🎺12:─3─日米戦争を不可避としたのは、アメリカ、イギリス、ソ連そして中国共産党であった。1941年10月~No.65No.66No.67 @ ⑨

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ルーズベルトが、軍国日本との戦争を決断した背景には、如何なる戦闘機に襲われても決して撃墜されないというスーパー爆撃機・「空飛ぶ要塞」と呼ばれたB17重爆撃機が完成していたからである。
 その戦略は、日本軍に第一弾を国外のアメリカ支配地に撃たせ、その報復としてB17の編隊で日本本土を空爆して焦土と化して降伏させる、と言うものであった。
 対独戦参戦のみを主張する有識者は、軍国日本への威嚇として、B17編隊によるマニラーウラジオストック間を往復飛行させる案を提示した。
 反日派のルーズベルトは、ファシスト中国・蒋介石の窮地を救う為には軍国日本との戦争は決行する必要があり、軍国日本がB17編隊に恐れをなして開戦を断念しては元も子もないとして却下した。
 だが。空飛ぶ要塞と自慢していたB17は、零戦によって呆気なく撃墜された。
 アメリカは、B17に代わる超重爆撃機B29の開発に取りかかり、撃墜される危険性のない欧州線線に配置した。
 零戦に対抗できる戦闘機や爆撃機が完成するまでの3年間は、太平洋の制空権は日本海軍が支配した。
 ルーズベルトアメリカ軍の対日楽勝戦略は、誤った情報と判断で最初から失敗していた。
 軍国日本は、最新兵器である航空機において最先端科学技術と精密精巧な生産能力で世界のトップに立ち、大空を支配していた。
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 秋 満州関東軍憲兵隊は、共産主義者が革命を計画しているとして、農協運動をしていた日本人50名以上を逮捕した。事件は冤罪であったが、憲兵隊は虚偽の証拠をもとにして思想弾圧を行った。治安維持法によって、5名が無期刑となり獄死した。
 戦時統制として、雑誌や新聞における報道は規制され、天皇制打倒を主張する共産主義者や戦争反対を唱える宗教家(主にキリスト教徒)への弾圧は強化された。体制は、人々の自由を奪った。
 昭和天皇は、バチカン接触して教皇ピウス12世に450万ドルを預け、ローマのバチカン銀行とポルトガルとスペインなどの銀行に皇室財産の一部を預けた。
 豊田外相は、東京の駐日イギリス大使ロバート・クレイギー卿に日米首脳会談実現への協力を要請した。
 クレイギー大使は、協力要請を承諾した。日本側が求める平和会談について、グルー大使と会談し、そしてロンドンのイーデン外相とワシントンのハリファックス卿に日本側の平和に対する希望を伝えた。 
 ルーズベルトは、マクルーダー少将を団長とする使節団を重慶に派遣したが、ナチス・ドイツを先に攻撃し軍国日本をその後にする為に、中国軍と共同で日本軍を攻撃するという話を持ち出さなかった。
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 汪兆銘政権内の李士群は、自分の秘書である関露が中国共産党のスパイである事を見破ったが、蒋介石重慶政権の機密情報を提供する代わりに中国共産党の仲介を申し込んだ。
 中国共産党は、関露に対して、日本海軍情報部が上海における情報活動の隠れ蓑に使っている婦人雑誌月刊『女声』に潜入する様に指示した。
 関露は、満鉄上海事務所の中西功の紹介で同雑誌に入社し、日本の金を使って中国共産党の宣伝文や反日記事を雑誌に紛れ込ませていた。
 中国共産党反日宣伝工作は、単細胞的な日本人では理解できないほどに巧みであった。
 反日的日本人は、何時の時代にも存在し、中国共産党ソ連共産主義勢力に荷担していた。
 後に。中西功は、中共諜報団事件で逮捕された。
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 反日派のドイツ保守派とドイツ軍は、同盟国の軍国日本に隠れてファシスト中国への軍事支援を続けていた。
 ヒトラーは、軍国日本と戦っているファシスト中国への軍需物資の輸出を知っていたが、黙認していた。
 ヒトラーも、反日派として日本人を嫌い、親中国派として中国人を信用していた。
 ドイツ人は、キリスト教徒の蒋介石に親近感を持ち、異教徒の昭和天皇を嫌悪していた。
 反日派のナチス・ドイツが、嫌っていた軍国日本と三国同盟を結んだのは対ソ戦略の為であった。
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 10月 支那派遣軍及び北支那方面軍の現地軍は、これ以上の戦線拡大は不利であると判断して、中国からの撤兵に賛成する旨を、陸軍中央と海軍側に連絡した。
 軍部は、これ以上の軍隊の暴走は無意味であり、破滅につながると憂慮した。
 陸軍内部でも、対米戦の計画を立てていなかった為に、大陸からの撤兵はやむなしと判断した。対米戦の主役は海軍であるから、海軍に対米戦は自信がないと明言すべきであるとして、責任を海軍に押し付けた。
 海軍は、陸軍への面子から、対米戦はできないと明言する事を避けて、責任を近衛首相に負わせようとした。
 ゾルゲは、日本海軍の極秘計画である真珠湾奇襲作戦情報を協力者から入手し、モスクワに伝えた。「日本は、60日以内にパール・ハーバーを攻撃するつもりだ」
 ソ連は、「真珠湾攻撃」の情報をアメリカに知らせた。
 アメリカが同情報をどうしたかは不明であり、真珠湾に警告を発した形跡はない。
 シオボールド少将「ゾルゲの自白のある部分が、ペンタゴンのファイルから削除されていた」
 イッキーズ内務長官「これまでも今も、参戦に至る一番の道は日本を利用する事だと思っています」(ルーズベルト大統領への書簡)
 日米戦争を欲していたのは、日本ではなく、中国であり、アメリカとイギリスであった。一番望んでいたのが、ソ連であった。
 共産主義者は、日米全面戦争が起きる様に日本国内の協力者に指示を与えていた。
 ナチス・ドイツは、第一次世界大戦の敗戦を教訓として、アメリカの参戦を阻止するべく挑発的軍事行動の誘いに乗らないように全軍に命じていた。
 ヒトラーは、むしろソ連共産主義勢力を殲滅する為にアメリカとの同盟を望んでいた。
 コリアーズ誌は、日本人移民の一世と二世の中で日本に親しみを持つ者は当局の監視下にあると報道した。
 アメリカ軍情報機関は、日系アメリカ人の大半がアメリカ国家に忠誠を誓い、誓わない者はFBIと協力して厳しく監視していると報告した。
 日系アメリカ人は完全に同化し、軍国日本に協力してスパイ活動や破壊工作、反米暴動を起こす心配はないと、分析していた。 
 アメリカ軍には、数千人の日系アメリカ人兵士が存在していた。
 日系アメリカ人の大半が、日本語を話せなかったし、日本語を読む事も書く事も出来なかった。
 イタリア軍は、アルバニアギリシアに侵攻した。
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 10月2日 ハル国務長官は、野村大使に、首脳会談を行う最低条件として、4原則の確認と仏印、中国から撤兵を求める覚え書きを渡した。
「日本は自己の敗北と支那の勝利を認め、満州支那仏印におけるこれまでの地歩を徹底的に放棄する事。三国同盟についても、従来日本がほのめかしてきた暗黙の骨抜きとアメリカの大西洋武力介入黙認だけでは不十分である。日独同盟を真っ正面から解消する事」
 4月以降続けていたはずの日米交渉は、アメリカの不動的な原理原則論で一歩も進展していなかった。
 日本が行ってきた説明は、この原則論によって完全に無視され、全てが否定された。
 日米予備交渉は、アメリカ側の成立させようという意思のなさゆえに、だらだらと本交渉にはいれないままに続けられていた。
 軍部は、近衛首相に対して、10月15日を外交交渉の期限とするように迫った。
 アメリカ軍は、大統領の決断に従って参戦準備を行っていたが、準備完了までの時間が稼ぎとして日米交渉を引き延ばす事を望んでいた。
 アメリカは、対日戦の為に総動員を行っていた。
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 10月3日 豊田外相は、野村大使に、平和回復を目的とした首脳会談実現の為にイギリスに協力を求めた事を伝えた。
 昭和天皇は、平和回復の為に、首脳会談で合意した協定に直接裁可を与え、好戦的な軍部や議会内右翼勢力の横やりを排除する事に同意していた。
 軍部は、アメリカの首脳会談拒否回答を知るや、近衛首相に10月15日を外交交渉の期限とする様に迫った。
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 10月9日 前軍令部総長伏見宮は、昭和天皇に拝謁し、事ここに到ってはアメリカとの戦争は避けられない以上は戦争を早く始めた方が有利であから御前会議を開催する事を言上した。そして、開戦を決断しなければ陸軍に叛乱が起きる危険があると述べた。
 昭和天皇は、「結局一戦は避けられないかも知れないが、今はその時期ではなく、なおも外交交渉によって尽くすべき手段をとりたい」として、開戦の為の御前会議開催には不賛成であると述べた。
 伏見宮は、未だに昭和天皇が平和を望み米英との戦争に消極的である事を知るや、主戦論を控え、開戦の御前会議開催を求めた言上を取り下げた。
 東京の外務省は、海軍の要請を受け、ハワイ総領事館に暗号通信を送った。真珠湾を座標格子で5つに分け、アメリカ海軍艦艇の停泊情況を報告する様に求めた。
 アメリカ軍側は、同暗号電文を傍受して、日本海軍が真珠湾の停泊情報を得ようとしている事を掴んでいた。
 チャールズ・ウィロビー「アメリカの兵力の位置に合わせ、湾内を座標軸で示す事は精密標準点を定める古典的手法であり、あの場合、軍艦が標的に早変わりしたという事だ」
 軍部の好戦派と中央官庁の革新官僚は、国益を守る為にはアメリカとの戦争をぞさないと右派系報道機関に漏らしていた。
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 10月10日 豊田貞次郎外相は、グルー駐日米国大使に対して、日米首脳会談に対するアメリカ側の進捗状況を確かめた。
 グルー大使は、ワシントンからの詳しい報告を得ていなかった為に、個人としては首脳会談に賛成であったが、確答できなかった。
 宮城与徳は、逮捕された。
 ホワイト・ハウスは、東京のアメリカ大使館に必要最小限の情報を流したが、重要な決定事項を伝えなかった。
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 10月12日 萩外荘会談。近衛首相は、強硬に主戦論を主張する東條陸相の言葉の中に非戦的意が含まれているとの感触を得ていた。
 東條英機は、昭和天皇に対する忠誠心が誰よりも強いだけに、昭和天皇の戦争回避の希望を叶えたいと思いながら、陸軍大臣の職責からあえて主戦論を唱えていた。アメリカと戦う海軍が「戦争不可」と言えば、その発言で陸軍をまとめようという心づもりはしていた。
 だが、海軍は、決断を近衛首相に預けて逃げた。
 日本海軍は、国益や国民の人命より組織防衛を優先し、戦争すべきかどうかは基本的には政治問題である以上、政治的決断は近衛首相一人が決断する事であるとして責任を回避した。
 及川古志郎「無敵艦隊を呼号してきた海軍が、アメリカとは戦ができないから譲歩しろとは、いまさら言えないではないか。弱腰の非難を海軍が一手に引き受けるのはたまらんじゃないか。外部にも内部にも海軍の立場を失ってしまう」
 日本の真の悲劇は、国家の命運や国民の命よりも、官僚組織の防衛と利権絡みの省益を最優先にするエリート官僚の無責任体質にあった。
 陸軍も海軍も、その組織を支配していたのは現場主義の軍令ではなく予算を司っていた軍政であり、その中枢にいたのが海軍大学や陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリート軍人官僚達であった。
 破滅的対米英戦争を回避したいとうい宮中・陸軍・海軍・政府などの非戦派の努力は、個人的に責任を取りたくないという指導者の逃げ腰で徒労に終わった。
 何時の時代でも。日本の官僚達は、そこにある避けては通れない重大な危機を、個人の責任を問わない無責任体質で、その場しのぎの非決定と問題先送りで日本を不幸に追い込んで行った。
 将来に対する想像力が欠如した日本人官僚が、組織防衛の為に日本に一大悲劇をもたらし、予算獲得にともなう省益を守る為に数百万人を無駄死にさせた。
 日本軍人は、ナチ党の党員でも、ファシスト党の党員でもなく、官僚の一部である。
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 10月14日午後 陸軍省武藤章軍務局長は、東條陸相の密命をおびて、海軍省岡敬純軍務局長に会って「海軍は和戦について『総理一任』と言っているが、これでは陸軍部内は抑えきれない。なんとか『海軍としては戦争を欲せず』と公式に陸軍に言ってくれないか」と要請した。
 だが。岡軍務局長は、海軍としては「『総理一任』と言うのが精一杯」と返答した。 
 夜 企画院総裁鈴木貞一は、近衛首相を訪れて、東條英機の伝言を伝えた。
 「海相は戦争を欲しないようだが、なぜそれをハッキリ言ってくれないのか。ハッキリ話があれば、自分としても考えなければならない。ところが、海相は『総理に一任する』と、全責任を総理に押し付けている。海軍の肚が決まらなければ、9月6日の御前会議は根本的に覆るのだから、この際、総辞職して新しい内閣で案を練り直すしかない」
 誰もが国力差を知っていただけに、アメリカと戦って勝てないことは分かっていたが、アメリカと戦う海軍が「戦えない」と明言しない限り、対米戦開戦を避けられないかった。
 陸軍としても、これまで強硬な発言を繰り返してきた手前、所管違いの対米戦に口を挟む事ができなかった。
 東條陸相は、海軍が「対米戦不可能」と明言すれば、陸軍は戦争回避を名目として中国からの撤退を考えると打ち明けた。もし、海軍が体面に拘って明言できなければ、先の御前会議を御破算にする為に総辞職するべきであると提案した。
 切羽詰まった状況下で、陸相が単独辞表を出して近衛内閣を瓦解させて事態を悪化させる事は、昭和天皇にいらざる心労をかけるとして避けた。
 陸軍も、また体面に拘った。
 東條英機は、主戦派の軍部を抑えるには皇族を後継首班にするしかないとして東久邇宮稔彦を推薦した。
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 10月15日 ゾルゲ事件特高警察は、日本国内からソ連に発信されている無線電波を丹念に調べて、ゾルゲを突き止めた。
 ソ連のスパイであるゾルゲと元朝日記者尾崎秀実は、日本を共産主義化して天皇制度を廃止するべく暗躍していた。
 ゾルゲ等は、ソ連を救う為に、日本を北進させず南進させてアメリカと戦わせようとした。
 ソ連コミンテルンは、日米全面戦争は避けられない段階に入ったとしてゾルゲ・グループを見捨てた。
 近衛文麿は、尾崎秀実をブレーンとして信頼し、その強硬意見に従って対中外交を展開していただけに衝撃を受け、平和を希望してきた昭和天皇の期待を裏切ってきた事に責任感を抱いて辞職を覚悟した。
 敗戦間際。近衛文麿は、昭和天皇の依頼を受け、ソ連に戦争終結の仲介を要請する条件にゾルゲや尾崎秀美を引き渡そうとした。
 ソ連スターリンは、北海道・千島列島・北方領土南樺太などを強奪する為に、日ソ中立条約を破棄して対日戦参戦を決断していただけに、ゾルゲと尾崎秀実の引き取りを拒否した。
 ソ連共産主義勢力は、国際的な如何なる条約や協定も守ろうという意思はなかった。
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 10月中旬 日本外務省は、日蘭会商が暗礁に乗り上げているとして、交渉を一時停止して小林団長を日本に召還した。
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 10月16日 近衛首相は、戦争回避の和平交渉を貫く事ができず総辞職した。
 マニラで。フィリピンのアメリ高等弁務官フランシス・セイヤーは、戦争は近づき枢軸国は撃退されるだろうと語った。
 東京のオットー・トーリシャスは、ニューヨーク・タイムズ紙に、両国関係は「決定的に袂を分かつところに至りつつある」という日本海軍情報筋の話しを送った。
 上海の親日政権である南京政府の機関紙中華日報は、日米戦争は不可避であると報道した。
 誰が見ても、日米戦争が不可避の段階に至ってい事は明らかであった。




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