⛅6:─1─琉球処分。明治天皇は沖縄県民を救った。中国系琉球人の琉球独立論。沖縄県民の海外移住。1879年~No.14No.15No.16 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 1338年 琉球を含めた国内最古の「日本地図」が作成された。
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 琉球王朝は、百姓や職人など庶民を牛馬の如く扱い、重税を課して搾取していた。
 沖縄は台湾同様に宿痾の島として、猛毒を持つハブやムカデの生息地であると同時にマラリア結核アメーバ赤痢などの感染症地帯でもあった。
 衛生観念が低く、医学知識も稚拙で、治療はシャマニズムによる祈?に頼っていた。
 人間らしい暮らしは王府のある首里と有力領主が住む町ぐらいで、後の集落は貧困であった。
 人並みの生活をしていたのは、特権階級である琉球王家と琉球人領主そして中国系琉球人だけであった。
 特に少数派の中国系琉球人の横暴は目に余っていたが、琉球王家や琉球人領主は中華皇帝の介入を恐れて庶民の苦境から目をそらしていた。
 中国系琉球人は、琉球王府に対し中華世界の常識として、安定した琉球統治を続ける秘訣として琉球人庶民に無教養に置く事の重要性を説き、読み書きを禁止し、首里琉球語の使用を禁じ地域言語のみを認めさせた。
 島外から琉球人以外の人の移住がなく、島内でも人の移動が少なく、集落ごとに孤立し閉鎖的排他的共同体を形成していた。
 共同体以外の見ず知らずの若者同士の結婚はなかった為に、限られた血縁・血族間の結びつきで自然と血が濃くなって遺伝子異常による精神疾患が見られていた。
 食事事情・生活健康・精神状態・医療情況などが原因して、琉球人の平均寿命は47歳であった。
 明治天皇は、新たな臣民となった沖縄県民の生活向上を図るべく多額の皇室内帑金(ないどきん)を下賜した。
 こうした情況は、アメリカの沖縄統治で改善された。
 アメリカは、27年間の統治の間に人材と資金(約10億ドル、日本円16兆5,000億円)を投じて、医療福祉を充実させ、伝染病を根絶し、精神疾患の治療に当たった。
 アメリカ統治の遺産として、1975年5月の沖縄本土復帰頃には平均寿命が79歳となり全国最長寿県となった。
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 1879年 琉球処分。 日本政府は、清国が琉球王国を自国領(中国領)に併合若しくは傀儡国家として隷属下に置く事は日本の生存を脅かすと恐れ、琉球王国が自主的決断を出す前に強引に併合する手段を取った。
 琉球王国が、自主的決定権で、一国独立国家を堅持するのか、中国領の道を選ぶのか、日本領に編入する道を選ぶのか、を議論で結論が出るのを悠長に待つゆとりはなかった。
 帝国主義時代の世界的潮流において、どう考えても琉球王国のような小国が軍事力を持たず独自の外交で独立を守る事は不可能であった。
 国際航路の中継地でもないハワイ王国アメリカによって併合され、ハワイ王家は王位を剥奪され消滅した。
 国際航路の一つである東シナ海にある琉球王国を、日本と清国が自主独立を尊重して手を付けなくても、オーストラリア、ニュージランド、カレドニアなのように欧米列強が植民地にするか自国領・自治領とした可能性があった。
 帝国主義時代の外交において、国力(軍事力・経済力)が同等か優位になければ意味がない。
 一国のみで自国を守り切れない琉球王国が、アメリカやフランスなどと対等に修好条約を結んだ所で守られるという保証はなかった。
 琉球王国は、タイ王国のように列強間の力を巧み使った老練な外交を行う能力はなかった。
 もし民族意識と外交能力があれば、易々と日本に併合される事もなかったし、同化の為に創作された『日琉同祖論』に感化され沖縄県民になる事もなかった。
 時代の趨勢、世界の情勢、地域の力の均衡において、琉球併合は避けられない事態であった。
 現代の国際法ではなく、当時の国際法において琉球併合は合法であった。
 「良い悪い」の問題ではなく、それ以外に選択肢がなかったと言うしかない。
 弱小国・琉球王国がいずれかの大国・強国に併呑されて消滅するのが、地政学上の道理であった。
 時代の流れとして日本に併合され消滅した琉球の旧士族階級は、王国の復興を求める「頑固党」と日本のもとで近代化を目指す「開化党」に分裂した。
 何時の時代も、何処の地域でも、庶民にとって自分の生活が脅かされない限り支配者が誰になろうとも気にはしなかった。
 それは、日本でも同様であった。
 御維新で明治新政府の世になった時、庶民は強制的に戦場に立たされて殺されるのが嫌で、祖国を守る為の徴兵制に対して反対し暴動を起こしていた。
 庶民には、愛国心はなく、戦死を覚悟で日本を外国の侵略から守ろうという意思はなかった。
 当時の日本人は、戦争を嫌う現代の日本人に似ていた。
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 頑固党(支那党)は、琉球の独立を守るか、宗主国・清国の属国のまま留まるか、それが駄目なら中国の一部に編入して貰う。
 清国の軍事力を利用して本土・日本人を琉球から追い出す為に、軍隊の派兵を清国に要請した。
 清国は、海とは無縁な遊牧民族満州人であった。
 中国、中華帝国は、古代から大陸国家として海には関心が全くなかった。
 もしこの時、清国に軍隊を海外に出兵する海軍力があれば、弱小国日本は琉球を放棄するしかなかった。
 だが。清国は、援軍要請を拒否し、日本が琉球を併合するのを黙認した。
 頑固党は、琉球を日本から救う清国の援軍を得られなかったが、絶望せず、諦めず、琉球を日本から救う為の活動を続けた。
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 琉球の未来は、琉球人が決めた。
 琉球人は、清国人・中国人ではなく日本人になる事を選んだ。
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 なぜ琉球王国が、日本天皇を象徴する日本国家とは違って李氏朝鮮王朝同様に消滅した。
 日本は、民族国家の自主独立と日本天皇制度を中心とした国體を守った為に、戦えば全滅・玉砕するかもしれないという絶望的な戦いを、無謀無益を承知で、一か八か、死中に活を求める、やってみなければ分からない、破れかぶれ、として、最後の勝利を信じ死を覚悟して民族構成員一丸となって前に出て戦ったからである。
 「守る為に戦争をして死ぬ事に後悔しなけい」という、沈着にして冷静な破れかぶれ精神が日本を存続させた。
 琉球王国李氏朝鮮王国も、無駄な努力・無謀な行動はしないという成熟して一面から日本のような発狂せず、無駄な努力を省いて合理的な行動、「夷を以て夷を制す」の老獪な外交を取った。
 琉球王国李氏朝鮮王朝は、非武装として自力での祖国防衛戦を放棄し、日本の仮想敵国である中華帝国・清国の軍事力を利用するべく援軍要請を行った。
 自国の安全を他国の軍隊で守ろうとする国が滅びる事は、人類史が証明する所である。
 自国の存続を守る為に国民が如何なる犠牲を出しても戦わなければ滅亡・消滅する事は、人類史の大原則である。
 琉球王国李氏朝鮮王国が滅亡した原因は、中華帝国・清国の軍事力で日本を追い出して祖国を守るとした事が最大の原因である。
 もし、琉球王国李氏朝鮮王国が民族上げて日本の侵略から祖国を守る全面戦争を行えば、中華帝国・清国だけではなく、北方領土・北海道・対馬の領土化を狙うロシアが全面支援した。
 アメリカ、イギリス、フランスなどの欧米列強は、ハイエナのように、戦後のおこぼれを狙う為に傍観した。
 時代は、領土拡大・植民地獲得を普遍的正義として、平和ではなく戦争が世界を支配していた。
 国家の興亡は、歴史が証明している通り、予め定められた運命ではなく、冷徹な地政学的通りに過ぎない。
 自国に不運は、その国民に責任であった、他国のせいではない。
 日本は、祖国を守る為に国家と国民が好戦的となり一丸となって戦った。
 琉球王国李氏朝鮮王国は、平和を求めて戦わず他国の軍隊に頼って祖国を守ろうとした。
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 1880年 日本と清国(中国)は、1874年の台湾事件を契機として国境画定交渉を行っていた。
 日本政府は、琉球は日本領とし、台湾に近い先島諸島八重山諸島宮古諸島尖閣諸島)を清国(中国)領にし、先島諸島を割譲する代償として清国は中国国内で欧米列強同様の通商権を日本に認可するとうい「分島・改約」案を提案した。
 清国代表団は日本側提案を受け入れたが、清国本国は批准しなかった為に発効しなかった。
 大国意識が強い中国人は、伝統的儒教価値観から小国日本を野蛮で極貧の劣等国と軽蔑していただけに、小さな先島諸島を手に入れる為に欧米列強と同じ権利を与える事は面子を潰す恥ずべき行為と嫌った。
 「倭」とは、尊称ではなく蔑称の差別用語である。
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 琉球帰属をめぐる日本と清国の外交交渉。
 清国側の主張。
 1,琉球王の即位は中国皇帝よりの冊封による。
 2,清帝即位の時、琉球王により慶賀使を派する。
 3,年号、歴法、文書いずれも清制で、米・仏・欄(オランダ)との条約もその通りとなっている。
 日本側の反論。
 1,西暦700年代より南島の朝貢を受け日本がこれを管治した。
 2,琉球国王は日本の皇胤である。
 3,風土、文学、言語、宗教、人種、風俗、習慣、いずれも日本と同じである。
 4,西暦1441(嘉吉元)年以来薩摩に属し、従っていて日本は数百年来統治権を行使してきた。
 5,中国への冊封、進貢は経済上の欺瞞行為に過ぎない。
 6,琉球を独立国と認めない、古来中国とその隣邦との冊封、進貢は有名無実の虚礼である。
 7,台湾藩社事件の解決において清国は日本の権利の正当性を認めた。
 清国側は、日本側の主張を論破できず引き下がった。
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 1884年 イギリスとドイツは、東部ニューギニアを領有した。
 1885年 ドイツは、マーシャル諸島を植民地とした。
 アジアや太平洋島嶼は、欧米列強の植民地か領土なり、先住民は奴隷にされた。
 日本は、ロシアの侵略と清国の軍事圧力から祖国を守る為に、琉球や朝鮮の意思を無視して軍事国家を目指した。
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 1886年 沖縄県では明治19年に義務教育令が施行されたが、男尊女卑や庶民蔑視の儒教的価値観が根強かった為に就学率が本土並みになる事がなかった。
 明治政府は、琉球保守派の反対を退けて義務教育の徹底を強引に推し進めた。
 上杉茂憲(第二代県令、賊軍の元米沢藩主)「農民は一切文字を読書きできず、自分の名前すら書けない。従って自ら視野を広める事は不可能である。家屋は小丸太を柱にして茅ふきで風雨を防ぐのに苦しみ、冬夏も一枚の粗悪な芭蕉布を着て、食事はイモやソテツだけである。居るに席なく食事の食器もなく、鶏豚牛羊は家の中に雑居して、人と畜類と少しの区別もなく、蚊蛇に刺されっぱなしだ。人々は生きている間、ただひたすら男は畑を耕し、女は布を織るでけである」
 「ああどうしてこの沖縄県民だけこのような不幸を背負うのか、廃藩置県の盛挙こそ千載一遇の好機だ、これまでの汚染を洗浄し明治維新の恩沢(皇沢)を彼らに与え、以て彼らの苦しみを解消すべきだ」(『上杉県令巡回日誌』)
 上杉県令は、諸改革を行うと共に、県内で奴隷としての人身売買が横行しているのを発見し、直ちに禁止した。
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 沖縄の人口は、琉球併合・琉球処分廃藩置県頃では約31万人であったが10年後には40万人に増えていた。
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 1898(明治31)年 明治政府は、沖縄で徴兵制を施行した。
 中国系琉球人など一部の県民は、日本天皇と日本国を守る為の徴兵を忌避して清国へ亡命した。
 清国は、亡命してきた中国系琉球人こそが本当の琉球人であるとして、何時の日か琉球を台湾と同時に奪い返すと誓った。
 大阪朝日新聞は、翌明治32年に「琉球人福州に寄食す」と言う記事を掲載して忘恩の徒である琉球人を避難した。
 中国系琉球人と一部の琉球人は、反天皇反日である。
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 1899年12月30日 沖縄県からハワイへの最初の移民が横浜から出港した。
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 1901(明治34)年8月19日 琉球最後の王・尚泰(しょうたい)侯爵が死去するや、支配階級であった琉球人と中国系琉球人は悲しんだが、搾取され牛馬の如く酷使されていた琉球人庶民は喜び、場所によってはお祭のように祝った。
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 1904(明治37)年5月 沖縄中頭群は大干魃に襲われて農産物は大打撃を受け、沖縄県民とくに農村部の被害は深刻で、農民は食べ物がなく餓死寸前に追い込まれていた。
 日本政府は、日露戦争の真っ最中で、戦費不足に苦しんでいた為に沖縄救済どころではなかった。
 明治天皇は、侍従の北条氏恭を沖縄に派遣し、皇室私有財産から皇后と連名で合計2,500円と食糧を下賜された。
 北条侍従は、沖縄本島の水不足解消として樟(くす、別名・楠)の植林を県に意見した。
 県庁は、直ちに本島中部一帯で植林を実施した。
 日本政府も、沖縄の自立の為に農地の私有制を認め、士族や大地主に農奴として使役され搾取されていた小作人や零細農民を解放させた。
 沖縄県民の国外移民、マニラ111人、ハワイ8人、メキシコ210人。
 1905年 沖縄県民は、皇室の御威徳に感謝しその御恩を後世に残すべく、本島中部北谷間切久得物見原に「植樟(しょくしょう)之碑」を建立した。
 碑文「後世に皇室の御遺徳を顕彰するため」
 沖縄県民は、餓死寸前の所を明治天皇に救われた事に感謝すると共にその御恩に報いるべく、臣民の義務として日露戦争勝利に貢献した。
 石垣島の島民は、バルチック艦隊を派遣するや船を漕いで知らせた。
 沖縄県民の国外移民、ハワイへ1,223人、仏領ニューカレドニアへ432人。
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 明治天皇は、沖縄が台風に襲われる度に救援活動を行い、被害を受けた琉球人達に救いの手を差し伸べていた。
 が。戦後。現代。反天皇反日的日本人や琉球独立派は、明治天皇や皇室が沖縄で行った救援活動や琉球人への救いの手を完全否定している。
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 1922年 ソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連)の成立。
 共産主義者は、日本やアジアを共産主義化する為に工作員を送り込んだ。
 日本は、反宗教無神論共産主義者から日本天皇と祖国日本を守為に軍事力を強化した。
 軍国日本の真の敵は、大虐殺を伴う暴力的共産主義革命を目指すソ連中国共産党日本共産党などの共産主義勢力であった。
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 1925年 大阪毎日新聞経済部長の松岡正男は、沖縄の実情を調査した結果を『赤裸々に視た琉球の現状』に書き記した。
 「沖縄県の農民は、全国平均生活程度の約3分の1にて生活するも労銀は、全国平均額の4分の1に達しない、即ち、全国平均は、男2円13銭、女1円14銭である。沖縄では男51銭、女24銭6厘に過ぎなかった」
 沖縄県には、県を豊かにできる近代的主要産業はなく、昔ながらの農業しかなかった。
 主力農産物は、サトウキビしかなかった。
 水田として利用できる豊かな土地は限られその大半をサトウキビ栽培に使い、残った痩せた土地でサツマイモなどを作っていた。
 よって、沖縄県の主食は米ではなくサツマイモであった。
 日本政府は、台湾振興の為に巨額な国税を投じて製糖業の振興と保護を行っていた為に、沖縄の製糖業は振るわず、沖縄県財政は赤字に近かった。
 沖縄県民は、貧困生活に耐えながら国民の義務として税金を納めても、日本は血税を沖縄の為ではなく競争相手の台湾や朝鮮に投じている事に不満を抱いた。
 沖縄農民は、天候に影響されやすくサトウキビを栽培しても、国の保護を受けた台湾産サトウキビとの競争には勝てず、生活費や納税の為に本土・日本から来た日本人金融業者に土地を抵当にして借金をした。
 1940年頃には、生産可能な沖縄の農地の7割が、本土・日本人に抵当として取られ、貧困農民は多額の借金に縛られ小作人の様に働かされていた。
 本土・日本人の金融業者、商社員、一旗揚げ組達は、本土の人間という優越感から貧しい沖縄人を見下し差別した為に、自尊心の高い沖縄人の反感を買った。
 同じ様な事は朝鮮や台湾でも起きていて、他人を軽蔑して見下す日本人は嫌われていた。
 好かれる日本人は、嫌われる日本人より少なかった。
 貧困農民は、本土・日本人は支配する沖縄での生活に見切りを付けて海外に移住して行った。
 海外に移住した日本人で、沖縄出身者が多いのはもの為である。
 1929年 県民の預金合計は640万円に対し、借入金は1,650万円で、月々払う借金の利息は高額であった。
 農業国で輸出する地場産業がない沖縄には、債務超過を自力返済する経済力がなかった。
 残念ながら、自己努力・自己責任で自力返済できない債務超過の巨額な赤字を抱えた沖縄県を救う手立ては戦争しかなかった。
 沖縄は、本土・日本の犠牲となった。
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 琉球王国は、中華帝国の属国として朝貢貿易を元手として台湾や東南アジアなどと中継交易を行ってい、薩摩を通じて日本とも友好関係を維持していた。
 琉球人は、中華帝国の一部になる事を夢見ていた朝鮮人とは違って中国大陸の実情を見知っていただけに、中華を文化、経済、軍事に優れた大国として敬意を持って礼を尽くしたが、朝鮮人のような卑屈に媚び諂って臣下の礼を取る事なく、自立して独自性を守っていた。
 琉球の弱みは、中国産製品を他地域に転売して利益を得る中継交易はできても、自国製品を海外に大量に輸出して国を豊かにするような競争力ある地場産業が少なかった事である。
 中華帝国が安定している時はいいが、一度動乱となって王朝が衰退し崩壊すれば朝貢貿易は途絶え国は貧しく疲弊し、新たな中華王朝が誕生するまでひたすら耐えて待つしかなかった。
 琉球王朝は、その急場をしのぐ方策として、琉球中華思想を採用して先島諸島など周辺諸島に対して朝貢を強要していた。
 琉球は、朝鮮同様に自給自足の農業国家であったが、朝鮮王朝と違う点は周辺地域に朝貢を行っていた事である。
 琉球王国が、自立国として自活できたのは、中華帝国との朝貢貿易、海外との中継貿易、周辺諸島との朝貢貿易、薩摩・日本との交易といった多様な海外交易である。
 決して、地場産業によるものではなかった。
 琉球が独立国家を維持できたのは、中華帝国が純然たる大陸国家として海外に関心も興味もなく領土拡大の意思がなかったからである。




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