🎵12:─1─松方正義のデフレ財政は困窮農民を生み出した。激化事件と運動の衰退。~No.24No.25 

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 日本民族史において、マルクス主義史観・共産主義史観は有害であり、キリスト教史観や儒教史観は役に立たない。
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 世界大百科事典内の松方デフレ政策の言及
 【松方財政】より
 …明治14年(1881)10月の政変で大蔵卿となった松方正義によって行われた紙幣整理を中心とする財政政策の通称で,それは激しいデフレーションを引き起こしたため松方デフレ政策とも呼ばれる。 明治維新後,政府は富国強兵,殖産興業,秩禄処分等の政策を遂行するため巨額の不換紙幣と国債を発行したが,そのために,とくに1877年の西南戦争の戦費支出のための紙幣増発を契機として,79‐80年に激しいインフレーションが起きた。…
 ※「松方デフレ政策」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
 出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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 2021年5月7日/14日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編 第九話
 大日本帝国の確立 Ⅰ
 韓国併合への道 その②
 帝国の財政健全化を成し遂げた一方で多くの農民を犠牲にした『松方デフレ』
 ここで、いままであまり触れることの無かった日本財政史に触れておきたい。どんな組織においても、財政を確立することはもっとも重要な仕事の一つである。とくに、近代国家においては欠かせない要素でもある。国家の建設も戦争も財政確立が無ければ不可能だ。大日本帝国において、この財政面での最大の功労者は松方正義であろう。
 松方は1835年(天保6)、薩摩藩士の子として生まれた。若いときから軍事よりも行政面に才能があり、同郷の大久保利通の知遇を受け親政府の税制改革を担当する租税頭(そぜいのかみ)となり地租改正を推進した。この地租改正によって、江戸以来の土地をコメの収穫量すなわち石高で評価し税を年貢としてコメで納めさせる石高制度が廃止された。新政府はすでに廃藩置県を実施し、すべての土地をいったん天皇のもとに返還させていたが、近代資本主義国に転換するために土地の個人所有(私有)を認めた。要するに、国家の土地(田畑)を人民に払い下げ、その土地価格の3パーセントにあたる金額を租税として毎年カネで納める、という制度に変えたのである。新政府の初期には、朱子学の悪影響もあって財政に精通した人材は少なかった。そのなかで政府の財政責任者的立場にあったのは、佐賀出身の大隈重信であった。しかし、大隈は『圓({えん}円)』という新通貨発行の仕事に忙殺されており、租税改正はほとんど松方の仕事であったと言っていい。
 1878年(明治11)、松方は日本におけるパリ万博参加の実質的責任者となり、フランスへ渡り1年間ヨーロッパ各地を歴訪した。松方は語学に堪能であった。とりわけフランスの大蔵大臣で経済学者でもあったレオン・セイに気にいられ、その紹介で国際ユダヤ資本のフランスにおける総帥であったアルフォンス・ド・ロチルドとも親しくなった。ちなみにロチルドは英語発音ではロスチャイルドであり、ロスチャイルド家は世界のユダヤ人金融ネットワークの頂点とも言うべき存在である。この『パイプ』が日露戦争の戦費集めにじつに役立ったことは、すでに延べたとおりだ。松方は大いに学んで帰国した。
 しかし、新政府の財政のトップにはなれなかった。大隈重信がいたからである。当時の日本の財政面の最大の悩みと言えば、不換紙幣(ふかんしへい)が濫発(らんぱつ)され財政内容がきわめて不健全であったことだった。一流国家では紙幣の価値を保証するために、その額面に相当する量の金ないし銀を準備しておく。そして、要求があればいつでも交換すると宣言しておかねばならない。そうした紙幣(あるいは銀行券)を兌換券(だかんけん)といい、兌換(交換)に用いる貴金属が金の場合は金本位制、銀の場合は銀本位制という。ところが、日本の紙幣は兌換券どころか交換の対象にならない政府発行の不換紙幣だった。西南戦争(1877年〈明治10〉)の戦費調達のため、なりふり構わず不換紙幣を大量に発行したからである。財政不健全はそれが理由だった。大隈は、この危機を外債の募集つまり外国からの借金で一気に切り抜けようとしていた。しかし松方は、それは外国に日本経済への介入を許しかねない危険であり、財政を切り詰め輸出を盛んにすることによってこつこつ金銀を増やし、不換紙幣を回収して兌換券に切り替えていくべきかだと考えていた。いわば正攻法である。
 それでも、大隈が上司として君臨している限りは松方も従うしか無い。ところが、その大隈が『明治10年の政変』で失脚した(『逆説の日本史 第24巻 明治躍進編』参照)。そこで親政府は松方を大蔵卿に据えて、新財政政策いわゆる『松方デフレ』を推進した。その時点で日本には、中央銀行が無かった。アメリカの制度に倣って、国に認められた民間銀行が銀行券という形で紙幣を発行していた。『日本資本主義の父』と呼ばれる渋沢栄一が日本で最初に設立した『第一国立銀行』もそれで、『国立』とは『国が設立を許可した』という意味だ。『第一』だけで無く、『第四』など他に多数あった。それぞれの『国立銀行』が政府紙幣に代わる同じデザインの銀行券を発行していたのである。これが大隈流で、アメリカ式と言える。しかし松方は、銀行券を発行する銀行は国の監督下にある一つの銀行だけでいいと考えていた。これがフランス式で、それを中央銀行という。松方は1882年(明治15)、その中央銀行つまり日本銀行(通称『日銀』)を設立し日本の紙幣をすべて日本銀行券に統一した。このほうが政府の一元的にコントロールできるからである。ちなみに、日銀は当初から日本銀行大日本帝国銀行であったことは一度も無い。昭和20年代の敗戦後の混乱期に起きた『帝銀事件』の舞台となった帝国銀行は、民間銀行の一つである。テイジン(帝国人造絹糸)やテイチク(帝国蓄音機商会)が私企業であるのと同じことだ。
 問題は、兌換券の発行、言葉を換えて言えば本位制の確立であった。確立するためには金ないし銀の相当な準備が必要だ。幕末、日本は膨大な金を保有していた。教科書にも『多額の金が流出した』と一行書いてある。『流出した』ということは、それほど『保有していた』ということだ。ひょっとしたら日本は金の準備高世界一の国だったかもしれない。ところが、朱子学の毒にやられていた日本人はそれに気づかなかった。だから金銀交換レートの設定を誤り、国際価格の1/4で銀と交換できる制度をそのまま維持し日本には金が無くなってしまった。幕府が最後に造った万延(まんえん)小判は、それまでの物にくらべて金の含有量が著しく低いうえに小さいもので、人々はしれを雛(ひな)小判などと嘲笑した。だから、明治の新政府は金本位制は無理だと考えた。皮肉なことに、銀なら大量にあった。外国人が日本の金を買うために持ち込んだからである。当時、イギリスやアメリカはすでに金本位制を採用しており、それが一流国の証しだという考え方もすでにあったのだが、背に腹はかえられない。とりあえず、松方は銀本位制を採用し兌換券を発行するところまで漕ぎつけた。その緊縮財政つまり松方デフレによって日本の財政は健全化していくのだが、その政策の最大の犠牲者となったのは農民であった。
 敗戦まで放置された『困窮農民』
 じつは、大隈が財政担当者であった時代は近代以降昭和20年に至るまで、農民がもっとも豊かな時代だったかもしれない。大隈の政策は外国から借金してそれを社会に投資し、インフラを推進することによって借金を目減させる財政を健全化するというものだった。『松方デフレ』ならぬ『大隈インフレ』である。この恩恵を一番受けたのが農民であった。江戸時代と違って農民はコメを国家に納めなくてよくなった。一方、課税額は土地代金によって決まる。インフレが進行すればするほどカネの価値は下がってモノの価値は上がる。つまり、物納から金納に替わったことにより農民の納税負担は軽減され、江戸時代と違って手元に置いておけるコメなどの収穫物の価格が上がった。とくにコメは長期間備蓄可能な商品だから、値上がりを待って売ることもできる。だから農民は豊かになった。大隈重信は政治家として庶民に大変人気があったが、こうしたこともその人気の理由だった。
 『松方デフレ』はちょっどこの逆になる。物価が下落してカネの価値は上がるから、税率の負担は増すばかり、しかし、財産というべきコメは安く買い叩かれる。この過程で多くの農民たちは税金を払えなくなり、経済的に余裕のある『大百姓』に唯一残された財産である土地を売り、その田畑を耕す小作人として生き残りを図るようになった。せっかく明治の初期に農民が小作人から脱出できるように土地の所有を認めたのに、ここでまた多くの農民が小作人に転落してしまったのである。だから、百科事典の『松方正義』の項にも次のように書かれてある。

 大隈重信にかわって大蔵卿に就任した松方は、いわゆる松方財政を展開し、紙幣整理と軍拡を強行した。松方デフレともよばれたこの政策は、インフレを終熄させることに成功したが、物価の急落を招き、多数の農民が土地を失い、地主制の成立を促進した。(以下略)(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊より一部抜粋。項目執筆者春日豊)

 こうした大地主たちは次のように呼ばれた。

 寄生地主
 農民に土地を貸し付けて小作料を取り立てるだけで、自らは農業にたずさわらない土地所有者。日本では、第二次大戦後の農地改革で解体されるまで存続した。(『デジタル大辞泉小学館刊)

 寄生地主とはまさに言い得て妙で、彼らはまるで寄生虫のように小作人を苦しめた。寄生地主小作人の関係は私的雇用関係だから、国家も口に出せない。それをいいことに寄生地主は江戸時代並みの『年貢』を小作料として彼らから取り上げ、払えなければ娘を遊郭に売ってでも払え、と強要した。そして粗末な衣をまとい朝から晩まで働く小作人をしり目に、自分たちは贅沢三昧の挙げ句『国家に奉仕するため』多額の納税を行ない貴族院議員などにもなって大日本帝国を支えた。国家はこうした小作人をまったく救済しようとしなかった。この部分は、おそらく大日本帝国の歴史のなかでも暗い影の部分である。
 昭和になって2・26事件が起こったとき、『決起』した青年将校のスローガンのなかにも『困窮農民の救済』があった。この件については昭和史の項で詳しく述べるが、このころ東北の冷害がひどく、イネの品種改良もまったく進んでいなかったので、小作人は窮乏し苦労して女学校に進学させた娘を遊郭に売って糊口(ここう)を凌ぐこともあった。すべては『寄生地主の横暴のせいである。慈悲深い天皇陛下昭和天皇)が見過ごしておられるのは君側の奸(取り巻きの悪臣)が陛下の目を眩(くら)ませているからだ。それゆえ、彼らを一掃すれば陛下は必ず現状を改めてくださる』というのが『青年将校の決起の理論』だった。そして、青年将校はこの『思い込み』で総理や蔵相など政府要人を襲撃射殺した。これに対し、昭和天皇と皇族は法治国家立憲君主として彼らの行為を反乱と断定し鎮圧するように命じたのだが、青年将校の主張にもまったく『理』が無いわけでも無いことはおわかりだろう。とどのつまり、大日本帝国はこの寄生地主制を改革することができなかった。改革し、小作人をすべて自作農に戻し、彼らの権利を守るとともに一市民として大日本帝国の底辺を支えさせる、という形を取れれば最善だったと私は思うのだが、それはついに実行されなかった。寄生地主という富裕層に帝国を支えさせたほうが効率がいい、と政府は考えたのだろう。そして、その路線を確立したのが他ならぬ松方正義であった。もし松方に農民の困窮について責任を感じないのかと問うことができれば、松方はたぶんこう答えるだろう。『帝国の財政を改善し対外戦争をも可能にする国家とするためには、やむを得なかった。現に、私は一流国の証しとしての金本位制を確立し、日露戦争を財政面でバックアップすることができた。農民の犠牲には同情する。確かに「すべての人間を幸せにする」が政治の理想ではあるが、それは同時にきわめて困難な課題どもある』。こう言われたら反論するのは難しい。たしかに、松方は帝国の財政を確立したという大功績がある。それでもあえて反論するとしたら、『たしかに当初は農民を犠牲にすることはやむを得なかったかもしれないが、日本が成熟した国家となった日露戦争後に、農民の困窮を救う政策を実行すべきではなかったか』。実際の歴史では政府はこうしたことを一切しなかった。小作人が解放されたのは、大日本帝国が敗戦によって解体し連合軍によって占領されたのち、アメリカの手によって行われた農地改革によってである。
 しかし、前記の反論を松方にぶつけるのは少し不公平かもしれない。松方は1924年(大正13)に死亡しているからだ。昭和に入ってからの話は彼の後継者の責任だろう。でゃ、その後継者は誰かと言えば、2・26事件のときに青年将校によって真っ先に虐殺(銃撃されたうえに斬殺された)された大蔵大臣高橋是清である。高橋は当時の蔵相という立場を超えた『帝国の財政責任者』であり、松方路線を継ぐ人間であった。青年将校から見れば、『農民困窮の元凶』である。また高橋は、日露戦争のとき日本を助けてくれたゝメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフとは家族ぐるみの付き合いがあり、『国際ユダヤ資本とのパイプ』という点でも松方の後継者であった。つまり、高橋の暗殺は日本とユダヤの友好的接点が破壊されてということでもある。ユダヤ人など皆殺しにしてしまえと考えていた政治家は、大いにこの決起を喜んだに違いない。もちろん、その男の名はすでにドイツの総統となっていたアドルフ・ヒトラーだ。日独防共協定(翌年に日独伊防共協定)はこの年に成立している。」
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 明治新政府の緊急課題は、江戸時代末期からの懸案であった「如何にして北からのロシアの侵略から天皇・日本国・日本民族を守る」かで、天皇と日本国を守る自衛戦争の為には国民=民族はもちろん中国や朝鮮など周辺諸国まで犠牲にした。
 積極的対外侵略自衛政策が、太平洋戦争まで続く日本の軍国主義政策であった。
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 日本は、いつの時代でもブラック社会で、弱い者、障害者、貧しい者、身分が低い者に優しいはウソで、困っている者は助けず、偏見や差別が酷く、イジメや嫌がらせや意地悪が絶えず死に追い込む事がある。
 日本人は、自己愛が強く他人に薄情・冷血・冷淡で、自分の金儲けを最優先して他人など無視し犠牲にしても恥じない。
 歴史的事実として、戦国時代で日本人を中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人に奴隷として売ったのは日本人で、現代日本中国共産党ウイグルチベット内モンゴル少数民族へのジェノサイドや香港・宗教への弾圧に反対せず対中貿易を優先している。
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 自由民権運動(Jiyū Minken Undō, The Freedom and People's Rights Movement, Liberty and Civil Right Movement)とは、明治時代の日本において行われた憲法制定、国会開設のための政治運動・社会運動。
 激化事件と運動の衰退
 大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。また、松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた。
 こうした背景のもとに1881年明治14年)には秋田事件、1882年(明治15年)には福島事件、1883年(明治16年)には高田事件、1884年明治17年)には群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、1886年明治19年)には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発した。また、大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。なお、政府は1885年(明治18年)1月15日に爆発物取締罰則を施行した。
 1884年には自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど打撃を受けた。
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 松方デフレとは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようと、大蔵卿松方正義1881年より行った、デフレーション誘導の財政政策のことである。松方財政とも。
 インフレの発生と議論
 西南戦争の戦費調達のために不換紙幣(信用の低かった太政官札等)が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信はこのインフレーションの原因について、経済の実態は紙幣流通量に近く、本位貨幣である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官である大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。
 この対立を憂慮した伊藤博文が松方を内務卿に抜擢するという形で財政部門から切り離して一旦は事態収拾を図った。ところが、1881年の「明治十四年の政変」で大隈が政府から追放されると、松方が大蔵卿に任命されてインフレーション対策の責任者となる。
 松方財政による対策
 松方は不換紙幣を回収・焼却し、1882年に日本銀行条例を公布して日本銀行を設立する。国内的に余裕があった銀貨に基づいた銀本位制の導入をめざして、「緊縮財政」を実施した。また、これに要する政府資金調達のために、政商への官営模範工場の払い下げ、煙草税や酒造税などの増徴による歳入増加策、軍事費を除く政府予算の縮小等により紙幣発行量を縮小していった。
 対策の結果、 明治14年1881年)度の紙幣発行高1.5億円に対し、本位貨幣(銀)の準備高が0.1億円(準備率8%)だったのに対し、明治18年(1885年)度には、紙幣発行高1.2億円に対し、本位貨幣(銀)準備高は0.45億円(準備率37%)まで回復し、銀本位制導入への基礎が成った。同年には満を持して銀兌換紙幣(日本銀行初の発行紙幣、大黒図案)が発券され、銀本位制が導入された。また日清戦争の賠償金による金準備を元に、明治30年(1897年)には、松方念願の金本位制が導入されることになる。
 松方財政の影響
 松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた。このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりした。一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が地主や高利貸しへと集積されていった。
 一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持基盤であった)。
 また、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長していったことと相まって、資本家層と労働者層の分離という資本主義経済の下地を作ることとなった。
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松方正義:我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ (ミネルヴァ日本評伝選)
明治・大正の宰相〈3〉松方正義と日清戦争の砲火
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 財源の乏しい明治新政府は莫大な国家建設資金をどう集めるかで、大隈等の国際派と松方等の民族派の2派が存在していた。
 大隈等の国際派は、世界常識に従って、清国(中国)やアジア・アフリカの発展途上国同様に国内利権を担保にして欧米の外国資本にインフラ整備への投資を頼むべきだと考えていた。
 松方等の民族派は、欧米の外国資本の投資は借金であり、借金のカタに国内利権が奪われインフラが支配されると考えた。
 アメリカの知日派は、西洋列強は帝国主義植民地拡大の為に好条件でインフラ整備投資を行っているから、外国資本の投資・融資・借金は排除すべきである提言していた。
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 軍国日本は、いつの時代でも外国の侵略から自主独立を守る為に「国民優先」か「国家優先」かの二者択一を迫られ、その度に「国家優先」を採用した。
 犠牲になる国民に対してなぜ犠牲になるかを納得させる為に、日本中心神話・皇国史観・愛国教育・天皇中心の国體を教えて「国民(民族)の覚悟」を植え付けた。
 何故か、それは古代から「日本国を念う心・愛国心」が日本人にはなかったからである。
 それは、現代日本現代日本人でも同様である。
 本来、日本人は国家・政府・御上がなくても生きていける身勝手・我が儘・強欲な人間であった。
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 近代日本の最優先課題は早急な軍国主義化で、強力な軍隊・艦隊をつくってロシアの侵略から日本守ることであった。
 その為には、ロシアに味方をする敵日・反日の中国や朝鮮を打ち破り親日派知日派の政権を樹立し対ロシア三国攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 日本の大陸侵略は、対ロシア・対ソ連・対共産主義に対する積極的自衛戦争であった。
 日本人共産主義テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストは、天皇制度国家日本を滅亡させるべく昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
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 明治新政府の政治家・官僚・軍人、企業家、学者、ジャーナリスト、科学者・技術者など指導的立場に立った日本人は、才能豊かにして西洋語に堪能で、陽気と社交的で欧米列強の有力者と個人的に親しい関係を持っていた。
 その代表的人物が、金子堅太郎である。
 近代天皇・皇室は、政治のイギリス王家、宗教のローマ教皇、金融経済のユダヤ人金融家などと深い関係にあった。
 つまり当時の日本人は、現代日本人と真逆な日本人で、個性豊かで、揺るがない信念を持ち、天皇・日本国・日本民族の利益の為に自己主張をし、天皇・日本国・日本民族の名誉を守るためならケンカも戦争も辞さずという蛮勇がある日本人がほとんどであった。
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 現代日本は返済不能な巨額な借金を抱えている為に、外国資本排除による独自路線の松方財政ではなく、国内利権をを担保に外国資本投資を促進する国際協調路線の大隈財政に近い。
 現代日本人が、ハゲタカ゠ファンドやドラゴン゠ファンド(パンダ゠ファンド)による日本買いを許すか許さないかである。
 現実は、現代日本では経営難の企業や過疎化し始めた土地が外国資本に買われ、それを阻止する日本人は少なく、反対意見を封殺して促進する日本人がいて、それ以上に無関心な日本人が多い。
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 現代日本人は、民族的な歴史・文化・伝統・宗教そして財政や軍事が理解できない。
 特に、高学歴な知的エリートと進歩的インテリ、武士道神話信奉者のリベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代にそれが言える。
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 現代日本の高学歴な知的エリートと進歩的インテリに、江戸後期・幕末・明治維新明治新政府そして日露戦争までの政治家・官僚・軍人・企業家・ジャーナリスト・学者・科学者・技術者などに匹敵する者はいないし、武士道神話信奉者は論外である。
 特に、リベラル派戦後民主主義世代とその薫陶を受けた次世代はそうといえる。
 江戸時代後期から日露戦争まで日本を背負って駆け抜けた偉人達は、全て、天皇・皇室と日本民族を命を捨てても守ろうとした勤皇派・尊皇派であった。
 そして、彼らは貧しく身分が低い下級階層であった。
 下級階層政府に、権力や利権など旨みを奪われて貧困化した旧支配者であった上級階層に中から、反天皇・反政府・反体制の無政府主義者共産主義者などのテロリストが生まれた。
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