🎹09:─2─統帥権干犯問題は政治家の劣化と政争の暴走であった。~No.35No.36No.37 ⑥ 

歴史の教訓―「失敗の本質」と国家戦略―(新潮新書)
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本には、政治権力と宗教権威と天皇の御威光が三竦みとして存在していた。
 政治権力と宗教権威は、力=軍事と金=経済を源泉とした正当性で取り換え自由であった。
 天皇の御威光は、神聖不可侵の神話に基づいた正統性で一つしかなく消し去れば復活・再生はできなかった。
 ロウソクの昔ながらの灯を消して新しく火を付けても、同じ火に見えても前の灯火とは違うのである。
 つまり、神代の正統と人代の正当は違う。
 歴史力のない現代日本人にはその違いが理解できない。
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2020年7月23日号 週刊新潮「読書万巻
 『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』  兼原信克
 明治維新後の外交史を繙(ひもと)き
 今後の日本外交を展望する
 評者 飯田浩司
 平日毎朝6時からラジオニュース番組のキャスターをしている。様々なニュースを扱う中で特に難しいと思うのが安全保障の議論だ。右派・左派がそれぞれ批判のための批判に終始してしまう。これが戦前から変わらなかったのだと教えられたのが、この『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』だ。
 直近まで外政担当の内閣官房副長官だった筆者が、明治維新以後の外交史を繙き、そこから今後の日本外交を展望する。
 弱肉強食の帝国主義が覆う世界で生き抜くことが当初の目標だった維新後の日本。日清・日露戦争を戦い抜き、列強の一角を占め、アジアで唯一帝国主義列強の勢力争いに参入した。当時の苛烈な人種差別に抗い、肌の色に関係ない平等な国際社会を求めた。今日の国際社会の常識に通ずる先進的な価値観だ。
 ある時点まで人種差別撤廃、民族自決、普遍的な価値を追求していたはずが、どこで間違えたのか。
 著者は、1930年のロンドン海軍軍縮条約調印を巡る統帥権干犯問題こそ日本憲政史上、最大の失敗と言い切る。当時の野党政友会が、この条約の軍縮は陛下の権限である『統帥権を干犯している』として、時の浜口首相を突き上げたのだ。この一連の政局を著者は、《シビリアン・コントロールの一翼を担うべき帝国議会が、こともあろうに軍を野に放つような憲法論を提唱したのである。これほどの愚はない》と厳しく断じている。
 国民の生命を守るにはどうすべきかという安保の議論を政争の具にしたことがかくも禍根を残したとする筆致(ひっち)は鋭く、厳しい。当時の国内世論にも浸透していた軍縮という国際協調に基づく議論を国内の政争の具とした結果、国務(外交)と統帥(軍事)に断絶が起きた。大局的な国益を見据えた外交は望めなくなり、シビリアン・コントロールを失った軍は、次第に暴走していく。
 筆者は集団的自衛権の一部容認を含む平和安全法制にも深く関わっていた。統帥権干犯問題の当時と同じ印象論とレッテルを貼りの議論を前に嘆息(たんそく)していたに違いない。反権力か親権力か、右か左かではなく、何がこの国の生存にとって重要なのか?憲法、他国との同盟、外交、軍事、経済力・・・あらゆる要素を俎上に載せたリアリズムの議論が、今ほど求められる時期はない。
 アジアのパワーバランスが大きく変わる中で、何を柱に日本は生き抜けばいいのか。明治以来の来し方を見ることで行く末を展望する一冊。未来を担う若者にこそ読んでほしい。」
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 レポート ・日本皇室との縁談相手とされたカイウラニ王女   
- 日本皇室との縁談相手とされたカイウラニ王女 -
  長男家族、次男夫婦と共に3家族7人で2016年12月26日から同月31日まで過ごしたハワイの滞在先のホテルは、シェラトン・プリンセス・カイウラニでした。ワイキキの目抜き通りであるカラカウア大通りのほぼ中央にあります。
 カラカウア大通りを隔てワイキキビーチがすぐという立地の大型ホテルで、その名前は、ハワイ王朝最後の王位後継者となったカイウラニ王女が幼少期を過ごした領地の跡地に建設されたことに由来します。
 ハワイ王国・第7代国王カラカウアの妹・リケリケ王女を母に、スコットランド人を父として1875年に生まれます。生後すぐにカラカウア家へ養女に出され、早くから王家の次世代後継者と目されて、国民的人気も高かったですが、1899年、23歳で死去。
 アメリカと在ハワイ米国人による政経両面に渡る圧力に悩まされていたカラカウア国王は、1881年来日して明治天皇と会談した際、姪のカイウラニ山階宮定麿王との縁談を申し込みます。
 当時、山階宮定麿王13歳、カイウラニ5歳でした。この縁談によってハワイ王室と日本の皇室との結びつきを強くして、ハワイを併合しようとするアメリカの動きを抑え、ハワイ王国の存続を考えていたとされます。
 しかし、明治天皇は『国力増強に努めている明治新政府にはそこまでの余力はない』として断りました。これは、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府の意図があったことによります。
 カイウラニ13歳の1889年、カラカウア王の指示でイギリスに留学しますが、1891年にカラカウア王が渡米先のサンフランシスコで客死。王の妹のリリウオカラニ(カイウラニの叔母)が女王として即位すると、子供に恵まれなかったリリウオカラニ女王はカイウラニを王位継承権第1位に指名しました。
 1893年、渡英4年が過ぎカイウラニが17歳になったとき、ハワイでは欧米系住民によるクーデターが起こりハワイ王国が滅亡します。カイウラニはすぐにアメリ東海岸に渡り、グロバー・クリーブランドアメリカ大統領との面談に成功し、クーデターの不当性とを徹底調査を訴えました。
 このとき、ニューヨーク港では、『野蛮なハワイ人の娘』が嘆願にやってくるらしいと新聞記者たちが待ち構えますが、カイウラニが現れるとそのたぐいまれな美貌とヨーロッパ仕込みの洗練された姿と感動的なスピーチに、記者たちは度肝を抜かれたといわれます。
 ハワイに対するイメージは一新し、ニューヨークのマスコミは一気にハワイ王朝の味方になり、大統領も徹底調査する約束をしました。アメリカ調査団はクーデターを不当とし、リリウオカラニ女王に一度は政権が戻されますが、欧米系住民はそれをはねのけ、1893年ハワイ共和国を設立。鎮圧されたリリウオカラニは反逆罪で逮捕され、8ヶ月にわたってオラニ宮殿に幽閉されます。
 22歳になった1897年、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国しました。ホノルル港は黒山の出迎えたそうです。しかし、1898年にアメリカは急遽ハワイを併合。そして、翌1899年、カイウラニは友人と乗馬を楽しんでいる途中嵐に遭い、風邪をこじらせ、23歳の若さでこの世を去りました。
 彼女が亡くなった時、彼女が飼っていたクジャクがいっせいに鳴き叫び、何羽かが鳴きやまず、あまりの騒音にやむを得ず、その何羽かを処分しなければならないほどだったそうです。
 【参考にしたサイト】
 (1)カイウラニ - Wikipedia
 (2)ハワイの神話と伝説 カイウラニ王女(1)
 (3)ハワイの神話と伝説 カイウラニ王女(2)
 (4)カイウラニ王女 美貌のハワイ王国最期の王位継承者 &映画
  「プリンセス・カイウラニ
 (5)シェラトン・プリンセス・カイウラニ - プリンセスカイウラニの歴史
 2017.01.27
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 明治14年、1881年。
 日清戦争、明治27(1894)年8月~明治28年4月。
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 ウィキペディア
 艦隊派とは、大日本帝国海軍内の派閥。
 第一は明治期の山本権兵衛を中心とする本省派に対抗するものであり、第二は昭和期の軍縮条約に賛成する条約派に対抗するものである。
 
 反条約派
 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。中心人物は、伏見宮博恭王加藤寛治、山本英輔、末次信正、高橋三吉など。ロンドン条約時には東郷平八郎をシンボルとして擁立した。
 政治的には関与していないが、漸減邀撃作戦研究を強力に推進した中村良三、政治的には艦隊派ではないが、混乱を恐れて艦隊派条約派一掃などの要求を拒絶せず丸呑みした大角岑生を艦隊派に含めることもある。また、政治的には僅かな権限しか持たなかったが、海軍省との交渉時に脅迫めいた姿勢で臨んだ南雲忠一のような若手を含めることもある。定義によっては日独伊三国同盟推進派や対米開戦強硬派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバー(石川信吾・神重徳など)を含めることもある。他に艦隊派とされる者に小林省三郎、真崎勝次、山下知彦、加来止男、小笠原長生、千坂智次郎、南郷次郎がおり、秦郁彦は有馬良橘、戸塚道太郎も艦隊派としている。
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 東郷 平八郎(弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から昭和時代初めの武士(薩摩藩士)、海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位勲位大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。

 日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山、海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた。
 山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で、ホレーショ・ネルソン、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎の3名について特記している。

 ハワイでのクーデターに際して
 明治26年1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。 女王を支持するハワイ先住民らは涙を流して歓喜したといわれる。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。

 晩年
 第一次世界大戦後の海軍軍縮において、末次信正や加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用して軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型である。その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。
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 統帥権とは、大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)のことをいう。
 概要
 大日本帝国憲法第11条に定められていた、天皇大権のひとつで、陸軍や海軍への統帥の権能を指す。その内容は陸海軍の組織と編制などの制度、および勤務規則の設定、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令などの権能である。これらは陸軍では陸軍大臣参謀総長に、海軍では海軍大臣軍令部総長に委託され、各大臣は軍政権(軍に関する行政事務)を、参謀総長軍令部総長は軍令権を担った。
 狭い意味では、天皇が軍事の専門家である参謀総長軍令部総長に委託した戦略の決定や、軍事作戦の立案や指揮命令をする軍令権のことをさす。
 明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ国務大臣が輔弼することとなっていたが、それは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補翼することとなっていた。
 この軍令と国務大臣が輔弼するところの軍政の範囲についての争いが原因で統帥権干犯問題が発生する。
 なお、統帥権独立の考えが生まれた源流としては、当時の指導者(元勲・藩閥)が、政治家が統帥権をも握ることにより幕府政治が再興される可能性や、政党政治で軍が党利党略に利用される可能性をおそれたこと、元勲・藩閥が政治・軍事両面を掌握して軍令と軍政の統合的運用を可能にしていたことから、後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかったこと、南北朝時代楠木正成が軍事に無知な公家によって作戦を退けられて湊川の戦いで戦死し、南朝の衰退につながった逸話が広く知られていたことなどがあげられる。
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 世界史の窓
 世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list
 ロンドン会議/ロンドン軍縮会議/ロンドン海軍軍縮会議
 1930年、ワシントン会議に続く海軍軍縮のための国際会議。米英日三国間の補助艦の比率をほぼ10:10:7と定めた。1936年に期限切れとなった。
 1930年1月~4月、ワシントン海軍軍備制限条約の期限が切れたためその更新と、補助艦の制限問題について開催された会議。補助艦とは巡洋艦駆逐艦、潜水艦のこと。その制限については、1927年にジュネーヴ海軍軍縮会議を開催したが、仏・伊は参加を拒否し、英・米の意見が対立したため、失敗していたので、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの5ヶ国が参加した改めて話し合うこととなった。会議はイギリスのマクドナルドが提唱し、日本は若槻礼次郎首席全権、海軍大臣財部彪らが参加した。ロンドンのイギリス議会議事堂で開催された会議は難航したが、補助艦と主力艦を切り離した次の合意が成立した。
 ロンドン海軍軍縮条約
 補助艦制限について英と仏・伊が対立、仏・伊は途中で脱落したため、米・英・日の三国で協定が成立し、米・英10に対して日本は約7(6.97)の比率とすることが定められた。有効期限は1936年までとされた。
 主力艦については5ヵ国が建造停止を5年間(1936年まで)延長することで合意し、さらに米・英・日は主力艦を15隻・15隻・9隻に削減することで合意した。
 当時すでに前年に世界恐慌が始まり、三国とも軍事費削減が迫られていたので話し合いがまとまったのであるが、イギリスと日本では対アメリカの比率で不満が大きかった。
 日本の統帥権干犯問題
 ロンドン海軍軍縮条約が難航の末、合意されたことは、日本政府の良識ある妥協として国際社会では高く評価された。また、軍備拡張が財政を圧迫していた日本では、財界や国民一般にも支持する意見が多かった。しかし、軍部(特に海軍)・右翼は浜口雄幸首相と若槻礼次郎外相の国際協調外交を「軟弱外交」であるとして強く非難した。彼らが持ちだしたのが、いわゆる統帥権干犯問題であった。統帥権とは天皇のもつ軍事統制権であり、それを執行するのが軍であるから、政府が軍備について外国と協定を結ぶことはそれを犯すものであるという主張である。文民統制シビリアンコントロールを全面否定するこの論理に、政府・国民も反撃できないでいるうちに、調印を強行した浜口首相が右翼によって狙撃される事件が起きた。
 このような情勢を背景に、日本軍は政府の統制を離れて独自の行動を強め、翌1931年9月の柳条湖事件を契機として満州事変をおこし、一気に日中戦争へと向かっていくこととなった。
 海軍休日の終わり
 1922年に成立したワシントン海軍軍備制限条約によって、第一次世界大戦前の建艦競争が終わり、軍縮の時代に向かったことは、「海軍休日(または建艦休日)」といわれ、国際協調の理念の証ともされた。1930年のロンドン海軍軍備制限条約は、世界恐慌で苦しむ各国の経済安定を回復するものとして評価された。
 しかし、1930年代にドイツにファシズム、日本にも国家主義軍国主義が急速に台頭した。日本は1935年にロンドン軍縮会議からの離脱を決定、1936年12月にはワシントン・ロンドン両条約とも満期となり、軍縮時代は終わりを告げた。
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 外務省
 14.閣議決定「倫敦海軍会議帝国全権委員ニ対スル訓電案」(1930年4月1日)
 〔解説〕
 日米英3カ国はワシントン会議において、主力艦の保有量制限と10年間の主力艦製造休止を決定しましたが、その後、各国が補助艦の建設を増加させたことから、その制限を目的として1930年(昭和5年)1月21日に、ロンドン海軍軍縮会議が開催されました。
 日本側は当初、「攻撃には不十分、防御には十分」な数量を保持するためとして、対米7割の原則的要求(ただし比率数字は明示せず)を掲げていました。しかし、ロンドンでのアメリカとの協議の結果、日本が重視していた大型巡洋艦の対米比率は6割2厘に止まったものの、巡洋艦駆逐艦、潜水艦を合計した総トン数の総括的な対米比率を6割9分7厘5毛とするなどの日米妥協案が成立し、会議全権は4名連名で妥協案受入れを政府に請訓しました。この妥協案に海軍軍令部は軍事的見地から反対しましたが、浜口雄幸首相は大局的見地から受け入れを決意し、4月1日に日米妥協案を基礎とする訓電案を閣議決定しました。その結果、同月22日に「1930年ロンドン海軍条約」が成立しました。
 しかしその後、本条約の批准をめぐって日本国内では、軍令部の反対を無視して政府が兵力量を決定したのは天皇統帥権を干犯するものであるとの議論(いわゆる「統帥権干犯問題」)が高まりました。とりわけ、条約批准前の枢密院での審査では、伊東巳代治顧問官を筆頭に枢密院側が統帥権干犯を問題として政府を厳しく追及しました。浜口首相や幣原外相が妥協することなく正面からこれを論駁した結果、枢密院側は態度を軟化させ、10月2日に本条約は批准されましたが、この海軍軍縮問題は幣原外交に対する批判や不満を表出させることになりました。当時の新聞報道は、「国際協調といふも実体は追随外交」との見出しを付けたうえで、「幣原外交の無能さにはぼう然たらざるを得ない」とする枢密院顧問官の意見を紹介しています。また、11月14日には、海軍軍縮条約に不満を持つ青年に浜口首相が狙撃されるという事件が起き、幣原が臨時内閣総理大臣に就任しましたが、ロンドン海軍条約に関する幣原の議会発言が失言問題として議会の混乱を招くなど、幣原外交に対する風当たりはいっそう強まっていました。
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 統帥権とは、軍部・軍隊を私利私欲で権力闘争を繰り返す政治家の政争の道具にさせない為の大権であった。
 天皇主権の正当性は、伊藤博文が作成した欽定憲法明治憲法が認めている。
 伊藤博文は、徳川幕府を倒して明治新政府を樹立したという歴史を教訓として、天皇主権が暴走しないように明治憲法を足枷として歯止め、天皇の大権が悪用されないように法律で制約した。
 それが、「国務大臣天皇を補弼し其の責に任ず」である。
 伊藤博文ら元勲は、現実主義者として、旧佐幕派武士や庶民・国民を信用していなかった。
 統帥権は、大日本国憲法第11条に基ずく政府から切り離された天皇の大権=軍隊の最高指揮権で、陸軍参謀総長と海軍軍令部部長は政治家・官僚の命令ではなく大元帥天皇の命令のみに従った。
 統帥権とは、政治家のクロムウェルヒトラースターリン毛沢東そして軍人のナポレオン、ムッソリーニフランコのような国民に支持された独裁者が国家転覆と天皇位簒奪・天皇殺害をしないようにする為の法的拘束であった。
 統帥権干犯問題は、軍人ではなく政治家・学者・メディアが政権交替の政治闘争(政争)として悪用した。
 軍隊は政権を持った者の自由にできとなれば、右翼・右派が政権を取れば市民白色軍隊となりに、左翼・左派が政権を取れば人民赤色軍隊となる。
 保守的将校団が左右の何れかの政権の軍隊に成り下がる事に反対すれば、軍事クーデターが起きる。
 つまり、国家は、中南米諸国やアジア・アフリカ諸国の様に政府と反政府、権力・権威と反権力・反権威、主流と反主流、保守と革新、宗教と反宗教、正統と異端、政党と軍部と資本家などの諸勢力で四分五裂となってまとまりがなくなり騒乱が起きる。
 ロシア皇帝一家惨殺のロシア暴力的共産主義革命は、共産党が合法的暴力機関である軍隊・警察・情報機関を支配したから成功した。
 伊藤博文ら元勲の失敗とは、庶民=国民を軍隊、兵学校、海軍大学・陸軍大学でいたぶりながら厳しく軍事教育・軍事教練をしても江戸時代の武士のような教養ある職業軍人に成長しなかった事である。
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 明治維新の原因は、江戸時代末期に起きたロシアの日本侵略騒動=ロシア軍艦の海賊行為=文化露寇事件であった。
 近代天皇制度中央集権体制による軍国主義化は、ロシアの侵略から島国日本を軍事力で守る為であった。
 弱兵の小国日本にとって深刻な問題は、北の軍事大国ロシアとの防衛戦争時、西の老大国清国(中国)とその属国朝鮮が敵になるか味方になるかであった。
 歴史の教訓として、統一新羅による貞観の入寇と寛平の韓寇、大陸北方騎馬民族による刀伊の入寇、中国・高麗軍による元寇朝鮮軍による応永の外寇などから、中国・朝鮮はロシアに加勢し敵となって日本を襲ってくる恐れがあった。
 日本は、1000年以上昔から被害者であって加害者で、弱小者として復讐・報復を行わず泣き寝入りを続けていた。
 中国と朝鮮は、古代から反日・敵日であって、親日・知日であったことがない。
 朝鮮における、古朝鮮百済高句麗・古新羅渤海の諸王朝は親日・知日で、統一新羅・高麗・李氏朝鮮=朝鮮・大韓帝国の諸王朝は反日・敵日であった。
 日本は、天皇に忠誠を誓い日本国の為に武器を持って戦う有能な半島系大陸系の帰化人を受け入れていた。
 天皇に忠誠を誓わず自分の利益の為に行動する半島系渡来人達は、母国の内政に影響を受けながら日本国内で反乱・暴動を起こしていた。
 日本人が、朝鮮人を嫌い差別し遠ざけようとしたのには理由がある。
 日本人にとって朝鮮人とは、落ちぶれて貧乏になっても助けてくれる心許せる親友にはならず、一緒に死ぬ事を覚悟して武器を取って戦ってくれる心強い戦友にはならない、という事である。
 それは、中国人でも同様である。
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 日本海軍がアメリアを敵として艦隊の増強を進めた原因は、アメリカによるハワイ王国の滅亡とアメリカ人移民によるハワイの植民地化・保護領化・自国領化であった。
 そして、アメリカがフィリピンを植民地として、味方したフィリピン独立派数十万人を野蛮人として虐殺した事である。
 海軍力で日本の安全を脅かす存在はアメリカであった。
 当時、イギリスも旧植民地であったアメリカを仮想敵国の一つと見なしていた。
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 イギリスは、ハワイがインドや中国から遠く離れた太平洋の中央にあり、友好関係にあったハワイ王家から救援要請をアメリカとの戦争を避ける為に拒否し、アメリカによるハワイ王国への傍若無人の振る舞いに抗議せず黙認し、ハワイ王国の消滅を黙認した。
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 アメリカは専制君主制を否定する共和制原理主義から、軍事力を用いてハワイ王国を滅亡させ、ハワイ王家を廃止し、ハワイから非白人非キリスト教非西洋文明などを完全消去し、移民を増やしてアメリカ流に大改造した。
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 日本国は、ハワイ王国の深刻な状況を理解していたが、ロシアの侵略から日本を守る事が最優先課題であった為に、アメリカに対する太平洋諸国の共同防衛同盟を見送った。
 明治天皇は、アメリカとハワイ王国の紛争に日本が巻き込まれる事を避けるべく、ハワイ王家からの婚姻要請を丁重に断った。
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 東郷平八郎は、アメリカのハワイ王国侵略を現地で直に見てきただけに、領土拡大の為なら国際法を踏みにじって公然と暴力を行使するアメリカを信用していなかった。
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 理想的平和に生きる現代の日本人は、力(軍事力・暴力)だけが正義という超現実の中で生きていた昔の日本人とは違って、絶えず変化する国際情勢に基ずく地政学が理解できず、美辞麗句が並ぶ国際法の裏に潜むおぞましさい実態が見えない。
 つまり、現代日本人のグローバルは表面の薄皮に過ぎず、その内面のローカルは融解し消えかかっている。
 現代の日本人は、弱肉強食の非情で残酷な国際社会で生きる活力は弱い。
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 日本の庶民は、武士が嫌悪するほどにえげつく、あくどく、イジメ・意地悪・嫌がらせ、非情・非道・薄情・冷血・冷酷・冷淡、差別で性根が腐っていた。
 潔く、清く、正しく、素直、正直などは無縁であった。
 合戦があれば、山の上や河原の反対側の安全な場所で高みの見物として宴会しながら観戦した。
 合戦が終わった戦場に駆け出し、死んだ兵士の刀や鎧、衣服から褌にいたるまで全てを剥ぎ取って裸にして大きな穴に放り込み、奪った物を売って金に換えた。
 瀕死で助かりそうもない地位の低い武士は殺し、金になりそうな地位の高い武士は助けて家に帰した。
 負けて逃げた武士を落ち武者狩りで追い詰め嬲り殺し、切り取った首を勝った側に持ち込んで褒美を貰った。
 戦で荒廃し秩序をなくした村に乱取りをかけ、逃げ遅れた女や子供を捕まえて奴隷として売って金を稼いだ。
 奴隷に売られた日本人は、中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人に買われ海外に輸出された。
 おらが家とムラはあっても、共同体を形成するアイデンティティーは弱く、日本国も日本民族などはなかった。
 突き詰めれば、自分一人だけであった。
 あくどい手段で金を集めた者は、金に困っている武士に高利で貸して儲けていた。
 1つ施すと2つも3つも要求し、多くを与えると働かずに怠けてさらに多くを要求し、やらなくなると約束が違うと激怒して一揆を起こして奪っていく。
 日本の庶民は、世界の人民・大衆・民衆、市民・国民とは違っていた。
 それ故に、日本にはキリスト教共産主義も広まらず根付かなかった。
 徳川家康は武士の世を築き安泰にするべく儒教を利用して、生かさず殺さず、由(よ)らしむべし知らしむべからず、親しくならず突き放す、油断せず警戒を怠らない、で庶民から活力を奪い逆らう意欲を封じ込めた。
 日本の庶民は、徳川幕府人間性否定の儒教政策で改造され洗脳されてしまった。
 物事を忘れやすい日本人は、昔の庶民が行った人倫にももとるえげつない悪事の数々を綺麗サッパリ忘れ、自分には関係ない事で、自分は素直で真面目で働き者であると信じている。
 日本人が信じている事を裏返しにすれば、日本人の本性が見えてくる。
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 現代日本人は、武士・サムライ、庶民ではなく、武士・サムライ、庶民の子孫でもなく、単に外見上での日本国民日本人という人間に過ぎない。
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