🎺90:91:─1─『昭和天皇独白録』。天皇の戦争責任や天皇の戦争犯罪はない。~No.393No.394No.395No.396No.397No.398 (57)

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
  • 発売日: 2007/08/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軍国日本は、戦争犯罪などの悪い事を幾つもしたが、人道貢献などの良い事も数多く行った。
   ・   ・  ・   
 天皇の戦争責任や天皇戦争犯罪はない。
 昭和天皇は、一人孤独に、歴史に残る人道貢献と戦争を食い止める為の努力を続けていた。
 人道貢献を行ったのは、東条英機松岡洋右板垣征四郎松井石根広田弘毅などのA級戦犯達であった。
 戦争を食い止める為に努力したのも、東条英機松岡洋右などのA級戦犯達であった。
 A級戦犯達は靖国神社の祭神として祀られている。
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 連合国=国連=国際軍事法廷によるA級戦犯達のリンチ的縛り首は、人道貢献を否定し歴史から抹消する為であった。
 A級戦犯達を祀っている靖国神社の廃絶を求める日本人の目的も同じである。
 ポツダム宣言サンフランシスコ講和条約を認めるべきだと言う日本人も同様である。
 ヤルタ密約や国連の敵国条項も同じである。
 東京裁判は、軍国日本、A級戦犯達、日本軍の人道貢献を否定し、歴史から抹殺する為の国際法裁判であった。
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 アメリカ、GHQは、昭和天皇天皇制度を利用したが、皇室を消滅させる為に11の宮家から皇位を剥奪し、皇室の私有財産を没収した。
 日本国憲法天皇条項には、皇位継承者を減らして皇室を消滅させる意図が込められている。
 日本人護憲派は、その意図を実現する為に存在している。
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 日本には、味方もなければ、理解者もいないし、弁護する者も擁護する者も誰もいない。
 それは現代でも同じである。
 現代日本をおぞましいことは、日本人の中に歴史の事実を知った上で反天皇反日的日本人が存在する事である。
 それは、保守派や右翼・右派・ネットウヨクも同様であり、むしろリベラル派・左翼・左派・ネットサヨクよりも罪が重い。
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 キリスト教朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺す為につけ狙っていた。
 反天皇反日派外国人による、靖国神社に対する宗教テロが頻発している。
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 アメリカ、イギリス、ソ連共産主義勢力などの連合国は、戦争の勝利の為にユダヤ人虐殺=ホロコーストから目を逸らし、死から救出する事をしなかった。
 救済を指名とするバチカンや国際赤十字社も同様である。
 ユダヤ人難民船セントルイス号事件、ユダヤ人難民船タイガーヒル号事件、その他のユダヤ人難民船事件。
 世界は、ユダヤ人大虐殺=ホロコーストを知っていた。
 ヨーロッパ諸国は、積極的あるいは消極的にヒトラーナチス・ドイツの人道に対する罪に協力したという幇助罪がある。
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 昭和天皇A級戦犯達、軍国日本、軍部、日本陸軍には、人道貢献があった。
 連合国、バチカン、国際赤十字社には、人道貢献はなかった。
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 日本民族日本人は兵士となって、戦死・餓死・病死しながらユダヤ人や中国人を助ける人道貢献を行っていた。
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 産経新聞iRONNA「『昭和天皇独白録』を再読する
 『月刊正論』
 正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録
 ※肩書、年齢等は当時のまま
 国際社会に「誠」を求め続けた御心
 中西輝政京都大学教授)
 「歴史」の記述が初めて可能になる時代
 今年八月十五日、日本は戦後六十年という大きな節目を迎える。そこでわれわれに求められるのは、単に数字上の節目なのではなく、先の大戦の歴史を客観的に記述できる画期的な時代を日本がようやく迎えたという意識である。
 大戦の歴史を客観的に記述することが可能になった要因は、いくつかある。第一に、ひとつの出来事を本当の意味での「歴史」として把握するためには、六十年(五十年―七十年という幅で考えてもよい)という期間が必要だということだ。これは歴史研究の要諦でもあるが、戦争や革命といった大きな政治的、歴史的変動を経験した当の世代には、回想録は書けても客観的な歴史は書けない。戦争や革命といった巨大な出来事は、それに関係した全ての人の精神構造に甚大な影響と極端な先入観を与えずにはおかない。事実を見る眼だけでなく、事実を選択する基準、それを評価する価値観にいたるまで、多かれ少なかれ歪んだ目と個人的感情に左右されるのはむしろ当然とさえ言ってよい。
 彼らにも、それぞれが「目の前で見た個々の事実」の記録は多少は書き残せるであろう。しかし、それは本当の「歴史」ではない。個々の事実の選択とその積み重なり、さらにその出来事の背景や影響までが、あくまで「別の時代の出来事」として記述されて初めて本当の「歴史」となるのである。
 「歴史」をそのようなものとして捉えれば、ある事件を直接経験した人間がそれを「歴史」としては記述できないことは、一つの事件や紛争をめぐる裁判で利害関係者が裁判官となることが禁じられていることを想起すれば容易に理解できる。
 先の大戦についても、当時生きていた全ての日本人が、濃淡の差があるにせよ何らかの「個人的な思い」を抱いている。さらに、戦争や革命といった決定的な出来事については、その「個人的な思い」に過剰な影響を受けた次の世代にも本当の「歴史」は書けない。その意味で、敢えて言えば、いわゆる〝歴史の風化〟という現象は、まことに好ましいことなのである。たとえば、「あのような悲惨な体験は二度と繰り返してはならない」というメッセージが如実に伝わってくるような「現代史」は、歴史ではない。それがどれだけ尊い平和への思いであっても主観に過ぎないからである。言ってみればそれは歴史ではなく、一つの文学、思想という領域に関わるものなのである。
 われわれ日本人は特に先の大戦に関しては、この、歴史は誰が書いたのかという点をきちんと検証しないまま議論してきた。そもそも戦争終結直後に出来上がった歴史観が正確であろうはずがない。それはいくら良く言っても「新日本をつくる」ための歴史観だったのである。つまり団塊の世代前後の日本人は、終戦から間もない頃に学校で習った歴史観が正しいと現在も信じているが、彼らが学んだものはまったくのところ歴史とは呼べないものであった。同時代の出来事から性急に教訓を得よう―しかも多くの場合、そこには明確な政治的な目的があった―という前提から出発した歴史観、あるいは、外国占領軍が強大な権力によって押し付けた日本断罪のための歴史観に過ぎなかったのである。
 「還暦」という言葉があるように、あれから六十年が過ぎ、あの時代を直接経験した人々とその影響を過剰に受けた世代が社会の一線からじょじょに退場していく時期を迎えて初めて、本当の「歴史」が現れてくるのである。歴史は世代によって書かれるものなのである。

 第二に、今ようやく先の大戦を世界史的な視点で見ることが可能になったということである。
 先の大戦は、第一次世界大戦ロシア革命によって生まれた共産主義自由主義という世界史の流れが作り出した大きな構図の中で起きた事件であった。ところが、ベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終わるまで(さらに言えば今後、中国の共産主義体制が終焉を迎えるまで)、そのような見方に基づいて第二次大戦を議論することが本当のところ不可能であった。どのような歴史観論争も、結局は共産主義自由主義反共主義という同時代の決定的な思想的対立構造の中で行わざるをえなかったからである。共産主義の息の根が止まりつつある現在になって初めて、われわれは、その枠から解き放たれ、あの戦争を世界史の大きな流れの中に位置づけて見ることがようやくできるようになったのである。

 第三の要因は、あの大戦に関して、戦勝国の側でこれまで極めて厳重に秘匿されてきた資料が、六十年ぶりに初めて公開されつつあることである。世界情勢の変化、政治家の世代交代、あるいはロシアのように体制が変わり、情報を秘匿する必要がなくなったことにより、新資料が次々と今、ラッシュのように公開され始めた(中国における北京政権の崩壊は一層重要な史実を明らかにすることであろう)。

 そうした新資料の中には、あの戦争の意味が、従来の常識から一八〇度変わってしまうほどの驚愕すべき事実が記されたものが、かなり存在することが分かっている。しかしそのごく一部が新聞などで報道されることはあっても、日本では、それらを基にした歴史書はまだ書かれていない。この国では、先入観に合致しない新史料は無視してしまう世代の研究者がいまだに支配的だからだが、これまでの歴史観を自由な視点で省みる必要に世界で最も迫られているはずの日本において、これらの新史料の動向に対する関心が極めて低いのは大いに気になるところである。
 たとえば、この数年アメリカで公開された「Venona(ヴェノナ)文書」と呼ばれる新史料から、ルーズベルト政権では大量のソ連工作員が要職に就き、対日政策に決定的影響を与えたことが明らかになりつつあるし、ロシアでの公開史料からは、張鼓峰事件(一九三八年)やノモンハン事件(一九三九年)ではソ連側にむしろ責任があったことが、この一、二年で明らかになりつつある。これで少なくとも「東京裁判」の訴因のいくつかは明確に崩れることになる。そもそも「東京裁判」についてはすでに、海外での諸研究によって、国際法上不法・不当な欠陥裁判であり、現在の国際戦争裁判の前例にはなり得ないという国際的コンセンサスができている。にもかかわらず、日本ではそうした研究に基づく著作はほとんど紹介されず、いわんや新史料に基づく研究書はほとんど出版されていない。
 このような状態で、現在、首相の靖国神社参拝をめぐり、まことに拙劣な〝歴史論争〟が続いていることは、寒心に堪えない。しかし、前述の通り、歴史観の決定的転機が必然的に始まる「六十年」の周期が到来している。いずれ、遠からず日本人の歴史観は大きく変わっていくことになろう。しかし、ここで一つだけ、是非とも明確にしておかなければならない大戦史をめぐる重要な論点がある。それは、昭和天皇と大戦をめぐる歴史である。そこには、近年「逆流」といってもよい、由々しい傾向が日本国内に広がりつつあるように見えるからである。その最近での例の一つは、今年五月八日にフジテレビ系列で放送された「報道2001」での民主党元代表菅直人氏の発言である。
 日中両国間の歴史認識摩擦をテーマとした同番組で菅氏は、「日本自身が、日本の負ける戦争をやった責任を何一つ問わなかった。昭和天皇は責任をとって退位されるべきだった」と述べたのである。
 六十年目の八月十五日を迎えるに当たり、昭和天皇と戦争の問題は、われわれの世代の目で改めて検証しておく必要がある。それを考えることは実は、日本という国のアイデンティティ、そして皇室という存在のありようが表面上大きく変化した時代しか知らない世代が、逆に誤って〝新しい視点〟の陥穽に落ち込む危険を避けることにもつながる。さらにはそこから、昭和天皇だけではなく明治天皇以来、この国が国際社会の中で歩んできた道筋、世界と日本の関わりを、皇室の伝統を通じて「日本」を考える大切な視点として次の世代に受け渡していく必要があるからである。そしてそれは、混迷の度を深める国際社会における日本の行き方にも大きな指針を与えてくれるであろう。
 ここでは、敢えて『昭和天皇独白録』(以下『独白録』、文春文庫)から、あの厳しい時代を生きた昭和天皇の世界観、国際政治観を読み解いてみたい。というのは、この書をもって、今日一部に、東京裁判に際して昭和天皇の戦争責任を回避するための弁明を専ら目的としたもの、と決めつける見方が広がっており、これが冷戦後崩壊した社会主義イデオロギーの代替イデオロギーとしての戦争糾弾史観と合流する傾向すら見られるからである。
 なお『独白録』は、昭和二十一年三月から四月にかけ、松平慶民宮内大臣ら側近五人が、一九二八年(昭和三年)の張作霖爆死事件から終戦にいたるまでの経緯を四日間五回にわたって昭和天皇から直接聞いてまとめたもので、五人のうちの一人、寺崎英成御用掛が遺した文書類を調べた遺族らの手によって世に出ている(初出は『文藝春秋』一九九〇年十二月号)。このことから考えると、『独白録』には確かに東京裁判を意識してまとめられている側面はあったかもしれない。しかし、その観点からは逆に不利になるような述懐が余りに多く、何よりも昭和天皇の肉声が伝わるような「本音」が実に率直に語られている第一級の史料なのである。
 君臨すれども命令できず
 まず、戦前の日本の国家体制を確認しておきたい。天皇の政治的役割については、『独白録』で注釈者の半藤一利氏(昭和史研究家)が補注した木戸幸一内大臣東京裁判での証言が簡潔かつ的確に言い表している。

国務大臣の輔弼によって、国家の意志ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である》(57頁)

 この点は、昭和天皇憲法についてご進講した清水澄の講義録(『法制・帝国憲法』)にも「もし天皇が、国務大臣の輔弼なくして、大権を行使せらるることあらば、帝国憲法の正条に照らして、畏れながら違法の御所為と申し上ぐるの外なし」とされており、内閣の決定を天皇が拒否する、あるいは裁可しないということは憲法上あり得なかったのである。この意味で、戦前の日本の「主権者」は内閣なのであり、これが明治天皇以来、一貫した日本の立憲君主制の内実だったのである。
 これは立憲君主制の国家ならどこも同じであり、イギリス国王も政治には基本的に関与しないけれども、内閣に対して「質問」と「助言」をすることができる「クエッション・アンド・アドバイス」という権利が憲法で認められている。
 つまり、国民の君主に対する大きな尊敬と信頼に応えるという意味で、政治が一定の範囲から道を踏み外したりしないよう、憲法の枠内において配慮する責任を君主が負うことを認め、かつ求めるのが立憲君主制であって、現代の象徴天皇制も基本精神においては同じである。でなければ、およそいかなる君主制も成立し得ないからである。憲法上、日本と比べはるかに大きな政治的機能を君主に与えているデンマークやタイの王制も基本においては同様である。
 戦後の日本では、天皇はたとえいかなる形でも一切政治に関わってはならない、というのが憲法上また民主政治の上から厳格に定められている、という誤った解釈がまかり通っているが、同じ発想で戦前の天皇は絶対最高の権力者であり、「全てが思うままになった」という非常に粗野な理解に基づく歴史教育が行われ、いまだに大きな影響力をもっている。天皇の「戦争責任」を主張する左翼勢力の典型的な議論も、「終戦天皇が裁断を下した。天皇のいわば鶴の一声で、戦争は終わった。ならば開戦時も始めさせないという形で、独裁権を発揮できたはずだ」というものであるが、これも戦前の国家体制について余りに歪んだ理解をしていると言わざるを得ない。
 確かに終戦時と二・二六事件に際して昭和天皇は自ら決断され、その判断が国家意思とされた。しかし、この二つのケースは、日本の内閣の意思、つまり政府が実質的に存在しなかった、あるいは機能しなくなっていたから、憲法に従って天皇の裁断が行われた特殊な事例であり、憲法上もまったく問題なかったのである。
 いわゆる終戦の「聖断」は、八月九日深夜から十日未明にかけての御前会議で下された。ソ連参戦を受けて九日午前から開かれた最高戦争指導会議、さらに午後から夜にかけて二度にわたって開かれた閣議でもポツダム宣言を受諾するか否か結論は出なかった。議論が持ち越された御前会議も二時間半が経っても結論が出ず、内閣総理大臣鈴木貫太郎が、内閣は機能しなくなったから「天皇の御裁可をお願いいたします」と申し出てご裁断を仰いだのである。つまり、戦争終結か継続か「全てを天皇に委ねる」ということが、内閣の決定だったのである。
 これに対して開戦時は、天皇のご裁断を仰ぐという内閣の決定はなかった。対米開戦を辞さぬとした「帝国国策遂行要領」を決定した昭和十六年九月六日の御前会議では、あらゆる証拠から見て対米開戦反対の避戦論者であった昭和天皇にとって、明治天皇の「四方(よも)の海 みなはらから(同胞)と思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」との御製を二度にわたって読み上げるのが精一杯の「抵抗」であった。さらに事実上開戦を決定した同年十一月五日、最終決定をした十二月一日のいずれの御前会議でも、「開戦」が内閣の決定事項として諮られたのであり、天皇がそれを拒否されたら、憲法を無視した「上からのクーデター」となり、明治天皇以来の日本の国家体制の根底を揺るがすような事態になっていたのである。
 当時を振り返った『独白録』の記述には、こうある。

 《(高松)宮は、それなら今(開戦を)止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条(英機首相)は辞職し、大きな「(下からの)クーデタ」が起り、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかつた。/十二月一日に、閣僚と統帥部との合同御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた》(89頁)※( )内は筆者註。

 このように、昭和天皇ご自身も「君臨すれども命令できず」という日本型民主主義、あるいは君主国体下の民主主義という政体を遵守されていたことは疑問の余地がない。
 一方、昭和十一年の二・二六事件昭和天皇は、『木戸幸一日記』によれば、「今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり。国体の精華を傷(きずつ)くるものと認む」「速やかに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄職務に励精すべし」と機能を停止していた内閣を飛び越え、後藤文夫臨時首相代理に直接下命された。
 つまりこの時、岡田啓介首相が首相官邸で反乱軍に襲われて「行方不明」となり、一時は「死亡」したと伝えられた(実は官邸の地下に隠れて無事だった)ほか、斎藤実内大臣高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長も重傷を負って、内閣はもちろん政府全体がまったく機能しなくなっていた。つまりこの時の天皇の「討伐命令」も決して憲法を無視した決定ではなかったのである。
 伝統と合理主義の共存
 『独白録』などによって昭和天皇の世界観というものを見るとき、三つの大切なものがあることが分かる。

 第一は、平和への強い思いである。昭和天皇は戦前も戦後も一貫して平和主義者であられた。この事は、昭和天皇が日米開戦をなんとか避けようとされていたことなどが種々の資料から明らかになっており、もはや改めてここで詳しく触れる要もないであろう。またこれは昭和天皇だけのことではなく、先に紹介した御製を詠まれた明治天皇、さらに遡って日本の天皇家、皇室の根本精神が平和と民草(国民)の安寧にあることは言うまでもない。この日本皇室の顕著な平和志向の伝統が、帝国主義の跋扈した近代を通じ明確に継承されていたことは特筆すべきところであろう。

 第二は、日本の伝統、今風の言葉でいえば「アイデンティティ」を体現され、特に天皇という地位と神話、神との絆を戦後も一貫して持ち続けておられたことである。このことと皇室の平和主義の伝統とは無関係ではない。またその「神につながる系譜」の体現者ということの一方で、現実の世界には、あくまで合理主義的で、プラグマチックな対応に徹しておられたことも昭和天皇の国際関係観を見る上で特筆すべきところである。「神の裔(すえ)」というアイデンティティと堅固な合理主義が互いに支え合うものとして昭和天皇の精神構造の特質としてあったのであり、それはまた皇室の伝統精神でもあった。この一見相反する二つの精神の在りようの共存こそ、実は日本人が現実の世界を相手にするとき、つねに心し、大切にしなければならないものなのである。日本人が伝統的精神を忘れ、西洋の物質論的合理主義―それがキリスト教道徳に支えられていることを知らずに―と、その対極を揺れ動いている近現代の日本社会の問題の所在は容易に理解できよう。

 昭和天皇は、昭和二十一年の年頭にあたって出された詔書で、この二つの精神の大切さを説かれた。この詔書はGHQの意向によって〝現御神(あきつみかみ)〟〝現人神〟を否定された「人間宣言」として知られているが、実は書かれていない大きなポイントがある。GHQが当初内閣を通じて示した宣言案には、神格否定だけではなく、「皇室が神の子孫(裔(すえ))であることをも否定せよ」と指示されていたのである。しかし、昭和天皇は、この点は断固として拒否された。つまり昭和天皇は、天照大神、あるいは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の神、いわゆる天(あま)つ神と国造りの神々からの系譜を継ぐ立場であられるという神話的・歴史的、精神的アイデンティティについてはGHQに一歩も譲らない姿勢を示されたのである。
 「人間宣言」には、もう一つ重要なポイントがある。「五箇条の御誓文」を詔書の冒頭に置かれたことである。
 終戦後初めて新しい年を迎えるにあたり、昭和天皇は、『五箇条の御誓文』に依拠して民主主義の重要性を改めて説き(「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」)、同時に国際関係においては合理主義と日本の存立の根幹である伝統との絆を大切にして世界とともに進んでいくよう(「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」)国民に呼びかけられたのである。
 昭和天皇のこの時のお気持ちがいかに強いものであったかは、それから三十年以上後の昭和五十二年の記者会見で、「人間宣言」について話が及んださい、「あの宣言の第一の目的は『御誓文』でした。神格(否定)とかは二の問題でした。…民主主義を採用されたのは明治大帝のおぼしめしであり、民主主義が輸入のものでないことを示す必要があった。…日本の誇りを忘れさせないため、明治大帝の立派な考えを示すために発表しました」とお話しになったことからも分かる。先に述べたように、現代日本の荒廃を考えるとき、われわれは昭和天皇がこの言葉を国民に示された意味を改めて考える必要があるであろう。
 国際社会において「誠」を貫く大切さ
 第三は、昭和天皇が国際社会における信義、世界の中での「日本の誠」というものをどれだけ重んじておられたかということである。国際関係においては、一旦他国と結んだ条約は守り抜く、という強い信念を一貫して持たれていたことは、『独白録』だけでなく他の多くの史料からも明らかである。
 例えば昭和十六年六月、ドイツが独ソ不可侵条約を破り、突如としてソ連に侵攻した。この時、外務大臣松岡洋右は、同盟国のドイツがソ連と戦争を始めたのであるから日本もソ連を攻めるべきだと昭和天皇に上奏するのであるが、松岡は、その二カ月前にモスクワに行き、スターリンと日ソ中立条約を結んだばかりであった。
 この事に昭和天皇は激怒された。

《松岡はソ聯との中立条約を破る事に付て私の処に云つて来た、之は明かに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様に云つたが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣々僚刷新を名として総辞職した。/松岡の主張は、イルクーツク迄兵を進めよー(ママ)と云ふのであるから若し松岡の云ふ通りにしたら大変な事になつたと思ふ。彼の言を用ゐなかつたは手柄であつた》(『独白録』68頁)

 昭和天皇は、松岡が日本外交の基本精神を踏み外している点を特にお怒りになったわけである。一旦結んだ条約は是非とも守らなければならない。日本の法治主義という伝統は、「言葉に出した約束はいかなることがあっても守る」という日本精神のアイデンティティ感覚によって支えられ、これを踏みにじるようなことがあってはならない。そしてそれは、たとえ弱肉強食の国際情勢にあっても貫かれねばならない。こうした思想が、昭和天皇の国際関係観の中核にあった。
 このことは、昭和十五年九月に日本が三国同盟を結んださい、昭和天皇がドイツ、イタリアと同盟関係を結ぶことに強い懸念を示されたことからも読み取れる。

 「独伊のごとき(ヽヽヽ)国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(傍点筆者)とおっしゃったうえ、「日英同盟の時は宮中では何も取行はれなかつた様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只(ただ)慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によつては重大な局面に直面するであろう」と述べて、賢所への参拝と祖宗への報告をご希望になった(『昭和天皇語録』講談社学術文庫)。

 昭和天皇三国同盟の締結を躊躇された理由の一つはやはり、ドイツ、イタリアがファシズムの国だったからであろう。周知の通り、独伊ではナチス党とファシスト党という政党、つまり私的集団が国家を乗っ取り、いかなる意味でも立憲体制ではなくなっていた。そんな国と立憲君主制の日本が歩を揃えて行動すべきでないと天皇がお考えになったのは自然なことだろう。
 しかし、ここには、もう一つの重大な理由がある。戦前の日本は、実は他国と同盟関係や条約を結ぶときには、相手国の条約や同盟関係に対する態度、過去にどれだけ誠実に国家間の約束を守ってきたのか、あるいは破ってきたのかという歴史の記録を詳しく調べていたのである。
 明治時代の日英同盟では、この調査によってイギリスは同盟の相手国として信頼できるということが分かり、同盟締結に向けて日本の国全体が動いた。ところが、ドイツは、ロシアに次いで最も頻繁に同盟や条約を破ってきた国だったのである。昭和天皇もドイツが条約破りの常習国家だということをご存じだったのであろう。「ドイツやイタリアのごとき」という厳しい言葉の裏には、そのようなお気持ちが隠されていたのである。
 『独白録』では、真珠湾攻撃の三日後の昭和十六年十二月十一日、日本、ドイツ、イタリアの三カ国が結んだ「単独不講和の確約」、つまり、それぞれ単独では連合国と講和しないという協定に対する昭和天皇のお考えも紹介されている。

 《三国単独不講和確約は結果から見れば、終始日本に害をなしたと思ふ》(62頁)

 日本は、単独講和をしないというこの約束を最後まで律儀に守り抜いた。その結果、日本は連合国と停戦するきっかけを失って最後までドイツと運命を共にし、無条件降伏を要求されるような状態になってしまったのである。
 ところが、ドイツはスターリンと講和のための秘密交渉を一九四三年から四四年まで何度も試みていたし、イギリスやアメリカとも単独講和しようとしていたのである。イタリアにいたっては一九四三年に連合軍がシチリア島から上陸してくると、国内のドイツ軍にまで攻撃を加えてムッソリーニをリンチの末に殺害し、それでいわば「落とし前」をつけたとして、「自分たちも今や連合国の一員だ」と言い張ったのである。さすがにアメリカは認めなかったが。
 日本は、そういう国々を同盟国にして、大東亜戦争ではあれだけ多大な犠牲を払うことになったのである。個人的な話になるが、私も若い頃は、大東亜戦争で日本は単独不講和の約束を守るのに律儀にすぎた、日本もシンガポール陥落、あるいはミッドウエイ海戦の直前に連合国と条件交渉に踏み切っていたとしても、冷徹な国際政治の現実からすれば決して一方的に非難されることではなかったのではないか、と考えることもあった。
 また前述のところでは、松岡外相の進言を容れ、たった二カ月前に結んだ中立条約を無視してでもナチスと協力してソ連を攻撃しておけば、日本自身が南進する余裕はなくなり、東南アジアや太平洋で米英と衝突することはなかったし、共産主義ソ連を倒すのであるから対ソ侵攻の大義名分も成り立つだろうと考えたこともあった。
 しかし、国際政治史の研究を重ねるうちに、昭和天皇が、日本的価値観である「誠」というものに基づいた外交を通さねば国の基軸が立たなくなるとお考えになった、あの大きな判断によって、敗戦やその甚大な被害をも超えた、数百年という単位でわれわれが誇りとすべき日本史の記録というものが残されたのだと考えるようになった。
 当面の戦略的必要から条約を破る、あるいは同盟関係を踏みにじるということをすれば、目先の利益は確保できるかもしれない。しかしそうして一旦国家の基本を踏み外せば、子孫がどんな不利益を被るか。言い換えれば、昭和天皇がドイツやイタリアを同盟相手とするのに躊躇されたような目で、将来日本は国際社会から見られるようになっていたかもしれないのである。
 しかし、現代の日本は、その点では欧米をはじめ東南アジアの国々やインド、さらには中東に至るまで、中国や韓国などが決して得ていないような信頼、「約束は守る国だ」という深い信頼を得ている。このことは、たとえ日本のメディアが報じなくとも、現代の日本人はよく知っておくべきであろう。これは何も先の大戦でドイツやイタリアとの約束を守り通したからだけではない。例えば明治五年の新橋―横浜間の鉄道敷設の資金とした外国からの借款をはじめ、近代化のために外国から借りた資金を、あの弱肉強食の時代に全て完済したという歴史も、国際社会の記憶となっているのである。
 日本が語るべきものは、軍事力でも経済力でもない。まさに、「信義」というものが日本外交の最大の財産である、と昭和天皇は、われわれに示されているのである。しかもこれは百年、千年という単位で国家の行き方を考える視点に基づくものであり、神代に繋がる連綿たる歴史観の中で日本という国の安泰を祈り続けてきた皇室という存在なしには考えられないことに思いを致し、その昭和天皇の御心、つまり倫理観をわれわれは受け継がなければならないのではないか。
 またこうした点での昭和天皇のお考えは、日本が今後国の命運をも共にすべき国家を選択するさいの教訓もわれわれに示唆するものがあると言えるかもしれない。アングロサクソンは計算高く油断も隙もない民族ではあるが、ロシアやドイツと比べれば遙かに信頼度は高く、条約を遥かによく守ってきた。中国や北朝鮮というもう一つのタイプの大陸国家と比べてもアングロサクソン勢力は遙かに信頼性が高いことはもはや明白、と言えるかもしれない。かつての「ドイツやイタリアのごとき国家」は日本の周囲にもあるということである。
 「リットン報告書」に関する記述の真意
 『独白録』が世に出たさい、多くの歴史家の目を引いたのが「リットン報告書」に言及された点であった。

 《例へば、かの「リットン」報告書[昭和六年の満州事変のさいの国連(国際連盟、筆者註)調査団による報告書]の場合の如き、私は報告書をそのまゝ鵜呑みにして終ふ積りで、牧野(伸顕内大臣、筆者註)、西園寺に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのはおもしろくないと云つたので、私は自分の意思を徹することを思ひ止つたやうな訳である》(30頁)

 日本は結局「リットン報告書」を受け入れずに国際的に孤立して国際連盟を脱退したが、昭和天皇のお考えは、この報告書は受け容れられる内容ではないかというものだった。「リットン報告書」、つまり国際連盟満州事変が日本の侵略だと断定はしたけれども、日本の満州における権益は認めるという立場であり、その現状について日中間で新しい条約を結ぶよう勧告していた。中国は満州における日本の権益はこれを正面から認めて排日運動などによって日本の権利を侵すようなことはしてはならず、日本も満州は中国の領土であると認める条約を結べ、というわけである。
 満州事変は、日露戦争以来日本人がかの地に苦心して築いてきた合法的な権益を、中国共産党が中心となって排日、侮日運動によって日本人を追い出して力で日本の権益を根底から覆そうとしたのに対し、政府、幣原外交が無策であったために、関東軍が自衛のために立ち上がって起きた。その言い分は正しかったのだが、謀略的手法によって柳条湖で鉄道を爆破し、一挙に全満州を軍事制圧するというやり方が余りにお粗末であったのである。
 「侵略」といえるかどうかは別にして、満州事変には他にも問題点はある。日本の権益を過剰に押し広げ、ソ連と国境を接してしまったことである。ソ連との暗黙の了解であった中部満州の南北を分ける線を超えて北部に出ていってしまった。これは中ソの両方を敵とすることを意味した。たとえソ連と直接軍事衝突することはないにしても、当時日本国内にもコミンテルンの指令を受けている共産主義者が大勢いたわけであるから、彼らの国家転覆活動が活発化する可能性も合わせて考えるべきであった。実際、ソ連の指令を受けた尾崎秀実やゾルゲらは、この満州事変の直後から動き始めて日本を日米戦争の奈落に誘い込んでいったのである。
 そのように考えると、満州事変は戦略的には誤った行動ではあったが、本来正当な日本の権益は守られなければならないという点では決して間違ってはいなかったのである。従って、「リットン報告書」を受け容れれば、日本の主張の正当性を国際社会が認めることになるのだとお考えになった点でも、昭和天皇の大きなプラグマティズムに基づく国際政治観、大義国益とをバランスよく見据えていくという戦略眼がうかがえるのである。
 ところが、この天皇のお言葉を取りあげて、いまだに生き残っている左派歴史家たちの中には、「昭和天皇満州事変を是認していた」「侵略肯定論者だ」と捻じ曲げて解釈する向きがある。『独白録』は専ら東京裁判昭和天皇の戦争責任が追及されたときの弁明資料として作成されたものだとして、天皇の戦争責任を追及する藤原彰・女子栄養大教授、粟屋憲太郎・立教大教授、吉田裕・一橋大助教授、山田朗・東京都立大助手の共著『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店、共著者肩書きは平成三年の初版発行時)にも、同様の批判が記述されている。
 《満州は田舎であるから事件が起つても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の畏(おそ)れがあると思つた》(『独白録』42頁) このお言葉についても、藤原らの『徹底検証 昭和天皇「独白録」』は、「昭和天皇満州は田舎で英米の目に付かないのだから侵略してもいいと考えていた。侵略を明確に肯定している」と批判している。
 しかし、これらは根本的に歪んだ前提に立った批判である。この部分の天皇のお言葉は、前述の通り満州事変それ自体は、国際社会から日本が認められた権益を守るための行動であったが、その入り方が間違っていたし、明白に中国政府の支配下にある北支で同様の衝突をすることは国際秩序に対する挑戦であり許されない、という意味なのである。
 だから、藤原や粟屋らの批判は、どんな地域でも、いかなる場合でも武力を用いてはならないという戦後の「日本国憲法」第九条に根ざした空想的平和主義から一歩も出ない立場を前提としたものである。歴史を論じながら、当時の国際状況をまったく無視しており、国際関係が「彼我の関係」という相対性を本質とすることを敢えて否定する一方的な批判である。
 戦後平和主義をもって正統的平和主義を批判する愚
 この関連で、さらに踏み込んで見ていくならば、第二次上海事変(昭和十二年八月)勃発後に支那事変が拡大する局面における『独白録』の記述からは、昭和天皇の正統的な平和主義と卓越した戦略観の一端が見えてくる。

 《その中(うち)に事件は上海に飛び火した。近衛は不拡大方針を主張してゐたが、私は上海に飛び火した以上拡大防止は困難と思った。/当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割くことを嫌つていたのだ。湯浅[倉平]内大臣から聞いた所に依ると、石原(莞爾、筆者註)は当初陸軍が上海に二ケ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云つた相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ。/私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云つてゐたが、参謀本部は之に賛成するが、陸軍省は反対する。多分軍務局であらう。妥協の機会をこゝでも取り逃した》(44頁)

 左派史観は、これを「天皇の好戦性」を示すものとしてしきりに批判の対象とするのだが、もしかしたら、戦後の平和教育の中で育った日本人の中にも同様の見方をする者が一部に現れてくるかもしれない。しかしこれは全く平和の何たるかを理解しないものと言わなければならない。
 その五年前の昭和七年一月に起きた第一次上海事変についての『独白録』の記述では、白川義則大将が上海派遣軍を率いて十九路軍(国民党軍)を撃退しながら深追いせずに停職したのは、《私(昭和天皇、筆者註)が特に白川に事件の不拡大を命じて置いたからだ》と明らかにされている(34頁)。
 白川大将が国際連盟との衝突を避けたい天皇の戒めを守ったことにより、この時の日本軍の行動は国際連盟でも評価されることとなった。
 ところが、先の『独白録』にあるように、第二次上海事変で日本は兵力の逐次投入という愚かな策をとった。一方の蒋介石軍は西安事件(一九三六年十二月)後の第二次国共合作により、国を挙げての大々的な日本攻撃を準備して、条約上の権利で上海に駐留していた僅か二千五百人の日本軍に十数万人の大軍をもって先制攻撃する挙に出たのである。そうである以上、昭和天皇は第一次上海事変と同じようにむしろ一挙に大規模な兵力を投入することによって和平への道を確保しようと考えられたのであった。ところが、石原莞爾ら不拡大派の主張によって陸軍は最初に二個師団を派遣しただけで、その後も戦況が不利となるたびに逐次増派するという泥縄の作戦しかとれなかった。このため上海での戦闘は泥沼化し、最終的に四万の日本兵が死傷する日露戦争の旅順攻撃以来の大損害を出したのである。
 さらに、その大損害のために蒋介石・国民党軍と全面戦争に突入すべしの世論が高じ、「南京進撃」へと繋がった。確かに対ソ戦を優先して考えていた石原らの戦略にも一理はあったが、昭和天皇のほうがより現実を見据えた平和論として戦略的にも優れた見識であったように思われる。もし昭和天皇の見識が事態を支配していたら、結果的には平和的な解決につながっていたであろうし、そもそも国際政治のロジックを踏まえた大きな戦略観を天皇が持っておられたことに注目すべきではないだろうか。
 ここでもまた、『徹底検証 昭和天皇「独白録」』は、《私は盛に兵力の増加を督促した》との記述をもって、「昭和天皇は平和主義者とは決して言えない」と批判している。しかし、これも武力の行使は一切してはならないという戦後憲法の前文と第九条的思考に縛られ、それを前提に戦前の日本の行動を裁断しているにすぎないことは改めて言うまでもない。
 当時の日本は、上海で、三万人以上の日本人が住む「日本租界」という日本の法律が通用する地域を持つことが国際法上の権利として認められていた。ところが、それを守る兵力として前述の通り二千人強の海軍陸戦隊しかいない日本租界を蒋介石軍が十二万もの圧倒的兵力で攻撃しようとしたのであり、上海事変は完全な日本の防衛戦争、あるいは自衛戦争だったのである。
 混迷する時代にこそ心に刻むべき御心
 以上見てみたように、昭和天皇満州事変には明確に反対しておられた。満州の権益を守ることは正しいが、そのやり方が国際秩序に反していて日本を危険に陥れていたからである。他方、支那事変に対しては反対されていない。むしろ第一次上海事変のように、上海での日本人の生命・財産と日本の威信を守るために積極的な軍事行動に出て、ある程度の成果を収めたら追撃せず即座に和平するというお考えであった。実際、あのとき平和を確保するにはその方法しかなく、その後の支那事変がたどった悲劇は間違いなく避けられたと思われる。
 この昭和天皇の平和観と戦略感覚もまた、非常に大切な事をわれわれに教えている。国際秩序に決して挑戦してはならない。このことは天皇が繰り返し様々な場面で強調しておられた。他方、自らの利益を守り、自衛の権利を発動するときには、正々堂々、明確なかたちで国際法にのっとり断固とした態度を示すこと。それが憲法九条的な戦後平和主義ではない、もっとも正しい意味での普遍的平和主義だということである。
 冷戦終結後、混迷の度を増す国際社会の中で、日本は自立した国家への手探りを始め、「このままでは国家としては立ち行かない」という意識も国民にようやく浸透してきた。しかし、自衛隊の扱いひとつをとってみても、憲法改正後の位置づけや海外派遣をめぐって議論は錯綜したままである。本来の平和主義とはいかなるものかという認識、国際関係の基本を踏まえた戦略の文化も育っていない。これは、国際社会で、日本がとるべき行動の基準、国家の基軸という意識がいまだに日本国民に根付いていないからである。
 日本の国体というものは、お互いを思いやる「仁」と「誠」の精神を重んじ、日本の国と国民の安泰を祈り続けてきた皇室が厳然としてあり、国民がそれを尊崇し、そして自己の意志だけでは乗り越えられない存在の前に謙虚になって常に自己抑制を忘れず、そして国際社会の潮流、つまり「世界の進運」(終戦詔勅)に遅れることなく、常に国際社会と軌を一にして発展していくところにある。そのベースとなるのは、二千年の歴史に根ざす伝統への絆から生じる、ゆったりとした大きな誇りであり、これが堅実な合理主義と強靭なプラグマティズムを支え、他国と真に平和的に共存できる「柔らかき心」を生み出してくれるのである。
 昭和天皇は昭和五十年、戦後三十年を迎えて初めて記者会見に臨まれた。その場で「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」と記者が正面切って聞いたのに対して、昭和天皇は「そういう言葉の綾(あや)については、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」とお答えになった。私はこのお言葉に昭和天皇の万感の思いが込められていたと強く感じる。本来の文脈を虚心にたどれば、そこには歴史観、あるいは歴史と国際関係の大きな基軸を踏まえ、立憲君主としての立場、また国家はいかにあるべきかという哲学がうかがい知れる。
 「言葉の綾」という表現には、「そのことを論じ始めれば、実にたくさんのことを論じなければならない」という感慨、そして何よりも、「私は当事者だったし、あなた方の中にもその時代を生きた人たちがいる。この問題は後世の歴史家がしっかりと冷静に論じられる時代になったときに、自ずと真実が明らかになるはずだ」という万感の思いをむしろ率直に込められたのだと思う。
 日本が国として立っていくための基軸について昭和天皇が遺されたこと、そして孫子の世代に受け継いで欲しいと願われた御心を、われわれは八月十五日を迎えるたびに、あの「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と唱えられた終戦詔勅とともに繰り返し思い出すべきなのである。それが、戦後六十年という節目を迎え、またこの春に昭和天皇の御誕生日が「昭和の日」という国民の祝日として制定された今、われわれに改めて求められる決意であろう。

 なかにし・てるまさ 昭和二十二年(一九四七年)大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。同大学院修士課程(国際政治学)、ケンブリッジ大学大学院修了。静岡県立大学教授を経て現職(総合人間学部教授)。著書に『大英帝国衰亡史』『なぜ国家は衰亡するのか』(以上、PHP)『日本の「敵」』(文藝春秋)『国民の文明史』(扶桑社)『帝国としての中国』(東洋経済新報社)など多数。
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