⛅3:─1─島津の琉球侵攻。琉球王国と中華との冊封体制。イギリスの琉球及日本侵略意図。~No.5No.6No.7 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 琉球は、縄文時代から日本語を話し日本文化を共有する日本民族の一員であり、中国語を話す黄河文明を持った漢族ではなかった。
 琉球人は、漢族や朝鮮民族の北方系草原の民ではなく、日本民族や台湾人と同じ南方系海洋民であった。
 日本文化の原型は、琉球にあった。
 日本民族日本人にとって、琉球は原始の故郷の一つである。
 日本民族日本人が、琉球人を差別して軽蔑する事は、自分の祖先を侮辱する事である。
 琉球人は、日本国内の先住民族ではなく、日本民族日本人の原初の祖先である。
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 2018年6月24日 読売新聞「現在の琉球列島は約1200万年前まで、ユーラシア大陸の東岸部だった。約1200万年前〜約200万年前の地殻変動で大陸から徐々に離れていった。その後、氷期の海面低下と、温暖な間氷期の海面上昇に伴って、島同士がくっついたり離れたりを繰り返し、現在の姿になったと考えられている。
 屋久島や種子島などの『北琉球』は、九州とつながっていた期間が長く、九州と共通する生物が多い。一方、奄美大島や沖縄島などの『中琉球』と宮古島西表島などの『南琉球』は、沖縄トラフという深い海で分断された。生物は独自に進化し、そこにしか生息しない固有種が多く誕生した」
   ・   ・   ・    尚真王は、各地に居住する琉球士族が謀反や叛乱、内戦を起こさない様にする為に武器を取り上げた。
 武器を取り上げられた士族達は、鍛錬をする為に中国から伝来した武芸から空手を編み出した。
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 1466年 琉球王尚徳は、2,000人の軍勢を率いて奄美黄島や喜界島を侵略して奄美5島を支配した。
 琉球人は、好戦的な人間であった。
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 1590年 豊臣秀吉は、薩摩・島津氏を通じて琉球王国に対して朝鮮出兵を促した。
 日本の認識では、琉球は日本の一部と考えられていた。
 中国の認識では、琉球は中国の一部ではなく、中華秩序における朝鮮やチベット同様の忠誠を誓う従属国と見下していた。
 島津氏は、平和になれた琉球兵の戦闘力は低く役に立たないと判断し、琉球王府に対して兵を送り代わりに「7,000人分、10ヶ月の兵糧を送り、名古屋城築城にむけては金銀米穀で助力されたい」と伝えた。
 琉球王府は、日本が朝鮮を侵略する準備を進めていると明国に急報した。
 明国皇帝は、琉球国王の忠勤ぶりを褒め、朝鮮を侵略してくる倭族(日本人)を撃破する軍を編成する様に命じた。
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 1606年 明国皇帝は、琉球王尚寧に対し恩賞として冊封を授け、華夷序列を引き上げ朝鮮王国や日本国より高位に引き上げた。
 明国は、日本の再侵略を警戒して、琉球に対して日本の情報を送る様に命じた。
 琉球王国は、中華皇帝から日本国より上位国である事を正式に認められ、日本軍が明国軍によって撃破されたとの知らせを得て、日本は恐るるに足らぬと侮り慢心した。
 琉球には、昔からの琉球人と権謀術数に長けた出世意欲の強い中国渡来人子孫と南蛮・台湾・東南アジアとの交易の為に居住する日本人の三者が同居していた。
 同化性のある日本人は、琉球人と結婚し、琉球人と一緒に住んで農耕漁業を共に行った。
 同化しない中国人は、儒教価値観による特権意識が強く、琉球人を教養なき野蛮人・東夷と嫌悪し、一緒に住む事を拒絶して閉鎖的排他的なチャイナタウンを作り固まって生活していた。
 昔から住んでいる琉球人にとって、日本人とは同族意識が強く雑居し自由恋愛で結婚していたが、中国人とは馴染めず琉球人を見下す傲慢さには辟易としていた。
 中国人渡来人の子孫と親中派琉球人は、莫大な利益をもたらす中国利権を守るべく、中華皇帝への忠誠の証として琉球王府から親日派勢力を一掃した。
 琉球王府は、薩摩藩が立て替えた7,000人分の兵糧の半分を返済したが、残りは国交を断絶して踏み倒し、琉球に上陸した薩摩藩の使者を侮辱して追い返した。
 薩摩藩は、体面を潰す様な琉球王府の不義理に激怒したが、日本から遠く離れた地にあって情勢に暗いので仕方がないとして、事を荒立てる事なく情勢が理解できる間で様子を見る事とした。
 琉球の対応が中華皇帝の威を借りた子供であるなら、薩摩は冷静に大人の対応を取った。
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 幕府は、難破して奥州に漂着した琉球船の船員を薩摩を通じて琉球に送還した。
 琉球王府は、琉球人船員を助け保護し送還してくれた事に対して返礼をしず、完全無視した。
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 1609年 薩摩藩は、度重なる琉球王府の非礼に激怒して、琉球懲罰の為に約3,000人の兵士をもって琉球を侵略した。
 昔ら住んでいた琉球の士族や庶民は、薩摩軍の侵攻は中国人渡来人と親中派琉球人との私闘として傍観し中立を保ったが、内心は薩摩軍よりであった。
 中国人渡来人と親中派琉球人は、明国に救援を要請した。
 明国は、満州族の侵略で低一杯で余裕はなかったし、海禁政策を続け大型軍船を持っていなかった為に援軍を送る事ができなかった。
 さらに、明国軍は朝鮮の役で島津軍と戦い多くの犠牲者を出した経験から、薩摩軍の戦上手と薩摩武士の勇猛さに恐怖し「鬼石曼子(グイーシーマンズ、鬼島津)」と恐れていた。
 明国は、陸続きの朝鮮やベトナムとは違い、海の外にある琉球や台湾は「化外の地」と切り捨て軍を派遣してまで救う意思はなかった。
 琉球の中国人渡来人は、頼みとした中国から見捨てられ、戦意を喪った。
 薩摩軍は、抵抗らしい抵抗を受ける事なく王都・首里城を占領した。
 薩摩藩は、琉球に於ける中国人渡来人勢力の力を弱めるべく、最後まで敵対した中国人渡来人子孫で親中派の指導者である三司官(総理)の謝名利山(中国名、鄭迥・ていどう)を薩摩に連行して処刑した。
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 もし、永楽帝のような皇帝と宦官・鄭和のような大総督、そして大型軍船の大艦隊があったら、中国人渡来人子孫救援目的で大軍を派遣して島津軍は撃退し、琉球を中国領とした。
 歴史的事実として、中国領にならなかった事は、結果的に琉球にとって幸運であった。
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 薩摩藩島津家久は、尚寧王以下高官百余名を江戸の将軍・徳川秀忠駿府の大御所・徳川家康に謁見させ、3年ほど日本に抑留した。
 その間に、琉球王府中枢から中国派を一掃して親日派琉球人と中間派琉球人に代え、中国人渡来人子孫と親中国派琉球人は中国との関係事務を執り行う官吏に追いやった。
 江戸幕府は、島津氏を琉球太守に任じた。
 薩摩藩は、琉球保護国として那覇に在番所を開設し、奄美5島を不払いの兵糧の担保として割譲させて薩摩領とした。
 琉球王国は、名目上は中華皇帝から冊封として琉球王の位を授けられたが、実質的には薩摩在番奉行の監督下に置かれた。 
 しかし、薩摩は、中華皇帝の面子に配慮して、琉球王府は独立国との建前を維持して内政干渉方針を通した。
 琉球王府は、日本・島津と中華帝国との二股外交を行ったが、目の前にいる薩摩を重視し、心象をよくする為に薩摩藩士と琉球人女性との間に生まれた子供を士族に引き上げた。
 琉球王家や士族達は、薩摩の不利益な行動を取らない事を条件として、地位、格式、特権、生活が保障された。
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 琉球王国には、独自の中華思想が存在し、宮古諸島先島諸島八重山諸島など周辺諸島に対して朝貢を強いるとともに人頭税などの重税を課していた。
 周辺諸島は、人頭税は明治36年に明治天皇の命令で廃止された。
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 東アジアで中華思想による朝貢を実施していないのは朝鮮だけで、中国も日本も琉球朝貢を行っていた。 
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 17世紀後半 江戸幕府は、オランダに交付した申し渡し状「御条目」第五条「琉球は日本に属するので、オランダは海賊行為をしてはならない」と記した。
 オランダは、日本側の申し文を正式な外交文書として受け入れた。
 琉球及び先島諸島及び尖閣諸島などは、日本を管轄下にあると認めた。
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 1844年 薩摩藩は、アヘン戦争の余波としてイギリス軍が琉球を奪いに来る事を警戒して、琉球防衛の為に約200人の守備隊を派遣した。
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 1864年 イギリス人宣教師で医師のベッテルハイム博士は、琉球に上陸し、8年間那覇に居住した。
 イギリスは、琉球を侵略して植民地にしようとしたが、そこに日本の侍がいたので様子を見る事にした。
 だが、イギリスの最終目的は、東の最果て地の支配、つまり日本を侵略して植民地にする事であった。
 幕末期の日本人は、侵略され植民地となり奴隷にされるという危機感を抱き、日本を武力で守るべく皇室を押し当てて民族主義へと暴走した。
 日本民族日本人とは、死を覚悟して戦争を行う民族であった。
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 1854年7月 イギリス人ベッテルハイム博士は、アメリカ海軍軍艦に乗船して琉球を離れ、アメリカ国民となった。
 ペリー提督は、ベッテルハイム博士から琉球の話を聞いて琉球リポートをまとめた。
 ベッテルハイム博士「琉球国はある程度は独立しているが、支那皇帝に対する朝貢と引き替えに王という称号を許されているだけであり、結局のところ日本の一部である」
 琉球レポート「200〜300年前の明朝時代、日本と中国の間に戦争が起きた。このとき中国は琉球を日本に叛かせようと琉球を独立王国に昇格させたという歴史上の伝説である」
 琉球は、日本・薩摩とは頻繁に交易しているが、中国とは毎年1隻の交易船と1年おきの朝貢船のみであった。
 琉球人の宗教、習慣、言語は、清国(中国)と全く異なるが、日本とは似通った点が多い。
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 2017年3月号 正論「翁長知事が中国首相にした媚中発言  阿部南牛
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 李克強首相の説く歴史認識
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 冊封体制を理解しない翁長知事の姿勢
 翁長雄志知事は、李克強首相と会えたことに感激の『言葉』を口にして『沖縄はかつて琉球王国として中国をはじめ広くアジア諸国との交流の中で栄えてきた歴史がある。中国とは冊封制度をしてきた』と、冊封体制に言及した。
 ここで翁長雄志知事は、沖縄の歴史を正しく認識できていないことを露呈した。それは、琉球王国明王朝が何故に冊封体制を求めたのか、という史実である。
 黒色火薬は漢族の3大発明の一つに挙げられている。その黒色火薬の製造原料は、木炭、硝石、硫黄であった。混合比率は木炭10〜20%、硝石が60〜70%であり、硫黄の比率はおおよそ木炭と同じであった。漢族居住地域で黒色火薬が発明されたのは硝石を豊富に産出したからだ。しかし硫黄の産出は少なく、明は琉球王国の版図内から供給を受ける必要があった。
 豊臣秀吉の朝鮮への軍事進出(文禄・慶長の役)に対して、宗主国の明は軍事支援を行うが、その時の主要武器は大砲であった。秀吉軍の武器は火縄銃であり、火薬の使用量が異なった。秀吉軍の朝鮮半島支配が成就しなかったのは、明に対する火薬の使用量で劣ったからでもある。
 その明王朝の火薬製造が九州南端の火山島に依拠していることに気付いた薩摩の島津家久徳川家康の許可を得て、薩摩武士団を沖縄へ派遣する。その際に奄美5島を割譲させ、与論島以北を琉球王朝から引き離して島津氏の直接支配地域とした。硫黄の産地を琉球王朝から引き離したのであった。
 秀吉の野望を阻止できたのは琉球王朝から貢納される硫黄に負うところが大きかった明だが、その火薬の原料・硫黄の供給地である火山島が島津氏に領有されると、明の軍事力は低下していき、ついには明王朝は滅亡、漢族を支配下に置いた清王朝が成立する。
 硫黄を産出しない琉球など清はお呼びでなかったが、島津藩の命令で琉球は清の冊封体制に入る。唐物(絹・漢方薬材など)を島津藩が欲したのである。今度は島津藩が清を必要とする物産を仕立て、琉球経由で輸出入を行った。これがいわゆる『進貢貿易』であった。清の要望する物産は琉球に産出しなかったので、島津藩の指示下で琉球は貿易した。その結果、琉球に対する島津藩の影響するところが大きく響き、実質的に琉球は清の冊封体制から外れて日本化していく。それは幕末に琉球を訪れた外国人には、日本の一部だと認識されるに十分だった。本誌昨年11月号の惠隆之介氏『ペリ−文書発掘スクープ!』論文に示されている。
 実質的に冊封体制から外されたのは、琉球に清の欲する物がなかったからだ。だから、同じく『冊封体制』に入ったからといっても、明と清では大きく内容が異なる。明は琉球王朝冊封を求めたが、清の場合は島津藩の指示に従って入ったのであった。
 そこで次の翁長雄志知事の発言が気掛かりとなる。
 『福建から500名、600名が琉球に渡ってきて帰化し、たくさんの技術と文化を伝えた。福州市内には志半ばで亡くなった琉球人の墓がある。それを地元の人々が今日までずっと管理している。当時、琉球人が宿舎に使用していた建物も残っている』
 何で李克強首相の前で、日本人と言わずに琉球人と表現したのだろう。その発言からも翁長雄志知事の日本の近代を受け入れない認識がうかがえる。さらに、『科挙制度のために全国各地から集まって来た人のために〝国子監〟が北京にはある。琉球人の祖先もオブザーバーとして学んだ。彼らは帰国後、大臣になったり、大きな力を発揮して頑張った』と述べているが、それは何時の時代なのか?
 少なくとも清ではない。明の時代に琉球からの留学生を受け入れ厚遇したのは硫黄の産出地であったからだ。
 なにしろ翁長雄志知事は徳川幕藩体制下の『琉球』意識は全くなく、琉球は『小さな国であったが、アジアとの交流を通じて栄え、独自の文化を作り上げた。今日、アジア経済の著しい成長が沖縄を覆うようになった』と述べて『今では日本の辺境、アジアのはずれといわれていた沖縄が大きな活力を持つようになった』と、中共政権下の経済発展が沖縄を日本の辺境からアジアの中心にしているとする認識を披露する。
 沖縄独自の文化が薩摩・島津氏の影響の下で育まれた史実を消去している。明の時代には硫黄を運び、清の時代には銀を運ぶ『進貢貿易』としての大陸との交易であったが、その清の時代に運んだ銀の大半は薩摩・島津氏から下賜されたものだった」
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 伊波普猷(ふゆう)「島津氏に征服されてから4、50年後の沖縄の弱り方は非常なものであって、士族は自暴自棄になって酒食に耽り、農民は疲弊して、租税は納まらず、王府の財産は窮乏を告げ、社会の秩序は甚(はなは)だしく乱れて、当時の政治家には、この難局をどう切り抜けていいかわからなかったおうである。
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 当時の沖縄人は、日本人であるのか、それとも支那人であるのか、自分でもよくわからなくなっていたのである。このいうように、彼等を曖昧な人民にして置くことが、その密貿易のためには、都合がよかったのである」(『沖縄歴史物語』)
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 2017年2月17日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編 第二話 大日本帝国の構築 Ⅰ
 琉球処分と初期日本外交 その3
 『琉球王国』カードを有効に使った薩摩藩の経済的センス
 『寛政異学の禁』つまり朱子学以外の学問は認めないというとんでもない法令を、田沼時代の後に出すことになる松平定信は、だからこそ意次を失脚させた。本人は幕府のためにやったつもりだろうが、じつは幕府はこれによって財政を立て直す大チャンスを失ったわけである。
 そして幕府は最後の大チャンス『ペリーの黒船』も朱子学の『商業(貿易)は悪』という信条が邪魔をして、せっかく有利な条件でアメリカと独占貿易ができるところを当初は拒否し散々引き延ばしをしたため、頭にきたアメリカがイギリスと手を組み不利な条件で条約を押し付けられる結果になってしまった。朱子学が自縄自縛(じじょうじばく)となり幕府を滅ぼしたのである。
 琉球問題でも、最初はほかならぬ徳川家康が明と朝貢『貿易』を行うために、薩摩藩島津家をして琉球王国を征服させ、征服したのちも王国としての体裁はそのまま維持させた。そうしなければ朝貢の意図を見抜いた明は、朝貢再開を求める琉球王国の使者に対し『お前のところもなかなか大変のようだ。それゆえこれまで2年に1回だった朝貢を、10年に1回に減らしてやる』といういかにも恩着せがましい回答をした。実際には明は琉球王国の上流階級と太いパイプがあり、琉球が独立を失ったことを知っていた。だが使者を『お前の国は日本国のダミーではないか』と追い返したりはしない。朝貢国が多いことはその時点での明国皇帝の徳の大きさを示す指標でもある。だから朝貢国の数は減らしたくない。だが朝貢自体は減らしたい。朝貢国が持ってきたものの何倍ものお返しをするというのがルールであり、経済的には明の一方的な損にもなるからだ。もっとも損得勘定というのは、これまた卑しい商人の行為であり、まねしてはいけない。『琉球よ。お前のところもなかなか大変であっただろうから数を減らしてやる』という言い方なら明のプライドを保ったうえに、経済的にも損失を防ぐことができる。だから明はそういう対応をしたのである。
 家康は大いに失望した。島津家が琉球王国征服に成功したのは家康67歳の1609年(慶長14)。家康は1616年(元和2)に74歳で死んだから、この頃は最晩年である。当時の67歳は今の80歳、90歳に匹敵する。しかも豊臣家はまだ滅んでいない。家康が豊臣家覆滅に成功するのは1615年(慶長20)つまり死の1年前である。豊臣家覆滅に晩年の全精力を注いでいた家康には、1609年の時点であと10年後に実現する『朝貢』などはもうどうでもよかっただろう。しかもその子孫たち、つまり徳川将軍家は家康の遺志を継いで朱子学を奨励したために、ますますこの『琉球貿易利権』に対する関心を失っていった。
 ここで鋭い読者の中には、その後も徳川家がなぜオランダとの貿易は続けたのか疑問に思うかもしれない。それは『孝』である。親や祖先が決めたことをみだりに変えてはいけないというルールが朱子学にはある。オランダとの貿易も商売だから『人間の屑(くず)の所業』であり、幕府は一刻も早くやめたかっただろうが、東照神君家康公の始めたことである。子孫が勝手に廃止してはならないと思ったのだ。しかし貿易が賤業であることは紛れもないこら、それに精を出したりしてはいけない。
 ここで常識で考えていただきたい。幕府は200年以上オランダとの貿易を独占してきたのである。今も昔も独占貿易というのは極めて儲かるものだ。それが経済の常識である。しかし、これまで江戸時代に徳川幕府がオランダとの貿易で儲けて財政を健全化させたという話は聞いたことが無いだろう。不思議だとは思わないか。つまり幕府はこれで儲けようという気がまったく無く(それをすれば『商人』になってしまう)、実務を長崎商人に丸投げしていたのだろう。だから長崎商人には大金持ちがいたが、その貿易収入は幕府には流れなかった。
 もったいない?そのとおりである。だから老中田沼意次は貿易を再開して幕府の財政を立て直そうとした。平賀源内を可愛がったのも源内が国内の物産に極めて詳しく、町民文化の産物である浮世絵などにも造詣が深かったからだろう。浮世絵や陶磁器は外貨を稼げる輸出商品になる。ところが商売で儲けるということも、そうした『卑しい町人』が作った『文化的な価値の無いもの』を幕府が扱うことも、ガチガチの朱子学信者松平定信にとっては『極悪人の所業』であった。
 だから田沼意次を権力の座から追放した定信は意次を徹底的に否定し、取り巻きの連中に『田沼は極悪人、賄賂の帝王』と散々宣伝させた。後世に対する。いわゆる情報操作である。情け無いのは、日本の歴史学界は未だにこの情報操作に乗せられていることだ。その証拠に今の教科書でも定信の政治は『寛政の改革』と呼ばれるのに、田沼の政治は『田沼政治』とされているだけ。幕府を財政的に立て直すために農業一辺倒の『朱子学社会』を、信長、秀吉、家康以来の重商主義に戻すことが必要だったのだが、朱子学が普及して以来そういう考が『悪』とされたことに気がつかないと、日本の歴史などわかりようもないのである。
 一方、これとはまったく逆の道を行ったのが薩摩藩島津家であった。薩摩国(鹿児島県)はそもそも火山灰台地で稲作を中心とした農業には適しておらず、逆に南シナ海に面しているなど貿易の拠点としては有利な条件を備えていたため、昔から交易が盛んであった。そして徳川家康が晩年の衰えもあって『琉球貿易利権』を手放し、子孫である徳川将軍家朱子学の影響によって『利権を返せ』と言わなくなったことは、薩摩藩にとっては大きな利益につながった。『琉球王国』という海外貿易が可能なカードを幕府以外では薩摩藩だけが持っていたということだ。しかも既に述べたように幕府はせっかく持っていた『オランダ』というカードをまったく有効活用しなかったのに対し、薩摩藩はこれを大いに活用した。いや、活用せざる得なかった。
 幕府は中央政府である。将軍家は全国に広大な領土を持っている(家来の分と合わせて800万石といわれる)、直轄の金山銀山もあり、通貨発行権も持っている。だから最後の最後まで『朱子学的やせ我慢』をして、貿易に財政再建の活路を見出すことはなかった。しかし薩摩藩はそういうものを持っていたので、財政が窮乏すると『琉球王国』カードを有効に使った。使わざるを得なかった。そのことは結局、薩摩藩は経済的センスを持ち続けたということであり、来たるべき開国時代、明治維新への絶妙なトレーニングとなったのである。
 もちろん幕府にも経済的センスを持つ武士はいた。勝海舟はその代表であろう。勝は弟子の坂本龍馬に『イギリスを見習え』と言った。ヨーロッパの島国に過ぎないイギリスはなぜ世界帝国になったのか。それは貿易船を世界に派遣し大いに富を増やし海軍を充実したからだ。なるほどと合点した龍馬は日本最初の貿易商社『亀山社中』を作り海援隊を作った。明治維新を成し遂げた勢力も結局この方針を採用した。しかし、正論を述べた勝海舟は同じ幕府の保守派に命を狙われた。なぜか?朱子学バカがいたからである。松平定信田沼意次を『極悪人』と考えたように、朱子学の信奉者によって勝海舟は『こともあろうに幕府に商売をさせようとしている極悪人』にしか見えないというわけだ。
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 琉球はあくまでも『貿易の道具』
 さて、この時点で当時はこの世にはいない田沼意次松平定信が、島津斉彬の態度をどのように評価するか考えていただきたい。
 田沼意次ならこう言うだろう。『お見事。それこそ拙者が望んでいたものでござる。薩摩がうらやましい。ぜひとも、見習いたいものでござる』。これに対する松平定信は『いやしくも大大名である御方が、卑しき商人のまねごとでござるか』と軽蔑を露(あら)わに陰で唾を吐いたかもしれない。しかし、島津斉彬田沼意次の夢を実現したからこそ、薩摩藩は幕末の主役に躍り出ることができたのだ。
 問題は江戸時代朱子学を熱心に学んだのは徳川幕府だけではなく、地方の大名もそれに倣(なら)ったということだ。家康は商業潰しのために朱子学を採用したのではない。それは家康にとっても想定外のことで、家康の目的は主君に対する忠誠を第一とする朱子学を普及させることで、徳川の天下を盤石とするにあった。もっともこの目的も想定外の事態で果たせなかったことは既に述べたとおりだが、主君に対する忠誠を重んじるのは徳川家だけではない。そのために地方の大名でも朱子学は熱心に学ばれた。ということは藩内に朱子学派が生まれるということだ。薩摩藩も例外ではなく、藩内にも斉彬のやり方を『人間の屑の所業』と見る人々がいたということなのである。代表的なのは、皮肉にも斉彬の弟で、斉彬の死後その息子が藩を継いだ弟の久光であった。
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 世界を見ていた斉彬は琉球人の優れた青年をイギリスに留学させようとしていた。将来的には琉球を解放し名実ともに日本国にするためであっる。朱子学派はそんなことは一切考えない。何事も御先祖様の決めたとおり、琉球とはあくまで『貿易の道具』であり、そのために『王国』に見せかけることが祖法(先祖の決めたルール)であった。琉球人にとっては政治的にはじつに不愉快な話だが、文化的にはそうでもなかった。独立王国に見せかける目的のために薩摩藩は日本文化、日本式風俗の押しつけはしなかったため、独自の文化を保つことができたから。
 この形のまま琉球明治維新を迎えた。そして再生した日本国、後の大日本帝国琉球をこれまでのような曖昧な形を許さなかった。そこで琉球処分が行われたのである」
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