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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
戦前も現代でも、日本を動かしていたのは超エリートと呼ばれていた超難関校出の高学歴な政治的エリートと進歩的インテリ達であった。
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「エリートばかり出世する企業」ほど衰退していく。
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2024年5月11日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「現場指揮官に自決を強要! 85年前、ノモンハンの「敗北」で露呈した軍幹部の「将器」と無責任。
捕虜になった日本兵
負けた時、何を語り、いかに振る舞うか――。まさに人間の器が問われる場面である。生死のかかった戦争ともなれば、なおさらだ。ちょうど85年前の昭和14年(1939年)5月11日、日本の関東軍と極東ソ連軍がモンゴルの国境地帯で衝突して始まったノモンハン事件。4ヵ月にわたる激闘に敗れた日本の将兵たちには、上層部からのさらに苛酷な仕打ちが待っていた。ノモンハン事件の全貌を検証した秦郁彦氏の労作『明と暗のノモンハン戦史』(講談社学術文庫)には、残酷にして無責任な軍隊の現実も描かれている。
【写真】ノモンハン、非情の戦場
部下の「処罰」に燃える「敗軍の将」
長谷部理叡大佐(左)と井置栄一中佐(右)
ノモンハン事件は、日清・日露戦争以来、連戦連勝を誇っていた日本陸軍にとって、初めての「敗北体験」だった。日本側だけで死傷者2万人におよんだ戦場では、無断退却や命令への不服従、戦意喪失、捕虜の大量発生など、それまで陸軍が想定していなかった事象が多発していた。
戦闘の終結後、その責任をめぐって軍はどのような人事的処置をとったのか。『明と暗のノモンハン戦史』著者・秦郁彦氏の検証によれば、これらは従来の「事なかれ的人事」では間に合わず、軍法会議等による法的処分も適用されたが、最終的には多くが予備役編入や左遷気味の転補など微温的な行政処分ですまされてしまったという。
たとえば、事件の首謀者とされる少佐参謀の辻政信は「事実上の関東軍司令官」と評されるほど独断越権が目立ち、「免官させよ」という声もあった。にもかかわらず、参謀人事を握る大本営総務部長から「将来有用の人物だから」と陳情が来て、現役にふみとどまっている。しかし、その一方で――。
〈もっとも過酷な運命を強いられたのは捕虜交換で帰ってきた将兵であったろう。将校は事情の如何を問わず自決を強いられ、下士官兵は軍法会議にかけられて懲役や禁固刑を科せられた。超法規的処分と評してよいが、すべて内輪で処理され、新聞等を通じて国民に知らされることはなかった。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.354-355)
なかでも中下級指揮官に、自決強要や免官、停職など、上級指揮官たちに比べて格段に重い処分者が並んだ。その多くは、昭和14年8月下旬に発生した「無断退却」の関係者だった。いずれも弾薬、食糧が尽き、通信も絶えた「明日は全滅か」という極限状況下で、「座して全滅するよりは離脱して再起を」と判断して撤退に踏み切った現場の指揮官たちだ。
しかし、この判断を認めず、彼らを軍法会議にかけてでも処罰しようと熱意を燃やしたのが、「敗軍の将」である第23師団長の小松原道太郎中将と、第6軍司令官の荻洲立兵中将である。
小松原らが、特に槍玉にあげたのが、井置栄一中佐と長谷部理叡大佐だった。しかし、結局この二人を処罰する軍法会議は開かれず、二人の死刑を断念した小松原が、代わりに思いついたのが「自決勧告」という方法だった。荻洲もこれに同意したとされる。
井置への自決勧告をめぐる第23師団幕僚会議で、師団長の小松原は「俺の師団が壊滅的打撃を受けたのは、井置中佐が過早にフイ高地を捨てたためである」とし、さらに「井置中佐には自決を勧告するのが至当であると思うが、諸君はどう思うか」と賛同を求めた。
これに対し「何とか憐憫の情を」、また「一命を助けてやることが武士の情ではないか」という声もあったが、小松原は「俺の師団が壊滅したのは」と前言をくり返しただけだった。
「彼は人情の分からぬ男です」
こうして処分は決まったが、誰が使者に立つか、もちろん引き受ける者はない。結局、井置の後任として着任したばかりの同期生の中佐が指名される。この中佐は内地を出発する前に上官から申し渡されていたこともあってか、あっさり引き受け、井置は「謹んでお受けする」と答えたという。
それから数日後の9月16日夜、同宿者へ散歩に出ると言って出た井置は、草原に座してピストルで自決し、翌朝、発見された。「せめて靖国神社への合祀を」と進言した参謀もいたが、小松原は「これを戦死と認め、靖国神社に祀ることは許されない」と冷たかった。しかも、陸軍大臣には関東軍経由で、井置は「戦病死(進級せしめず)」と報告したと日記に記している。
なんとも冷酷な話だが、さらに驚くのは、小松原のその後の行動だ。
〈11月末には内地へ帰還した小松原が、ひそかに姫路在住の井置未亡人を訪ね「自重に自重を促して」いたのに「自決してしまった」と伝えた。さらに「軍司令官は戦場の様子もよく分からないのに、井置中佐を強く叱責するものですから、感情的ないがみ合いも少々ありました。荻洲中将は人情の分からぬ男です 」と責任をすべて荻洲に押しつけている。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.377)
井置とともに小松原に責められた長谷部大佐は、井置より4日遅い9月20日、自決した。長谷部の死後の処遇は井置と同様に「進級なし」の「戦病死扱い」だったが、なぜか靖国神社に合祀されている。
捕虜はすべて犯罪者とみなす
ノモンハンでの日本の航空隊員。Photo/gettyimages
ソ連側に捕らえられ、帰還した捕虜たちの処分も厳しいものだった。
「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」という言葉で知られる「戦陣訓」が陸軍大臣から示達されるのは、この1年半後の昭和16年1月のことだが、捕虜をタブーとする観念は、昭和期に入ったころから強まっていた。
ノモンハンの停戦協定による捕虜の相互交換では、日本側へは200名余の捕虜が返されていた。
〈交換で帰ってきた捕虜(多くは負傷者)をどう扱うか関東軍は苦慮したが、「寛大なる方針をとるつもりだった」ところへ、9月30日付で陸相より、捕虜はすべて犯罪者とみなし捜査して、「有罪と認めたるものは総て之を起訴すべし」(陸満密854号)というきびしい方針が示達された。起案は兵務局兵務課だが、関係者の回想では発想は局長レベル以上からの天下りだったらしい。〉(『明と暗のノモンハン戦史』p.388)
対象者のうち、下士官兵については、軍法会議で有罪になった者は教化隊で服役させ、不起訴か無罪となった者も陸軍懲罰令により懲戒。処分終了後は「日本以外の地に於て生活しうる如く斡旋す」と、細かい指示があった。
しかし、将校に対しては、容赦なく「自決」が勧告された。帰還捕虜の原田文男少佐と大徳直行中尉がその勧告に応じ、翌昭和15年5月に自決している。
〈関東軍や航空兵団には、何とか二人を助命したいという動きはあった。航空兵団参謀の三好中佐は上司の意を受けて同期生の原田へ、変名して一生家族とは連絡しないという条件で満州開拓団の幹部に入るよう説いたが、原田は断わり、ピストルを貸してくれと頼んだという。〉(同書p.389)
若い大徳のほうは「撃墜されて人事不省で捕虜になったのだから恥じる必要はない。再起してもう一度戦いたい」と抵抗したというが、こうした「当たり前」が通用しないのが当時の日本軍だった。先輩の原田が大徳の説得にあたり、ついには「大徳を射殺してから自分は自決する」とまで言って納得させた。
ほかにも、確認は困難だが、捕虜にされるのを恐れて自決した将校は少なくないという。
〈こうしたノモンハン人事の先例は、より無責任性と過酷度を高める方向で大東亜戦争期に引き継がれた。年功序列人事が厳として維持されるなかで、敗北や失敗の責任を問われた上級指揮官や実力派参謀が皆無に近かったのに対し、中下級指揮官や兵士たちは飢餓死や玉砕死を強いられたからである。〉(同書p.391)
結局、「敗北」の教訓は生かされないまま、この2年後、日本は米英との開戦に突入していくのである。
※『明と暗のノモンハン戦史』学術文庫版では、巻末解説を現代史研究家の大木毅氏が執筆。著者・秦郁彦氏のインタビューは、〈ノモンハン事件とウクライナ戦争、80年を隔てた旧ソ連軍の共通点とは? 〉でぜひお読みください。
学術文庫&選書メチエ編集部
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天才の石原莞爾と秀才の東条英機。
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日本の近代教育とは、西洋礼讃によるエリート至上主義・エリート万能主義を広める事であり、西洋式エリートによる日本支配が完成したのは大正デモクラシーである。
昭和前期のエリートとは、マルクス主義による革新官僚である。
日本の思想弾圧は、マルクス主義ではなく共産主義であった。
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ウィキペディア
恩賜の軍刀とは、日本軍の軍学校(陸軍大学校・海軍大学校等)において、成績優秀な卒業生に授与される軍刀剣類のこと。恩賜刀(おんしとう)とも。また、刀剣類以外の品ないし刀剣類を含めた総称として恩賜品とも。ほかに上官が部下などに贈る頒恩賜(わかつおんし)の品もある。
陸軍大学校では首席者を含む卒業席次上位6名には優等者の対象となり「恩賜の軍刀」が授与された。恩賜品を授与されることはある程度の将来的栄達を保証されることと見なされ、そのことから「恩賜組」や「軍刀組」という言葉ができた。
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天保銭組とは何ですか?
陸軍大学校の創設 - ADEAC
創設当初の陸軍大学校はフランスを模範とする教育が行われていたが、桂太郎らによって陸軍のモデル国がドイツに変更されたことにより、ドイツよりクレメンス・メッケルを教官に迎え、ドイツ式の教育が行われた。陸軍大学校の学生は、士官学校を卒業して部隊勤務をしている少尉・中尉のなかから、所属長(連隊長である場合が多い)の推薦を受けた者が受験資格を与えられ、選抜試験を受けて入学した。三年間の修学期間を終えて卒業すると、その人事は参謀本部総務部庶務課が直接所管し、昇進も早められて参謀本部や陸軍省などの要職へのエリートコースに乗せられた。このため、陸軍大学校卒業生は、その卒業徽章のかたちから「天保銭組」と呼ばれ、そのほかの大多数の士官の「無天組」とは異なる特別な処遇を受けた。
田山録弥『東京写真帖』(日本葉書会、1907)から転載
協力:博文館新社
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1940年5月 ノモンハン事件でソ連軍を指揮したジューコフ将軍は、スターリンに接見して日本軍の評価を尋ねられ、「兵士は真剣で頑強。特に防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは、狂信的な頑強さで戦います。しかし、高級将校は訓練が弱く、紋切り型の行動しかできない」と答えている。(「ジューコフ元帥回想録」)
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高学歴で出世する日本人が役に立たない、無能力者に近いのは、昔の日本ではなく現代の日本でも通用する日本人論である。
何故か、指導者・経営者は引退しても権力を維持しながら院政を敷く為に、自分より劣り裏切らない忠実な「イエスマン」を後継者に指名するからである。
それが、日本の闇将軍、キングメーカーそして院政の実像である。
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日本人エリートは、人格、品格や見識、教養ではなく陸海軍大学・帝国大学の卒業席次で出世が決まっていた。
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5月8日 YAHOO!JAPANニュース THE21オンライン「「エリートばかり出世する企業」ほど衰退していく皮肉な理由
衰退していく企業が陥りがちな失敗パターンとは? (株)Momentor代表の坂井風太氏が解説する。
ビジネス環境の変化の加速とともに人材不足が深刻化する中、どの企業もかつてないほど真剣に組織開発や人材マネジメントに取り組んでいる。しかし、それらの取り組みは本当にうまくいっているのだろうか。 本連載では、衰退する組織が陥りがちな失敗パターンや、環境が変わっても失速せずに戦い続ける組織づくりのポイントを、人財育成・組織強化支援に取り組む坂井風太氏に聞く。
【図】管理職の仕事が増えてしまう原因
※本稿は、『THE21』2024年6月号より、内容を一部抜粋・再編集したものです。
変化に対応できる組織と、対応できない組織の違い
ダブルループ学習とシングルループ学習
一時期隆盛を誇っていた組織が、急速に、あるいはいつの間にか、勢いを失うことがあります。多くの場合、急激な業績の悪化を引き起こす直接的な原因は、外部環境の変化です。
例えば、中国からのインバウンド需要で大きく業績を伸ばしたビジネスは、コロナ禍で一気に業績が悪化しました。パンデミックに限らず、顧客とりつくしによる開拓可能市場の消滅、自社を脅かす競合の出現、あるいは法規制やルールの変化による勝ちパターンの無効化といったことが起こることもあります。こうした外部環境の変化を乗り越えられるかどうかを左右するのが組織マネジメントです。
変化に適応できる組織と適応できない組織では、いったい何が異なるのでしょうか。衰退する組織に共通する特徴から探ってみましょう。
1つ目の特徴は、組織におけるダブルループ学習が阻害されていることです。 組織学習については、「ダブルループ学習」と「シングルループ学習」という考え方があります。過去の前提や常識そのものを疑い、新しい行動の枠組みを取り入れる学習プロセスが「ダブルループ学習」、既存の枠組みや過去の成功体験は正しいという前提で改善策を考える学習プロセスが「シングルループ学習」です。
例えば若手の退職率が上がるという出来事が起きた場合、ダブルループ学習では、「自社のマネジメント基盤・人財育成基盤が時代と合わなくなっているのではないか」と考え、自社の環境ややり方を見直します。一方のシングルループ学習では、「最近の若者は根性がない」といった考え方をします。
つまり、ダブルループ学習が回っている組織は外部環境の変化に対応して組織の変革を促すことができますが、シングルループ学習しかできていない組織では、外部環境の変化に対応できないのです。
「心理的安全性」が 「言ってはいけない」を加速
ダブルループ学習ができる組織になるために重要なのが、外部環境の変化を察知したときに、思い切って「これまでのやり方が通用しなくなっていませんか」と言える「心理的安全性」です。
ところが、日本ではこの「心理的安全性」が、シングルループ学習を加速させている面があります。 「それを言ったら場の空気が悪くなるから言ってはいけない」「誰かが傷つくかもしれないから、言わないほうがいい」といった、「周りを傷つけないための配慮」が、「心理的安全性」として受け止められてしまい、むしろ「言ってはいけない雰囲気」を加速させているのです。
そもそも、「心理的安全性」が本来の意義を発揮するためには、「心理的柔軟性」が必要です。心理的柔軟性とは、自分の考えが絶対的に正しいという前提に立つことなく、余白や柔軟性を持ってフラットに考えることです。
心理的柔軟性があると、何か課題が発生したときに、「これまでの前提や信念が、いまの状況に合わなくなっているのではないか」「自分が間違っているかもしれないから、異なる意見を聞いてみよう」といった考え方をすることができます。
ですから、心理的柔軟性の高い人々で構成された組織では、「私も間違っているかもしれないけど発言してみよう」という心理的安全性が発動するのです。
逆に、心理的柔軟性のない組織では、心理的安全性は生まれません。「一応話は聞くけど、どうせ私の考えが正しい」と考えているような人が多い組織では、「なんでも言っていいよ」と言われたところで、「どうせ聞く気もないくせに」という諦めにつながってしまうからです。
その状況下で、「うちの社員は危機意識が足りない」や「我々は変わらなければならない」と発言しても、社員としては「まずは、そっちから変わろうとしてください」となってしまいます。
特に、組織のトップがカリスマ創業者やそれに連なるオーナー家、あるいは新卒からの生え抜きばかりの場合、この傾向が加速します。カリスマ創業者やオーナー家の場合、その成功体験と権力には誰も何も言えませんし、経営陣が生え抜きばかりだと、外部目線がなくなり、自分たちのやり方に疑いを持ちにくくなるからです。
これは、レガシー系の大企業ではもちろん、新興企業でも起こり得ることです。むしろ、人の入れ替わりが激しい新興企業では、生存者バイアスや創業メンバーへの権力集中が生まれやすく、ダブルループ学習が阻害されやすくなります。そうなると、組織の成長は止まってしまうのです。
成果ばかり評価すると、負け癖がついた組織になる
業績目標アプローチと学習目標アプローチ
衰退する組織の2つ目の特徴が、「間違わない人が出世する」という構造です。
個人の動機づけには、「業績目標アプローチ」と、「学習目標アプローチ」があります。業績目標アプローチでは成果が、学習目標アプローチでは挑戦による学びが評価されます。 どちらのほうが最終的に成果を上げるかというと、学習目標アプローチである、ということがこれまでの研究でわかっています。
学習目標アプローチでは新しい学び自体に価値があると考えるので、挑戦に前向きになり、メンバーが自己効力感を持って努力し続けることができるのです。
一方の業績目標アプローチでは、成果を出せば称賛されますが、肯定的な評価を得るために上手くできないことは避けるようになってしまいます。結果として、業績目標アプローチだけでは、負け癖がついた組織になってしまう恐れがあるのです。
これをもう少しカジュアルに整理したのが、キャロル・ドゥエック氏の硬直マインドセットと成長マインドセットです。
硬直マインドセットとは、「自分の能力は生まれつきのもので、今後も変わらない」とする考え方です。つまり、できる人は最初からできるし、できない人はいつまでもできない、と考えます。この考え方が加速すると、新しいことはやらない、できることしかやらない、ということになってしまいます。
これに対し、成長マインドセットとは、自分の能力は努力や経験によって高められるという考え方です。最初から完璧にできなくても、「自分にはのびしろがあるから、精一杯努力してみよう」と考えて挑戦することができます。
エリート化が招いた「マイクロソフトの停滞」
ところが、「間違わない人が出世する」組織では、「未知のことや上手くいかないことに挑戦しながら成長していく」という成長マインドセットが消えてしまいます。
マイクロソフト社は、GAFAの台頭を許してしまった停滞期の原因を、「マイクロソフト社が世界的な大企業になり、『間違わないエリート』が入るキャリアになってしまったからだ」と分析しています。
「あの企業に入れば『優秀な人』と見られる」と認識され、間違わない人が、間違いのないキャリアとして入る企業になると、成長マインドセットが消えていく、というんですね。
2014年に3代目CEOに就任したサティア・ナデラ氏は、社内に成長マインドセットがないことに気がつき、成長マインドセットを推進することで業績を回復させた、と言われています。もちろんそれだけでマイクロソフトが復活を遂げたわけではないと思いますが、実はこれ、私の実体験からしても、腑に落ちる話でもあります。
前職のDeNAでの体験ですが、モバゲー事業が当たり、企業が大きく成長して「就職人気ランキング」の上位にランクインするようになると、外資コンサル出身者のような、ピカピカの経歴の人たちが入ってくるようになりました。細かい論点を指摘できる人、誰もが納得できる説明が上手な人、といった、いわゆる「頭のいいエリート」たちです。
そうすると、新規事業としてあがってくるものが、ロジックがとてもきれいなものばかりになっていきました。過去のIR情報や市場データをもとに説明できるので、誰から見ても「正解」のように見えるんですが、実はそうやって説明できる事業は模倣性が高いので、競合も多く、大きく当たりにくいんですよね。
本来、新規事業というのは、他社がまだ気づいていない領域を攻めることです。不確実性が高い領域を攻めなければならないので、「合理的判断」とは異なる「決断」が必要になります。しかし、間違わない人、説明が上手な人が出世するような組織では、データ分析やロジックに基づいた合理的判断しかできません。これは優等生企業の罠だと思います。
そもそも、決断慣れした人材なんてほとんどいません。「イノベーション人材」を採用しても、「間違えたくない」という意思決定が行なわれる文化の中に入ってしまうと、本来の角を削がれて、「間違えたくない人」になってしまいます。
いくらかっこいいミッション・ビジョン・バリューを策定して「挑戦」をスローガンに掲げても、いくらコーチングで部下の主体的な行動を促そうとしても、「挑戦している背中を見せたこともないのに挑戦させる」ことは不可能なのです。
メンバーにとっての組織=上司がつくる小宇宙
なぜ組織は機能不全に陥るのか
では、そうした組織の硬直化を防ぎ、メンバーがダブルループ学習を回しながら活躍し続ける組織であるためには、どうしたらいいのでしょうか。 組織の機能不全は、経営、マネジャー、メンバーそれぞれの次元で起こります(上図参照)。
まず重要なことは、経営陣や中間管理職層が、組織理論や組織マネジメント理論をきちんと把握しておくことだと私は考えています。そうでなければ、起きている「現象」が、今後組織にどういうインパクトをもたらすかを予測できないからです。
一方で、経営者や中間管理職層が組織マネジメントの理論を学んでいれば、「最近組織が硬直化しているね→それはダブルループ学習が阻害されているからだね→それは心理的安全性がないからだね→それは心理的柔軟性が失われているからだね→じゃあこういう方法で解決できないか」と、共通言語を用いた議論ができるようになります。
しかし、組織理論の重要性は、特に経営層にほとんど届いていない、そもそも組織の課題に気がついていない、というのが事実です。その理由にも、いくつかのパターンがあります。
1つ目は、小宇宙理論。組織というものは、小宇宙の集合体で、視界は自分がいる小宇宙に限定されます。ですから、自分の周りの人がやる気満々に見えている場合は、組織全体がそうだと勘違いしてしまうのです。
ただし、経営者の場合は、視界に入っている相手も、やる気があるように「見せているだけ」、ということもあるでしょう。
この小宇宙理論は、マネジャーやメンバーの組織に対する認識にも当てはまります。組織はマネジャーがつくる小宇宙の集合体です。言い換えれば、「組織の実体」は、マネジャーがそれぞれの小宇宙の中でつくっているものなのです。 ですから、会社全体としては硬直化した中にあっても、上司とそのチームの士気が高ければ、メンバーは「うちの会社は士気が高い」と感じているでしょう。
逆に、「会社への不満や不信感」は、「上司への不満や不信感」が貫通したもの。現場の課題を解決しないどころか感知すらしない経営層や人事に対しては、メンバーは不信感を募らせていきます。 だからこそ、ミドルマネジャーを、「中間管理職」ではなく、「中核管理職」として、しっかり機能させることが、組織運営のためには重要なのです。
社長と社員の対話会は、無意味な「裸の王様の巡業」
2つ目は、アウトプットだけを見ていて、プロセスを見ていないパターン。成果だけを見て満足し、その成果が特定のメンバーの孤軍奮闘によって無理に出されたものであるといった、生産プロセスのひずみに気がつかないケースです。アウトプットを支えていたメンバーが離脱し、アウトプットが出なくなって初めて組織の課題に気がついても遅いのです。
3つ目は、自社の神話化。「自社だけは特別である」「この会社には優秀な人材しかいない」と思い込み、受け継がれてきたやり方に固執するパターンです。自社のカルチャーや「〇〇WAY」といった言葉がもてはやされ、「自社の方法論こそ至高である」と思い込んで心理的な鎖国状態をとってしまうと、優秀だった組織もやがて凡庸な組織へと転落していきます。
4つ目は単純な不勉強です。経営者同士のインナー・サークルでしか情報の流通がなく、しかも話すのはゴルフのことばかり、といったパターン。
5つ目は、裸の王様化。権力を持った相手には、誰も本質的な指摘をしてくれなくなります。名実ともにワンマンの企業もあれば、「社員と経営者の対話会」といったものを開催し、表面的な雑談に終始しているだけにもかかわらず、対外的には「風通しの良さ」をアピールして満足しているパターンもあるでしょう。
経営層は、危機感を持って組織マネジメントを体系的に学びましょう。「自分は様々な経営者から学んでいる」と豪語している経営者こそ、最も危険です。「今までと違うことを学ぶ」をしないと、むしろシングルループ学習を回しているだけだからです。 同じようなことを同じ人から学んだところで何も変わりません。
昨今の研究でも明らかになってきましたが、「心理的安全性」の先行要因は、「謙虚なリーダーシップ」と言われる資質です。簡単に言えば、自分の知識や能力の限界を認め、何からでも誰からでも学ぶ姿勢が大切であるという話です。
ただし、経営者だけが理論を学んでも、「組織は小宇宙の集合体」であるので、大して会社は変わりません。なぜなら、各小宇宙を見ている管理職内での「共通言語化」が必要だからです。
ここまで、組織が衰退するメカニズムについて解説してきました。次回は、成長し続ける組織であるためのマネジメントについて考えてみましょう。
坂井風太([株]Momentor代表)
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2023年7月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ノモンハン事件とウクライナ戦争、80年を隔てた旧ソ連軍の共通点とは?
『明と暗のノモンハン戦史』秦郁彦氏に聞く
昭和14(1939)年、モンゴルの草原地帯で日本軍とソ連軍が激突したのが、ノモンハン事件だ。謎の多かったこの戦闘の実態を、歴史家・秦郁彦氏が旧ソ連側の資料を精査して明らかにした大著『明と暗のノモンハン戦史』が、講談社学術文庫で再刊された。毎日出版文化賞を受賞した決定版である。
80年前のノモンハンと、現在のウクライナに見られる旧ソ連軍(ロシア軍)の共通点とは。局地的な戦闘にとどまらない、この事件の重い意味とは何か。著者の秦郁彦氏に聞いた。
4ヵ月にわたる「奇妙で残酷な戦い」
――ノモンハン事件とは、どのような事件なのでしょうか。
秦 戦前期の日本では、大陸各地で大中小さまざまな規模の国境紛争が頻発していましたが、その大部分は日本が防衛責任を負っていた満洲国とソビエト連邦、あるいは満洲国とソ連の衛星国だったモンゴル人民共和国の国境地帯で起きています。なかでも昭和14年に起きた「ノモンハン事件」は、実質的には日本の関東軍とソ連軍との4ヵ月にわたる激戦となり、双方とも2万人前後の死傷者を出しました。規模から言えば、小型の戦争並みです。
――日本とソ連の、どちらが勝ったのですか。
秦 そこはずっと議論が絶えないところです。戦前期は「日本軍の犠牲も少なくなかったが、日本兵は速射砲や火炎瓶でソ連の戦車をやっつけて引き分けた」というのが平均的イメージでした。
しかし戦後はイデオロギーが介在して、左翼歴史家たちの見解は「日本軍惨敗」で統一されてきました。「日本軍の人的損害はソ蒙軍の2倍以上」というのが定説のようになり、その目で見ていくと悲惨な場面が次々にでてくる、それをみて「兵たちはこんなひどい戦(いくさ)をやらされた」「悪いのは日本の軍国主義だ」というぐあいでしたが、今やイデオロギーで割り切る時代ではなくなったと思います。
半藤一利さんはかつて「(関東軍の)勇み足と火遊びのような冒険主義」「それは奇妙で残酷な戦いだった。どちらも勝たなかったし、どちらも負けなかった」と論評しており、実にうまく言い当てていると思うのですが、まあ、これは文学的な総括です。軍事学的にはこれでは済まないので、物理的な要素もいれて検討する必要があります。冷静に議論をするための材料をきちんと揃えておきたいと考えて書いたのが、この『明と暗のノモンハン戦史』です。
死傷者はソ連のほうが多かった
――事件から80年以上が経ちました。実態を知るには長い時間が必要だったのでしょうか。
秦 特に、1990年代以降、旧ソ連側の資料が公開されるようになって、それまではほとんど知ることのできなかったソ連軍の動きや装備がわかるようになったのは収穫でした。戦闘の実態を知るには、戦った双方の資料を突き合わせることが不可欠ですから。
そうして日ソ双方のデータを検証すると、結局、双方に事前の作戦計画があったわけではなく、偶発的に起こった戦闘が拡大したということがはっきりしてきました。
また、人的損害では、戦死者は日ソとも約1万人。ただし死傷者の総計では日本軍の約2万人に対してソ連軍は2万5000人と、ソ連軍が日本軍を上回ったのは確実です。そこに着目して「ノモンハン戦は引き分けないし日本の勝利に近い」という論調や、極端なところでは「日本軍の大勝利」と唱える論者も現れました。
しかし、戦闘の勝敗は被害統計だけではなく、目的達成度や政治的影響など総合的な見地から論じる必要があります。戦争目的を達成したか否かで見ていけば、この戦闘の主目標はノモンハン地区における係争地域の争奪ですから、それを失った日本軍の敗北と評するほかない、といえましょう。
モンゴルの草原を進軍する日本兵
――ソ連軍は、目的達成のためには人的損害をいとわなかったのですか。
秦 そうですね。ノモンハンでも現在のウクライナ戦争でも、ロシアは政治的目的のためには人命損失をいとわないんです。ただ、それはロシア人やロシア帝国に特有の伝統なのか、というと……、簡単には言えません。
共通しているのは、トップが強くて「上から言われたとおりに戦え」というトップダウンのやり方、そのかわり下士官層の発言力が弱いという共通点はあります。下士官層がしっかりしていると上手に戦えるというか、そんなに無茶をしないんでしょうが……。でもそれは、旧日本軍も今のロシアと同じじゃないか、と言われると「違う」とも言えない。
人的損害は、一般に攻めるほうの損害が大きく、守る方は損害が小さいのです。ノモンハンでは、日本はどちらかと言えば守勢側で、ソ連が攻める側です。現在のウクライナ戦争は、ウクライナが守る方でしょう。攻めるのはもっぱらロシア軍で、特に囚人兵を集めた民間軍事会社のワグネルは、最初から「捨て駒」の扱いですよね。ですから死傷者数はロシアのほうが多いという数字が出ている。
でも、人口比などから考えてどちらのダメージが大きいのか、とか、軍事拠点の物的損害など、戦争が終わり双方のデータが揃わないと、戦争の勝敗というのは、なかなかはっきりとは決められないものなのです。
――ノモンハン事件の当事者たちは、どのような認識だったのでしょうか。
秦 ノモンハン戦は、日清・日露戦争いらい「連戦連勝」だった日本陸軍にとって、最初の「敗北体験」でした。そこでは、無断退却や戦意の不足、抗命、捕虜の大量発生など、それまで陸軍が想定していなかった現象が多発したのですが、こうしたことが、当時の日本軍の指導者には教訓になっていないようです。
そもそも、作戦の中心的役割を担った関東軍参謀の辻政信少佐や服部卓四郎中佐は「負けた」とは思っていません。ノモンハン戦を振り返って「戦争は敗けたと感じたものが、敗けたのである」と語った辻の言葉にも、それが感じられますね。
ノモンハンでの敗戦が「日本軍を南方に向かわせた」と言われることもありますが、2年後の昭和16年にはドイツの対ソ開戦に呼応してシベリアへ進攻しようと、「関特演」(関東軍の特別な演習)の名目で日本は満洲に50万を超える大兵力を集中したりしています。この時は冬が来る前に作戦終了の見込みが立たずに断念していますが、軍の指導者層は「対ソ戦」に全然懲りてないんですよ。
ソ連側で参戦したモンゴル兵。photo/gettyimages
天皇大権を干犯、将校に自決強要
――その後の歴史にも影響は大きいですね。
秦 昭和14年7月3日には、関東軍1万人の大軍が、日本側が国境と定めていたハルハ河の仮橋を渡って進攻します。これは関東軍の辻たちが立てた作戦を大本営も抑えられなかったのですが、天皇にそれを上奏したのは前日の2日だという。しかしこの日は日曜日で、2014年に公開された「昭和天皇実録」によれば天皇は一家団欒の状態で、上奏の記録はない。状況証拠からみれば事後報告で、これは天皇の大権を犯す死罪にあたる大罪なわけです。しかし、関係者はこのあたりの詳細については、今も黙秘を決め込んでいる。
この時、大権干犯した関係者を処分できていれば、日米戦争についてもっと冷静な判断ができたのではないかと思います。辻、服部、田中新一作戦部長、この3人が大東亜戦争を始めたんだという見方がありますけれど、ノモンハン「敗北」の責任者をそろって大本営の作戦課長(服部)、兵站班長(辻)に起用したのは理解に苦しみます。
そのあたりが、日本軍の組織というのは一種のモンスターですね。皇軍だと言いながら、天皇の意思などは全く無視していたわけですよ。
――結局、だれも責任をとらなかったのでしょうか。
秦 潰滅した第23師団の師団長・小松原道太郎をはじめ、多くが予備役編入や左遷気味の転補など、ぬるま湯的な行政処分ですませてしまい、免官、停職のような例は少数でした。
もっとも過酷な運命を強いられたのは捕虜交換で帰ってきた将兵でした。将校たちは自決を強いられ、下士官兵は軍法会議にかけられて懲役や禁固刑を科せられたのです。しかもこれらは内輪で処理され、国民に知らされることもありませんでした。
こうしたノモンハン人事の先例は、より無責任さと過酷さを増して、大東亜戦争期に引き継がれていくのです。
※ノモンハンで「敗軍の将」が見せた理不尽については、〈現場指揮官に自決を強要! 初めての「敗北」で露呈した軍幹部の「将器」と無責任。〉で読むことができます。
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