🎵31:─4─日比谷焼打事件は日米戦争の遠因である。~No.80 ⑤ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 セオドア・ルーズベルト大統領は、日比谷焼討事件の情報を受けて反日派となり、海軍に対して対日戦の準備を急ぐよう命じた。
 アメリカ世論は、ポーツマス条約と日比谷焼討事件反日となり日本人移民排斥運動を始めた。
   ・   ・   ・   
 2020年10月2日 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編 日露戦争への道
 激闘 日露戦争Ⅱ その⑥
 『日比谷焼打事件』が『大日本帝国破滅への分岐点』と言える理由
 日露講和条約反対を叫んだ近代日本の最大級の民衆暴動『日比谷焼打事件』。
 前回紹介した『世界大百科事典』(平凡社刊)では、この項目の最後に『これは国民とくに都市民衆による拝外主義・膨張主義的行動の全国的あらわれであったが、他面では藩閥専制に対する抵抗運動でもあり、大正デモクラシー運動の出発を意味するものであった』(項目執筆者橋本哲哉)と書いてある。
 じつは、これは日本歴史学界の定説でもあるようだ。その証拠にもう一つの日本を代表する百科事典『日本大百科事典〈ニッポニカ〉』(小学館刊)にも、この事件の評価については『参加者は職工、職人、人足など戦争のしわ寄せをもっとも受けた都市無産大衆で、日比谷焼打事件は一面で排外主義の要素をもつものの、藩閥専制政治に抗した運動であり、この後の大正デモクラシー運動の出発点に位置するといえる』(項目執筆者成田龍一)とある。
 だが、そんな見方に異を唱えるのが小説家にして歴史家でもある司馬遼太郎である。私は前章『激闘 日露戦争Ⅰ』において、司馬の小説『坂の上の雲』に描かれた乃木希典像が実際とは違うと手厳しく批判した。しかしそれはそれとして、司馬がきわめて優秀な歴史家であることは間違い無い。その司馬が、『日比谷焼打事件』こそ近代日本史の分岐点だ、と指摘している。ここは司馬がどうしてそう思ったのか、実際の言葉を引用したい。まず、司馬はこの日比谷焼打事件は江戸時代の一揆とは違い、『政府批判』という『観念』を掲げた『大群衆』によって起こされたものであり、そういう意味では『日本史上最初の現象』であると指摘する。その点は通説と同じだが、そのうえで司馬は次のように言う。

 調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎるというものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。『国民新聞』をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽(あお)りたてた。ついに日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集するもの3万といわれた。かれらは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、1時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布(し)かざるをえなくなったほどであった。
 私は、この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に──たとえば参謀本部に──蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。
 (『この国のかたち 1』文藝春秋刊)

 『むこう40年の魔の季節』とは、この年1905年(明治38)から1945年(昭和20)まで、まさに参謀本部(陸軍)が主導した満州事変、ノモンハン事件そして大東亜戦争(太平洋戦争)という『国家的妄動』により、この国が大破綻した時期を示している。通常、この事態を招いたのは陸軍(軍部)のまさに『妄動』である、というのが日本人の一般的歴史認識だろう。しかし、その原因がこの日比谷焼打事件であったとする論者は、私の知る限り司馬だけだ。
 かつて司馬は新聞記者だった。にもかかわず、その日本の新聞に対する評価はじつに辛辣(しんらつ)である。

 日本においては新聞は必ずしも叡智(えいち)と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。(中略)日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静さを欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。
 (『坂の上の雲(7)』文藝春秋刊)

 また、こうも言っている。

 新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ち込んでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。
 (引用前掲書)

 言うまでも無く、『このときのこの気分』とは『日本が無敵であるという悲惨な錯覚』であり、これが日比谷焼打事件を起こした『大群衆の熱気』につながったということだが、この指摘がきわめて重要なことはおわかりだろう。司馬の言葉では無いが、俗な表現を使えば『日本を破滅に追い込んだ〝A級戦犯〟は新聞である』ということなのだ。
 たしかに、直接的に日本を破滅に追い込んだのは陸軍参謀本部に代表される軍部であることに間違い無い。司馬もその点を認めている。しかし、その参謀本部の行動の『エネルギー』は、日比谷焼打事件の『大群衆の熱気』によってもたらされた。だからこそ、最大の責任者はその『大群衆の熱気』を『つくりあげた』新聞である。というのである。
 耳を疑う人も多いだろう。だが、私は司馬のこの見解に全面的に同意する。それにしても日比谷焼打事件を『大正デモクラシーの出発点』と見るか、『大日本帝国破滅への分岐点』と見るかでは、天と地のようにまったく正反対な見解に見えるかもしれないが、そうでもない。
 そもそもデモクラシーつまり民主主義(大正時代の日本人はこれを民本主義と訳したが)とは、国家の意思を最終的に国民が決定する政治システムのことだ。そして大日本帝国憲法制定以来、昭和20年の敗戦まで大日本帝国は曲がりなりにも立憲民主制の国家であった。たしかに帝国の終焉を決めたポツダム宣言受諾は昭和天皇の『御聖断』によるものだが、これはきわめて異例の措置であったことは誰もが認めるところである。その大破綻を招いた満州事変から対米戦争へ向かっての一連の国策は、たしかに軍部の主導によって行われたが、軍部は初めから国全体を牛耳(ぎゅうじ)るほどの強い力を持っていたわけでは無い。それは、大正から昭和前期にかけての、まさに『国民が国家意思を決定できる』時代に成立したこと、いや国民が支持して成立させたこと、なのである。アドルフ・ヒトラーの率いるナチスは絶頂期には軍事独裁体制だったが、そもそもそれを許したのは民主的な選挙でナチスに投票し政権を担当させた国民である。それが同じ軍事独裁体制でも北朝鮮とまるで違うところだ。逆に相違点は数多くあるが、国民がその意思で成立させたという点では日本とドイツの事情は同じである、と私は思う。そして日本の場合、国民が軍部の意向を支持するようになったのは新聞の『煽り』が原因なのだから、新聞こそ最大の『戦犯』だということになるわけだ。
 歴史学者たちの根拠無き『錯覚』と『煽り』
 私が『正反対な見解に見るかもしれないが、そうでもない』と述べた理由はおわかりだろう。それにしても、歴史学者の分析のほうが正しいのではないか、と思われる方もいるかもしれない。たしかに、歴史学者というのは歴史の専門家である。それは否定しないが、そうであるがゆえに、残念なことではあるが自『』分たちは森羅万象すべての問題の専門家であると錯覚する人々がいる。素人には読めない『当時の史料』が読めるがゆえに、それが読めない人間を『専門外』だと無視し、そう錯覚するのである。
 ……」
   ・   ・   ・   
 日露戦争を日本の侵略戦争と否定する理想的平和主義の現代日本人には、歴史力がなく、歴史が理解できない。
   ・   ・   ・   
 戦時の中立宣言には2つの型があり、一つは両陣営に対して一切関わりを持たない協力しない完全型中立、二つ目は好意を向ける陣営に声援を送り敵意を持つ陣営が負ける事を望む不完全型中立である。
   ・   ・   ・   
 日本軍が戦うロシアの大軍は、大韓帝国の向こう清国領満州に数多くの大軍事要塞を築いて配備されていた。
 日本は全面戦争にしない為に、ウラジオストック軍港・樺太カムチャツカ半島などロシア本土への直接攻撃を避けた。
   ・   ・   ・   
 日露戦争時、反日派の大韓帝国朝鮮人と敵日派の清国・中国人は日英同盟の為に中立を宣言したが、内心は日本軍が完敗する事を願っていた。
 清国は、敗北した日清戦争の復讐としてロシアとの間で対日軍事秘密協定を結び、日本への報復としてロシアに味方して台湾を取り返し日本領琉球を割譲させ日本から賠償金を得ようとしていた。
 大韓帝国は、勝ち馬のロシアに乗って敗戦国日本に積年の恨みを晴らし、日本を朝鮮半島から追い出し、領土割譲と賠償金受領に参加しようとした。
 朝鮮の反日派や親露派は、ロシアの勝利の為に、日本軍の機密情報をロシア軍に知らせていた。
 朝鮮の親日知日の開化派・独立党や清国の革命派は、日本が勝利する為に日本軍に協力していた。
 もし、大韓帝国日英同盟を無視してロシアに味方して日本軍と戦えば、清国も対日戦に参戦した。
 イギリスは、日英同盟があっても、清国と大韓帝国がロシアと連合を組めな日本に味方をすれば、中国の利権を守る事を優先して日本側に立って参戦しなかった。
 フランスとドイツは、イギリスが日本を見捨てて中立を宣言すれば、迷う事なくロシアに味方した。
 アメリカは、世界を相手に戦う日本を見捨てた。
   ・   ・   ・   
 日本が連合軍に敗北すれば、戦勝国のロシア・大韓帝国・清国は敗戦国日本に対して賠償金と領土割譲を要求し、フランスやドイツも領土割譲に参加し、アメリカは日本消滅を食い止めに仲介しその見返りとして領土割譲を求め、イギリスも何らかの名目で領土割譲の分け前にありついたであろう。
 その結果、日本は東京・京都・大阪などの本州中央部のみを領有する弱小国に転落した。
   ・   ・   ・   
 日露戦争の勝敗を決定付けたのは、日本軍が開戦前に朝鮮を占領し、大韓帝国支配下に置き、親日派政権を樹立し敵対的中立を封じ込めた事である。
   ・   ・   ・   
 清国(中国)と大韓帝国は、日英同盟の為に対日戦に参戦しできなかった、ロシアの大勝利という世界の軍事常識を信じて高みの見物を決め込んだ、その愚かさ故に滅亡していった。
   ・   ・   ・   
 日本とロシアとの戦争は、江戸時代後期に起きた、ロシア軍艦が蝦夷地や北方領土での海賊行為(文化露寇事件)によって避けられい運命となっていた。
 徳川幕府は、ロシアとの武力衝突に備えて東北諸藩に出兵を命じた。
 ロシアは、日本との交易を求めて使者を派遣しただけであった。
 徳川幕府は、交易を求めてきたロシアに対し、オランダ以外とは交易しない、交易場所は長崎のみ、という「鎖国令の国法」をもって拒絶した。
 祖法である国法を守った日本が悪いのか。 
 軍事力で威嚇するように日本の国法を破ろうとしたロシアが悪いのか。
 現代日本は、当時の世界情勢から開国と交易を求めたロシアが正しいと認め、200年前の国法に固執して開国を拒否した徳川幕府を「世界情勢が理解できない愚か者」として否定している。
 下級武士・貧しい庶民・身分低い民の間で、ロシアの侵略から神国日本を守るべきだという攘夷運動が起き始めた。
 攘夷運動は、武力の過激派と非武力の穏健派に分かれた。
 徳川幕府は、後者の穏健策を採用し、専守防衛強化の為にロシア軍が上陸しそうな沿岸に海防要塞建設を諸藩に命じた。
 率先して戦争支度を始めたのが勤皇激派の水戸徳川藩であった。
 何故、水戸徳川藩が勤皇激派になったのか、それは日本人奴隷交易を容認した中世キリスト教に対する恐怖と激怒であった。
 水戸徳川藩の勤皇激派思想を受け継いだのが、「朝鮮や中国を撃ち取って日本領とせよ」と主張した吉田松陰長州藩尊皇攘夷派であった。
   ・   ・   ・