・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日清戦争時の人口の5%程度が徴兵逃れをしていた。
日露戦争でも、その後の戦争でも徴兵忌避者の逃亡は存在していた。
軍部は、逃亡する徴兵忌避者の増加が兵力不足になるとして問題視していた。
・ ・ ・
ウィキペディア
徴兵制度に対する反対
大日本帝国
日本列島
明治維新以後の1873年(明治6年)に徴兵令が公布により、士族·平民を問わず徴兵制度が実施されたが、士族階層と平民階層は徴兵制度に反対して暴動や反乱を起こした。当時の平民階層の農民は負担に対して、士族階層は平民のために戦闘力が落ちるという理由で徴兵制度に反対した。平民階層によって起きた徴兵制度に対する反対活動は1873年(明治6年)、岡山県・三重県の農民によって起きた暴動の「血税一揆」、士族階層によって起きた徴兵制度に対する反対活動は、1877年(明治10年)、西郷隆盛が主導して起こした武力反乱の 「西南戦争」である。1920年代には軍事教練反対運動が起きた。
・ ・ ・
2023年5月1日 読売新聞オンライン「徴兵忌避(ちょうへいきひ) 戦争用語集
徴兵令による兵役を逃れること。兵役法では障害や疾病による免役以外は認められなかった。このため、徴兵検査を前に逃亡する人や、自ら肉体を衰弱させたり、指などを壊死(えし)させて障害を負ったりして兵役を免れようとする人もいた。忌避者(行方不明を含む)は、1926年に2573人、36年は1801人を数えた。
・ ・ ・
古代から、日本国内には反天皇反民族反日的日本人が存在していた。
・ ・ ・
明治の近代国家日本の徴兵制は、ロシアや中国による日本への軍事侵略から天皇・日本国・日本民族を守る為に日本国籍所有者全員に強制された国民の義務であった。
ロシアによる日本侵略の危機は、江戸時代後期から存在していた。
中国による日本侵略の危機は、古代から存在していた。
歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。そして、日本を軍隊を派遣して助けてくれる国は一つもなかった。
・ ・ ・
2017-07-12
🌏25)26)─1─庶民には愛国心がなかった為に納税と徴兵に反対して暴動を起こした。秩父事件と秩父困民党。1884年~No.77No.78No.79No/80・ @
・ ・ ・
日本民族は、尚武の民ではなく、好戦的でもなく厭戦的だった。
「日本人は忠君愛国・二君に仕えずの武士・サムライである」はウソである。
庶民にとって、御上である将軍や大名が誰であれ関心がなかった。
事実、敗戦後の日本人は、1日で日本の統治者を昭和天皇からマッカーサーやスターリンに代えて忠誠を誓った。その象徴が、日本国憲法である。
それが、日本人の偽らざる正体である。
・ ・ ・
徴兵逃れの徴兵忌避者は、反戦平和のエセ保守やリベラル左派に似ている。
オランダ調査会社は2021年に国際世論調査を発表「国の為に戦うか?」、日本人は13.2%で79カ国中最低だった。
「僕らは〝在日日本人〟でありたい。日本危機の時はさっさと亡命する」
寸土を失う者は全土を失う。
・ ・ ・
2024-07-27
💍47)─1─17~19歳「皇室に関心ない」55%でさらに増加している。〜No.161
・ ・ ・
戦前日本に於ける徴兵忌避者の多くが、反宗教無神論・反天皇反民族反日として逮捕され拷問を受けて牢獄に収監された日本共産党党員と共産主義者・無政府主義者であった。
日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
彼らを支援していたのは、ソ連・コミンテルン・中国共産党・国際的共産主義勢力であった。
・ ・ ・
2024年9月16日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「【やはり戦争に行きたくなかった?】徴兵から逃れた日本男児たちの驚きの手法とは
画像:日本における徴兵検査の様子(内閣情報局『写真週報』1941年)public domain
画像 : 第二次世界大戦 public domain
戦前の日本は軍国主義であり、「お国のために」戦うことが是とされてきた。
しかし、それはあくまで表面的なことである。
本音を言えば、戦争に行きたくなかった者も多かっただろうし、家族も同様であろう。
それを象徴するかのように、徴兵制度の盲点をつき、兵役から逃れようとする者は多くいた。
いわゆる、徴兵忌避者である。
1873年(明治6年)に始まった徴兵制施行から、1945年(昭和20年)の終戦まで、徴兵を忌避した人々は何万人にも上ると推定されている。しかし、徴兵を避けることに成功した者たちは当局に知られることがなかったため、正確な人数を把握することは困難である。
当然、彼らは密かに徴兵忌避し、戦後も多くの者がその事実について語ることはないのだ。
今回は、「非国民」と誹りを受けながらも、戦前の徴兵忌避者たちがいかにして徴兵を逃れたか、その方法について迫りたい。
徴兵検査
画像:日本における徴兵検査の様子(内閣情報局『写真週報』1941年)public domain
まずは、徴兵検査について触れていきたい。
戦前の日本では、20歳に達した成人男子は全員徴兵検査を受ける義務があった。
4月〜5月頃に通知が届き、地元の集会所や小学校などで検査が行われた。
徴兵検査では、体格や持病の有無などによって被験者を「甲、乙、丙、丁、戊」の5つに格付けした。
甲は、体格面、健康面ともに問題なく、すぐにでも入隊可能な者で、戊は重大な病気がある入隊不適格者だった。
検査合格者の中から抽選で選ばれた者は、翌年の1月10日に各連隊に入営することとなる。
入営後は3年間「常備軍」として服役し、「常備軍」の兵役を終えた後は、4年間「後備軍」として戦時召集の対象となった。
普通に検査を受ければ、ほとんどの成人男子が「兵役に適する」と判断される。
そうしたなかで、ありとあらゆる方法で徴兵忌避を試みた者は、意外と多くいたのだ。
徴兵忌避の方法には、大きく分けて「合法的な手段」と「非合法的な手段」の2種類があった。
徴兵忌避テクニック ~合法編~
画像 : 赤紙(臨時召集令状)出典 平和祈念展示資料館
徴兵制度が始まったのは、明治6年(1873年)である。
金を払う
当初は、「金」さえ払えば戦争に行かずに済んだ。
兵役免除料は270円で、現在の価値にするとおよそ270万円だ。
しかし、この制度は金持ちを優遇するものだとして批判が殺到し、明治16年の法改正で廃止になった。
その間、この制度を利用して徴兵を逃れた者は、約2千人にのぼった。
養子縁組を行う
金で解決できなくなった後は、「養子縁組」を使った方法が流行した。
当時の徴兵制度では、「一家の長は徴兵免除になる」という特例があったのだ。
そのため、徴兵されそうになると男子のいない家に養子に行ったり、また、形ばかりの家を作って家長になるといったことが頻発した。
明治9年から16年までの養子縁組の件数は、およそ9万件。
しかし、明治22年の改正で一家の長の兵役免除はなくなり、この方法も使えなくなった。
学歴を使う
そうした中でも長く使えたのが、「学歴」を使ったテクニックだった。
徴兵令では、中学校を卒業し、文部省が指定する高校や大学、専門学校などに進学している場合は、26歳までは徴兵を免除された。
当初、学生の徴兵免除は官立学校だけが対象の予定だったが、私学がそれに猛反発したため、文部省が認めた私学も対象となったのだ。
その結果、徴兵猶予が認められた私学には受験者が殺到した。
しかし、戦争が激化するにつれて、この制度も廃止される。
昭和18年、戦局の悪化に伴い「在学徴集延期臨時特例」が公布され、文系の学生は在学中でも徴兵されることになった。
いわゆる「学徒動員」である。
理工系や教員養成系などの一部を除き、学生たちはみな戦争に駆り出されていったのだ。
画像:在学徴集延期臨時特例・御署名原本・昭和十八年・勅令第七五五号
海外に逃げる
その他では、「海外逃避」という方法もあった。
当時の徴兵制度では、海外留学者や海外勤務者の徴兵は免除されていた。
これは明治以来、「外国に学ぶ」ことを国是としてきた政府が、より多くの若者に海外での学びの機会を与えるために設けた制度であった。
陸軍の統計によると、国外にいたため徴兵延期になった者は、昭和元年で約3万7千人。
満州事変直後の昭和7年で約4万5千人、昭和11年になると約5万4千人にまで増えていた。
北海道、沖縄に逃げる
また、北海道や沖縄に行くという方法もあった。
当時の北海道や沖縄では、開発のための労働力を確保するために徴兵令が未施行であった。
そのため、本籍地を北海道や沖縄に移せば、徴兵から逃れることができたのである。
あの文豪・夏目漱石も、徴兵猶予ギリギリで本籍地を北海道に移し、徴兵を免れている。
徴兵忌避テクニック ~非合法編~
画像:イメージ
非合法な手段には、それこそ無数の方法があった。
逃亡する
まず、もっともシンプルな手段は「逃亡」である。
これは事実上「死んだもの」として扱われるため、公的な身分証明書などを作ることができないなど、社会生活上で大きな制約を受けることになる。
それでも「戦争に行くよりはマシ」ということで、この方法をとる者が絶えなかった。
当時の調査によれば、徴兵検査の対象者のうち、毎年2千人前後が行方不明になっていたという。
変わった例では、死亡届まで出して地下に潜伏していた、などというケースもある。
こうした行方不明者は北海道で開拓民になったり、工事現場に紛れ込んだりしていたようだ。
犯罪者になる
また、極端な方法の中には、「犯罪を起こす」というものもあった。
徴兵令では、「6年以上の懲役、禁錮を受けた者は徴兵しない」という決まりになっていたため、徴兵されないためにわざと犯罪を起こして、長期の刑罰を受けようとする者がいたのである。
満州事変以降、刑期6年前後の犯罪が急増しており、その中には、徴兵忌避者が相当数含まれていたのではないかと推測されている。
自傷する
その他では、「自傷」という方法もあった。
徴兵検査の体格、健康面で不合格になるために、あえて自分の身体を傷つけるのである。
具体的な方法としては「目を突く、指を切る、足を折る、手を切る、精神病を装う」などがあった。
また、体重を急激に減らしてみたり、検査前に醤油を一気飲みして心臓障害を起こす、という方法もあった。
しかし、これらの非合法な徴兵忌避方法は、戦局が泥沼化するにつれて難しくなっていった。
在郷軍人会や青年団、特高警察といった監視の目が厳しくなったため、おいそれと逃げることができなくなったのである。
それでも昭和5年の検査では、約60万人中438人が身体毀傷や病疾詐称で摘発されている。
これは不正が発覚した人数なので、実際にはかなりの数がいただろう。
おわりに
徴兵制が導入された明治6年から昭和20年の終戦まで、徴兵から逃れようとする人々は絶えなかった。
彼らのほとんどは終戦後も沈黙を続けたため、忌避者の実数は把握できない。
終戦前の日本は、特に日清・日露戦争の勝利以降、世論や社会の雰囲気が変わっていった。
1937年の日中戦争ごろには軍国主義が一層強まり、「戦争に行きたくない」という思いを口にすることすら、非国民と見なされる風潮が強まっていった。
しかしやはり、「戦争には行きたくなかった」というのが本音だったのではないだろうか。
参考 :
『教科書には載っていない!戦前の日本』著/武田知弘
『日本における徴兵忌避』市川ひろみ
文 / 小森涼子
投稿 【やはり戦争に行きたくなかった?】徴兵から逃れた日本男児たちの驚きの手法とは は 草の実堂 に最初に表示されました。
【関連記事】
「台湾の首狩り族の犠牲となった54人の遭難者」 宮古島島民遭難事件
からゆきさん ~「海外に売春婦として売られ、陰で日本を支えた少女たち」
「1人の女を巡って32人の男が孤島内で対立」 アナタハンの女王事件とは
ある1人の死体が第二次世界大戦の勝敗を決めた!? 【ミンスミート作戦】
・ ・ ・
政治ドットコム
戦争になんか行きたくない! 本当にあった徴兵忌避策
投稿日2020.9.10
最終更新日2020.09.10
2020年は終戦から75年となる記念の年となりました。令和2年のこの年、新型コロナ禍に混乱しながら迎えた8月15日も、各地で戦没者を弔う行事が行われました。
現代に生きる我々が、戦前から戦中にかけてを思うとき、日本は国を挙げた軍国主義で、国民たちは喜んで戦争に協力したと考えがちですが、決して全員がそうだったわけではありません。あの手のこの手で徴兵を避けていた人々がいました。
当時、国民はどのようにして徴兵制度を避けようとしたのか、見てみましょう。
法の抜け穴をすり抜け合法的に徴兵を避ける
戦前の日本では、成人した男性は必ず徴兵検査を受けることが義務付けられていました。
この検査では、被験者の健康状態や身長・体重といった体格が調べられ、その結果によって甲・乙・丙・丁・戊の5段階に格付けされました。
甲は健康状態、体格ともに問題ない者。戊は命に関わる重大な疾患を抱える者で、入隊には不適格とされました。
表向きは入隊合格となれば喜んだ顔を周囲に見せざるを得ませんでしたが、本人や家族の本心としては戦地になど行きたくないし行かせたくないのが本音だったことでしょう。
徴兵制度の盲点を突き、兵役を免れる方法が数多く編み出されました。
まずは合法的な手段。
1873年(明治6年)に徴兵令が陸軍省から発布されてからしばらくは、お金さえ払えば徴兵を逃れることができました。
その金額は270円。現在の貨幣価値に換算すると、270万円から540万円くらいのイメージでしょうか。
しかし、この制度は「金持ち優遇策だ」との批判を受け、1883年(明治16年)の法改正をもって廃止されました。廃止までの間に、約2000人がこの制度を活用したと言われています。
お金で解決できなくなると、次は養子制度を使った方法が活用されるようになります。
当時、一家の長男は徴兵されない特例がありました。
そこで、次男以降の男子は、男子のいない家に養子に行ったり、書類上だけの家族を作って長男に据えることが頻発します。
しかしこの方法も「養子縁組の数があまりに多い」と政府から目をつけられ、1889年(明治22年)の法改正で長男も徴兵されることになり、使えなくなりました。
これらとは異なり、後年まで長く活用されたのが学生の身分を使った徴兵忌避策です。
徴兵令では、中学校卒業後、当時の文部省が指定する高校や大学、専門学校に進学している場合、26歳まで徴兵されないことになっていました。
当初、徴兵が免除される指定校は公立の学校のみ対象でしたが、この決まりに私学側が大反発。一部の私学にも認められることになります。
その結果、徴兵猶予を求めて徴兵免除が認められた私学に受験者が殺到しました。
全員が徴兵忌避を意図していたわけではありませんが、1931年(昭和6年)に学生のために徴兵猶予となった人数は約8万人、1934年(昭和9年)には約9万人に達し、最多を記録しています。
しかし、戦争も終盤を迎えるころにはこの制度も廃止。一部の理工学系や医学系の学校を除いて、学生たちも戦争に駆り出されるようになります。
他にも、海外留学者や海外で働いている人々も徴兵を猶予されました。
その数が、1926年(昭和元年)には約3.7万人、1933年(昭和7年)に約4.5万人、1937年(昭和11年)には約5.4万人と年々増加しているところを見ると、徴兵忌避を目的に海外に移った人も多くいたことが予想されます。
刑務所に入れば徴兵を避けられる!?
徴兵を避ける方法は合法的なものだけではありません。
大切な命を守るため、ありとあらゆる手段を講じていました。
「夜逃げする」「失踪する」というのは、もっともシンプルな徴兵忌避方法でした。
しかし、行方不明者になることで徴兵を避けることはできるのですが、社会生活を送るに は多大な制約を受けることにもなります。
それでもなお失踪する人は跡を絶たず、徴兵検査の対象者のうち約2000人が毎年行方不明になっています。
後年、都市部への空襲が激しくなると、「空襲によって行方不明になった」ことにして、 徴兵を避ける方法も激増しました。
「わざと罪を犯して刑務所に入る」というウルトラCを使った忌避方法も使われました。
徴兵令では「6年以上の懲役、禁錮を受けたものは徴兵しない」と定められていました。この方法を選んだ人の決意からは、それなりに重い罪を犯してでも戦地には行きたくないという思いが伝わります。本人は罪を犯すにあたって、大きな葛藤を抱えていたのは想像に難くありません。
「醤油を飲んで一時的に心臓障害を起こす」といったような自傷行為も頻発したことは広く知られています。
そのほかにも目を突く、手足を切る、骨を折る、精神病を装うといった方法のほか、急激に体重を落とすといった手法(?)も編み出されました。
また当時をしる人の証言として、評論家・山本七平著「私の中の日本軍」(文春文庫)には、「検査の前々日にツベルクリンの注射をして、その朝にナマズの生き血を飲む」といった、効くのか効かないのかも定かではない、民間療法的な方法が行われていたことも記されています。
これら非合法の徴兵忌避法は、在郷軍人会や青年団、特高警察などによる監視の目が厳しくなるにつれ、なかなか通用しなくなりました。
なんとしても徴兵を避けたいという思いは、太平洋戦争が始まる前から多くの日本人が抱えていました。
そのことがわかる発言が、1918年(大正7年)の帝国議会の議事録に残っています。
当時の文部次官、田所美治の発言です。
「日本人の身長も体重も毎年増している。男女を通じて過去10年間、ほとんど例外なしに増加している。にもかかわらず、徴兵検査の結果を見ると、真逆の数値が出る。これは詳しく調査する必要がある」(意訳)
大正時代、徴兵検査の結果を見ると被験者の体重が毎年約70グラムずつ落ちています。つまり田所は「徴兵検査を受ける者が、何らかの不正をして体重などをごまかしている可能性が高い」と指摘しているわけです。
お上が決めた決まりでもイヤなものはイヤだ。
戦前の日本人はどこか勇ましい印象がありますが、戦争に行きたくないという人たちも、当然いたということでしょう。
そして、その本音のほうが健全な精神であるというように思うのですが、いかがでしょうか。
この記事の監修者
政治ドットコム 編集部
株式会社PoliPoliが運営する「政治をもっと身近に。」を理念とするWebメディアです。 社内編集チーム・ライター、外部のプロの編集者による豊富な知見や取材に基づき、生活に関わる政策テーマ、政治家や企業の独自インタビューを発信しています。
・ ・ ・
ウィキペディア
兵役逃れ(へいえきのがれ)とは、各国の法律による兵役(徴兵制度)を逃れる行為で、一般に兵役に初めから参加しないで済ませる行為を指す。徴兵逃れ(ちょうへいのがれ)、徴兵忌避(ちょうへいきひ)、兵役拒否(へいえききょひ)ともいう。
「人を殺すことはできない」などの思想や信条に基づいて兵役を拒むのは良心的兵役拒否と呼ばれるが、国と時代によってはこれも「兵役逃れ」の一種として扱われる。
概要
この記事は世界的観点から説明されていない可能性があります。 ノートでの議論と記事の加筆への協力をお願いします。 (2023年11月)
戦国期の雑兵は徴発される代わりに、八貫文(現代で40万円)を出せば、あがなえた。
徴兵制のあった戦前日本の兵役法によれば、兵役を免れるために逃亡し、または身体を毀傷し、詐病、その他詐りの行為をなす者は3年以下の懲役、現役兵として入営すべき者が正当の事由なく入営の期日から10日を過ぎた場合は6月以下の禁錮に処せられ、戦時は5日を過ぎた場合に1年以下の禁錮、正当の事由なく徴兵検査を受けない者は100円以下の罰金に処せられる(74条以下)と規定されていた。
鶴見俊輔は、結核にもかかわらず何故か徴兵検査に合格したので軍属(海軍のドイツ語通訳)になって逃れるしかなかったが、三島由紀夫は入営検査の時(徴兵検査は合格していた)に風邪による気管支炎を肺浸潤と誤診され、即日帰郷となった。
兵役逃れは、親などが入れ知恵の措置を講ずる例も多かった。西田幾多郎の父は、1868年(明治元年)生まれの長男が兵役免除になるという当時の徴兵令の規定から、1870年(明治3年)生まれであった幾多郎を「1868年(明治元年)生まれ」と年齢を2歳多く詐称し、幾多郎の兵役を免れさせている。また、東京生まれの夏目漱石は、兵役免除の期限切れ直前の1892年(明治25年)4月5日に、一部地域を除いて徴兵令が施行されていなかった北海道の縁もゆかりもない後志国岩内郡岩内町に戸籍を移しており、これについて、丸谷才一は漱石の意思による徴兵逃れとするが、蒲生欣一郎は家族の意向が主で、漱石の兵役逃れの意思は従ではないかとしている。
・ ・ ・