からの受諾返事を待つ為に日本本土への空爆を一時停止した。
 東郷外相ら和平派は、第一項の「天皇と日本政府の権威は連合国最高司令官サブジェクトする」を「制限下に置く」と意訳し、第四項の「日本の究極的な政体は日本国民の自由に表明された意思によって定められる」は国體の否定に言及していないと誤魔化した。
 鈴木貫太郎首相は、ソ連軍に樺太を軍事占領され、北海道も奪われる恐れがあると憂慮して、即刻アメリカに降伏すべきであると覚悟した。
 陸軍省軍務局は、外務省の詭弁を暴くために独自に翻訳して、サブジェクトを国體破壊を意味する「隷属する」と解釈し、天皇統治を否定しマルクス主義的人民政権の樹立を要求していると指摘した。
 陸軍省内の継戦派は、戒厳令を布いて軍事独裁政権を樹立し、昭和天皇を幽閉して、和平派を粛清するクーデター計画を進めていた。
 参謀本部の河辺参謀次長は、聖断が下った以上は、個人の意見がどうであれ、帝国軍人としてジタバタする事なく天皇の命令に従うのみであるとして、クーデター計画に反対した。
 梅津参謀総長も、これ以上の抗戦は無意味であるとした。
 阿南陸相は、本心を隠しながら、抗戦派に一定の理解を示して、若松陸軍次官に対処を命じた。
 大西軍令部次長は、陸軍の継戦派と行動を共にしていた。
 米内海相は、豊田軍令部総長と大西次長に対して、聖断に従わなければ軍紀違反として更迭すると厳重注意した。
 米内光政「私はかねてから時局収拾を主張する理由は、敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾ソ連参戦でもないし、一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である」
 東京に、三発目の原爆が投下されるとの噂が流れた。
 陸軍特種情報部や海軍大和田通信隊は、新たなコールサインを発する特殊任務機が東京に向かっているとの電波情報をキャッチするや、上部機関に警報を発した。
 午前8時 梅津参謀総長と豊田軍令部総長は、バーンズ回答に絶対反対と上奏した。
 「我が国體の破滅、皇国の滅亡を招来する」
 閣議平沼騏一郎枢密院議長は、バーンズ回答に不満を漏らした。
 「この回答は不満である。日本の天皇の御(おん)位置は、神(かん)ながらの御位置であって、日本国民の意思以前の問題である。然るに先方の回答は、その事を理解していないで、日本国民の意思によって天皇制の護持をするかどうかという事を決めようとしておるが、それは明らかに日本国體の本義と若干違うんじゃないか。この際、もう一遍アメリカに対して日本の国體の本義の事をよく説明して、納得のいく説明を取らなければ自分は同意できない」
 10時半 東郷外相は、昭和天皇に謁見して、バーンズ回答の内容と外務省の見解を上奏した。「天皇の国家統治の大権を変更する内容はないと、確認が取れたと解釈した」。
 昭和天皇は、回答の通りに応諾しその旨を鈴木首相に伝える様に命じた。
 昭和天皇は、外務省の解釈を支持し、バーンズ回答文を修正なく受け入れる事に同意した。
 午後3時 宮中で皇族会議が開かれ、三笠宮高松宮から李王垠や李鍵公までの13名の宮家は、バーンズ回答受諾に賛成し、天皇の決断を支持する事を合意した。
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 午後3時 皇族会議。
 昭和天皇は、日本の運命を決定する重要な皇族会議であるとして、皇族の資格を持つ李氏朝鮮王族の参加を認めた。
 日本皇室は、八紘一宇の精神から、李氏朝鮮王族を家族の一員として遇し、李氏朝鮮王家を大事に保護していた。
 軍部も、李氏朝鮮王族を皇族の一員として特別扱いして、将官として重要な役職を与えていた。
 日本人兵士は、上官となっている李氏朝鮮王族の命令を天皇の命令として聞いて、その指示に従って行動していた。
 日本には、世界常識がない。
 昭和天皇が、戦争に反対し終戦を望んでいたというの事実が分かっていても、昭和天皇には戦争犯罪があり戦争責任があると糾弾されている。
 ユダヤ人達は、異教徒を最も嫌い、祭祀王・日本皇室と宗教的天皇制度の廃止を突き付けられている。
 ユダヤ人難民達を助けたA級戦犯達が祀られている靖国神社も、廃絶したいと望んでいる。
 男子皇族の減少に伴い日本皇室は消滅の危機に追いやられているが、日本人は皇室に対する尊崇の念が薄れ消滅してもきにはしない。
 左翼・左派のマルクス主義者や、韓国・北朝鮮及び中国は両手を挙げて歓迎している。 
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 昭和天皇は、朝香宮に、日本が日本らしく存続する為には国體護持は譲れない最低限条件である以上、国體護持が認められなければ戦争を継続するつもりである事を明言した。
 皇族会議は、皇室の安泰を最優先する事で一致した。
 陸軍内の徹底抗戦派が、戦争継続の為に、クーデターを起こし、三笠宮を新たな天皇に即位させようとしているというが噂が広まっていた。
 アメリカ軍情報部は、日本海軍が朝鮮半島北部の沖合で原爆実験を成功させたという怪情報を得たが、その真偽は定かではなかった。
 アメリカは、天皇の戦争責任を求める国際世論に配慮して、天皇存続という国體護持について曖昧な正式回答を行った。世に言う、バーンズ国務長官の回答文である。
天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の制限下に置く、……日本政府の最終的な形態は、日本国民の総意で決められる」
 アメリカは、ドイツ帝国ロシア帝国の様に、日本人民が自の自由意志で専制君主である天皇制度を廃止する事を期待した。
 6時 外務省は、バーンズ回答文の正式文書を受けとった。
 中国や東南アジアに配備されていた現地軍司令官達は、陸軍中央に対して、太平洋戦争における惨敗は海軍の敗北であり、陸軍主力部隊は無傷であるとして戦争継続の意見具申を行った。
 終戦手続きを誤れば、満州事変以来の「現地軍の軍令違反による暴走」という悪例が再演される恐れがあった。
 昭和天皇や東郷ら和平派は、慎重に終戦工作を行っていた。
 夕方 スイス公使館付き陸軍武官から、陸軍省に、「天皇御位置に関する各国の反響」と言う報告書が届けられた。
 同情報源は、OSSスイス支局といわれている。
 「1,ワシントン官憲筋の意見区々なるも一般的に天皇は軍部の計画に参与せられあらず且民主的日本の現実には天皇の御存在は障碍ならず。
 2,前駐日イギリス大使クレーギーは、現在アメリカが特に国内混乱を避けんとせば皇室維持必要なりと語る。
 3,……
 4,……
 5,天皇のみ全日本軍に対する武装抛棄を命ずるを得るなり。天皇のみ克く国内の治安維持を為し戦争を終結に導き得るなり」
 この報告書は、鈴木首相と木戸内大臣に送られ、おそらく昭和天皇にも手渡されたであろうと言われている。
 海外の陸軍武官達は、日本の破滅を救うべく戦争終結の為に、外交官達と協力して極秘に和平交渉を続けていた。
 海軍武官達の行動は鈍く、成果は乏しかった。
 イギリスの前駐日大使クレーギーは、皇室の安泰は絶対に必要であると語っているが、国民世論の支持を得られていないと。
 イギリス世論は、日本軍の捕虜虐待報道に激怒して、昭和天皇を退位させ、軍国日本を消滅させる事を望んでいると。
 ソ連と中国は、皇室の存続に猛反対し、昭和天皇ナチスの戦犯同様に裁判にかけ厳罰(死刑)に処すと事をの望んでいると。 
 アメリカ世論も、昭和天皇戦争犯罪人として裁く為に強制退位させ、天皇制度を軍国主義の源泉であるとして廃止する事を支持していると。
 アメリカ人は、真珠湾騙し討ちに対する報復に燃えていると。
 権威主義と事なかれ主義という無責任体質が骨の髄まで染みついた日本官僚の怠慢が、日本を不幸にしていた。
 スウェーデンなどの中立国の日本大使館からも、同様の報告が東京に伝えられていた。
 トルーマンは、満州に於けるソ連軍の快進撃を苦々しく思いながら、日本からのバーンズ回答に対する返答を辛抱強く待っていた。
 連合国賠償委員会のポーレイ大使は、トルーマンに「朝鮮と満州の工業地域を占拠する為にアメリカ軍を速やかに派遣する様に」と勧告した。
 モスクワのハリマン大使は、中ソ交渉の経過を報告すると共に、ソ連が全満州を席捲する前に遼東半島と朝鮮にアメリカ軍を上陸させるべきであると伝えた。
 重慶のハーレイ大使とウェーデマイヤー中将は、中国共産党が日本軍と南京政府の支配地に勢力を拡大し、内戦の危機が迫っていると報告した。
 ワシントンの反共産主義者は、ソ連軍と中国共産党が協力してアジアを共産主義化する恐れがあると危惧した。
 ワシントンの軍首脳は、日本が降伏しなければ第三発目の原爆を投下するのもやむを得ないとの認識を持ち始めた。
 CBSラジオのエドワード・R・マロー「これまでかって、戦争の勝利者がここまでの不安と恐怖に駆られる事は全くといっていいほどなかった。それは、未来は不透明で我々の生存の保証はないという認識を伴うものであった」
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 8月13日 アメリカ軍は、日本からの降伏返事がない為に本土空爆を再開した。
 三江省の読書村などの四開拓団は、退避列車への乗車を拒否し、村と財産を守る為に武器を取った。後に。ソ連軍の攻撃と中国人暴徒の襲撃で皆殺しにされた。
 守備に残された日本軍と警察官や地方事務所職員らは、混乱する開拓民らに速やかに後方に避難するように催促したが、開拓民らの避難は遅れていた。
 日本人開拓団の荷物を襲撃して奪おうとする中国人らは、日本軍守備隊がいなくなった開拓村に対して避難中止の偽指示を出し、襲撃するまで村の中に閉じこけた。そして、襲撃して全員を虐殺し、財産を奪い、女性を強姦し、子供は売りさばいた。
 ソ連軍は、日本人避難民の集団を見付けるや襲撃し、男は殺し、女性を強姦した。
 逃げられないと覚悟した日本人難民達は、「戦陣訓」に従って、ソ連軍の捕虜になる事を避けて集団自決した。
 一部の継戦派若手将校は、無条件降伏を阻止する為にクーデターを企て、梅津参謀総長、河辺参謀次長、若松陸軍次官ら陸軍首脳の賛同を得ようとするが失敗した。
 阿南陸相は、事態が終戦に向かっている事を知りながら態度を明らかにせず、継戦派の暴発を押さえながら期待が通る様に戦争継続を譲らず、バーンズ回答を拒否する為の行動を続けていた。
 継戦派は、孤軍奮闘する阿南陸相に全てを一任した。
 午前 阿南陸相と第二総軍司令官畑俊六元帥は、昭和天皇に拝謁した。
 阿南陸相と木戸内大臣は、在外大使館からの報告をもとにして、バーンズ回答について激論した。
 阿南は、国體護持が保証されていないと主張した。
 木戸は、昭和天皇は全て承知の上で皇室の存続は可能であると判断して決断したと説得した。
 午前9時 最高戦争指導会議。内閣法制局長村瀬直養は、バーンズ回答は法的に国體に抵触しないという外務省解釈を支持した。
 阿南は、天皇制存続の解釈をめぐって猛反対した為に会議は紛糾した。
 東郷は、今日の事態に於いて、バーンズ回答の修正を要求する事は拒否と受け止められる恐れがあるとして譲らなかった。
 昭和天皇は、統帥部に対して、戦争終結の条件に審議している間は攻撃的軍事行動を停止する様に命じた。
 梅津参謀総長は、防衛行動以外の軍事行動はしないと確約した。
 午後2時 東郷は、皇居に参内して会議が紛糾してまとまらないと報告した。
 昭和天皇は、戦争を終結させる為に東郷の見解を支持すると伝えた。
 「阿南よ、余には確信がある」
 昭和天皇は、国民にこれ以上の被害を負わせるわけには行かないとの思いから、戦争を終結させる固い決意を持っていた。
 4時 閣議が開かれ、東郷ら12名がバーンズ回答を受諾に賛成し、阿南ら3名が反対して全会一致とはゆかなかった。
 日本の意思決定は、全会一致が原則であり、一人でも反対すると決定しなかった。
 会議中に。継戦派は、陸軍大臣参謀総長の許可を得ずに、戦争継続の偽大本営発表を行おうとした。
 内閣綜合計画局池田純久中将が、発表直前で取り消した。
 7時 明日、御前会議を開き、昭和天皇の聖断を仰ぐ事を決めて散会した。
 鈴木首相らは、原爆のさらなる投下よりも、ソ連軍が日本に上陸する前に戦争を終結させるべく焦っていた。
 阿南は、戦争継続は不可能と判断し、継戦派を鎮める為には自分が自決するしかないと覚悟した。
 それ以前から、自決は考えていた。 
 陸軍省首脳部は、戦争を終結させる共に継戦派によるクーデターを押さえ込む為に、聖断遵守の体制を整え、軍隊に昭和天皇の命令に従い、昭和天皇の意思に逆らうクーデターを起こさない様に厳命した。
 クーデター計画の継戦派は、阿南陸相を首謀者に担ぎ出す為に説得を試みたが、不首尾に終わった。
 アメリカ軍は、国民に天皇、政府、軍部に対する不信感を募らせ、世論を分断して無条件降伏させるべくポツダム宣言とバーンズ回答文を詳しく書いたビラを日本各地に播いた。
 連合国軍は、ドイツ革命やロシア革命同様に、日本人に暴動や内戦を起こさせて内部崩壊させるべくプロパガンダを行っていた。
 B29重爆撃機による日本空爆は連日連夜繰り返し行われ、民間人数万人が犠牲となっていた。
 アメリカ海軍艦載機は、攻撃目標が軍事施設ではなく民間施設と知りながら攻撃し、逃げ惑うのが女子供の一般市民である事も低空飛行で認識しながら機銃掃射を行った。
 日本軍は、本土決戦に備えて戦力を温存するべく、一般市民の犠牲に目をつむって迎撃しなかった。
 某海軍司令官は、アメリカ人戦闘機パイロットが撃墜されて捕虜になるや、軍法会議を開き非戦闘員と知りながら殺害した罪によって処刑した。
 アメリカ人パイロットは、上官の命令によるもので無罪を主張したが認められなかった。
 戦後。その海軍司令官は、戦争犯罪者として逮捕され、捕虜虐殺の罪で処刑された。
 つまり。戦勝国の兵士の命は、敗戦国の民間人の命よりも重いとされた。
 ワシントンは、日本からの返答がない為に苛立ち、決断できない日本指導部を恫喝する為に原爆投下をほのめかす最後通牒の通告をするかどうかの協議を始めた。
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 スウェーデン公使岡本は、東京に電報を送った。
 「日本の保留承認の可否に付米英共に政府部内において賛否両論あり最初の米側『テキスト』は天皇の地位を連合国の指導下に認むる旨の文句あり、又英側において起草せるものには天皇の地位を認めつつもonly until further noticeなる制限を附せりソ連は最も強硬に文字通り無条件降伏を主張し之が為36時間に亘り4国に間に極力折衝せる結果結局天皇の地位を認めざれば日本軍隊を有効に統率するものなく連合軍は之が始末になお犠牲を要求せらるべしとの米側意見が大勢を制して回答文の決定を見たるものにて回答文は妥協の結果なるも米側の外交的勝利たりと評し居れり……なお昨日来のBBCその他敵側放送は連合国は日本の申し出を条件付きにて受諾せるものなりと述べ〈アクセプト〉なる語を使い居れるは注意を要す」
 同電報は、鈴木首相や木戸内大臣、そして昭和天皇に渡された。
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 中立国アフガニスタン。カブール駐在の七田基玄公使は、東京の東郷外相宛に、アメリカ公使館の政務班長から聞かされた国務省の「天皇制を維持する」という最終方針を、「カブールにおける日米和平交渉」と題して特殊な緊急極秘電報を、夕方から夜にかけて送った。
 七田電報が外務省に届いたのは、同日の深夜頃とされている。
 昭和天皇の生命及び地位と天皇制度の国體護持が、完全に保証された事が伝えられた。
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 8月13日・14日 満州国・魔統石の攻防。石頭予備士官学校生徒850人中750人が、ソ連軍の侵攻を食い止める為に戦死した。
 学生達は、T34戦車150輛の進撃を止める為に爆雷を抱えて突っ込んで自爆した。
 学生達が陸の肉弾特攻を行う事で、関東軍主力の撤退と最終防衛線を築く時間と、満州開拓団が一人でも多く逃げられる時間を稼いだ。
 他にも、日本人避難民が逃げる時間を稼ぐ為に、全滅を承知で戦った部隊が幾つか存在していた。
 将兵は一丸となって、命欲しさで降伏もせず、敵前逃亡もせず、最後の一人になるまで敵兵を殺し続けた。
 日本兵は、敵兵を殺す事に罪悪感を抱かなかったし、無駄な死と怨む事も、犬死にだと呪う事もなく、死ぬ事に後悔はしなかった。
 靖国神社を想いながら戦死し、死体を葬られる事なく山野に晒し、オオカミや鳥のエサにした。
 関東軍は、祖国日本をソ連軍・共産主義勢力の侵略から守る事を最優先として、満州開拓団を犠牲にした。
 民兵や自警団は住民や市民を守る為に戦ったが、軍隊は国家・政府を守る為に戦争をした。
 日本軍は、日本天皇を守る公の国軍であり、人民を守る民の私兵ではなかった。
 それが、戦時国際法・国際的軍事規定に従う国家と国家の戦争であった。
 国際法認められた国家ではなく人民のみを守って戦う軍隊は、犯罪武装集団のゲリラか便衣隊か盗賊とされ、人権も認められず、如何なる権利も剥奪さ、一切の保護も得られず即処刑された。
 だが、ロシア人兵士は、日本人兵士を軍国主義者と決めつけて攻撃し、戦時国際法を適用せず惨たらしく虐殺した。
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 2018年4月21日 産経ニュース「【昭和天皇の87年】激高する軍部 天皇は「至極冷静に」対応した
 バーンズ回答の衝撃(1)
 昭和20年8月10日、昭和天皇の聖断により、「国体護持」を唯一の条件として米英中ソに発信されたポツダム宣言受諾の緊急電報−。その回答が、12日に返ってきた。
 「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官にsubject toする…」
 外務省に、激震が走った。
 (be)subject toの意味は「支配下にある」、もしくは「従属する」だ。これを直訳すれば抗戦派が激怒するに違いない。
 しかも回答には、「最終的な日本の政治形態(The ultimate form of government of Japan)は日本国民の自由に表明する意思により決定される」とあった。
 主権在民の発想であり、天皇主権の大日本帝国憲法と相いれない。唯一絶対の条件であった「国体護持」が、拒絶されたとも解釈できた。
 この回答は12日午前零時、米サンフランシスコのラジオ放送より、米国務長官ジェームス・バーンズの書簡(バーンズ回答)として発表された。それを傍受した外務省は、「subject to」を「従属する」ではなく「制限の下に置かれる」、「form of government」を「政治形態」ではなく「政府の形態」と意訳した。
 政府であれば天皇は含まれない。陸軍など抗戦派の反発を恐れての、精一杯“穏やかな表現”だった。当時、外務省の条約局長としてバーンズ回答の翻訳にあたった渋沢信一は、戦後の手記で「軍人は訳文にたよるに違いないからこれはうまく訳さなければいかぬと思った」と述懐している。
 だが、すでに陸軍も回答を入手し、抗戦派は「隷属する」と訳していた。
  × × ×
 なぜアメリカは、日本側が受け入れがたい回答をよこしたのか。
 実は、日本からのポツダム宣言受諾電報について米大統領ハリー・トルーマンが側近らと協議した際、陸軍長官ヘンリー・スチムソンと軍事顧問ウィリアム・リーヒーは国体護持の条件を承認すべきだと主張した。これに対しバーンズが、日本側が持ち出した条件を受け入れる形はとりたくないとして、自らペンをとって回答文を起草したのだ。
 バーンズは、日本への原爆投下を強く主張した人物としても知られている。
 この回答に、果たして抗戦派は激高した。参謀総長軍令部総長がそろって参内し、昭和天皇に受諾拒否を求めたのである。
 以下、『昭和天皇実録』が書く。
 《(8月12日)午前八時四十分、(昭和天皇は)御文庫において参謀総長梅津美治郎軍令部総長豊田副武(そえむ)に謁を賜い、当面の作戦につき奏上を受けられる。また両総長より、サンフランシスコ放送を通じて入手のバーンズ回答の如(ごと)き和平条件は断乎(だんこ)として峻拒(しゅんきょ)すべきであり、統帥部としては改めて政府との間に意見の一致を求め、聖断を仰ぎたき旨の奏上を受けられる》(34巻39〜40頁)
 バーンズ回答では国体護持が危うい、もはや徹底抗戦しかないという、両総長の憤慨ぶりが伝わってくるようだ。
 これに対し昭和天皇は、「至極冷静に」対応したと、当時参謀次長だった河辺虎四郎が戦後に回想している。
 「梅津総長が(皇居から)帰って来られたとき、上奏の際の模様をたずねたところ、天皇は至極冷静に総長の申し上げることをお聴きの後、公式の敵側の返信でもない放送、しかもその日本の訳語もよく練ったものかどうかも疑わしいのに、それをつかまえてやかましく議論立てすることなど、つつしむべきだと、両総長をむしろ戒められるお気持ちを拝したとのことであった」
 だが、それで大人しく引き下がる抗戦派ではなかった−。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
  ◇
 【参考・引用文献】
宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
迫水久常『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』(ちくま学芸文庫
○河辺虎四郎『市ケ谷台から市ケ谷台へ 最後の参謀次長の回想録』(時事通信社
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 ポツダム宣言 「全日本軍の無条件降伏」などを求めた米英中3カ国首脳による宣言。軍国主義の除去▽領土の限定▽武装解除戦争犯罪人の処罰▽民主主義的傾向の復活−などの条件を示した上、日本への降伏要求の最終宣言として、1945(昭和20)年7月26日にドイツ・ベルリン郊外のポツダムで発表された。これに日本の陸海軍は反発したが、東郷茂徳外相をはじめ終戦派は、国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件として受諾すべきと主張。激論の末、昭和天皇の聖断により外相案で決定し、中立国を通じて米英中ソ4カ国に「(ポツダム宣言の)条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に右宣言を受諾す…」とする緊急電報が発せられた。
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 4月22日 産経ニュース「【昭和天皇の87年】皇族を一斉呼集 天皇の決意はいささかも揺るがなかった
 バーンズ回答の衝撃(2)
 「全軍将兵に告ぐ、『ソ』連遂に皇国に寇す、明文如何に粉飾すと雖(いえど)も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲(ここ)に至る、又何をか言はん、断乎(だんこ)神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ」
 昭和20年8月10日の夕刻、新聞各社に配布された「陸軍大臣布告」だ。国体護持を唯一の条件としてポツダム宣言受諾を決めた昭和天皇の聖断に、背をそむけるような内容である。
 これに誰より驚いたのは当の陸相阿南惟幾(これちか)だっただろう。布告は抗戦派の一部将校が独断で作成し、阿南には知らされていなかったからだ。
 いよいよ暴走する兆しを見せ始めた陸軍の抗戦派−。「少しく政情に通じた人々は、ここにいたつて、政府と陸軍との最後的対立を来したものと見て、頗(すこぶ)るこれを憂慮した」と、外務省編集の『終戦史録』が書く。
 そんな抗戦派の主張に、半ばお墨付きを与えたのが、「天皇は連合軍最高司令官にsubject toする」とした連合国のバーンズ回答だった。「国体護持の条件は拒絶された」「ポツダム宣言受諾を撤回すべし」と、陸軍将校らの鼻息は荒ぶるばかりだ。
 しかしこの時、抗戦派を抑えようと、昭和天皇が自ら動いた。
 8月12日《午前十一時五分、天皇は御文庫において外務大臣東郷茂徳に謁を賜い、バーンズ回答の趣旨、及びこれに対する措置振りにつき奏上を受けられる。外相に対し、先方の回答どおり応諾するよう取り計らい、なお、首相にもその趣旨を伝えるべき旨を仰せられる》(昭和天皇実録34巻40頁)
 連合国からバーンズ回答を示されても、昭和天皇の即時終戦の決意は、いささかも揺るがなかった。ポツダム宣言を速やかに受諾するよう、弱気になりつつあった外相を激励したのである。
   × × ×
 昭和天皇は、日本に戦う余力のないことを知っていた。ここは、たとえ理不尽であっても連合国の回答を受け入れ、一刻も早く終戦して国民の被害を最小限に抑えるしかない。
 続いて昭和天皇は在京の皇族を呼び集め、終戦の決意を伝えて協力を求めた。
 《午後三時二十分、御文庫附属室に宣仁(のぶひと)親王・崇仁(たかひと)親王・恒憲(つねのり)王・邦壽(くになが)王・朝融(あさあきら)王・守正(もりまさ)王・春仁(はるひと)王・鳩彦(やすひこ)王・稔彦(なるひこ)王・盛厚(もりひろ)王・恒徳(つねよし)王・李王垠(ぎん)・李鍵(けん)公をお召しになり、現下の情況、並びに去る十日の御前会議の最後に自らポツダム宣言受諾の決心を下したこと、及びその理由につき御説明になる》(昭和天皇実録34巻41頁)
 開戦以来、皇族が一堂に会するのは初めてだった。東久邇宮(ひがしくにのみや)稔彦王回顧録によると、皇族は戦時中、「陛下の御耳に雑音を入れないためにというので、拝謁できないことになっていた」という。それだけにこの日、久々に拝した昭和天皇の顔に深い苦悩と非常の決心が刻まれているのを、その場にいた全員が感じ取ったのではないか。
 最長老の梨本宮(なしもとのみや)守正王が、皇族を代表して発言した。
 「私共一同、一致協力して、陛下をおたすけ申し上げます」
 ここに皇族は、一枚岩となった。のちに皇族は終戦の聖旨を各方面軍に徹底させるため、満洲や南方などに飛んでいく。
 一方、宮中が終戦に向けて結束する中、政府は、新たな混乱の谷に突き落とされていた。
 かなめの首相、鈴木貫太郎が揺らぎ始めたのだ−。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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 【参考・引用文献】
宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
東久邇宮稔彦『私の記録』(東方書房)
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 バーンズ回答 国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件とし、ポツダム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答。対日強硬派で知られる米国務長官ジェームス・バーンズの書簡として発表されたことから、この名がついた。ポツダム宣言を補足する5つの条項が示されたが、このうち第1項の「天皇は連合軍最高司令官にsubject to(従属)する」と、第4項の「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」との文言が、国体護持の条件を拒絶したとも受け取られ、軍部をはじめとする抗戦派を勢いづかせることになった。」
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 4月28日 産経ニュース「【昭和天皇の87年】枢密院議長が首相に横やり 「これでは国体護持が保証できない」
 バーンズ回答の衝撃(3)
 「国体護持」を唯一絶対の条件としたポツダム宣言受諾をめぐり、終戦派と抗戦派を再び衝突させた、連合国のバーンズ回答−。国内外の戦争被害が急拡大する中、これほど日本の首脳部を揺るがせた混乱要因はないだろう。
 終戦派の本丸、外務省の解釈はこうだった。
 バーンズ回答の第1項に書かれた「天皇は連合軍最高司令官にsubject toする」のsubject toは「制限の下に置かれる」の意味であり、降伏すれば当然主権は制限されるのだから、一般的なことを明記しただけで国体の変更を要求したものではない。
 また、第4項に「最終的な日本の政治形態(The ultimate form of government of Japan)は日本国民の自由に表明する意思により決定される」とあるのは、連合国が日本の好まない政体を押し付ける意図のないことをアメリカ流に表現したまでで、やはり国体の変更を要求したものではない−。
 この解釈を、当初は首相の鈴木貫太郎も受け入れた。
 だが、思わぬ人物から横やりが入る。
 枢密院議長の平沼騏一郎が、バーンズ回答では国体護持が保証できないと、鈴木に向かって強硬に主張したのだ。
 平沼は木戸幸一内大臣にも面談し、このままでは受け入れられないと訴えたが、昭和天皇の意を知る木戸は一顧だにしなかった。昭和天皇実録には、《内大臣は(平沼に対し)外務当局の差し支えないとする解釈を信頼し、現状のまま進むべき旨を説く》と記されている(34巻40〜41頁)。
 一方、鈴木の心は揺れた。
 平沼は8月10日の第1回御前会議で、ポツダム宣言受諾の聖断を導いた功労者でもある。
 受諾条件を「国体護持」に絞るとした外相案を支持する首相、海相と、それに反対する陸相、陸海両総長とで意見が3対3に割れたとき、臨時に出席した平沼が外相案を支持したからこそ、有利な形で聖断を下す環境が整った。鈴木にはその時の恩義がある。
 平沼もまた、自らの支持表明で「国体護持」が唯一絶対の受諾条件となった以上、この一点だけは明確にしておかなければ気が済まなかった。
 国体論の信奉者である平沼にとって、「皇室君臨の名(めい)、皇室統治の実(じつ)は変わるべからざるもの」であり、「日本国民の自由に表明する意思により決定される」ものでは断じてなかったからだ。
 このときの平沼と鈴木とのやりとりを、外相秘書官などを務めた加瀬俊一が戦後につづっている。
 「(報告のため)総理官邸に赴くと、平沼男(爵)が来合せて、連合国側回答中の第一項及び第四項は国体維持を不可能とすると述べ、首相もまた大阪城の外濠を埋めるに等しいと云つて若干動かされた様子も見えぬではなかつた。(それまで終戦派に傾いていた)形勢はかくて再び逆転の兆を示した」
 事実、平沼の横やりを受けた鈴木は、直後の閣僚懇談会で、すべてを振り出しに戻すような発言をしてしまう−。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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【参考・引用文献】
宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
平沼騏一郎述『国体に関する訓辞』(農村自治研究倶楽部)

平沼騏一郎 枢密院議長や首相などを務めた戦前の司法界最大の実力者。1867(慶応3)年に岡山県で生まれ、上京して帝国大学法科大学を卒業。司法省に入り、東京控訴院検事、大審院次席検事、司法次官、検事総長大審院長、法相(第2次山本権兵衛内閣)などを歴任。司法界に絶大な影響力を持ち、昭和11年に枢密院議長、14年に首相に就任した。一方で右翼団体「国本社」の会長を務め、観念右翼の巨頭と評された。ファシズム的だと誤解されることも多く、穏健保守派の元老、西園寺公望から嫌われていたが、平沼自身はファシズム共産主義と並んで危険視しており、むしろ日米関係の改善に尽力した。戦後はA級戦犯に指定され、東京裁判で終身禁固の判決を受ける。昭和27年に病気のため仮釈放となり、直後に84歳で死去した。」
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 4月29日 産経ニュース「【昭和天皇の87年】首相が変心! 外相は天を仰いだ 「もはや陛下しかいない…」 
 バーンズ回答の衝撃(4)
 昭和20年8月12日午後3時、首相の鈴木貫太郎は閣僚懇談会を招集した。ポツダム宣言受諾をめぐる連合国回答(バーンズ回答)への対応を協議するためである。
 席上、回答を受け入れるべきと主張する外相の東郷茂徳に対し、陸相阿南惟幾(これちか)が反論した。
 「このまま回答を受け入れれば日本が唯一絶対の条件とする国体護持が不安であるから再照会すべきである。あわせて自主的武装解除と占領地域の限定についても照会すべきである」
 東郷は断固反対した。
 「再照会すれば、連合国は日本の終戦決意を疑い、交渉の糸口が切れてしまう恐れが大である。その上、聖断により受諾条件としないことになった自主的武装解除などを今になって持ち出すのは、自ら交渉を打ち壊すことと同じだ」
 このとき、東郷にとって予想外だったのは、内相の安倍源基と法相の松阪広政が発言を求め、阿南の再照会論を支持したことだった。
 聖断が下される前の臨時閣議で東郷と阿南が衝突した際、大半の閣僚は東郷を支持したが、バーンズ回答がもたらされた後の閣僚懇談会では、空気ががらりと変わっていたのだ。東郷は閣僚懇談会を中座し、外務次官の松本俊一に電話をかけた。
 「形勢はすこぶる悪い」
  × × ×
 東郷をさらに追い詰めたのは、同志と頼んでいた首相、鈴木の変心である。閣僚懇談会の終盤で鈴木は、こう言って議論を締めくくろうとした。
 「この回答文では、国体護持が確認されないし、また、武装解除も全く先方の思うままにされるのは軍人として忍びないから、再照会してみよう。もし、聞かれざれば、戦争を継続するもやむを得ない」
 東郷は愕然とした。鈴木の発言は交渉決裂と同義である。
 (このまま議論を終わらせてはならない)−
 東郷はとっさに言った。
 「バーンズ回答は米サンフランシスコのラジオ放送を傍受したもので、正式な回答ではない。正式な回答がきてから改めて議論したい」
 この発言で、閣僚懇談会はいったん散会した。
 だが、いまや終戦派と抗戦派の形勢は完全に逆転している。憔悴(しょうすい)して外務省に戻った東郷は、次官の松本に辞意を漏らした。
 外務省編集の『終戦史録』が書く。
 「鈴木首相の再照会論に遭い、流石(さすが)に東郷外相も『もう駄目だ』となげかかった。このことを聞いた松平(内大臣秘書官長の松平康昌)は外務省に外相を訪ね、寸刻でいいからと面会方を求め外相を激励促言した。『日本には「カケコミ訴エ」ということがある。外務大臣として、「カケコミ訴エ」をやって御覧(ごらん)なさい。陛下は待っていらっしゃるかも知れぬから』…」
  × × ×
 鈴木の変心により、「もう駄目だ」と天を仰いだ東郷だが、「陛下」と聞いて勇気を取り戻す。
 (そうとも、ここであきらめたら国家が破滅してしまう)−
 以後、東郷を中心とする終戦派は巻き返し工作に奔走する。連合国の正式回答の公電は同日午後6時頃に届く見込みだったが、これを翌13日朝に届いたことにして時間をかせいだ。
 それでも猶予はあと半日しかない。東郷は車に飛び乗り、皇居へ急がせた。
 もはや最後の頼みは、昭和天皇しかいなかった−。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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 【参考・引用文献】
 ○外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
 ○『終戦史録』所収の「松平康昌口述要旨」
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 連合国回答とバーンズ回答 国体護持を唯一絶対の条件とし、ポツダム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答は、中立国の在スイス日本公使と在スウェーデン日本公使に手交され、昭和20年8月12日午後6時過ぎ、両公使からの電報が外務省に入電した。だが、それより前の同日午前零時、米国務長官ジェームス・バーンズの書簡として、この回答の内容が米サンフランシスコのラジオ放送で発表され、それを外務省などが傍受。「天皇は連合軍最高司令官にsubject to(従属)する」などの文言があったことから、政府と軍部は大混乱に陥った。」
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