🎵17:─1─清仏戦争。長崎清国海軍水兵騒動事件。日本は被害者、中国は加害者。1884年。~No.35No.36 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 儒教華夷秩序から見れば、中華帝国・中国に対して日本天皇・日本国・日本民族・日本人は下位の文明度の低い野蛮人であった。
 儒教中華思想では、上位者は下位者の搾取と生殺与奪の権利を持っている。
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 古代から、日本にとって中国は敵であって味方ではなく、両国の間には友好も善隣もなかった。
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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。 
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 清国(中国)海軍が明治日本への恫喝として起こした長崎での暴動と殺人事件。
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 国民は、国家の一員として国家の保護を受ける以上は、国家を守る為に武器を取って戦う義務がある。
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 中国はアジア一の強大大国であり、日本は中程度の国家であった。
 日本は、中国を恐れ、中国との戦争を避けるべく外交努力を続けていた。
 中国は、世界規模の軍事力から、日本に勝つ自信があったから戦争を避ける気はなかった。
 日本は、中国に比べて軍事力や経済力など総合的な国力は劣っていたが、死んでも外敵の侵略から祖国を守ろうという愛国心による団結力は中国に勝っていた。
 日本の唯一の武器は、絶体絶命の状況に追い込まれても、諦めず、投げ出さず、逃げず、降伏せず、最後の一人となっても踏みとどまって、知恵を絞って勝ち抜くという精神力であった。
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 ドイツ帝国は、対中貿易を拡大する為に、清国に最新鋭巨大戦艦定遠鎮遠の二艦を建造して売却し、アジア最強海軍の建設に協力した。
 ドイツ軍は、対日戦用に旅順要塞建設を指導してアジア地区最大の要害を築城した。
 清国は、世界的植民地帝国として、民衆から搾取した金で、キリスト教徒の武器商人から大量の武器を購入してアジア一の軍隊を育成した。
 仮想敵国日本よりも、強力な近代的装備を持った陸軍部隊を各地に駐屯させ、巨艦巨砲の戦艦を中心とした大艦隊を日本周辺に配置した。
 アジアの覇権国中国は、アジアの儒教的秩序を守る為に、欧米化を受け入れた新興国日本に対して懲罰戦争を発動した。
 中国人は、本心を隠して口には出さなかったが、日本を属国化するか、領土に編入しようとしていた。
 中国の歴史とは、他国を侵略し、他国を属国化するか、領土として消滅させた歴史である。
 中国軍に占領された民族は、皆殺しに合うか、中国人の奴隷として死ぬまで重労働させられた。
 中国は、面子にこだわり、にこやかに愛想よく相手を死滅させる謀略をめぐらす。
 朝鮮は、日本を滅ぼす為に清国(中国)の征日戦に協力した。
 日本は、経済力や軍事力において清国(中国)に劣っていた。
 絹を売り、武器を購入していた。
 小国日本は、貧困に喘いでいたが、ユダヤ人金融資本から多額の借金をして戦費を賄っていた。
 弱小国家日本が、植民地帝国清国を破り、朝鮮を植民地として、大陸侵略の野心を持っていたというのは、誇大妄想的な狂人の発想である。
 日本の戦略は、アジアに進出してくる世界手軍事大国ロシア帝国に備える事であった。
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 何時の時代でも、中国では人口が多い為に、中国人は自分以外の人の命は鴻毛よりも軽く見ていた。
 白人の欧米列強に対して、奴隷の如く、言われるままに、にこやかに唯唯諾諾と従った。
 同じアジア人である日本に対して、傲岸不遜に中国の「徳」常識を押し付け、中国人に有利な要求を厳命した。
中国の指示・示唆に従わなければ、面子を傷つけられたとして懲罰戦を発動した。
 中国の面子を守る為には、日本人の命など気にはしなかった。
 それが、子供であろうと、女であろうと、気にはしなかった。
 中国人は、日本人を対等な人間とは見ていなかった。
 よって、幾千万人の日本人を惨殺しても歯牙にかけなかった。
 日本と中国は、敵国であり、友好は存在しなかった。
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 イザベラ・バード「横浜に一日でも滞在すれば、小柄で薄着のいつも貧相な日本人とは全く違った種類の東洋人を見ずにはいられない。日本に居住する2,500人の中国人の中で、1,000人以上が横浜にいる」
 「彼は威勢のよい足取りで、すっかり自分に満足している様子をしながら街頭を歩いている。あたかも自分が支配階級に属しているかのようである」
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 中国人は、強大国という意識で、弱小国日本を軽蔑し見下していた。
 日本人は、東洋一の」軍事力を持つ中国を恐れていたし、その後ろにいるロシア帝国の侵略に恐怖していた。。
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 中華帝国の悪弊として権力者同士の反目が激しく、権力者は国益ではなく個人益を優先し、如何にして政敵を貶めるて失脚させるかの陰謀をめぐらしていた。
 清国も同様で、特に太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた漢人高官の権力争いは酷く、国難そっちのけの権力闘争で国力は衰退していった。
 漢人高官は、支配する地域で、私財を貯め、私兵を集め、そして軍閥化した。
 その中で陸軍と海軍をもっていたのは李鴻章と左宗棠で、両者は派閥を形成して事あるごとに対立していた。
 李鴻章は、渤海黄海を根拠地として北洋軍・北洋水師を持ち、朝鮮や満州に勢力を広げていた。
 左宗棠は、上海周辺を拠点に南洋軍・南洋水師を持ち、ベトナムなどインドシナ半島に勢力を拡大していた。
 北京の清国朝廷の統治能力が弱まるや、地方は中央の命令に従わなくなり、地方の辺境は統治なき無法地帯と化した。
 都市と農村の貧富の格差が広がるや、困窮した貧困民や社会からはみ出したならず者は匪賊として各地を襲い殺戮と強奪を繰り広げた。
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 1884(〜85)年 清仏戦争フランス軍は、清国軍を撃退し、清国からてインドシナを植民地として奪った。
 明郷華人約30万人は、フランスの植民地経営に協力し、経済を支配して、ベトナム人(人口約650万人)を搾取して巨万の富を蓄えた。
 独立派ベトナム人は、フランスの植民地支配と明郷華人の経済支配から独立する為に、明治天皇に臣下を誓う事を引き換えに日本の軍事支援を求めた。
 日本は、清国やフランスと戦争は出来ないとして独立支援要請を拒否した。
 義侠心ある日本人有志や右翼は、ベトナム独立の為に、政府の禁止命令を無視してベトナム独立派を支援した。
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 長崎清国海軍水兵事件
 駐日清国公使は、西洋化する小国・日本に関し、大国・清国の敵ではないと報告した。
 「日本は西洋文明の模倣に浮き身をやつして財政は困難を極め、民党は政府に反抗し、国内の結束力は著しく弱い、国力、経済力、兵力などあらゆる面から見て、清国の勝利は始めから疑う余地がない」
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 1886年8月1日 清国海軍・北洋艦隊の主力艦四隻が、艦艇修理の為と称して長崎港に入港した。
 目的は、日本に対する軍事的威圧であった。
 清国(中国)は、大国意識から傲慢で、小国人・日本人を馬鹿にし差別していた。
 13日 清国海軍水兵500名が命令を無視して、勝手に上陸し、市内で暴れ回った。
 商店に押し入って金品を強奪し、止める店主を殴る蹴るの暴行を加えた。
 さらに、市内で暴れ、婦女子を見つけ出すや乱暴狼藉の限りを尽くした。
 清国水兵達は、騒ぎながら丸山遊郭に押しかけ、日本人先客を押しのけて日本人遊女にのし掛かっていた。
 中国人は、日本の法律を守る意志は微塵もなかった。
 長崎県警察部は、警察隊を出動させて清国軍水兵の暴動から日本人住民を守る為に武力鎮圧した。
 市街戦によって、双方あわせて80名以上の死傷者を出した。
 14日 長崎県知事と清国領事の会談で、清国海軍は集団での水兵の上陸を禁止し、上陸を許すときは監督士官を付き添わす事を協定した。
 15日 300名の清国海軍水兵は、日本との約束を守る意思がなかった為に、協定に反して上陸した。
 清国軍水兵達は、日本人を差別し、日本人を馬鹿にし、日本人を軽蔑し、交番を襲って3名の日本人巡査に暴行を加えて1名を殺害した。
 清国海軍水兵達は、興奮して乱暴狼藉を拡大して暴れ回った。
 右翼や右派の日本人市民達は、清国海軍水兵への怒りをあらわにして殴りかかって大乱闘となった。
 暴動を止めに入った警察隊に対して、清国海軍水兵達は逆襲した。
 大乱闘の末に、双方あわせて約100名が死傷した。
 植民地帝国清国は、アジアの盟主としての面子から、弱小国日本に対して謝罪せず、アジア一の海軍力をもって日本政府に圧力を加えた。
 賠償金を払わなければ軍艦を派遣すると、恫喝した。
 日本側は、誠心誠意、事件の真相をありのままに説明した。
 中国側は、事件の真相を無視し、嘘を付き、歪曲し、恫喝し、脅迫し、威嚇した。
 海軍力の脆弱な日本は、清国の高圧的な態度に屈し、警察官は屈辱に耐え清国軍兵士の前では帯刀しない事を約束した。
 日本は、戦争を避ける為に謝罪し、多額の賠償金を払った。
 この事件により、日本は主権を持った独立国としての面目を失った。
 この事件で自信を付けた清国・中国は、面子を守る為に、日本に対してさらなる軍事的圧力をかけた。
 中国人は、他人の名誉や面目よりも自分だけの面子を重要視する。
 自分の面子の為なら、平気で他人の命を虫ケラのように奪った。
 中国人は、祖先の名誉に賭け、自分の面子を守る為に高飛車に相手を罵倒し、時には相手を皆殺しにした。
 中国人は、儒教価値観から、日本人を下等な人間、野蛮な獣として、軽蔑し、馬鹿にし、差別していた。
 事件を知った軍国主義者や国粋主義者の日本人は、清国への敵意を剥き出しにして、犠牲となった日本人の復讐を誓った。
 日本人が意固地となった為に、小国日本と植民地帝国清国・中国との戦争は不可避となった。
 欧米列強の蚕食から祖国を防衛する為にも、近代化し、軍備を強化して、植民地を増やす帝国主義化する事であった。
 そこで浮上してきたのが、日本懲罰論であった。
 清国も、いずれは日本とアジアの主導権を賭けて戦わざるを得ない事で意見が一致していた。
 イギリスなどの国際資本は、勝ち馬に乗る為に、小国日本より大国清国に投資していた。
 李鴻章は、利益で彼等から支援を引き出し、私兵の北洋艦隊と北洋軍を最強の軍隊に育てていた。
 反李鴻章派は、個の利益に為に国益を無視して、如何にして李鴻章を引き摺り降ろすかに全精力を費やしていた。
 日本にとって、朝鮮の自主独立と局外中立は最優先課題であり、台湾と琉球海上輸送路の大動脈であった。朝鮮、台湾、琉球の確保は、国家防衛戦略の要であった。
 日本が清国と戦って、負けると清国の属国となり、勝てば欧米列強が日本の取り分を減らすように干渉してくる事は、当時の政府や軍部は知っていた。
 日本と清国の戦争は、アジアの近代化を日本式国際法秩序にするか中国式儒教秩序にするかで、避けては通れない宿命であった。
 現代日本反戦平和による正しい歴史観は、面子を守ろうとした清国・中国を善とし、国家の面目と国民の安全を守ろうとした小国日本を悪とした。
 左翼・左派のマルクス主義者は、同事件は、大陸への侵略を正当化させる為に日本が仕組んだ謀略であると主張している。
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 石光真清「清国の艦隊が長崎港に寄港した際、掠奪、暴行の限りを尽くしても、ただただ揉み手をして歓待に努め、一日も早く出港する事を願った」
 東山満らは、清国の侵略から祖国日本を護る為に、言論の自由民権運動を放棄し、力による国粋主義運動へと方針転換した。
 此処に悪名高い、急進的右翼団体玄洋社が誕生した。
 そして、日本は、世界的犯罪国家として軍国主義国家への道を踏み出した。
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 清国海軍は、長崎事件で日本側が譲歩したのは弱いからだと判断して、巨大戦艦の定遠鎮遠を瀬戸内海に乗り入れて、軍事的圧力を加えた。
 アジアの大国・中国は、伝統的冊封秩序から、小国・日本を命令に盲目的に従う属国にしようと目論んでいた。
 中国に対して、強い弱いに関係なく、一歩引いて平和的に話し合おうとする事は自殺行為であった。
 力が全て、それが中国である。
 軍事力のない日本側は、巨大な軍事力を見せつける中国側の砲艦外交に屈するしかなかった。
 日本の軍国主義化は、中国の侵略から祖国を守る為に避けられない道であった。
 日本の軍国主義は、小国としての自衛手段であった。
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 清国は、今なら日本を侵略できると判断した。
 沈葆禎(南洋通商大臣)「中国はロシアに対抗する為にも、日本を先に侵略しようではないか」
 清国軍は、日本侵略に備えた情報収集の為に王之春を日本に潜入させ、日本侵攻の先兵とするべく日本在住の華僑2,000人以上を組織化するべく工作を行った。
 中国は、水面下で日本侵略の下準備を始めていたが、大国という意識から日本を甘く見ていた為にのんびりと進めていた。 
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 2021年11月11日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 日清戦争前夜
 江戸期、李氏朝鮮は上も下もあさましかった。
 徳川新将軍が就任すると、お祝いと称して400人の一団がやってきて1年間、日本で遊び回った。朝鮮通信使という名のたかり集団だった。幕府の出費は100万両を超えた。
 支那はこのころ、まともな満州人の清王朝漢民族こと支那人を支配していたこら、日本へのたかり行脚などはあり得なかった。
 因みに習近平は『栄光ある漢民族文化の復興』を唱えるが、それは間違いだ。
 漢人は4000年の歴史の大方を外来民族の奴隷として過ごしてきた。
 絢爛の文化を生んだ清朝も彼らを家奴(かど)と呼び、満州人の血が汚れないよう漢人との結婚を禁じた。
 『栄光』も『文化』  もみな外来民族のものだった。
 漢人は自分の国にいながら奴隷にされ続けた。『大義を知らず』(辻政信)、嘘つきで、投げやりで、残忍な国民性はそんな環境から生まれたと言われる。
 実際、阿片騒ぎもそうだ。清朝は阿片を禁じたが、漢人は広東沖の零丁島で英側と取引し、阿片禍を広げた。
 阿片戦争では漢人は英側に付いた。習近平は国辱と言うが、漢人が自ら招いた禍に見える。
 清朝はこの敗戦を機に軍の近代化を図り、当時、最大級の戦艦『定遠』を旗艦とする北洋艦隊を備えた。
 艦隊の初任務は朝鮮に介入する日本を脅し上げることだった。
 明治19年、『定遠』など4隻が長崎港に無断で入港した。その威容は3,000トン級巡洋艦しか持たない日本を十分に青ざめさせた。
 漢人艦長は頭(ず)に乗る。日本側の許可も取らずに水兵500人を上陸させた。
 彼らは長崎の街に繰り出して狼藉を働き、一部は丸山町の遊廓にも押しかけたが、日本の色街は外国人の登楼を認めない伝統を持ち、それは今の風俗にも続く。
 彼らは怒って暴れ、警官と衝突する。日を改めて300人もの新手が交番を襲い、警官2人を殺した。
 日本人が初めて見た支那人の集団は凶悪な無頼の徒だった。彼らの膺懲(ようちょう)に市民も加わり、結果、支那側は士官を含む4人が死亡し、50人が重傷。市民も十数人が負傷した。
 一方的に支那が悪いのに日清の和解交渉では日本が支那の払い額の4倍の慰謝料支払いを呑まされた。
 『いやならこの戦艦相手に戦争するあのか』の脅しに日本が屈した形だ。
 支那の艦隊はその5年後、今度は東京湾に『定遠』以下6隻を連ねて押しかけて威嚇した。まるでペリー気取りだった。
 彼らの無礼は続く。無断で瀬戸内海に入り込み、軍事機密の呉の軍港を観察して帰っていった。
 それから3年後。日本艦隊は豊島沖と黄海で2度会戦して勝った。
 そこでも漢人らしさが目立った。巡洋艦『済遠』の艦長、方伯謙は豊島沖の戦いで艦を停めて白旗を掲げた。国際ルールに則る降伏の形だが、日本艦が近づくと魚雷を放って遁走した。
 彼は黄海海戦でも前代未聞の敵前逃亡をやった。
 漢人政権ならそれもありだが、このときは恥を知る満州人、西太后が方伯謙を斬首に処した。
 彼女は日清戦争の敗因を分析し、支那の形だった科挙の制をやめ、海外留学を新たな登竜門にした。奴隷根性の漢人の心はそれで変えようとした。
 しかし漢人がまともになる前に辛亥革命が起きて漢人政権が生まれた。
 袁世凱から蒋介石、そして毛沢東中共へと漢人治世は続く。
 そして大躍進で3,000万人が、文革でまた2,000万人が殺された。民を虐げる。それが習近平の言う漢民族の文化なのだ。
 被害は周辺に及んでチベットウイグルもやられて、今は日本が狙われる。
 軍艦を並べて脅し、国際ルールを破って尖閣も西沙も手に入れようとする。
 それは北洋艦隊と方伯謙の佇(たたず)まいとそっくりだ。
 あのとき日本人は『上下心を一つにして』建艦費を拠出して備えを成した。
 今、GDP2%以上の国防費を出そうという。いいことじゃないか。」
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 戦争を嫌う現代の日本人と戦争も厭わない昔の日本人とでは、別人のような日本人である。
 現代の日本人は、武士・サムライではないし、百姓でもない。
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 高学歴の現代日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がない為に、現実に起きていた本当の歴史が理解できない。
 つまり、子供達に教えられている歴史教育は、マルクス主義史観・キリスト教史観・儒教史観による反天皇反民族反日本で悪意に満ち満ちたウソである。
 現代日本には、中国共産党に忖度し、中国の利益の為に日本の国益を減らして喜ぶ親中国派・媚中派の日本人が存在する。
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 明治日本の戦争とは、日本を攻撃・侵略する意志のもとでのロシア・清国(中国)・朝鮮による対日攻守の密約連合に対する、日本1カ国による孤独な積極的自衛戦争であった。
 故に、日清戦争日露戦争日韓併合は日本の祖国防衛という正当な権利の行使であって、国際法違反、国際法無視の戦争犯罪ではなかった。
 特に、戦争を引き起こす最悪な元凶は日本・ロシア・中国3カ国の真ん中に存在した反日派朝鮮であった。
 日本に味方して援軍を出してくれる国は、1カ国もなかった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、戦国時代から徳川幕府鎖国断行に日本人奴隷交易で金儲けしていた。
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 日本の近代化とは、前近代的封建制度の元での地方分権幕藩体制国家を天皇制度の元で中央集権の軍国主義体制国家に大改造する事であった。
 飛距離の短く命中度の低い火縄銃から飛距離が長く命中度が高いライフルへ。非武装木造帆船から巨艦巨砲の鋼鉄戦艦へ。鉄の玉を打ち出す短距離大砲から殺傷力・破壊力のある砲弾を撃つ長距離大砲へ。
 何故、日本国を、戊辰戦争で日本人同士が殺し合ってまで近代的天皇制度・中央集権・軍国主義体制に造り変えたかいえば、それは、江戸時代末期のロシアの軍事侵略と戦国時代のキリスト教の宗教侵略から現人神・天皇、神国日本、祖先神の氏子・日本民族を軍事力で守る為であった。
 当時の日本人は、平和的な話し合いでは日本を守れない事を、アヘン戦争以上にムガル帝国ビルマ王国の滅亡で知っていた。
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 日本の大陸政策における最大の失敗は、満州族清王朝を滅亡させ、漢族を異民族の奴隷から解放する孫文らの辛亥革命を支援した事である。
 国民党(ファシスト中国)の辛亥革命から中国共産党共産主義革命まで、そして現代日本においても、中国と付き合って日本にためになった事は何もない。
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 徳川幕府の国防は、朝鮮と清国(中国)と三国で同盟を組んでロシアの侵略から日本・アジアを守る戦略であった。
 清国の国家戦略は、ロシアの侵略を日本同盟して阻止する事ではなく、アヘン戦争清仏戦争など相次ぐ敗北で地に落ちた威信・栄光・覇権を取り戻す為に日本に対して軍事圧力を加える事であった。
 朝鮮は、統一新羅以来の中華帝国の属国・保護国という立場から中華皇帝の命令に忠実に従って行動していた。
 明治新政府は、将来起きるだろうロシアに対する祖国防衛戦争の為に、日本への敵対的軍事行動を続ける清国(中国)と中国に同調して敵日行動を止めない朝鮮を処理する事が急務であった。
 日本が生き残るには、中国と朝鮮を親日化する必要があった。
 世界の軍事常識は、新興国の日本が急いで軍国主義政策を採用して作った弱小軍隊で祖国防衛の戦争をしても、世界の軍事大国であるロシアや清国(中国)には勝てない、と分析していた。
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