🎺57:─4─徹底抗戦派による「明仁皇太子誘拐」計画。8月15日。~No.284No.285 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 徹底抗戦派によるクーデターが成功したら、敗戦国日本で共産主義による敗戦革命が起き、日本列島の半分は共産主義化していた。
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 近衛師団の将校を中心とした過激な将校達は、政府と軍部が協議して合意し、昭和天皇が裁可した本土決戦という約束を実行させる為に行動を起こした。
 クーデター強行派は、陸軍省の訓示を無視し、東部軍と近衛師団を決起させるべく奔走した。
 東部軍司令官田中静壱大将は、クーデター計画に猛反対し、軍事政権樹立の為に東部軍を出動させる事を拒絶した。 
 軍事政権を樹立するというクーデター計画は、軍首脳部の支持を得られず失敗した。
クーデター強行派は、近衛師団を動員する為に森師団長の説得に努めたが、拒否され、逆上して惨殺した。八・一五宮城占拠事件である。
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 陸軍の過激派は、降伏する天皇を強制退位させ皇族を新たな天皇に即位させて徹底好戦しようとしていた。 
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 2024年9月11日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「終戦後も「徹底抗戦」をとなえた「反乱軍」が、「明仁皇太子」を誘拐しようとした理由
 井上 亮(ジャーナリスト)
 明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。
 1945年8月15日の「玉音放送」のあとも、日本の軍部のなかには、徹底抗戦を訴える「反乱軍」がいました。彼らは明仁皇太子を「錦の御旗」として担ぐことを考えます。皇太子の側近たちは、そんな反乱軍の手から皇太子を守るため、手を尽くすのですが……。皇太子をめぐるスリリングなやりとりを、同書より抜粋・編集してお届けします。
 終戦後も「徹底抗戦」をとなえた「反乱軍」が、「明仁皇太子」を誘拐しようとした理由
 © 現代ビジネス
 徹底抗戦派から皇太子を守れ!
 一九四五(昭和二十)年八月十五日正午の「玉音放送」で政府がポツダム宣言を受諾することが国民に知らされた。しかし、それはあくまで政府の告知であり、戦争が直ちに停止するわけではなかった。四一(同十六)年十二月の開戦から三年七カ月余り、日中戦争にさかのぼれば八年もの間、日本は戦争を続けてきた。国家、そして国民全体が「戦争マシン」として駆動し続けてきたのだ。天皇の放送といえどもフル回転していたエンジンの熱を急激に冷ますことはできない。
 「宮城事件」はその予兆だった。クーデター、反乱の危機はまだ去っていない。ただ、反乱軍は終戦を決定した天皇を錦の御旗として担ぐことはできなかった。おのずとその視線は明仁皇太子に注がれるはずである。日本中の徹底抗戦勢力が次なる「玉」を掌中におさめるため、ここ奥日光・湯元に進軍してくる恐れがある。皇太子側近でそのことをもっとも憂慮していたのが高杉善治陸軍中佐だった。この日、日光から東京に戻っていた高杉は天皇の放送を聴き終わってすぐ、午後一時に参謀本部の有末精三中将に電話をかけ、軍の動静を尋ねた。
 そして有末から「宮城事件」の顚末とともに「東部軍第十四師団の一部にも、皇太子殿下を奉じて、会津若松に立てこもり、最後まで抗戦を継続しようという動き」があることを聞いた。第十四師団の司令部は宇都宮である。湯元は目と鼻の先だ。
 ただ、第十四師団主力は太平洋のパラオ方面に出征していた。宇都宮で編成された師団にはこのほか第二百十四、八十一師団があった。第二百十四師団も米軍の本土上陸に備えて千葉県の九十九里浜方面に移動しており、残るは第八十一師団だった。同師団は宇都宮から遠くない地点に主力の歩兵第百七十一、百七十二、百七十三連隊を展開させていた。兵力は一万二千人で、これらが進撃して来たら皇太子を守っている二百四十人の儀仗隊はひとたまりもない。
 側近が「寝返る」可能性
 高杉は湯元の儀仗隊司令官・田中義人少佐に電話で情報を伝え、急ぎ日光へ向かった。高杉は「軍全体が一致団結して抗戦するならば別として、一部の過激派が抗戦しても、国民は長い戦いに疲れ果て、終戦でホッとしている現状なので、国民の間に抗戦継続の気勢を盛り上げることは全く期待できない」と考えていた。もし徹底抗戦派が皇太子を擁して上陸してきた米軍と交戦し全滅したら、皇太子の身の安全の保障はない。皇統を守るために抗戦派の進軍を阻止しなければならない。
 高杉は田中少佐の動向に不安をおぼえ、あせっていた。田中を皇太子守護の厳命を守る忠誠の軍人と信じていたものの、「宮城事件」を起こした近衛師団の一部幕僚から指示を受けて抗戦派に同調することもありえると考えていた。
 高杉が日光駅に着くと顔見知りの憲兵が近づいてきて「宇都宮師団は抗戦継続のため目下動員中であり、近いうちに、殿下を奉ずべく湯元へ押し寄せてくるかも知れず、儀仗隊はすでに一部を要所に配置して、これら抗戦部隊を阻止する態勢を準備中である」との情報を伝えた。儀仗隊が反乱に同調する恐れは消えた。
 高杉が湯元に到着すると、田中少佐はこの十五日の出来事を語った。朝、東部軍参謀の中佐がやってきて、「貴官は第十四師団と協力して皇太子殿下を奉じ、会津若松に立てこもり抗戦を継続すべし。第十四師団に対してはすでに出動を命じあり」との東部軍管区司令官命令を伝えた。
 しかし、田中少佐は直属の近衛師団の命令がない限り従えないとこれを拒絶した。参謀は仕方なく引き返した。田中少佐は近衛師団と連絡をとり事情を確かめようとしたが通じなかったため、皇太子守護の任務を続行すべきと考え、第十四師団の進軍阻止の態勢をとらせたのだという。
 まもなく近衛師団と無線連絡が通じ、東部軍管区司令官命令は虚偽であることがわかった。しかし、反乱軍が進撃してくる可能性はある。近衛師団に救援を求めたところ、戦車一個中隊(十二両)と飛行機一個中隊(十二機)を派遣できるよう準備しているということだった。最悪の場合、皇太子を戦車に乗せて軽井沢方面に逃げることを想定し、戦車の一両は「御料車」として使用できるように改装を整えているという。
 皇太子を退避させよ
 儀仗隊で各方面から押し寄せる反乱軍を迎え撃つ作戦を立てたが、一万対二百の兵力差では勝負にならないとみて、やはり皇太子の退避を主に考えた。軽井沢方面は宇都宮師団に属する百七十三連隊に遭遇する恐れがあるため、鬼怒川河畔の川俣温泉を退避先にした。その場合、皇太子を田中の馬に乗せていくことになった。田中は南間ホテルに火をかけて逃げることも考えていた。
 儀仗隊では反乱軍の進撃が予想される要路に地雷を設置して緊迫した時間を過ごしたが、まもなく第十四師団の参謀が日光に来着し、司令官命令が虚偽であることが判明したため、師団では動員を中止して平静に戻っていることを告げた。
 これで儀仗隊の緊張は解けたのだが、皇太子を擁して徹底抗戦するという考え方は終戦直後の軍内部で広範囲に存在した。皇太子を狙っているのは宇都宮の師団だけではなかった。同時期、水戸教導航空通信師団でも奥日光に押し寄せようとする反乱の動きがあり、十九日には東京湾兵団参謀を名乗る二人の中佐が車で湯元に現れ、「軍では、終戦をすると仰せられる陛下にはご退位願い、皇太子を奉じて戦いを継続することになった」と徹底抗戦の命令に従うよう儀仗隊に迫った。
 これらも実際の反乱軍の動きにはつながらず事なきを得た。問題は反乱を誘発した情報管理だった。戦時中、皇太子の疎開先は厳重に秘匿されていたはずで、報道も規制されていた。湯元からの人の往来、手紙なども憲兵隊にチェックされていた。しかし、皇室を守護する近衛師団はまだしも、反乱の動きを見せた宇都宮や水戸などの部隊も皇太子が日光にいることを知っていた。情報は筒抜けだったことになる。
 影武者を差し出す?
 徹底抗戦派の動きは収まったが、皇太子の身の安全はまだ安心できる状況ではなかった。終戦前にその侵攻に備えていた米軍への不安がまた頭をもたげてきたのだ。「玉音放送」翌日の十六日、米軍が本土に進駐してきた場合、皇太子を人質として本国へ連れ帰るという情報が憲兵隊から高杉に伝えられていたのだ。不確かな情報だが、高杉はあり得ることだと考え、田中と対策を練った。
 そして、米軍が湯元にやってきて皇太子を拉致しようとした場合、終戦前と同様、同級生から選んだ身代わりの影武者を差し出し、皇太子をひそかに会津若松まで避難させることにした。しかし、あらかじめ湯元からの間道を斥候に調べさせたところ、自動車も馬も通行は無理であることがわかった。このため駕籠と徒歩を併用することにした。
 この避難作戦を東宮職学習院側に伝えたところ、西郷従達侍従が「学友をお身代わりに立てて苦境に立たせ、殿下のご安泰のみを図るということは、卑怯な行為として後世のそしりを受けるのではないか」と異議を唱えた。
 西郷も終戦前の影武者作戦には同意していたはずだが、米国に拉致されるという運命はあまりに悲惨だと思ったのか。高杉は身代わりの学生にとっても名誉なことで世間も称賛する、日本人の国民性からも卑怯との批判はないと説得した。結局、高杉の説得に東宮職学習院側も折れ、一人の身代わりが選ばれた。顔かたちは皇太子に似ていないが、成績が優秀で素直な、クラスの模範生として認められていた少年だったという。
 しばらくしてこの拉致情報もデマと判明し、高杉の懸念は杞憂に終わったのだが、もしこのような作戦が実行されていたら皇太子の将来に大きな傷がついていただろう。高杉ら軍人の視野の狭さが露呈した作戦だった。ただ、皇統を守るためのなりふり構わない発想は高杉だけではなく軍全体が共有しているものだった。陸海軍は日光の皇太子、東宮職、儀仗隊があずかり知らないところで極秘の皇統維持作戦を進めていた。
 皇族の北白川宮家に道久王という男児がいた。皇太子より四つ下の八歳だった。父の永久王は陸軍軍人だったが、飛行機事故により三十歳で歿した。祖父の成久王もパリで自動車事故に遭い三十五歳で早世。曾祖父の能久(よしひさ)親王は台湾征討中に四十八歳で病没した。道久王は明治天皇のひ孫にもあたる。陸軍は悲劇の宮家といわれていた北白川宮の若宮に目をつけた。
 天皇は中国に流刑、皇族は全員死刑という噂が流れており、皇太子まで米国に拉致されれば皇統は完全に潰えてしまう。最悪に備え、「血統正しく目立たない」宮様として道久王を秘かにかくまう案が計画された。指令を受けたのは陸軍中野学校の組織だった。この時期、道久王は山梨県勝沼町疎開していたが、東京からより遠い新潟県六日町に移すことが検討された。
 一方、海軍でも宮内省高松宮の同意を得て軍令部の富岡定俊作戦部長による皇統護持作戦が練られていた。かくまう皇族は確定しなかったが、逃避行先は九州とされた。作戦の実働部隊の責任者として真珠湾攻撃の航空参謀を務めた源田実大佐らが任じられた。かくまう対象は皇女の場合もありうるとされ、作戦期間は「無期限の覚悟」であった。
 陸海軍の皇統護持作戦は、さながら足利幕府の追求を逃れる南朝勢力のような時代がかったものだったが、米軍が日本に進駐して一カ月足らずで皇太子拉致は杞憂と判明し、自然消滅していった。これらの作戦は、いざとなったら天皇、皇太子という「貝」を入れ替えても、皇統の「貝殻」を守ることが重要とする軍、いや大日本帝国天皇観が露呈したものといえた。
 当の皇太子はこれらの動きをもちろん知らない。終戦放送を聴いたあとの皇太子はどう過ごしていたのか。田中少佐の回想では、放送の翌日、田母沢御用邸などに分散配置されていた儀仗隊が抗戦派の進撃に備えて湯元に集結、総勢二百四十人が勢ぞろいして南間ホテルの庭に整列した。皇太子は東宮侍従らを従えてお立ち台に立った。田中少佐は「捧げ銃(ささげつつ)!」の号令をかけたが、涙があふれて声にならなかった。兵たちの間からも、うめくような声が聞こえた。
 皇太子は挙手の礼を返した。ラッパ手が「君が代」を吹奏した。その音色は哀しく周囲の山々にこだまして吸い込まれていったという。ラッパの音が消えると、皇太子は手を下ろし、台を降りてホテル別館に戻っていった。皇太子の姿が見えなくなると、隊員らのなかから嗚咽の声が沸き起こった。
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 【つづき】「高校時代の上皇が「お忍びで会見」していた「意外な相手」…その会話の全貌がスゴかった」(9月11日公開)の記事では、その後の上皇の在り方に大きく影響を与えた、高校時代の出来事をご紹介します。
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 宮城事件は、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。終戦反対事件(しゅうせんはんたいじけん)、あるいは八・一五事件(はちいちごじけん)とも呼ばれる。
 日本の降伏(ポツダム宣言受諾)を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳陸軍中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし、陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより、玉音放送と日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。
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 島津貴子誘拐未遂事件
 島津 貴子(しまづ たかこ、1939年〈昭和14年〉3月2日 - )は、日本の元皇族。島津久永の妻。勲等は勲一等。
 皇籍離脱前の身位は内親王で、皇室典範における敬称は殿下。旧名は、貴子内親王(たかこないしんのう)、諱は貴子、御称号は清宮、お印は橘であった。
 昭和天皇香淳皇后の第5皇女子(第7子、末子)。第126代天皇徳仁今上天皇)と秋篠宮文仁親王の叔母。第125代天皇明仁上皇)と常陸宮正仁親王の妹。
 
 誘拐未遂事件
 貴子は確認されているだけで2回、誘拐事件の対象となった(いずれも未遂)。
 1963年(昭和38年)10月26日、貴子を誘拐し身代金5千万円を要求しようとした男が逮捕される「島津貴子誘拐未遂事件」が発生(同年11月21日までに犯人グループは逮捕)。
 1970年(昭和45年)夏、京浜安保共闘議長だった川島豪が横浜拘置所内から永田洋子らに手紙で貴子誘拐を指示していた。永田は「反天皇というスローガンを、京浜安保共闘が掲げていない」ことを理由に、政治思想と合致しないと考えたため実行に移さなかった。この件は、1981年(昭和56年)8月に判明した。
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 日本共産党(革命左派)神奈川県常任委員会(通称:革命左派)は、1969年に結成された日本の新左翼党派の一つ。名称は「日本共産党革命左派神奈川県委員会」、または「日本共産党(革命左派)」、京浜安保共闘(けいひんあんぽきょうとう)、京浜安保共闘革命左派、革命左派組織とも呼ばれる。

 連合赤軍日本労働党の母体の一つとして知られる。「毛沢東思想で武装した革命党建設」を目標とし、「反米愛国」を掲げ、当初は労働運動を、後に武装闘争を中心とした活動を行った。党の青年組織として「青年共産同盟」、大衆組織として革命左派の各種大衆団体(学生戦闘団、京浜労働者反戦団、婦人解放同盟など)及び共闘関係にあった東京共青による「京浜安保共闘」を持ち、非合法部門として「人民革命軍」を持っていた。ヘルメットは赤ヘルに白の一つ星、機関紙のタイトルは『解放の旗』。主な拠点は東京水産大学および横浜国立大学
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 明仁(あきひと、1933年〈昭和8年〉12月23日 - )は、日本の第125代天皇(在位: 1989年〈昭和64年〉1月7日 - 2019年〈平成31年〉4月30日)、上皇(在位: 2019年〈令和元年〉5月1日 - )。御称号は繼宮/継宮(つぐのみや)、お印は榮(えい)。敬称は陛下。勲等は大勲位。また、ハゼを専門とする魚類学者および研究者。
 昭和天皇香淳皇后の第1皇男子。
 長男は第126代天皇徳仁。次男に秋篠宮文仁親王皇嗣)、長女に黒田清子清子内親王)がいる。
 1989年1月7日の父・昭和天皇崩御に伴い日本国憲法および現皇室典範下で初めて皇位を継承。翌8日に元号法政令に基づき「平成」へ改元が行われた。2019年4月30日、皇室典範特例法に基づき憲政史上初めて退位した。

 科学者として
 魚類学者としても知られ、ハゼの分類を研究対象とする研究者である。日本魚類学会に所属し、自ら研究して書いた論文28編(2018年時点)を同学会誌に発表。1992年(平成4年)には『Science』誌に「"Early cultivators of science in Japan"(邦訳例:日本における科学の早期開拓者たち)」という題で寄稿した。また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている。
 魚類学における業績は各国で評価され、学界において以下に記述する役職に就いている。

 幼少時代
 誕生した際、昭和8年皇室令第11号が制定され、東宮に関する事務は、当面皇后宮職に置くとされた]。
 1936年(昭和11年)3月29日、将来の天皇になるべくして皇太子明仁親王は満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって養育される。当初は週に一度の日曜日には宮中に参内して両親と面会する機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった。
 1940年(昭和15年)に学習院初等科に入学。学習院就学時代は山梨勝之進院長の下で教育を受け、内舎人 信国鉄蔵を師として剣道を練成。同級生に藤島泰輔安西邦夫がいた。
 1941年(昭和16年)12月8日、自身の学習院初等科2年次在学時に、日米開戦。学習院初等科5年次の1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により、5月より約40名の学友らとともに沼津御用邸疎開サイパン陥落により本土上陸の懸念から、7月9日に沼津を出て栃木県日光市の日光田母澤御用邸に移動した(弟の義宮は山内御用邸へ、学友は金谷ホテルへ入った)。本来なら皇太子は御用邸附属邸に滞在となるが、すでに内親王達が疎開していたので、本邸の皇后御座所などを使用した。1945年(昭和20年)に入り、東京で撃墜したB-29の乗員が御用邸近くの古河電工を爆撃目標とする地図を持っていたという知らせが届いたうえ、7月12日に近隣の宇都宮市も空襲にあったため、7月20日にさらに奥地となる奥日光湯元温泉の南間ホテルに再疎開。湯元での滞在は隠密裏となるので食糧難のため学友とともに魚釣りや野草摘み、イナゴ捕獲などにも励んだ。8月15日、他の疎開児らとは別室にてラジオでの父帝による玉音放送を聴き、終戦を迎えた。8月17日には終戦を受け入れない参謀中佐2名が湯元まで訪れ、「皇太子を即位させて本土決戦を行う」と皇太子の身柄を要求されたが、近衛師団長より皇太子を守ると密命を受けて、疎開に同行していた少佐が「負けたら、皇太子は天皇に弓を引いた逆賊の長となり天皇に即位できなくなる」と諭した。東京空襲で東宮仮御所が焼失していたこともあり、しばらく湯元での滞在を続け11月7日に帰京した。
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