🎶03:─1─明治末期・大正期の自然主義、マルクス主義、デモクラシー、テロリズム。令和のテロ。~No.4 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2022年2月号 Hanada「令和日本のテロリズム 先崎彰容
 新自由主義批判を大合唱
 ……
 だが、そもそも新自由主義とは何だろうか。
 基本的なことから始めよう。
 わが国にとっての新自由主義を考えるには、1980年代のアメリカに注目すればよい。80年代初頭に登場したレーガン大統領は、いわゆる『レーガニズム』と呼ばれる経済外交政策を展開し、共和党の基本的なかたちをつくりあげた。それは端的にいえば、『競争』と『規制緩和』そして『個人主義』を重視する政策だと言える。
 具体的には、経済成長を促(うなが)すためには、新たな市場ができればよい。そのためには民間の新しい発想、創造力が起爆剤になるはずで、だから国家の規制を緩和すればよいということになる。民間の自由度が増せば、そこでは競争原理が働き、切磋琢磨(せっさたくま)は消費者からみれば、サービスの向上と安価な商品を受け取ることを意味するだろう。それは、他者を出し抜いてでも競争に勝利する個人主義の傾向を生み出すことにもなった。
 アメリ保守主義の限界
 また一方で、レーガニズムは外交では『ネオ・コンサーバティズム』(新保守主義)と呼ばれる立場をとった。これは、アメリカが世界の警察官として国際情勢に積極的に関与することを意味し、孤立主義を批判する外交であった。自由と民主主義は世界全体を支配すべき『普遍的価値観』なのであって、このアメリカ的価値に反する勢力は全体主義国家であり、テロの温床でもある。したがって、当然のことながら応分の制裁を受けねばならず、『健全』な民主主義国家にならねばならないのだ。
 興味深いのは、このレーガニズムの国内・外交政策が、アメリカでは『保守主義』と呼ばれてきたことである。私たち日本人の常識からすれば、個人主義的であること一つとっても、保守的とは到底思えないであろう。また、個人間の競争を煽るような社会的雰囲気も、保守的とは言い難い。
 しかし建国以来、個人の自由を重んじるアメリカにあっては、誰にでもチャンスがあり、自己自身で開拓する精神は間違いなく『保守主義』なのであって、共和党の政策はアメリカの本筋をつくってきた。
 ところが、ここ30年ほどのアメリカは、この『アメリ保守主義』では立ちいかない状況を出現してしまったのである。レーガニズムのアメリカを支えてきたのは、学歴に恵まれずとも豊かな生活を享受してきた白人中間層だったが、彼らが急速に没落する状況を生みだしてしまったからだ。中南米から流入するヒスパニック系の難民は、低賃金労働者として白人たちの雇用を奪い取った。
 さらに価格競争に晒(さら)されたアメリカ企業は、積極的に賃金の安い海外への工場移転を繰り返し、労働者の雇用確保はさらに難しくなった。GAFAが登場する以前のアメリカを支えたこうした白人中間層が雇用を失い、子供たちの親の世代ほどの収入を得られなくなる渦中でGAFAが登場し、アメリカの新しい顔となった。つまり、レーガニズムの帰納は、IT企業に勤務する一部のエリート層と、かつての栄光を喪失
し、意気消沈する白人労働者がともに犇(ひし)めく社会を生みだしてしまったのである。その結果は深刻で、社会福祉政策を重視する民主党、とりわけサンダース議員の大統領選での躍進を生みだすとともに、本来、競争と規制緩和、そして個人主義を重視する共和党のんかから、トランプ大統領の登場を促すまでになった。
 トランプが過激な言葉も辞さずメキシコに壁をつくれと叫んだのも、また在日米軍駐留経費の日本負担が足りないと不満をぶちまけたのも、これまでのレーガニズムからの大転換を意味するものだった。もうアメリカは世界の警察官ではありえず、白人の雇用を守らねばならぬ。そのためには国内の過剰な競争主義をやめるべきであり、外交では米軍の撤退も辞さないと言ったのだ。
 共産党を抱く入れた岸田氏
 ……
 政治に無関心な若者たち
 では、岸田自民党が勝利した衆院選を、われわれは喜んでいればよいのだろうか。新自由主義による格差社会は、はたして成長と分配の好循環によって克服することができるのだろうか。
 筆者が指摘したいのは、政治がカネをバラまいても、日本の課題は決して解決しないというこである。たとえば、自民党が辛勝し、日本維新の会が躍進したとされる今回の衆院選でも、投票率は55%をわずかばかり超えたに留まった。
 自民党総裁選をめぐるあれほどの狂騒曲を演じたのにもかかわらず、国民の2人に1人弱が選挙に行かなかったということだ。投票率の低さ、なかでも若年層の政治への無関心は以前から指摘されつづけてきた。民放各社の選挙特番もその危機を感じ取っていて、政治的発信をしている若手タレントなどを番組に起用し、必死に若者の関心を引きつけようとしていた。
 だが、こうした付け焼刃の若者登用は、大人が若者に媚(こ)びているだけのように見えて、白け気分が漂(ただよ)っていると思う。格差社会の一番の被害者でもある非正規雇用が激増したここ20~30年以内に生まれた若者たちが、なぜ自分事として政治に関心を示さないのか。
 また、彼らを救うために分配という名でバラマキ政策を打っても評価は冷ややかなものに留まり、必ずしも若年層の心を鷲摑(わしづか)みにできていないのはなぜなのか。
 つまり、『政治的無関心』がなぜ起きるのか。
 こうした課題を理解するためには
カネや政治政策、タレント登用といった粗雑な現状把握では限界がある。より深く、日本社会を洞察しなければ、新自由主義政策がもたらした競争で疲弊し、非正規雇用に沈んだ日本人を正確に理解できない。格差社会や二極化、勝ち組や負け組という雑な手法で社会を分析し、対症療法的に分配=カネを投げても日本の現状には効果がない。つまり、…… 福澤諭吉と『外国交際』
 以下、筆者はある時代に注目し、現代社会を診察してみようとおもう。一気に時世をさかのぼり、明治末期の日本に注目してみたいのだ。明治末期とは1910年前後、すなわち、いまから110年ほど前のことである。とりわけ石川啄木の時代洞察のなかに、令和日本の若者意識をさぐるヒントがあるように思われる。
 明治の44年間とは、『富国強兵』の時代である。阿片戦争で隣国が西洋の植民地化されて以来、日本にとって国家の独立は喫緊(きっきん)の課題だった。明治8年、福澤諭吉が『文明論之概略』を書いたとき、その最終部分で強調したのは、『外国交際』が今後日本人にとって必須の課題になるということだった。
 にもかかわず、幕末から維新の激動期、日本人の精神をある種の空虚が支配していると福澤は言った。幕末までの価値観、秩序が解体したあと、日本人が一種の放心状態に陥(おちい)り、眼の前の課題に取り組むだけの覇気を失っていると思ったのである。
 そのうえで、今後、われわれ日本人が負うべき課題は『外国交際』であり、対外的危機を乗り切ることによって『日本の独立』をまもるべきだと主張した。そのためには、ぜひとも『西洋文明』を学ばねばならぬ。
 だからこそ、固陋(ころう)で保守的な儒学者に対し、西洋文明の大切さを訴えるために『文明論之概略』を書いたのだった。明治5年から書き始めた『学問のすゝめ』が、いわば一般庶民を相手に学ぶことの大切さをわかりやすく書いたのだとすれば、『文明論之概略』は学者向けの上級編だったと言えるだろう。
 福澤の指摘を待つまでもなく、日本は西洋諸国の帝国主義に対峙(たいじ)し、国家としての独立を死守する必要に迫られていた。この緊張感を表したのが『富国強兵』という言葉なのであって、殖産興業を成し遂げ、地方から屈強な農民兵を徴兵して強い軍隊をつくることは明治政府の課題であった。教科書で習った八幡(やはた)製鉄所などは、こうした時代を象徴する産業遺産なのである。
 自然主義文化とは何か
 福澤諭吉はその晩年に、日清戦争を経験する。日本側の勝利に終わったことを、福澤は素直に喜んだ。それから10年後に、わが国は日露戦争に突入する。西洋の一員であるロシアとの戦争に辛勝したことは、日本にある安堵の気分をもたらした。
 つまり、日清・日露二つの戦争に勝ったことは、幕末以来、日本人にとって共通の課題だった国家の独立が一応、達成されたことを意味したのである。植民地を獲得することはあっても、少なくとも自国が植民地化される心配はない──これが、日清・日露戦争が国民に与えたメッセージなのであった。国家目標はひと段落し、明治は後半戦をむかえることになる。
 そして明治30年代後半、日本に新たな文学活動が隆盛する。それが『自然主義文学』と呼ばれる文学流派である。今日、自然主義文学と聞いておそらく思い出すのは、学校の文学史で、田山花袋が『蒲団(ふとん)』を書いたという事実くらいであろう。すっかり忘れられた自然主義文学であるが、当時は一世を風靡(ふうび)していて、夏目漱石森鷗外のほうが、むしろ傍流と思われていたくらいである。
 では、その自然主義文学とは何か。また、その特徴を解き明かすことが、令和日本を考える際になぜ参考になるのか。 
 自然主義文学の特徴とは、『自然』という言葉をヒントにすれば理解することができる。自然とは、ありのまま、赤裸々(せきらら)という意味であり、人間の本当の姿をありのままに赤裸々に描くことこそ、文学の役目だという主張だった。
 その結果、人間を道徳的に描くこと、たとえば漱石の『坊っちゃん』に登場する勧善懲悪で誠実一徹の主人公は、『嘘』の人間を描いていることになるだろう。
 逆に、性欲まみれ、善悪を蹂躙(じゅうりん)する人間こそ、『自然』な人間だということになるだろう。自然主義文学の主題は、しばしば不倫などの乱倫(らんりん)を描いたのも、このことに由来する。つまり、今日の週刊誌が取りあげて騒ぐような内容こそ、広く人びとの注目を集めたということだ。
 自然主義が真新しく見えたのは、明治以前の社会通念、道徳や善悪、ルールといったものに反抗しようとしたからである。旧来の価値観すべてに疑いの眼をむけ、破壊し、その代わりに強烈な『自己主張』をする。自然に、自分の感性の趣(おもむ)くままに、『自由』を主張し謳歌(おうか)する──これが、自然主義文学が流行した理由だったのである。
 にもかかわず、自然主義文学は権力への反抗や自由の主張という当初の目的を外されていく。良くも悪くも、文学青年たちが持っていた活力を失っていくのである。
 富国強兵から残ったもの
 理由は、これまた時代情勢にあった。日露戦争戦勝後の日本は、もはや国民全体が緊張感で一つになる国家目標を喪失していた。植民地化の危機を脱した日本国民は、『富国強兵』のうち『強兵』への関心をまずは喪失していく。
 残るのは『富国』ということになるのだが、共通した国家目標を失った人びとは次第に『国』にすら無関心となり、残された関心は『富』だけ、という状況に陥ったのだ。
 そこに戦争後の不況が襲ってきた。都会には、富国のために駆り出された地方から来た多くの若者たちが集まっていた。彼らは産業の歯車になるために都会に集まった者たちであり、街の片隅でその日暮らしに追われていた。田舎の実家に戻ることはできないが、さりとて都会で大儲けするチャンスなどとは無縁だった。
 都会にも田舎にも居場所を見つけだすことができず、しかも国家目標になど自分を懸ける気ももてない若者たちが都会の片隅に潜んでいる──それが日露戦争後の日本の姿だったのである。
 彼らは都会で、本当は自己主張するために、もっと自由になるために出できたはずであった 。つまり、自然主義文学が流行したように、あらゆる古い価値観など捨て去って、自己主張するために都会に出てきたはずだった。ところが、都会は不況でまともな職業に就くこともできない。
 たとえ高学歴を身につけたとしても、教育機関は教養を学ぶ場所どころではなく、就職のための学校に成り下がり、しかもまともな就職すらできない。途中退学する者まで出てきて、彼らはその日その日をなっとなくぼんやり生きている。『遊民』とも呼ばれるこうした若者たちは苛立ちを募らせる──。
 僕らはまったく出口をった状態ではないか。
 若者の心を揺さぶった石川啄木
 石川啄木の『うた』が今日でも国語の教科書に載っている理由は、こうした明治末期の若者たちの心を代弁する作品を残したからである。

 ふるさとの なまりなつかし 停車場の人ごみのなかに そを聞きにゆく
 
 ふるさとの 山にむかいて 言うことなし ふるさとの山は ありがたきかな

 望郷の思いを抱きながら、それを上野駅の人ごみのなかに探しながら、さりとて田舎に帰る場所はない。どこにも居場所がないと感じた若者たちの心を、啄木のうたが揺さぶったわけだ。
 その啄木は、自然主義文学が最終的に若者たちをどこに追い込んでしまうかを評論作品として残した。赤裸々に人間模様を描いてきた自然主義文学が、最後にはどのような人間像を描くかに、啄木は注目し、批判したのである。
 現在の若者たちは、一言でいえば国家とのつながりを失った者たちである。日露戦争は喫緊の課題が終焉(しゅうえん)したことを意味し、日本人が共有すべき目標が見失われた。結果、『強兵』と『国』いずれにも興味を失った若者の前には『富』だけが残ったわけだが、起業して富の世界の勝利者になれるのはごく一部の若者だけであり、ほとんどすべての若者は富の恩恵にあずかることはできない。
 若者たちの心を、日々鬱屈(うっくつ)した気分が支配する。
 どうすればいいのか、よくわからないまま時間だけが過ぎていく。こうした若者たちの心を、啄木は次のように描きだすだろう。

 世界の何処かには何か非常なことがありそうで、そしてそれと自分とは何時まで経っても関係が無さそうに思われる。・・・まるで、自分で自分の生命を持余しているようなものだ。
 何か面白いことはないか!
 それは凡(すべ)ての人間の心に流れている深い浪漫主義の嘆声(たんせい)だ。
  (『硝子窓』)
 やや遠きものに思いし
 テロリストの悲しき心も──
 近づく日のあり
  (『悲しき玩具』)
 誰(た)そ我に
 ピストルにても撃てよかし
 伊藤のごとく死にて見せなむ
  (『一握(いちあく)の砂』)
 伊藤とはもちろん、朝鮮半島で暗殺された伊藤博文のことをさす。啄木は、若者たちの心のなかに二つの傾向を見出(みいだ)している。一つは、世界のどこかに刺激的な事件が起きているにもかかわず、自分はそれとは無関係で、つまらない日常生活を送っているという心情。そして二つに、テロリストになりたいという思いと、逆にテロリストに暗殺され、伊藤博文のようになってみたいという心情である。
 前者は、現状の自分が平凡な日々を送っていることに対する内向的な気分を表している。対して後者は、自分がテロリストになるのであれ、殺されるほうになるのであれ、自分がある種のヒーローになりたいという願望を表している。
 この二つの傾向から分かるのは、明治末期の若者が目標を失い、過激な行動に憧れを抱いているということである。そして実際には、刺激的なことは何一つ起きない日々がつづくということである。『何か面白いことはないか!』は、その象徴的な発言であると言ってよい。
 以上の石川啄木による明治末期の若者観察こそ、令和日本を考える際に参考になるのではないか。なぜ、令和の若者たちが『政治的無関心』でありつづけるのかを考えるヒントがここにあるのではないか。
 残されたのは『富』だけ
 時代を現代に引き戻そう。戦後70年以上の歴史を簡単に振り返るだけでも、明治末期との相関性は明らかである。たとえば、第二次大戦で敗北した直後の日本は、自国の独立をまず国家目標とし、ひたすらに経済成長へと邁進(まいしん)してきた。
 『三種の神器』と呼ばれる家電製品を買うことに憧れているとは、言いかえれば国民全体が目指すべき生活スタイルの夢が存在したということなのであって、国家目標がしっかりと共有されていたことを意味する。
 しかし、高度経済成長からバブル経済の喧騒(けんそう)を経験したあとの日本、すなわち平成期のわが国は、経済的目標を見失い、『失われた20年』へと突入していく。経済成長をなんとかもう一度取り戻したい思い、出した苦肉の策が、冒頭で説明した『新自由主義』的発想をアメリカから輸入することだった。
 経済成長は終わっているにもかかわず、競争と規制緩和個人主義を徹底することによって新たな市場が生まれ、景気は回復するだろうという目算は見事にはずれ、国内の経済的格差はむしろ広がったわけである。
 したがって、格差社会の到来とは、言いかえれば、国民が分断され共通の目標など持てなくなったことを意味する。明治期に当てはめると、『富国強兵』のうち、戦後日本は最初から強兵を放棄して、富国のみを追求してきた。しかし経済成長の終焉は、国民全体の一体感を見失うことを意味したし、さらに新自由主義政策が国民間に経済的な勝ち組と負け組、正規雇用と非正規雇用といった分かりやすい『分断』を生みだしたのである。
 それはさらに、『国家』という一体感への興味を失わせることを結果し、日本人の前に残されたのは、明治末期同様に『富』だけになったのだ。
 だから今日、日本の様々なシーンで『国』への関心が希薄化し、『富』だけに関心が集中する事態が生まれているのである。具体例をいくつらでも挙げることができる。たとえば近年、東大文系の入試合格最低点が、経済学部が法学部を超えたというニュースがあった。これは、東大法学部=官僚・政治家・弁護士といった職業の魅力が失われかけていることを意味している。
 従来であれば、エリートとは国家官僚になることは自明の前提だったが、令和の日本ではそうではない。むしろ、30歳前後で若造扱いのまま膨大な刺激のない仕事に忙殺され、給料も安い官僚になることは魅力を失い、経済学部=起業家あるいは外資系に就職するほうが、自分の実力をすぐさま試すことができる。
 つまり、能力あるエリートにとって、自分の力の成果がすぐに出るのは、『富』の世界に関わることなのだ。
 政治家のイメージも、同様の理由から下がることになる。政治家が高齢者ばかりに見えていることは、出世が遅いということである。政治家となり国家を動かすよりも、新自由主義グローバル化の世界に飛び込んで世界中のエリートと渡り合うほうが、出世したと感じることができる。ここでもまた、政治家よりも経済界のほうが魅力的に映るのであって、関心は国より富に向かっていくのである。
 以上が東大に象徴されるように、エリートの関心の変化だとすれば、格差社会に苦しむ非正規雇用の若者たちはどうなるのか。
 国家と疎遠になった若者たち
 石川啄木のうたに共感した明治末期の若者たちがそうであったように、彼ら虐(しいた)げられた者にとって、国家はまたきわめて遠い存在である。苛立ちを抱えた彼らを襲っている気分は、おそらくは啄木が指摘した『何か面白い事はないか!』という気分であり、この鬱屈が外側に向かえば、自分がヒーローになることへの願望を抱き、テロリズムに走るか、あるいは劇的な死に方をしたいと思うことになるだろう。
 以上のような時代考察をした筆者は、2021年8月、ある講演会の席で、新型コロナ禍による閉塞感も意識しながら、『今後、令和の日本では、自殺率の増加とテロリズムの可能性が高まると思う。また、この鬱屈し閉塞した状況を打破してくれると叫ぶ政治家の登場に、一気に人びとの心がもっていかれるかもしれない』という話をしたのだった。
 そして偶然のことだが、その日の夜に、東京の小田急線車内で無差別殺傷事件が起き、その後に相次いで小規模なテロ事件が起き続けているのだ。
 筆者が憂慮しているのは、国家や政治への関心が、熱狂的なカリスマ的な政治家を拍手喝采するようなかたちになってしまうことである。令和の日本は、新型コロナ禍の長期停滞による鬱屈が重なり、非常に自閉的な状況に陥っている。一部エリートは経済活動で成功をめざし、個人的な『富』の蓄積に躍起になっている。
 一方で、そうした方法を持つたことができない若者は、多くは膝を抱えて都会の片隅にうずくまっている。こうしたいずれの層でも『国』への関心が希薄化した状況で、もし国家に関心が集まる可能性があるとすれば、それはカリスマの登場、つまり一気にこの国はよくなると叫ぶ世界観を提示する政治家の登場である。
 筆者は必ずしも、こうした政治家の登場を歓迎しない。国家への関心は、こうした一過性の過激さに満ちたものであってはならないと思うからだ。
 国家あるいは公への関心は、本来、長い歴史と伝統に思いをいたすことである。一過性でも刺激的営みでもなく、国家の秩序を運営し、次世代に生き継ぐ、静かで、目立たない営みのくり返しに過ぎない。
 いま、若者たちにとって、国家は普段はあまりにも遠く、コロナ禍の非常時ではカネを配ってくれる存在に過ぎない。極東アジアの緊張感が高まるなか、国内に充満する、この『国家不在』をどう乗り越えるのか。
 私たちは若者を叱責(しっせき)しているだけでは済まされない。」
   ・   ・   ・   
 近代日本の転換点は、日露戦争後に起きた怒れる民衆による日比谷焼き打ち事件ではなく、明治後期から若者に支持され愛読された自然主義文学であった。
 危険な刺激に飢え始めた若者達は、まったりしたリベラルな浪漫主義文学に飽き足らなくなり、停滞と格差で息苦しい社会の不条理を鋭く剔るプロレタリア文学に目覚め、そこからマルクス主義共産主義無政府主義へと進みテロ・暴力の革命を起こそうと模索し始めた。
 そこには好戦的な天皇主義、軍国主義民族主義国粋主義帝国主義は存在しなかったし、右翼・右派など関係なかった。
   ・   ・   ・   
 ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略という天皇・民族・国家の危機は、江戸後期・幕末、明治維新戊辰戦争日清戦争日露戦争、ハーグ密告事件・伊藤博文暗殺テロ事件と存在し、日韓併合でようやく解消された。
 軍国日本の朝鮮半島政策とは、古代から日本を戦争に追い込んでいた半島の反日・敵日・侮日勢力を政治・社会・経済の表舞台から追放し、親日・知日勢力に半島の治安と秩序を任せる事であった。
 が、反天皇反民族反日本と反宗教無神論マルクス主義社会主義共産主義というイデオロギーアメリカ・キリスト教会が新たな脅威として日本を襲ってきた。
 明治末期・大正・昭和、平成・令和でも、犯行理由は様々であるが日本人テロリスト、朝鮮人テロリスト、その他のテロリストが日本国内に存在している。
   ・   ・   ・   
 何故、明治新政府キリスト教に対抗する為に天皇を中心とした近代天皇制度国家を作ったのか、それは戦国時代に起きたキリスト教の宗教侵略で、実害は中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易である。
 つまり、それは神国日本と日本民族を護る攘夷であった。
 そして、勤皇派・尊皇派などの天皇主義者や民族主義者は、1851~64年に中国で起きた、2,000万人以上を虐殺したキリスト教太平天国の乱の地獄の惨状を知って恐怖し、日本でも起きるのではないかと警戒心を強めた。
 それが、日本の非人道的犯罪行為とされるキリシタン弾圧の元凶である。
   ・   ・   ・   
テロリストは日本の「何」を見ているのか 無限テロリズムと日本人 (幻冬舎新書)
感情天皇論 (ちくま新書)
太平洋戦争の肉声(4)テロと陰謀の昭和史 (文春e-book)
戦争と日本人 テロリズムの子どもたちへ (角川oneテーマ21)
   ・   ・   ・   
 将来を生きる子供や若者の夢や希望を潰しているのは、未来なき今日を生きる大人や老人・高齢者である。
 大人や老人とは、戦後民主主義教育世代とその薫陶を受けた優秀な次世代、つまり高度経済成長を生き団塊の世代バブル経済を経験した団塊ジュニアである。
 この世代で、マルクス主義者や共産主義者そしてキリスト教徒の多くが反天皇反民族反日本的日本人である。
 ハッキリとわかっている事は、彼らでは日本の未来はないという事である。
 事実、1990年代のバブル経済崩壊してから今日の三流国並みに成り下がった体たらくな日本に追い込んだのは彼らだからである。
 それが、戦後日本の現実である。
 彼ら事を、無責任な「逃げ切り世代」という。
   ・   ・   ・  
 明治後期から大正期にかけて自然主義文学運動が起き、近代の西洋哲学と啓蒙思想キリスト教マルクス主義共産主義が加わり儒教や民族の歴史を攻撃排除した。
 近代の西洋哲学と啓蒙思想が中華儒教を利用して作った国家神道とは、皇室の宮中祭祀でもなく、信仰宗教でも神話宗教や崇拝宗教でもなく無味乾燥であった。
   ・   ・   ・    
 大正のテロリズムは、日露戦争勝利後の不景気によるマルクス主義無政府主義によるイデオロギー・テロであった。
 日本人の共産主義テロリストと無政府主義テロリストによる裕仁皇太子暗殺失敗事件。
   ・   ・   ・   
 昭和前期のテロは、第一次世界大戦後の不景気、世界大恐慌による日蓮宗原理主義者による宗教テロである。
 キリスト教朝鮮人テロリストによる裕仁天皇と皇族暗殺失敗事件。
   ・   ・   ・   
 令和のテロは、バブル経済崩壊後の長引く不景気とコロナ禍での思想信条なき一般市民多殺無差別テロである。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
 戦後民主主義教育を受けた高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは反宗教無神論で民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しため為に、神話物語を源流とする日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いで、その中でもさらに過激な日本人は反天皇反民族反日本である。
 1980年代以降の、大半の政治家、官僚、メディア関係者、経営者・企業家、その他大勢は例外なくそうである。
   ・   ・   ・   
 日露戦争終結により戦争関連産業は斜陽産業となって戦後不況が起こり、わずかな頭脳エリートは富み、多くの肉体労働者は職を失い貧しくなった。
 大正時代は第一次世界大戦後、シベリア出兵の戦災と関東大震災の天災で経済成長と経済不況を繰り返す事で、貧富の格差が広がり社会不満の若者達によるイデオロギーテロリズムの時代に突入していった。
 同じような事が現代でも起き、バブル経済崩壊後の長期不況で貧富の格差が広がり、資産を持つ高齢者は新たな経済成長を拒否したが、対して貧しい若者は将来への絶望から自暴自棄となり無差別テロに走り始めた。
 現代の日本は、少子高齢化で人口激減が始まり、人生100年時代として老人が増え若者が減り、その若者の多くは貧しい。
 1980年代までの日本は高度経済成長からバブル経済で好景気に沸き、人口爆発によって人口が激増し、人生70年時代で若者が多く老人が少なかった。
   ・   ・   ・    
 日露戦争とは、江戸時代後期から侵略してきたロシアの脅威を撃ち払う攘夷であった。
 日本民族とくに愛国心溢れる若者達は、現人神・明治天皇を信じて、夷狄・侵略者を討ち滅ぼして母国と民族を守るべく、一致団結し、自己犠牲的に、死を覚悟して武器を取って戦った戦争であった。
 それは、正しい戦争であり、正義の戦争であり、ある意味聖戦であった。
   ・   ・   ・   
 明治後期・大正・昭和初期のテロには3種類あって、1,右派系日蓮宗原理主義者、2,左派系共産主義勢力・無政府主義者、3,宗教系キリスト教原理主義者(主に朝鮮人)であった。
 テロリストになる日本人は、高学歴者が多かった。
 日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
   ・   ・   ・   
 明治42(1909)年 伊藤博文キリスト教朝鮮人テロリストの安重根に暗殺された。
   ・   ・   ・   
 明治43(1910)年 大逆事件社会主義者無政府主義者らによる明治天皇暗殺計画が発覚し、全国で数百人が検挙され、24名に死刑判決が下り幸徳秋水や宮下太吉ら12名が処刑された。
   ・   ・   ・   
 大正11(1922)年 部落解放運動を全国で行う為に水平社が結成され、差別糾弾闘争がマルクス主義社会主義運動と結合して階級闘争へ変貌していった。
 コミンテルンは、日本で反天皇反民族反日本革命を起こす為に日本支部として日本共産党を創設した。
   ・   ・   ・   
 明治43(1910)年 日韓併合
 日本国籍を取得した貧困層朝鮮人達が、日本に出稼ぎに来て大金を稼いで故郷に帰るという一攫千金の夢を見て、日本への民族大移動を始め、彼らは家賃が安い都会の貧民街に住み着き就いた仕事は低賃金の奴隷的な肉体労働であった。
 貧民街では、朝鮮半島出身の日本国籍取得朝鮮人(二等国民)が急増した。
 二等国民は、国内外で日本国民としての諸権利が保証され、国民の責任と義務である納税と徴用が強要されたが、国民の使命である徴兵は免除されていた。
 つまり、日本軍内には天皇と国に忠誠を誓う朝鮮人部隊は存在しない。
 日本人にとって朝鮮人は、友・友人、親友、戦友ではなく、敵であった。
 朝鮮は中国同様に、反日・敵日・侮日はあっても親日・知日・友日はない。
 それは、現代の韓国や北朝鮮見れば一目瞭然である。
 592年 渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、大臣(おおおみ)の蘇我馬子の軽はずみな戯れ事を真に受け第32代崇峻天皇を暗殺し、馬子の娘を略奪して妻とした。
   ・   ・   ・   
 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
   ・   ・   ・   
 昭和7(1932)年 ソ連コミンテルンは、社会ファシズム論から日本共産党に対し32年テーゼ「日本に於ける情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」を送った。
 「帝国主義戦争の内乱への転嫁を目標とする日本共産党」に、暴力革命勝利の為の「統一戦線戦術」を命じた。
 日本人共産主義者は、人民の正義の為に昭和天皇や皇族を殺すべく活動を本格化させた。
   ・   ・   ・   
 三十二年テーゼ
 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし,きたるべき日本革命は天皇制を打倒し,地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり,社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。日本では河上肇翻訳で同年7月 10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。同種のものには 27年,31年のものがある。これらのテーゼは当時の日本の経済理論,社会主義運動理論に大きな影響を与え,活発な論争を引起した。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・    
 朝鮮半島は、日本の喉元にある国防の最前線で、大陸勢力の日本侵略を防ぐ為には、朝鮮に親日派知日派政権を樹立し、朝鮮を盾にして戦う攻守軍事同盟を結ぶ必要があった。
 対ロシア・対ソ連・対共産主義の防衛ラインは、日露戦争勝利後は日本から遠く朝鮮から満州へと前進し、その代わり中国は防衛ラインの背後に位置をかえ中国の反日・敵日・侮日勢力は不穏な動きをし始めた。
 中国における反日運動の後押しをし始めたのが、アメリカとキリスト教会であった。
   ・   ・   ・   
 明治政府は政治の近代化とは宗教の排除であるとして、近代の西洋哲学と啓蒙思想そして儒教を利用して宗教統制・宗教弾圧を行い、国民の廃仏毀釈を黙認し行政の神社合祀を断行した。
 廃仏毀釈の原因となった神仏分離令は、明治元(1868)年に発せら、仏教寺院が持っていた広大な境内と荘園が没収された。
 国家神道は宗教ではなく、神への信仰ではなく神社での拝礼のみであった。
 神道国教化政策の一環として、明治元(1868)年に神仏分離令を発して「廃仏毀釈」が起きた。
 明治39(1906)年 一町村一社を原則に統廃合を行う「神社合祀令」を出し、3年間で全国各地で4万社もの神社が取り壊され、大正2年頃には19万社から12万社にまで激減した。
 廃止された神社の神域は、国庫に納められるか民間に売却され、神の御所として護られていた自然は乱開発で破壊された。
 儒教は、マルクス主義と同様に反宗教無神論であり、宗教弾圧であった。
   ・   ・   ・   
 遣唐使廃止から江戸時代までの排他的鎖国的日本は世界の情勢とは無関係で天下泰平で幸せに生きてきたが、江戸時代後期のロシアの軍事侵略からは世界の情勢に翻弄され悲惨に見舞われ、好まない戦争を強いられ夥しい犠牲者の屍体を山野に晒した。
 その悲惨の原因は、古代から中国大陸や朝鮮半島にあった。
 石器時代縄文時代ヤポネシア人、石器人・日本土人縄文人の子孫でありそのDNAを受け継ぐ日本民族は、競う・競争や争い・戦う・戦争を嫌い、喜怒哀楽の陽気でお人好しで人懐っこくポジティブ志向に富み敵意や嫉妬などのネガティブ感情が薄い気弱な船乗りであった。
   ・   ・   ・