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昭和天皇は、歴代天皇の中で外国はおろか日本国内でも最も嫌われている天皇である。
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昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者と無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストであった。
昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズム、ボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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2025年9月8日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「「米国が真珠湾攻撃を引き起こした」と愚痴をこぼす…初代宮内庁長官が聞き取った「昭和天皇の知られざる本音」
1969年4月29日、高さ1.1メートルの硬質ガラスが張りめぐらされた長和殿のベランダから一般参賀の人たちにこたえられる天皇ご一家(東京・皇居新宮殿) - 写真=時事通信フォト
皇室に関する国家事務を担う宮内庁。そのトップである宮内庁長官はどのような仕事をしているのか。ジャーナリストの井上亮さんが書いた『宮内庁長官 象徴天皇の盾として』(講談社現代新書)から、初代宮内庁長官の田島道治が、昭和天皇から聞き取った「生の言葉」を紹介する――。
【写真】第二次近衛内閣の集合写真。昭和天皇は近衛文麿と東條英機に対してまったく違う評価をしていた。
■「天皇の生の言葉」はどう伝えられてきたのか
天皇はふだんどのような会話をし、どんな考えを持っているのか。
天皇に接した人の証言が手がかりだが、それだけでは情報が少なすぎるし、天皇との対話をあるがままに外部に語る人はほとんどいない。やはり天皇という立場への配慮があり、「公式答弁」にならざるをえない。
天皇の「生の言葉」は、聞いた本人が公表する意図なく正直に書き留めた日記、備忘録、メモに表れている。昭和天皇に関しては、戦前は侍従武官長の本庄繁、内大臣の木戸幸一、侍従の小倉庫次(おぐらくらじ)、戦後は侍従次長の木下道雄(きのしたみちお)、侍従長の入江相政、侍従の卜部亮吾など、数多くの日記が刊行物として世に出ており、私たちは非公式に語られた天皇の言葉を知ることができる。
そこには包み隠さない天皇のホンネが現れており、人柄、人間性とともに、さまざまな事象にたいしてどのような考えを持っていたかを知ることができる。日本の近現代史において天皇は欠くことのできないキーパーソンであり、その心の内が垣間見える側近の日記類は第一級の歴史資料である。
ただ、これらはオクの人たちによるものである。これまでオモテの長である宮内庁長官の日記、メモ類で世に出ているものは二例しかない。初代の田島道治と昭和末期の富田朝彦のみである。やはり天皇に日常的に接しているオクの人間だからこそ聞けることがあるのだろう、とも思える。
その先入観を一変させたのが、2021年12月から『昭和天皇拝謁記』(岩波書店)として全7巻が刊行された田島の備忘録、日記、資料群である。
■昭和天皇による“驚きの人物評”
これまで刊行されたオクの人びとの日記に記されていた天皇の言葉は断片的なものや、いわゆる「丸めた」(筆者による要約)表現が多かった。ところが、田島の『拝謁記』は速記者が書きとった国会議事録のように、天皇との対話が詳細に記述されている。
まさに録音を再生したかのようで、記憶を元にまとめたとは信じがたい生々しさと分量だ。従来の側近の日記とは一線を画す、昭和天皇関連としては突出した資料といえる。天皇の人格、人間観、世界観、思想のすべてとはいえないが、そのかなりの部分を知ることができるといえよう。
『拝謁記』のような膨大な対話記録ができあがった背景には、占領期・象徴天皇制の揺籃期という特殊な状況で、オモテとオクを兼務したような田島の役割があったとみられる。
田島が聞き取った昭和天皇の戦争、歴史、象徴、家族への考えかたも興味深いのだが、読むものを驚かせるのが人物評である。まず、先の戦争に重大な責任がある二大人物、元首相の近衛文麿と東條英機にたいする見かただ。
■「近衛は結局無責任のそしりを免れぬ」
1949(昭和24)年11月5日、天皇は前年3月まで首相を務めていた社会党の片山哲(かたやまてつ)について、善人だが押され弱いと評した。善人は弱く、逆に強い者は善人ではないところがあり、「人は難しい」と語った。
その流れで「近衛と東条との性格を一人にて兼備するものはなきか」と慨嘆する。「東条は条件的にちやんちやんとやつた。近衛は結局無責任のそしりを免れぬ」のだという(『昭和天皇拝謁記1』)。同じことをくりかえし話していたようで、1カ月後も田島は「東条と近衛とを一身に持つ様な人間があればと思ふとのいつもの仰せを相当永くいろいろの実例にて御話あり」(11月30日、同)と書いている。
筆頭華族出身の育ちの良さ、長身で弁もさわやかで国民に人気があった近衛だが、実務能力に乏しく責任をすぐ投げ出す。東條はものごとに細かく、実務的なことはきちんと実行する。しかし、強権的で説明不足の面があり、人びとの恨みを買った。天皇はそれぞれ一長一短があったと感じていた。
■「太平洋戦争は近衛が始めたといってよい」
ただ、ふたりを対等に見ていたわけではない。近衛にたいする評価の方が厳しい。
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近衛は意思が弱いし、悪にくまれたくないし、聞き上手で誰れにもかつがれるし……。(略)近衛は数字が分らぬ。数字の説明など東条がすると、眠つて了(しま)ふやうな事がある。本当に春秋の筆法からすれば、太平洋戦争は近衛が始めたといつてよい(1952[昭和27]年4月5日、『昭和天皇拝謁記3』)
私と近衛とが意見が一致してたやうに世の中は見てるようだが、これは事実相違だ。(略)近衛が私の考へと一致と見るのは皮相な事で、むしろ場合によれば正反対だ(略)近衛はきゝ上手又話し上手、演説も一寸要点をいつて中々うまいし、人気はあるし、中々偉い点もあつたやうだ。(略)いろいろ長所あつたが、余りに人気を気にして、弱くて、どうも私はあまり同一意見の事はなかつた。(同年5月28日、同)
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天皇は近衛と馬が合わないが、内大臣の木戸幸一は「事務的」で「話がよく出来る」と言う。なぜなら「私自身も事務的だから」ということだった。
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近衛はよく話すけれどもあてにならず、いつの間にか抜けていふし、人はいかもの食ひで一寸変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、又直きにその考へも変る。政事家的といふのか知らんが、事務的ではない。
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■東條には「いい面と悪い面」があった
近衛をこき下ろす一方で東條については「いい面と悪い面二つがある」とやや同情的である。
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東条は之に反して事務的であつた。そして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた(略)東条は、政治上の大きな見通しを誤つたといふ点はあつたかも知れぬし、強過ぎて部下がいふ事をきかなくなつた程下剋上的の勢が強く、あの場合若し戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になつたかも知れず、又東条の辞職の頃はあのまゝ居れば殺されたかも知れない。(同)
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ただ、東條も天皇の意に添う人物ではなかった。「東条も結論だけしか話さぬ式で、徹底する時は結構だが、納得して徹底せぬやうな傾きのある場合に結論だけいふのは駄目になる」(1951[昭和26]年9月8日、『昭和天皇拝謁記2』)とその欠点を挙げる。なによりも信頼を欠いていた。
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東条は私の心持を全然知らぬでもないと思ふが、とても鈴木貫太郎(終戦時の首相)のやうに本当に私の気持を知つてない。終戦は鈴木、米内(光政、海相)、木戸、それから陸相の阿南(惟幾)と皆私の気持をよく理解してゝくれて其コムビがよかつた。東条と木戸わるくはなかつたが、とても鈴木の時のやうではない。(同年10月30日、同)
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「死刑でなきことは不思議」とまで言われた軍人も
軍人にたいする評は辛辣で、元侍従武官長の本庄繁、元参謀総長の杉山元(すぎやまはじめ)は戦犯になるのが嫌で自決しただけ、と吐き捨てるように言う。
東京裁判のA級戦犯で死刑を免れた元陸軍中将・企画院総裁の鈴木貞一(すずきていいち)、クーデター計画の三月事件・十月事件首謀者の元陸軍大佐・橋本欣五郎(はしもときんごろう)、親独派の元陸軍中将・駐独大使の大島浩(おおしまひろし)については「死刑でなきは不思議」とまで語っている。
皇道派の元陸軍大臣の荒木貞夫(あらきさだお)は「支那事変を拡大せしめた」と言い、同じく皇道派巨頭の元教育総監・真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)は「士官学校で政治の事を青年将校にふきこんだ」として、二・二六事件の要因を作ったと見ていた。そして「軍人の派閥が天皇をかついで此間の戦争はやつたのだ。機関説を攻撃した軍人が機関説のひどい実行をしたのだ」(1952[昭和27]年12月18日、『昭和天皇拝謁記4』)と話した。
主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関とする憲法学説「天皇機関説」を軍が攻撃し、天皇の神格化が進んだが、それを悪用したのが軍だという恨み節である。
■米国に戦争の責任を押し付けるような発言も
一方で海軍軍人には比較的好意的で、「海軍将官級中、山梨の絶対なること仰せあり」(51[同26]年7月2日、『昭和天皇拝謁記2』)と田島は記している。海軍次官時代に軍縮に奔走し、退役後に学習院院長を務めた山梨勝之進(やまなしかつのしん)のことだ。
天皇は山梨の「徹底的の軍縮及英米主義」と「平和に処して常に一貫した態度」を高く評価していた。政治家に関しては近衛以外にもさまざまな人物について話しているが、開戦時の商工大臣でA級戦犯容疑者だった岸信介(のちの首相)が公職追放を解除された際は、「主戦論者」の岸の解除は「おかしい」「失当」と文句を言っている。
戦前、戦中の政府中枢のことは田島にはあずかり知らないことなので、近衛や東條ら軍人についての天皇の評については聞き役に徹していて、とくに意見を述べていない。天皇が近衛らに手厳しいのは、「輔弼機関責任論」が確たる信念としてあったからだろう。無意識の自己責任回避だったのかもしれない。それが行き過ぎることも再三だった。
「私の勝手のグチだが」と断りながらも、「米国が満洲事変の時もつと強く出て呉れるか、或いは適当に妥協してあとの事は絶対駄目と出てくれゝばよかつたと思ふ」(1950[昭和25]年12月1日、『昭和天皇拝謁記2』)として、満洲事変の際の米国の対日姿勢が融和的だったがゆえにのちの太平洋戦争を招いたかのようなことを話している。
■屁理屈的な発言に、宮内庁長官もたじろぐ
さらに米・英・日の主力艦比率を五・五・三に決めた1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約までさかのぼり、これが海軍を刺激して戦争へとつながったと言う。
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春秋の筆法なればHughes国務長官(軍縮条約調印当時の米国国務長官ヒューズ)がパールハーバーの奇襲をしたともいへる(同)
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真珠湾攻撃は米国が引き起こしたという言い分は、春秋の筆法=論理の飛躍どころではない、責任逃れの屁理屈であろう。田島はさすがにまずいと思ったのか、「これは此御部屋の中だけの御話でございます」と釘を刺した。
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井上 亮 (いのうえ・まこと)
ジャーナリスト
1961年大阪府生まれ。全国紙記者として皇室、歴史問題などの分野を担当。元宮内庁長官の「富田メモ」報道で2006年度新聞協会賞を受賞。2022年度日本記者クラブ賞を受賞。2024年4月に新聞社を退職。著書に『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(上中下、岩波書店)、『天皇と葬儀』『焦土からの再生』(ともに新潮社)、『熱風の日本史』(日本経済新聞出版社)、『天皇の戦争宝庫』(ちくま新書)、『象徴天皇の旅』(平凡社新書)、『宮内庁長官 象徴天皇の盾として』(講談社現代新書)などがある。
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9月15日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「昭和天皇が最側近だけに見せた「涙」の意味とは…退位しなかったことで戦争責任を問われ続けた「象徴」の葛藤
大正天皇の皇子たち。左から、裕仁親王(昭和天皇)、崇仁親王(三笠宮)、宣仁親王(高松宮)、雍仁親王(秩父宮)(写真=光文社『昭和の母皇太后さま』2000年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
終戦後の昭和天皇には何が待ち受けていたのか。朝日新聞の北野隆一記者は「GHQの思惑もあって退位しなかった昭和天皇は晩年まで戦争への責任を問われ続けた」という――。(第3回)
【写真を見る】昭和天皇と香淳皇后の訪米
※本稿は、北野隆一『側近が見た昭和天皇』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■弟・三笠宮から問われた進退
神格化された君主から象徴的な存在へ。1945(昭和20)年8月の敗戦から、46年11月の新憲法の公布までの期間は、皇室の存続が危ぶまれ、天皇に近い立場の人たちから退位論が語られた。天皇と民心との距離をどう埋めるか、模索された時期でもあった。
46年2月27日の枢密院本会議。首相や大臣、親王らが出席する天皇の最高諮問機関で、昭和天皇の末弟・三笠宮が立って、手元の紙片を読み上げた。
「現在天皇の問題について、また皇族の問題について、種々の論議が行われている。今にして政府が断然たる処置を執られなければ悔いを後に残すおそれありと思う」
発言は、遠回しに天皇の進退を問うものだった。厚生大臣として列席した芦田均は、日記に
「陛下の今日のご様子はいまだかつてない蒼白な、神経質なものであった」と天皇の様子を書きとめた。
背景にあったのは、天皇の戦争責任問題だった。
「読売報知」紙が同じ27日、「宮内省某高官」(後に皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)元首相と判明)の話として、天皇が戦争責任を引き受けて退位する計画があり、多くの皇族方も賛成だと報じた。
退位論の発信者は、皇族や側近、政治家ら、体制内で指導的立場にある論者たち。「天皇制を守るためにも退位が必要」と考えた。
■幻に終わった「昭和天皇出家構想」
同年1月に極東国際軍事裁判(東京裁判)の設置を定めた条例が発効。連合国軍総司令部(GHQ)による戦争指導者らの訴追がすでに具体化していた。
昭和天皇の退位をめぐっては、開戦直前まで首相だった近衛文麿が早くも終戦前の45年1月、「降伏した場合は天皇が出家して仁和寺(にんなじ)に入る」との構想を語っていた。京都にある仁和寺は宇多天皇が平安時代の9世紀に創立して皇室とゆかりが深い「門跡寺院」の一つ。
高橋紘、鈴木邦彦の『天皇家の密使たち 秘録 占領と皇室』(現代史出版会、1981年、文庫版は文春文庫、1989年)によると、退位して「裕仁法皇(ゆうにんほうおう)」となれば戦争責任も追及されない、と近衛らは期待した(文庫版13〜14頁)。
天皇自身も揺れた。
降伏直後の同年8月、天皇は側近の木戸幸一内大臣に「自分が一人引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」と相談した、と木戸は日記に書いている。東京裁判で死刑判決を受けた東条英機らA級戦犯7人が48年12月23日に絞首刑に処された際も、三谷隆信侍従長に「私は辞めたいと思う」ともらした、との逸話が伝わる。
■マッカーサーが天皇を戦犯にしなかったワケ
連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官は、昭和天皇を在位させて日本統治に利用しようと考えていた。
東京・赤坂の米大使館で天皇を迎え、初の会見を果たしたのは1945(昭和20)年9月27日。その後、軍事秘書ボナー・フェラーズから、天皇を無罪とすべきだとする報告書やメモを受け取った。
「天皇が戦争犯罪に問われれば、政府の機構は崩壊し、大規模な暴動が避けられないであろう。そうなれば、大規模な派遣軍と数千人の行政官が必要となろう」との内容だった。
翌46年の元日、天皇は詔書を発表した。現人神(あらひとがみ)ではないことを明確にした「人間宣言」だ。ソ連やオランダ、オーストラリアが天皇訴追を主張するなか、マッカーサーは米陸軍参謀総長ドワイト・アイゼンハワー(後の米大統領)に「天皇免責が得策」との機密電を送り、翌2月には米統合参謀本部から天皇免訴が伝えられた。
■昭和天皇が固めた決意
マッカーサーは46年1月、幣原喜重郎首相とも会談。豊下楢彦・元関西学院大学教授や古関彰一・獨協大学名誉教授らの研究によると、「できるだけ早く戦争放棄を世界に声明し、日本国民はもう戦争をしないと決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとすると憲法に明記する以外に、天皇制を続ける方法はないのではないか」という点で一致したという。
マッカーサーは2月、GHQに命じて天皇制存続と戦争放棄を盛り込んだ新憲法案を9日間でつくらせ、日本政府に示した。日本政府が象徴天皇制と戦争放棄を規定した憲法改正草案要綱を閣議決定したのは3月6日だ。
「昭和天皇実録」によると、天皇はこの日の夜、木下道雄侍従次長に、現状では退位の意思はないとの趣旨を伝えた。その2週間後、マッカーサーが天皇訴追反対を米国本国に報告したことが、フェラーズから宮内省(現宮内庁)御用掛に内々に伝えられた。天皇は戦犯訴追の最大の危機を脱した。
■国内外で直面した「戦争責任」
昭和天皇が退位しなかったことは何をもたらしたのか。
『昭和天皇退位論のゆくえ』(吉川弘文館、2014年)著者の冨永望は「1952(昭和27)年発効のサンフランシスコ講和条約以降は、退位論がしだいに下火になり、戦争責任の議論も国内ではうやむやになった」と指摘する。
しかし、外国は忘れていなかった。天皇が71年に訪欧した際、戦争責任の問題を厳しく指摘された。ベルギーでは車に卵、オランダでは魔法瓶が投げられた。英国では歓迎夕食会でエリザベス女王が過去の戦争に触れたのに対し、天皇は訪英の思い出を語るにとどまり、批判を浴びた。
昭和天皇は75年の訪米の際、「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」と述べ、初めて「過去」に触れた。しかし帰国後の10月31日に行われた記者会見で戦争責任について聞かれ「言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねる」と答えた。さらに原爆についての質問には「広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないこと」と答え、ともに批判を浴びた。
この記者会見の後、天皇が「自信を失っている」と書かれた侍従の日記の存在が明らかになった。記していたのは、74年に昭和天皇の侍従となり、天皇死去後も2000年まで宮内庁に勤めた小林忍。
共同通信が遺族から日記を入手し、2018(平成30)年8月に内容を報じた。19年に『昭和天皇 最後の侍従日記』(文春新書)として出版されている。
■侍従長に見せた涙
記者会見後の75年11月22日の日記で小林は、入江相政侍従長から聞いた話として、「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、(略)御自信を失っておられる」との天皇の様子を記している。これに対して入江が「お上の素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚異的にもりあげたことなど具体的につぶさに申しあげ、自信をもって行動なさるべき」と申し上げたところ、天皇は「涙をお流しになっておききになっていた」とのことだった(47頁、320頁)。
さらに晩年の87年4月7日の日記。天皇は「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と弱音をもらした。これに対し小林はこう励ましたと記す。「個人的には色々おつらいこともおありでしょうが、国のため国民のためにお立場上、今の状態を少しでも長くお続けいただきたい」(192頁、327頁)
昭和天皇の逝去を受けて89年に即位した平成の天皇も海外へ慰霊の旅を重ね、戦争に対する反省の念を示してきた。
冨永は語る。「昭和天皇が退位しなかったことが、天皇が外国の元首と会見する場で戦争について何か言わなければならない前例をつくったともいえる」
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北野 隆一(きたの・りゅういち)
朝日新聞記者
1967年、岐阜県生まれ。90年に東京大学法学部を卒業し、朝日新聞社に入社。新潟、宮崎県延岡、福岡県北九州、熊本の各市に赴任し、東京社会部デスクや編集委員を経て現在、社会部記者。皇室のほか、慰安婦問題などの戦後補償問題、拉致問題などの日朝・日韓関係、水俣病、ハンセン病、在日コリアン、人権・差別などの問題を取材。著書に『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』(朝日新聞出版)、『プレイバック東大紛争』(講談社)など。
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