🎺28:─3─ミッドウェー海戦。ガダルカナルとラバウル。マキン島強襲作戦。朝鮮の干ばつ。タイの大洪水。上海ホロコースト未遂事件。1942年6月~No.140 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 松岡洋右と軍部は、上海の日本人租界に収容したポーランドユダヤ人難民達をホロコーストから守った。
 ポーランドユダヤ人難民達保護が東条英機の許可を得ていたかは不明である。
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 6月 吉田反戦グループ(ヨハンセン)。主要参加者、吉田茂、原田熊雄、池田成彬、樺山愛輔、牧野伸顕鈴木貫太郎宇垣一成、殖田俊吉、若槻礼次郎、古島一雄、有田八郎、小畑敏四郎、岩淵辰雄ら。
 吉田茂は、東京・荻窪にある近衛の私邸(荻外荘)を訪ねて近衛を説得した。
 「貴方はスイスのジュネーブに行き、そこのホテルに泊まっているといい。そこに各国の人たちが近づいてくる、その機会を和平交渉に振り替えたらいいではないか」
 憲兵隊は、吉田茂近衛文麿を日常的に監視していた。
 ドノヴァン長官の下で、OSS(戦略情報局)が組織され、ユダヤ人ニューディーラー(マルクス主義者)が集められた。 
 アメリカ軍は、押収した膨大な日本側書類を翻訳する為に日本語兵士の育成に力を入れるべく、日本語学校を大きくしてミネソタ州のキャンプ・サベージに移転させた。
 6月5日 ミッドウェー海戦
 日本海軍は、恥をさらさず面子を守る為に箝口令(かんこうれい)を敷き、ミッドウェー海戦敗北を東條英機首相に教えなかった。
 さらに、昭和天皇に対しても嘘の報告をした。
 「我が方の被害は航空母艦1隻喪失、航空母艦巡洋艦各1隻大破」
 だが、空母4隻が撃沈され敗れたという噂は、幾ら厳しく取り締まっても情報は漏れ、市民の間だけではなく子供でも知っていた。
 日本人は、他人に話してはいけないという隠し事は、知人に小声で話さないと気が済まない程に口が軽かった。
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 7月 東條英機首相は、現地軍に対して、国際法に則り、非戦闘員を殺傷する事禁じた陸戦法規に違反するかどうか審議した後に、所定の手続きを取って処理する様に命じた。
 日本海軍には、日本陸軍とは違って敵軍兵士を捕虜にする経験が乏しかった。
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 アメリカ軍は、攻めの戦略で、アジア・太平洋に侵攻し、日本軍を撃破し、日本を軍事占領する事を考えていた。
 日本を軍事占領する為に、日本語をアメリカ軍兵士に教えていた。
 日本軍は、守りの戦略で、アジア・太平洋に侵攻して堅固な防衛陣地を築きアメリカ軍を迎え撃つ事であった。
 ゆえに、日本軍兵士に敵国語である英語を教えなかった。
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 ハンブルグ爆撃、4万人が犠牲となる。
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 7月 リッベントロップ外相は、日本に対ソ戦への参加を再度要請した。
 東條首相は、米英戦争中は、対ソ関係は「静謐」を保持するとして要請を拒否した。
 陸軍省軍事課長佐藤賢了中将「熟柿は、いまだに落ちていない」
 マイジンガーSS大佐と上海のゲシュタポ幹部は、日本軍占領下のユダヤ人難民約4万人をホロコーストする為に、日本側に協力を要請した。
 ユダヤ人のカウフマンは、親米派の柴田副領事(夫人は日系二世でキリスト教徒)に計画阻止を依頼した。
 ロベルト・ミヒャエルス「柴田は、ユダヤ人絶滅というドイツ側の要求には陸海軍は異義をとなえないが、外務省が抵抗したと述べた。……柴田は、可能な限りユダヤ人を護りたいのだといった」「日本人はドイツとの同盟関係の為に上海ゲットーも設置に同意したが、ガスによる殺戮は拒否した。それはナチスに同調していたドイツ寄りの外交官達の功績ではなく、柴田と軍の司令官達の御陰である」(上海欧州弁護士会
 右翼・右派の人種差別主義者や親ドイツ派日本人らは、ユダヤ人根絶作戦に協力していた。
 軍部はもちろん外務省や議会にも、反ユダヤ親ドイツ派が数多くいた。
 憲兵隊は、嫌がらせで柴田副領事を逮捕し尋問してから釈放した。
 A級戦犯松岡洋右は、柴田副領事からの報告を受けるや、上海方面に影響力のあるA級戦犯松井石根大将や上海の日本艦隊司令長官らの協力を得てユダヤ人難民を助けた。
 ナチス・ドイツは、軍部にホロコーストへの協力を要請した。
 東條英機首相は、A級戦犯・東郷外相と協力して「ユダヤ人に関する緊急処置令」を出し、陸相として軍隊に対して敵国の悪宣伝に利用されない様にユダヤ人難民を保護する様に命じた。
 軍部は、反ユダヤ主義者を遠ざけてユダヤ人難民を助けていた。
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 ユダヤ人難民保護は、終生ユダヤ人への感謝の念を忘れなかった昭和天皇の希望でもあった。
 A級戦犯達は、昭和天皇の気持ちを叶えるべく、ユダヤ人難民救済に努力していた。
 歴史に詳しい大抵の日本人ならば、此の「人道に対する貢献」という歴史的事実を知っていて当然である。
 反戦平和市民団体は、その歴史的事実を知っていて、A級戦犯達が祀られている靖国神社の廃絶を訴え、昭和天皇戦争犯罪を告発している。
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 7月1日 オーストラリア軍兵士捕虜や民間人約1,000人を乗せた日本の輸送船「もんてびでお丸」は、フィリピン沖でアメリカ海軍潜水艦の攻撃で撃沈だれた。
 7月21日 軍人出身のビドル司法長官は、ルーズベルトの指示に従って、戦争に反対する日系アメリカ人28名を「生まれ付きのファシスト」として起訴した。
 FBIは、国内の反戦派をファシスト支持派と見なして監視を強化し、電話の盗聴や郵便物の開封を行った。
 アメリカの監視は、日本の憲兵隊や特高よりも徹底しており、人種差別から日系アメリカ人への尋問の為の拷問はリンチに近く激しかった。 
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 8月 上海。軍法裁判は、無抵抗の民間人を殺傷する行為を禁じた国際法に違反するとして、被告8名に死刑を宣告した。
 杉山元参謀総長は、陸軍大臣を兼務する東條英機首相に搭乗員全員の死刑を要請した。
 東條陸相は首相を兼務する為に捕虜として扱うとして譲らなかった。
 東條英機首相は、事の顛末を昭和天皇に内奏した。「天皇陛下の日頃の御仁慈の聖慮を拝しております」
 昭和天皇は、報告を受け、爆撃機に搭乗して爆撃に直接たずさわらなかった5名の減刑を示唆した。
 日本軍は、日本を無差別爆撃した爆撃機の搭乗員が撃墜されて捕らえるや、軍法裁判にかけて処刑した。
 戦後。連合国は、捕虜を処刑した日本人を捕虜虐待の罪で戦犯として処刑した。
 日本側は、戦犯として処刑された日本人を靖国神社に祀った。
 東條英機は、A級戦犯として、捕虜惨殺の罪で有罪とされた。
 杉山元は、戦犯容疑として逮捕されなかったが、妻の啓子の「貴方は自決しないのか」と問われて拳銃自決した。啓子夫人も、武士の娘として作法通りに自刃した。
 8月事件。インド国民議会派は、「イギリスよ、出て行け」と決議した。
 インド全土で、反英デモが起きた。
 イギリスは、戦争中を考慮して武力による鎮圧を命じた。
 イギリス軍は、戦闘機を飛ばして機銃掃射を加え、容赦なく弾圧した。
 インド人民間人940人以上が死亡し、多くの者が負傷した。逮捕者は、6万人以上。
 8月6日 駐米イギリス公使ロナルド・キャンベルは、ルーズベルトの戦後処理発言をロンドンの外務省に伝えた。
 「米大統領はアーリアンとアジア人の混血を考えている」「ただ日本人は除外し、元の島々に隔離して衰亡させるつまりだ」
 8月7日 アメリカ軍の反攻として、ガダルカナル島に上陸した。
 日本海軍ほど、歴戦のパイロットを大事にせず消耗品として扱った軍隊はない。
 零戦パイロットは、ラバウルから片道3時間かけてガダルカナル上空に到達し、十数分間空中戦を行い、再び3時間かけて帰島した。
 上官は、週平均2、3回、多い週で5回の出撃を命じていた。
 戦死するパイロットの多くは、撃墜ではなく、疲労による睡魔に襲われての墜落であったと言われている。
 日本海軍は、アメリカ軍とは違って、墜落したパイロットの捜索はもちろん救出や救助を行わず、見捨てていた。
 同様に、自軍の輸送船に護衛を付ける事をしなかった為に多くが目的地に辿り着く事なく撃沈されたという。
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 ガダルカナル攻防戦。人種差別者であったアメリカ人兵士は、真珠湾攻撃で太平洋艦隊に大打撃を加えた劣等民族日本人への恐怖心が強かった。
 アメリカ軍は、日本軍との本格的な地上戦に突入するに際して、「ハラキリを厭わない日本人の狂気な軍隊」という恐怖を打ち消す為に、戦闘に参加する兵士に「ガダルカナルの戦い」という小冊子を配った。
 マーシャル陸軍総参謀総長日本兵はスーパーマンではない」
 軍隊教育で、日本軍が強く見えるのは様々なトリックを労してそう見せているだけに過ぎず、日本軍兵士は射殺すれば死ぬごく普通の兵士であると教えた。
 そして。日本兵は戦死を名誉と考え捕虜になる事を恥としにがゆえに、白旗を揚げ、武器を持たずに降伏を申し込んでも信用するなと叩き込んだ。
 「日本兵は狂信的に戦い、決して降伏しない。捕虜もいなかった。捕虜にされそうになったら将校は自決した」
 その為に戦場において。アメリカ兵は、日本兵を捕虜する事なく、見付けしだい射殺していた。
 だが。各戦場では、数少ないが日本人兵士捕虜が出た。
 日本人兵士捕虜の内少人数は、助けてくれたアメリカ軍兵士に軍事機密情報を包み隠さず、知っている事を問われる前に洗いざらい話した。
 自意識のない日本人は、自分よりも目上の「お上」に対しては絶対服従の態度を取り、その場の支配者におもねた。
 それがアメリカ人であおうとも、中国人であろうとも、強者に嫌われる事を恐れて、結果的に日本軍が敗北しても積極的に協力した。
 アメリカ軍情報部は、日本人兵士捕虜の積極的な協力は、「捕虜となってはもう二度と帰国ができないと諦めたからであろう」と分析した。
 アメリカ軍は、協力的な日本人兵士捕虜等から仕入れた軍事情報をもとにして効果的な攻撃を仕掛けて、日本軍を玉砕へと追い詰めていった。
 そうした我が身第一の卑屈な日本人根性は、日本本土がアメリカ軍に占領されてからも見られた。
 そこには、武士道精神など存在しなかった。
 アメリカ人は、47%が人を信じられると答え、47%が人は他人の役に立つと考えている。
 日本人は、26%が人を信じ、19%が役に立つと考えている。
 日本は他人を信用しない個人主義の国で、日本人は自分の事しか考えない身勝手な世俗的民族である。
 日本人は、家族や友人や世間よりも自分の事しか考えず、自分が決めた目標の為ならば全てを裏切り、全てを捨てた。
 人生に於いて最も大切なのは、自分の夢・希望・願望・欲望であった。
 日本の信仰は、崇高な悟りではなく、金儲けや昇進といった功利的現世利益にすぎない。
 日本人にとって重要なのは、今が楽しければ、死後の世界も、来世も関係なかった。
 たが、「今」、それだけである。
 大伴家持「この世にし 楽しくあらば 来る世には 虫に鳥にも われはなりなむ」
 日本人は、殺伐たる身勝手な功利的個人主義者であるがゆえに、声高に協調性を訴え「和」を強調した。
 中国に仁も義も礼節もないがゆえに、孔子儒教で人の徳と説いた。
 聖徳太子は、日本に和が足りないゆえに十七条の憲法で書き記した。
 日本人兵士捕虜がアメリカ軍に味方して日本を裏切る事は、日本人の本性からしてありうる事である。
 事実が明らかになっても、反日的日本人が絶えないのも日本人であるがゆえである。
 日本人の集団主義とは、まやかし、幻想でしかない。
 日本人は他人が信用できないがゆえに、国内の到る所に禁止や注意事項の標識が溢れている。
 禁止や注意事項がなくなると、日本は無秩序的に大混乱に陥る。
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 8月9日 第一次ソロモン海戦。日本艦隊は、アメリ巡洋艦艦隊をほぼ全滅させたが、ガダルカナルに向かう輸送船団を見逃した。
 アメリカ軍は、輸送船団でガダルカナルに上陸して日本軍守備隊を攻撃した。
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 ラバウル基地では、疲労した戦闘機搭乗員達に対して恒常的に覚醒剤ヒロポンが投与されていた。
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 8月17日 マキン島強襲作戦。アメリカ海軍潜水艦二隻は、日本海軍の制海制空下にある中部太平洋のマキン島に接近し、海兵隊強襲部隊約200人を上陸させた。
 海兵隊強襲部隊は、隠密裡に上陸し、日本軍守備隊を攻撃して、翌日無事に撤収した。
 日本軍は、海兵隊小部隊による強襲作戦の成功を前にして、小さな島嶼を防衛する事の困難さを知らしめた。
 日本海軍は、上陸される恐れのある島々の防衛強化を急いだが、余りの多さに全てに陸戦隊と艦艇と航空機を配置する事は不可能であった。
 島国日本は、安全保障の面か周辺海域の島嶼を何がなんでも死守しなければ独立を守れない。非武装中立で無防備となり、空白地帯を作る事は即滅亡につながる。
 共に戦ってくれる同盟国を持たない孤独な日本は、江戸時代からロシア帝国と新政府になってから清国の侵略に怯えて軍事国家となり、今はアメリカを主敵とする連合国と一人で戦っていた。
 負ければ、国内にいる反日朝鮮人が鋭い爪で寝首を掻きに来るかわからなかった。
 何時の時代でも日本は孤独であり、そして国内には敵に通じている「獅子身中の虫」がいた。
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 9月 朝鮮は、干ばつに襲われて凶作となった。
 朝鮮総督府は、朝鮮の食糧不足を回避する為に日本への移出を制限した。
 朝鮮人農民は、日本への米移出で現金を手に入れていた為に、総督府の決定に激怒して暴動を起こした。
 一部の朝鮮人は、日本人と違って徴兵義務がなかったので、労働力不足の日本に渡って仕事を探した。
 華北に駐屯していた日本軍は、約1億人の飢餓人口を抱え、さらに餓死者300万人以上という河南大飢饉に襲われていた。
 日本軍は、翼東地区に無住地帯を設定すること決定し、該当地域の農民に対して生活を補填する名目で農作物を買い上げた。
 原爆投下に使用するBー29が約30億ドルの巨費を投じて完成して、初飛行が行われた。
 アメリカは、武器開発の為に巨額の血税を軍需資本に支払った。
 国際金融資本の投資を受けた軍産複合体が、アメリカを動かしていた。
 戦争は、金で動いていた。
 9月 東郷茂徳外相は、「外交が二元化される」として大東亜省の設置に猛反対していた。
 昭和天皇は、禅師中に大東亜省設置問題で内閣不一致となって東條内閣が瓦解する事を恐れ、東條内閣を存続させる為に東郷茂徳外相の辞任を黙認した。
 9月1日 東條英機首相は、早期講和を求める東郷茂徳外相を大東亜省新設に反対したとして更迭し、大東亜構想を持つ重光葵を新たな外務大臣に任命した。同時に、講和を求める声を封じ込めるべく憲兵隊を動員して重臣や代議士らを監視した。
 東郷茂徳は、昭和天皇の許可が得られない以上は早期和平は不可能と判断して、戦争終結の時期が来るまで軽井沢に隠遁した。戦後、東郷茂徳A級戦犯として有罪判決を受けた。
 東郷茂徳「日本の国力から比較して、無限の長期戦は不可能であるゆえ、できる限り早い時機に、米英の本格的な反撃が強まらないうちに、講和をすべきである」 
 昭和天皇は、連戦連勝で沸き立っている国民世論に冷や水を掛ける事を恐れ、戦勝内閣を閣内不一致で退陣させる事に同意しなかった。この時、昭和天皇も戦闘の勝利に浮かれて戦争の継続を支持し、皇軍の敗北を認める終戦工作には反対した。
 昭和天皇終戦工作への不支持が、日本の戦争被害を拡大し、数多の日本人を犠牲にした。
 それゆえに、現代に至るも天皇を有罪とする戦争責任論が絶えない。
 だが、日本以上に戦争の継続を望んだのは、戦争好景気で莫大な利益を得ようとしたユダヤ系国際金融資本であった。彼等は、アメリカやイギリスはもちろん、ソ連ナチス・ドイツ、さらには日本や中国に、直接的間接的に資金を提供し石油や軍事物資を供給し続けていた。
 9月22日 日本政府は、イギリス政府に対して、人種差別的な在英抑留日本人への不当待遇に厳重に抗議した。
 国際社会において、依然として、白人による非白人に対する人種差別が行われていた。
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 秋。国務省は、戦後の日本占領政策の研究を本格的に始動させるべく、知日派のジョージー・ブレイクスリーとコロンビア大学助教授ヒュー・ボートンらを集めた。
 知日派は、対日強硬派の制裁的政策案に対して、伝統的日本文化の中心である皇制度を利用しながら穏健で安定した日本の再建を目指して激論を繰り広げながら、初期対日方針をまとめ上げていった。
 問題は、日本の非軍事化と民主化てあり、如何なる理由があっても一切の軍隊を日本から排除するかであった。
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 10月 タイの米生産地帯が大洪水で大打撃を受け、前年比約25%言と予想された。
 タイの食糧不足を補う為に、ビルマ産と仏印産の米がタイに緊急搬送あれた。
 その結果、東南アジア全体が食糧難に陥った。
 日本軍は、泰緬鉄道を如何なる犠牲を出しても完成させて、ビルマ産米を食糧難地帯に運び出した。
 連合国は、東南アジア全体を反日化する為に、食糧の移送を阻止するべく泰緬鉄津を攻撃した。
 東條内閣は、来年度の食糧を確保するべく米消費を抑える為に、「玄米食の食べ過ぎは健康に良くない」と宣伝した。
 一部の新聞は、情報統制に従って、「玄米を食べ過ぎて体を壊した」という記事を掲載した。
 日本軍は、自国兵士への食糧はもちろん連合国兵士捕虜への食べ物にも不足した。
 戦後。連合国兵士捕虜に対して欧米風の食べ物を与えなかった事が捕虜虐待とされ、多くの日本人兵士がB・C級戦犯として処刑された。
 10月26日 南太平洋海戦。日本艦隊被害、空母翔鳳と重巡洋艦筑摩が大破、空母瑞鳳が中破。パイロット約140人が戦死。アメリカ艦隊被害、空母ホーネットと駆逐艦1隻が沈没、空母エンタープライズが中破。
 日本海軍は、伝統的に人命軽視の傾向があって、撃墜若しくは不時着・着水したパイロットを救助しなければ捜索もせず見殺しにした。
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 11月1日 東條英機首相は、大東亜省を新設して上海のユダヤ人難民を保護する為に統括させ、陸軍に昭和天皇の命令で協力する様に命じた。
 松岡洋右は、外交筋を動かしてユダヤ人難民の面倒をみた。
 11月24日 イギリス紙ディリー・メールは、「日本軍は捕虜を優遇」との大見出しの記事を掲載し、日本軍収容所でのイギリス軍兵士捕虜の生活を報道した。
 国際赤十字は、日本軍は日露戦争以来戦時国際法を遵守し、全ての捕虜を差別するせず平等に扱っている事を認めた。
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 12月11日 昭和天皇は、数人の侍従に対米英戦争に不安を洩らし、戦争を如何なる段階で終結するかが重要であると繰り返して語った。
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 ガダルカナル伊藤正徳「それは帝国陸軍の墓地の名である」
 1942年 大本営は、ガダルカナルを奪還する為に部隊を逐次投入し、堅固な防衛陣地を築いたアメリカ軍の攻撃でその都度壊滅的打撃を受けて消耗した。
 投入した兵力は3万1,358人で、戦死2万余人、残りの大半がマラリアや飢餓で戦闘不能に陥っていた。
 制海権も制空権もアメリカ軍に奪われ、新たな部隊を投入する事は不可能となった。
 10月頃から、ガダルカナル島撤退やむなしと考えられたが、誰もそれを言い出せず犠牲者を無駄に出していた。
 井本熊男「(陸海軍)相互の中枢における長年の対立関係が根底にあって、おのおの面子を重んじ、弱音を吐く事を抑制し、一方が撤退の意思表示をするまでは、他方は絶対にその態度を見せまいとする傾向が顕著であった」(『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)
 12月31日 杉山元参謀総長永野修身軍令部総長は、大元帥昭和天皇に残存部隊約1万人のガダルカナル島撤収案を上奏した。
 昭和天皇は、敢闘した将兵を見殺しにはできないとして、如何なる犠牲を払っても全将兵を窮地から救うべきであるとの考えから、「この方針に最善を尽くすように」と裁決した。
 翌43年1月4日 大本営は、第17軍に対してガダルカナル島撤退を命じた。


 
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