🎶31:─1─1920年代(大正時代)の日本は熱気あふれる魅力な時代であった。〜No.72No.73No.74 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年7月2日 MicrosoftStartニュース StarsInsider「魅力的な1920年代の日本の生活写真
 ©Getty Images
 欧米諸国と同じように、日本も独自の "Roaring Twenties( 熱気あふれる20年代)" を経験した。世界大戦と世界大戦の間のこの10年間は、日本にとって近代化と進歩の時代であり、芸術シーンが急成長し、民主主義への新たな欲求が芽生えた。しかし、政治的に不安定な時期でもあり、世界的な混乱が日本人の日常生活に影響を与えた。第一次世界大戦の余波や「スペイン風邪」の流行は、今もなお色濃く残っている。1923年、東京とその周辺は関東大震災によって壊滅的な打撃を受けた。
 総じて、1920年代は激動の時代であったが、日本の歴史においては魅力的な時代であった。このギャラリーをクリックして、時を超えた旅に出かけよう。
 神戸の劇場通り(1920年頃)
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 1920年代は日本の近代化の時代だった。新しい文化や政治思想が導入され、日本の伝統的な生活様式と興味深いコントラストを生み出していた。
 東京のデパート(1920年頃 )
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 東京の高級デパートで、エレベーターのそばで客を案内する店員たち。彼らのユニフォームも店のインテリアデザインも、伝統的な日本のスタイルからの変化を反映している。
東京に住む母子(1927年頃)
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 ここでは、伝統的な着物を着た日本女性が、西洋風のセーラー服を着た息子と一緒に歩いている。
 女性参政権運動(1920年頃)
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 女性参政権運動もこの時期に花開いた。日本で女性の選挙権が完全に認められたのは1946年になってからだが、この時期の活動家たちは、時代遅れの古い法律を覆すのに尽力した。
 女性の労働力(1921年
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 1920年代の女性たちはまた、伝統に挑み、経済的な自立を主張しながら、より多く女性が労働力として社会に参画した。
 女子大の卒業式(1920年
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 東京の女子大学、お茶の水花嫁学校の卒業式に参加する女子学生たち。当初の校舎は1923年の関東大震災で倒壊した。
 インフルエンザ流行時の女子学生(1920年頃)
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 第一次世界大戦終結後の1920年、「スペイン風邪」の流行はまだ続いていた。この写真に見られるように、致命的なインフルエンザの拡散を防ぐために、マスクが保護手段として使用されていた。
 東京駅(1920年頃)
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 東京駅は1914年に開業し、全長1,000フィート(330メートル)を超えた。日本の広範な鉄道網の中心拠点である。
 列車の客車(1925年頃)
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 1925年頃に列車で移動する日本の要人たちが撮影された。彼らは全員、西洋風の服装をしており、その時代のイギリス人男性が着ていた服と同じようなものを身に着けている。
 関東大震災(1923年)
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 1923年9月1日、強力な地震が日本を襲った。マグニチュード7.8を記録し、東京、横浜、およびその周辺地域の大部分が破壊された。最初の衝撃の後、高さ40フィート(12メートル)の津波が襲った。
 関東大震災(1923年)
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 津波に続いて火災が発生し、東京や横浜の木造建築を襲った。「火の竜巻」まで発生した。推定15万人が死亡し、60万人が家を失った。
 荷車で旅をする女性たち(1920年頃)
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 三世代の女性が荷車を引き、押しながら道を行く。1923年の大地震の後、多くの家族は家を失い、持ち物はほとんど残っていなかった。
 荷車を引く男性(1921年頃)
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 アメリカの作家ジュリアン・レナード・ストリートは、1920年代に日本を訪れ、『Mysterious Japan(神秘の国日本)』という本の中で観察記録を残した。彼は、「日本人は物に縛られていない。ほとんどの人が手押し車で家を移動できる」と書いている。
 帝国ホテル(1923年)
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 東京の帝国ホテルは1890年に建てられたが、1923年に有名なアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトによって再設計された。皇居は、日本を訪れる各国の賓客をもてなすため、このホテルの設計を依頼した。開業当日に関東大震災が発生したが、建物は最小限の被害で済んだ。
 サンフランシスコ行きの船に乗る移民の子供たち(1920年頃)
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 これらの幼い子供たちは、後に「地獄船」として知られることになる大型船、新洋丸に乗っているところを撮影された。この名称は、非人間的な環境と乗組員の残酷さでこの船につけられた。
 農場で働く人々(1920年頃)
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 農村部では伝統産業が依然として支配的であった。ここでは、稲の茎からミミズの幼虫を取り除く作業をする2世代の女性たちが見られる。
 アサリを採る(1921年
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 干潮時の東京湾でアサリを採る母子の写真。この習慣は「潮干狩り(しおひがり)」と呼ばれ、日本では今でも夏の間、家族そろって海岸にアサリを採りに行く。
 鯛の浦湾(1921年
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 鯛の浦湾は長崎地方で有名なスポットである。鯛は通常、深海魚であるが、この浅い湾に住み着いた理由は科学者にもまだ解明されていない。
 数学の授業(1920年頃)
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 日本の近代化のおかげで、1920年代には学校教育は一時的に、より近代的なモンテッソーリ・スタイルに合わせた。残念なことに、1930年代には強力な軍事政権とナショナリズム政権が復活した。
 東京皇居(1925年頃 )
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 東京の皇居の入り口に立つ交通警官。左側の標識には「商用車進入禁止。制限速度は時速10キロ」とある。
 高松宮殿下と花嫁(1928年)
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 1928年、天皇の弟である高松宮宣仁親王と新妻の徳川喜久子さん。お二人は、女性用の12重の衣装を含む宮中着をお召しになっている。
 年老いた農夫(1925年頃)
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 年老いた日本の農夫が縁側に座ってタバコを吸っている。髪型は伝統的なちょんまげスタイル。頭のてっぺんを剃り、残りの髪を後頭部の結び目にまとめる。結び目からはみ出した髪は油で形を整え、頭頂部にのせるのが一般的だ。
 和服を着た家族(1920年
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 日本人の女性と6人の子供たちが和服姿で写っている。彼女と長男は木製のサンダル、下駄を履いている。
 書道をする女性(1920年頃)
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 着物姿の若い女性が、伝統芸術の書道を行っている。この芸術的な書道は、特殊な筆と墨を使って手作りの紙に書く。
 鳴き鳥のお店(1925年頃)
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 女性の客たちが着物を着て、小鳥や装飾のある鳥かごを売る店の品物を物色している。
 昼食時の様子(1925年頃)
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 友人同士で伝統的な服装を身にまとい、地元の食堂でそばを食べながらカメラに向かってポーズを取っている。
 甲子園球場1920年
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 野球が日本に伝わったのは1872年。1920年代には最初のプロチームが誕生し、今日、日本で最も人気のあるスポーツのひとつとなっている。写真は大阪の甲子園球場での高校野球
 昼食をとる母子(1925年頃)
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 レストランでウェイトレスからご飯を出される母子。床に座って低いテーブルで食事をするのが伝統だった。
 東京の託児所(1920年頃)
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 裕福な女性は、伝統的な着物を着た小児科の看護婦に子供を預けることができた。
宮島の芸者衆(1920年頃 )
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 宮島の水辺を散歩する二人の芸者。二人の背後には、伝統的な「鳥居」が水面からそびえ立っているのが見える。
 出典 (Facing History and Ourselves) (Smithsonian Magazine)
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2024-07-01
💖2)─3・B─戦傷病死の日本赤十字社従軍看護婦を祀る靖国神社が否定されている。~No.4  
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2020-06-27
💖5)─5─日本人は朝鮮人アイヌ人を感染症から救っていた。~No.18No.19No.20No.21 
朝鮮、
アイヌ
 江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大約2万6,800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。
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シベリア出兵。集団的自衛権発動。
2017-08-14
💖6)─1─日本陸軍は、シベリアからポーランド人戦争孤児765人を武力で助け出した。~No.22No.23No.24No.25・ @ 
2019-10-27
💖6)─2─日本外務省・日本大使館の反ドイツ派は、帰国したポーランド孤児をナチスから助けた。~No.26・ 
2021-02-07
💖6)─3─ポーランド人蜂起部隊イェジキの子供兵士を陰で支えた反ドイツ派日本外交官。~No.27 
2023-10-20
💖6)─4─親日ポーランドと日本。知られざる歴史と友好の絆。~No.28 
2024-01-30
💖6)─5・A─国会の記録に残る〝日本陸軍ポーランド孤児を救出した〟発言。No.29 
2024-06-08
💖6)─5・B─皇室が繋ぐポーランドとの絆「支援が無ければ我々の生活なかった」~No.29 
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2017-08-17
💖7)─1─日本人軍国主義者は、シベリアのロシア人戦災児童約800人をロシア人共産主義者から救出した。~No.30・ @ 
2021-02-11
💖7)─2─ロシア人避難学童救出活動と日本シベリア派遣軍諜報機関。~No.31No.32No.33 
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2020-03-13
💖8)─1─平明丸事件。日本陸軍はシベリアで救出したトルコ軍人捕虜約1,000人を本国に送り届けた。~No.34・ 
2023-10-05
💖8)─2─シベリア出兵時。日本軍は友軍チェコスロヴァキア人傷病兵を治療した。~No.35No.36No.37 
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第一次世界大戦、日本が5大国の一国として国際連盟の常任事理国になった。
2017-08-18
💖9)─1─日本皇室と日本赤十字社は、パリに日本赤十字社救護班による日赤病院を開院した。~No.38・ @ 
2021-02-17
💖9)─2─日本赤十字社集団的自衛権赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」。~No.39No.40No.41 
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2017-12-04
💖10)─1─青島要塞攻防戦。ドイツ兵士の坂東俘虜収容所。丸亀・松山・久留米。「バルトの楽園」。~No.42・ 
2024-02-05
💖10)─2─日本軍は外国人捕虜の外出も認めたが、国民は敵軍兵士への厚遇に猛反対した。~No.43No.44No.45 
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2019-07-05
💖11)─1─マルタ島の偉業。日本欧州派遣艦隊は地中海の守護神である。~No.46No.47No.48No.49・ 
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2021-05-09
💖12)─1─1920年の華北大旱害・飢饉に対する軍国日本の調査と救済。~No.50No.51No.52 
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日本軍の敵軍捕虜に対する扱い。
2018-08-07
💖13)─1─日本軍は、武士道精神で戦い、戦闘が終われば戦場に残された敵軍兵士負傷者を助け保護し治療した。~No.53・ @ 
2022-02-06
💖13)─2─イギリス海軍は撃沈されたら「日本艇に救助してもらえ」と教えていた。~No.54No.55 
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日本民族日本人の愛国心
2017-08-23
💖14)─1─愛国心とは命を捨てる決意と死を受け入れる覚悟である。~No.56No.57No.58・ @ 
2021-07-09
💖15)─1─日本民族は漂着民の子孫で、目の前で船が難破すれば遭難者・漂流者を助けた。~No.59No.60No.61 
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小灘利春「特攻は愛するものを守りたいとの強い思いから生まれたのです」 
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2021-09-23
💖16)─1─堀口九萬一はメキシコ・クーデターで大統領一家を助けた。大正2(1913)年〜No.62 
2021-07-24
💖16)─2─渋沢栄一アルメニア人大虐殺のアルメニアの孤児・難民への義援金。大正11(1922)年。〜No.63 
2022-05-21
💖16)─3─東慶丸はトルコの港湾都市イズミルギリシャ人やアルメニア人の難民を助けた。大正11(1922)年。〜No.64 
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2018-06-17
🎶08:─1─日本の「人種差別撤廃提案」。朝鮮の三・一独立運動。中国の五・四運動。孫文ソ連。1919年~No.12No.13・ @ 
2024-04-28
🎶09:─1─日本征服を狙ったアメリカの「オレンジ計画」と大正天皇。大正8(1919)年。~No.14No.15 
2019-03-25
🎶10:─1─日本封じ込めのワシントン体制。日本の軍縮と中国の軍拡。1919年No.16No.17No.18・ * 
2018-12-19
🎶12:─1─日中戦争は、1920年代の反日派中国人による日貨排斥・反日暴動・反日デモから始まった。~No.22No.23No.24・ @ 
2018-06-21
🎶13:─1─中華民国尖閣諸島を日本領土と認めた。国際連盟アメリカの排日運動と日本バッシング。1920年~No.25No.26No.27・ @ 
2019-04-11
🎶14:─1─第1回南京虐殺事件。山東出兵。済南虐殺事件。中国共産党結党。アメリ共産党と排日運動。1920年〜No.28・ * 
2021-10-21
🎶14:─2─福州での猟奇的日本人教師夫妻強姦惨殺事件。〜No.29No.30 ③  
2018-06-25
🎶18:─1─レーニンは、世界に暴力的共産主義革命を輸出する為に日中戦争と日米戦争をプロデュースした。~No.40No.41No.42・ @ ⑥ 
2018-06-28
🎶21:─1─中国共産党は、日系企業・在華紡の工会を傘下に入れて労働争議を指揮し、各地で反日暴動と日本製品ボイコット運動を指導した。1922年~No.46No.47・ @ ⑦ 
2023-08-29
🎶26:─2─関東大震災(1923年)と排日移民法(24年)そして日米戦争(41年)。~No.58 
日中戦争の序章。
2019-04-10
🎶29:─1─中国人共産主義者と在華紡事件。ファシスト中国による日本の中国権益を剥奪する革命外交。〜No.66No.67No.68・ * ⑪ 
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日米戦争の序章。 
2023-05-13
🎶30:─1─アメリカが日本ではなく中国についた意外な理由。〜No.69No.70No.71
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 大正時代の日本は、深刻な社会問題を幾つも抱えて数多くの暴動・争議が起きていたが、人民暴力革命を起こす共産主義が入り込む余地はなかった。
 エリートやインテリは大学でマルクス主義に洗脳されていたが、その日暮らしに満足している低学年の庶民にとってマルクス主義など無縁であった。
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 日本を激変させた重大事件とは、推定15万人が犠牲となり、60万人以上が家を失った関東大震災(大正12年・1923年年)であった。
 関東大震災とは、平和で平穏な日常生活を破壊した地獄であり、紅蓮の猛火は女子供、貧乏人や金持ち、地位や身分、家柄や出身に関係なく生きたまま焼き殺した。宗教的な神も仏もなく、高慢的イデオロギーもななく、運命・宿命と言うよりたまたまの偶然が生死を分けていた。自然であって、科学ではなかった。
 親兄弟を亡くした被災者は、火焔地獄の中を自分一人で生き残る為に、他人を押しのけ踏み付け押し倒して逃げ回るうちに異常心理となり狂人と化し、絶望を怒りに変え誰かにぶつけて鬱憤を晴らさなければおさまりがつかなかった。
 日本当局は、反天皇反民族反日共産主義による被災地革命とキリスト教による被災者布教を警戒していた。
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に裕仁皇太子(後の昭和天皇)と皇族を惨殺すべく付け狙っていた
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 日本人は、精神的にひ弱で気弱で臆病で自信がないのを誤魔化す為に、自分より弱い相手・劣っている相手を見付けて意地悪やイジメなどを行って優越感を味わい精神の脆弱・心の負い目を隠していた。
 日本人には、武士道も百姓根性もなかった。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
 昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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 天皇のご威光(国體・国柄)、皇道主義、民族主義、神話物語、八紘一宇 vs. マルキシズム共産主義社会主義)、ボルシェビキレーニン主義スターリニズムマオイスト毛沢東主義)、ファシズム、ナチズム。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守・エセ保守である。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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