🎺41:─3─サンダカン死の行進。日本軍による無謀な作戦計画が生んだ惨劇。昭和20年1月。~No.194 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本軍は、戦場で人を殺す戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人助ける人道貢献も行っていた。
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 ウィキペディア
 サンダカン死の行進は、太平洋戦争(大東亜戦争)における、日本による敵兵士捕虜に対する虐待疑惑。
 概要
 太平洋戦争(大東亜戦争)中の1945年に日本軍が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所におけるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対する捕虜虐待疑惑および「死の行進」と言われる行為である。これに伴い1000人以上の捕虜が、ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされる。日本兵もまたこの移動により数百名が死亡している上に、生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している。
 ラナウへの捕虜移送
 連合軍のボルネオ島への空襲が相次ぐようになり、1945年1月に日本軍は空港の修復を断念。アメリカ軍がボルネオ島西海岸に上陸する判断した日本軍は、日本軍部隊を600km離れたアピに移動させ、それと共に捕虜をボルネオ島西、260km離れたラナウに移動させる事を決定したが、特にサンダカンからラナウまでの道のりは、連合軍の空爆を避けるために密林や湿地などの険しい道のりであった。
 第一団
 捕虜500人を12日間で落伍者無く移動するようにとの命令が、山本正一大尉に下された。山本は医薬品供給の増加と3週間の日程を要求するが、これは司令部によって却下。結局比較的頑健な470人が第一団として出発することとなり、出発前に山本は最後尾の第九班の責任者・阿部一雄中尉に落伍者の捕虜を処分する許可を与える。
 1945年1月29日から2月6日にかけて470人が9班に分けられて、間を置いて出発。捕虜たちは熱病と栄養失調で弱った体に約30kgの日本兵の荷物を背負わされ、豪雨でぬかるむ密林を徒歩で移動する事となる。靴を履いていた者は、1割程度だった。さらに約束されていた食料の支給もままならず、各班の責任者は食料の確保と支給に留意するものの、状況は悪化し、後半の班はカタツムリやカエルなどを口にして飢えをしのいだという。
 劣悪な環境下での行軍は、捕虜だけでなく、多数の日本兵も犠牲者と死者を出した。そして動けないと判断された捕虜は、「落伍者を出さない為に」阿部中尉の命令を受けた兵士によって射殺された。しかし目的地にたどり着いた捕虜たちに安堵する暇はなかった。
 ラナウに到着した第一班~五班の捕虜約200名は、食料と医薬品不足の中労働に狩り出され、元気そうに見える者は45km離れたパギナタンまで20kgの米袋を担がされて歩かされ、途中で倒れた者は殺害された。第六班~九班の捕虜約200名は途中で40名ほどが落伍し、途中のパギナタンで行軍は中止。第一班~五班の捕虜が運んでくる食料に頼りながらも、約一ヶ月で生存者はさらに100人ほど減った。
 生存する捕虜全員がラナウで合流した4月時点での生存者は約150人となっていたが、その後第二団が到着する6月下旬に生存していた捕虜は、6人だった。
 第二団
 サンダカン捕虜収容所では連合軍の空爆による被害と、食糧配給の削減により、1945年3月には毎日10人以上の死者が出ていたという。さらに4月以降は米と水の配給が停止という状況で6月末には捕虜の数は830人弱まで減る。
 5月17日に星島大尉に代わり高桑卓男大尉が所長に就任。収容所に空爆に加え艦砲射撃をも受けた高桑は、5月20日に受けていた捕虜移送命令を急遽決行。5月29日夜、歩ける者536名・11班を出発させると同時に、ごく一部の建物を残して収容所は焼き払われた。衰弱していた捕虜たちは監視員らにより激しい暴行を受け、かつジャングルに追い立てられて殺害された。行軍から落伍した捕虜を渡辺源三中尉率いる監視員たちが暴行し追い立て、それでも動けない捕虜は後から来る辻曹長率いる班に引き渡され、処刑された。処刑はすべて台湾人の監視員が実行させられた。捕虜への食料は1日米85gしか支給されず、6月25日にラナウに到着した捕虜は183人となっていた。
 この時、キャンベル、ブレイスウェイトの二人が別々に脱走、米軍に引き渡されて生還している。
 第三団
 収容所には288人の捕虜が残されていた。彼らの殆どは衰弱して動けない病人であり、後は仲間の面倒を見る為に自発的に残った捕虜たちだった。既に建物は焼き払われ、彼らは木や葉っぱで雨をしのぎ、医薬品も食料も支給が停止されていた為、野草の根茎や腐った残飯を食べて生き延びていた。
 1945年6月9日、森竹中尉は岩下少尉ら37人の日本軍兵士に75名の捕虜を選抜し、出発させた。この第三団は1人の日本兵のみが生き残り、他は全滅した。
 ラナウでの捕虜殺害疑惑
 ラナウでは6月25日には約190名の捕虜が生存していたが、6月28日にはもう19人が死亡していた。生き残った捕虜たちは、1日米70~75gというわずかな食料で、過酷な労働(衰弱した体で、20kgはある食料の運搬、水汲み、設備建築作業など)に従事させられていたという。
 かねて台湾人監視員より、高桑大尉が捕虜全員を殺害すると聞いていたキース・ボッテリル以下4名が、7月7日夜に脱走。3名がオーストラリア軍に救出される。
 7月18日には捕虜収容所という名の草ぶき屋根の小屋が完成。生き残っていた捕虜72人のうち、赤痢患者である34人が床下に押し込められる。彼らにはもはや死体を埋葬する体力もろくに残っておらず、7月20日には強制労働が停止される。
 7月26日、スティップウィッチ以下2名が脱走し、スティップウィッチのみ助かる。
 8月1日朝、高桑大尉は生き残っていた33名の捕虜を三つのグループに分けて処分する事を決定。動ける者は自らの足で墓地まで向かう事を強要され、動けない者は担架で運ばれ、全員が銃殺され、処分は終了したという。
 戦犯裁判
 尋問される日本の憲兵(左手前)
 オーストラリア軍が行ったBC級戦犯裁判により、収容所側将兵には下記のような極刑が科せられた。また、殺害を実行した台湾人監視員達には、懲役刑が科せられた。
 星島進大尉  絞首刑(死刑)
 山本正一大尉 絞首刑(死刑)
 阿部一雄中尉 死刑
 高桑卓男大尉 絞首刑(死刑)
 渡辺源三中尉 銃殺刑(死刑)
 室住久雄曹長 終身刑
 サンダカン捕虜収容所を統括するボルネオ捕虜収容所クーチン本部に指令を出した第三七軍司令部に対しては、馬場正郎中将(軍司令官)が絞首刑になったものの、第一回の捕虜移動を計画した山脇正隆中将(前軍司令官)はこの件に関しては一切罪に問われる事はなかった。ボルネオ捕虜収容所全体の最高責任者であり、関係者の中では比較的人道的であった菅辰次大佐は9月16日に自殺していた為、訴追される事はなかった。
 なお、これら罪状の立証について、殆ど審理は行われておらず、刑の根拠には疑念を抱かざるを得ないとする見解もある。
 分析・研究
 捕虜虐待や処刑が実際にあったのか否かは不明であるとする見解も存在する。ジュネーブ条約からしても弱っている捕虜に過酷な移動をさせたことに関しては日本軍に責任はあるが、第25連隊第2大隊の関係者の刊行物には、護送される捕虜と日本兵の間に食料等の不公平や虐待等はなかったとの証言がなされている。またラバウル豪軍総司令部軍法会議の裁判において生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している。
 反響
 現在、サンダカンには1995年から戦争記念公園(Sandakan Memorial Park)があり、追悼記念碑、追悼パビリオンも建てられている。
 オーストラリアで田中利幸による『知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか』(大月書店 1993年)の英訳が1996年にアメリカで刊行されてから、このサンダカン収容所事件や、インドネシアのバンカ島でのオーストラリア軍従軍看護婦虐殺事件、慰安婦強要(未遂)事件、人肉食事件などが米豪で知られるようになった。
 女流作家のアグネス・キースが小説『Three Came Home』において、行進の中で死に至る前に捕虜は日本兵に切り裂かれ、墓場に押し込まれていった、などという物語を書き、それがハリウッドで映画化までされたこともあって、これにより欧米社会に「サンダカン死の行進」における日本兵の残虐的なイメージ付けがなされていったとも言われている。
 2014年7月8日、安倍晋三首相はオーストラリア議会における演説の中で「日本国と、日本国民を代表し、心中からなる、哀悼の誠を捧げます」と述べた。
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 戦勝国が主宰した報復の国際軍事法廷は、B級C級戦争犯罪をおこなった日本軍兵士を有罪として処刑した。
 死刑囚となった旧日本軍兵士は、泣き言をいわず刑場の露と消えた。
 現代の日本と世界は、罪を認め受け入れて処刑された日本人を、絶対に許さない、決して忘れない、そしてその罪を子孫、孫子(まごこ)の代まで帳消しにせず押し突けている。
 人間社会は、泣こうが死のうが許さない不寛容でできていて、夢も希望も諦めて絶望するしかない。
 公人として靖国神社を参拝しない日本の政治家達は、子供達に生きるという事において社会には温情のない冷血・非情・残酷であるという現実を身を持って教えている。
 国家は、国民に国を守るように命令しても、国民を守らなず殺して見捨てる。
 それが、靖国神社問題の本質である。
 靖国神社とは、愛の悲しみの霊場である。
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 2022年8月11日(木)
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 お知らせ
 Wedge8月号『歪んだ戦後日本の安保観 改革するなら今しかない』
 定年バックパッカー海外放浪記
 2018年3月11日
 無謀な作戦計画が生んだ惨劇の責任は誰が負うのか
 マレー半島ボルネオ島 第8回
 高野凌 (定年バックパッカー
 »著者プロフィール
 “サンダカン死の行進”
 12月17日夕刻。ゲストハウスのテーブルでは豪州、カナダ、NZ、アルゼンチンの30歳前後の男女バックパッカーが地酒で酒盛りしていた。豪州の青年が“サンダカン死の行進”(Sandakan Death Marches)と呼ばれる旧日本軍の捕虜虐待問題について語っていた。日本人としてはあまり居心地のいい雰囲気ではないが、全員が真面目に聞いているので逃げるわけには行かない。
 ランカウイ島のビーチ。日の丸と五星紅旗が仲良く翻っている平和な世界
 一体どんな内容なのか聞き漏らさないようにヒアリングに集中した。青年の話が具体的なので史実であると思えたが、あまりにもショッキングな内容に何もコメントできなかった。青年によると日本軍の蛮行として本や映画にもなったようだ。彼によるとこの悲劇は豪州では現在でも語り継がれ毎年政府主催の追悼行事が開催されているようだ。
 ネットで調べたところ事件の概要は以下のようだ。1943年9月の時点で北ボルネオの都市サンダカンの捕虜収容所にはオーストラリア人、英国人など、合計約2500人が収容されていた。
 戦況悪化により1945年1月以降、日本軍は捕虜を260キロ離れたキナバル山の北麓のラナウまで、当時生存していた捕虜約1000名を何回かに分けて熱帯雨林の山岳地帯・密林・湿地帯を徒歩で移動させた。
 飢餓と熱帯病により行軍途中多くが死亡したほか、落伍者は殺され、収容所でも過酷な使役や食料・医薬品欠乏により餓死・病死が相次いだという。終戦時まで生き残った連合軍兵士は最終的に6人だけであったという衝撃的惨劇である。
 KK市内の時計台。戦災で壊滅したKKで戦前から残る建築物はこの時計台と旧郵便局など数えるほどしかない
 “サンダカン死の行進”と戦後処理
 記録によると戦後ボルネオのラブアンでオーストラリアによる戦争犯罪裁判が開かれ、最終的に第37軍司令官の馬場正雄中将が絞首刑。行軍や収容所で実際に現場を指揮した大尉・中尉などが処刑された。
 150年以上の歴史を持つキナバルクラブ。太平洋戦争中は日本軍の司令部が置かれた
 生き残りの豪州兵が戦犯法廷で証言した「行軍は過酷であったが、食料配分など捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」という言葉に現代の日本人としては唯一心が救われる思いがする。
 北ボルネオ“死の転進”
 あまり広く知られていないが“サンダカン死の行進”と同時期に、日本軍1万5000名がボルネオ島北部のサンダカンや東海岸のタワオから600キロ離れた西海岸のジェッセルトン(KK=コタキナバルの旧名)へ熱帯山岳地帯を越えて徒歩移動で“転進”した際に、数千名が飢餓と熱帯病で死亡するという悲劇があった。
 連合軍捕虜や日本兵を苦しめた熱帯雨林の湿地帯
 第37軍2万名のうち1万名以上が戦病死と公式記録されているが、作家豊田穰によると実際には9000名以上が飢餓・熱帯病により命を落としたという。
 「大本営参謀が地図上でタワオとジェッセルトンを直線定規で結んで『直線350キロだから一日40キロ行軍すれば10日で転進可能だ』と言って転進作戦が立案された」という記述も残っている。実際には全員の移動が完了するまで200日を要した。大本営参謀の話は史実か否か確認できないが、いずれにせよ熱帯山岳地帯の現実を無視した“机上の空論”が惨劇を招いたことは間違いない。
 冷たいスコールに覆われるキナバル山岳地帯
 筆者はKK滞在中に、海抜4095mのキナバル山に1泊2日で登頂した。比較的天候が安定している12月だったが、熱帯雨林山岳地帯は炎熱地獄、スコール、ジメジメした小雨の繰り返しで、数キロのデイパックという軽装にも関わらず疲労困憊した。ましてや飢餓、マラリヤ、下痢に苦しみながら重軍装での行軍は想像を絶する苦難であったろう。
 “サンダカン死の行進”“北ボルネオ死の転進”に共通するのは兵站を無視した無謀な作戦立案である。作戦立案した参謀たちは戦争犯罪には問われていない。戦後社会で平和を享受して生き永らえたのであろうか。B級戦犯として処刑された現場の指揮官・兵士には抗命は許されず、止むを得ない事情もあったであろう。釈然としない不条理を感じる。
 2017年8月15日、NHKは戦争記念日特集で悪名高い“インパール作戦”の実相に迫った。日本軍は約9万人を投入。これにインド側ではチャンドラ・ボース率いるインド独立国民軍6000人が呼応。最終的に約6万人が落命したが、4万人近くの死者は戦闘ではなく撤退途上での飢餓・病気が原因だとされる。
 司令官として指揮した牟田口廉也中将はジンギスカン作戦と称して数千頭の水牛を徴発して行軍の荷役にあて最後は食糧にしようとしたが、平地で生息している水牛は慣れない山岳地帯を越えられず失敗したことなど興味深かった。
 しかし最も戦慄したのは、戦後20年経過したときに録音された牟田口氏の肉声であった。「牟田口のバカ、バカと戦後ずっと罵られてきたのです。しかし、あの作戦は絶対必要であったという自分の信念はやっと証明されました。英国の元軍人が日本軍には悩まされたと書簡を送ってきたのです」と歓喜の声で語っていた。
 敵方の元軍人の些細な個人的感想を拡大解釈して自己弁護し、無謀な作戦を正当化しているのである。
 KK市内の警察署。日本軍の抗日ゲリラ討伐隊本部が置かれた旧ジェッセルトン・ホテルが警察署の裏の敷地にあった
 クンダサン近郊の部落の“しゃれこうべ
 2016年12月の週末、筆者が逗留していたKKのゲストハウスに青年海外協力隊員のM青年が投宿した。クンダサン地区でキノコ栽培を指導しているという。
 M青年によるとクンダサンのあたりの村落では家の玄関の軒先に“しゃれこうべ”が飾られているという。サバ州北部山岳地帯の部族は元々は首狩族であった。
 クンダサンはサンダカンからラナウに向かう途中にある山岳地帯の町である。日本軍がサンダカンからジェッセルトン(コタキナバル=KKの旧名)へ“北ボルネオの死の転進”を行ったルートもクンダサン、ラナウを経てジェッセルトンを目指した。
 落ち武者状態になっていた日本軍は首狩り族の格好の攻撃対象となったようだ。M青年によるとクンダサン周辺の人々は現在でも狩猟に毒吹矢を用いているという。
 手前のイスラム風建築が英国植民地時代に建設されたKL中央駅舎
 密林で毒吹矢を構えた首狩り族の待ち伏せに遭っては、飢餓状態で朦朧としている日本兵はたまらない。日本側の残存兵の記録でも首狩り族の恐怖が語られている。首狩り族は鉄兜、日本刀、飯盒など戦利品と一緒に日本兵の首級を持ち帰った。
 現在でものどかな村落の軒先にはしゃれこうべと一緒にこうした戦利品も飾られているという。光景を想像するだけで、落命した日本兵の無念さに心が痛む。
 ⇒以上 第9回に続く」
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
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 靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
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 歴史的人道貢献とは。昭和天皇A級戦犯である東条英機松岡洋右松井石根らは、ソ連ポーランド侵略から逃げてきた数万人のポーランドユダヤ人を保護し、ナチス・ドイツゲシュタポと日本人の反ユダヤ派、親ドイツ派の上海ホロコーストを阻止しユダヤ人難民数万人を敗戦後まで守り続けた。
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 昭和天皇の平和貢献とは、戦争には不同意であったが政府と軍部が決定すれば裁可するが、戦争が始まれば早期に講和を行って戦争を止める事を求め続けた。
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 日本国内には、天皇制度を廃絶しようとしている反天皇反民族反日的日本人達が高学歴の知的エリートや進歩的インテリに数多く存在している。
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 現代の日本人、政治家・官僚・学者そしてメディア関係者も誰も重大問題とはせず、沈黙、つまりは黙認している。
 現代の学校歴史教育では、昭和天皇が行った数々の歴史的偉大な功績は否定され抹消されている。
 つまり、生徒・学生で昭和天皇は嫌いが大多数で、昭和天皇が好きだという子供は異常・おかしいとされている。
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 昔の日本人は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦場で人助けの人道貢献や平和貢献を行った。
 現代の日本人は、戦争犯罪を行わないが、人道貢献や平和貢献も行わない。
 事実、中国共産党ウイグル内モンゴルチベットで行っている人道に対する犯罪であるジェノサイドから目を逸らしている。
 興味も関心もないと公言する親中国派・媚中派の政治家や官僚が存在する。
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